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『家畜人ヤプー』沼正三

GREAT
BOOK占領期を知るための名著

VOL.26
『家畜人ヤプー』
沼正三

ここでは、小説家・文芸評論家の野崎六助が
過去の名著から占領期の時代背景を考察します。
占領期を知るための名著シリーズ 第26回

contents

 

『家畜人ヤプー』沼正三

 ここでこの高名な奇書を取り上げる理由はただ一点。『家畜人ヤプー』という小説が、日本占領の落とし子として極北の位置にあるからだ。それだけの理由でしかない。
 どんな書物であれ、その書かれた時代に属しているし、時代の変容とともに急速に価値を剥がれ色褪せていく。だとしても、『家畜人ヤプー』ほど、その時代限定性を過酷に、宿命的に負わされたテクストは、他に見当たらないのではないか。
 初めて単行本化されたのが、一九七〇年。いかにも、あの頃の騒然たる文化叛乱の状況に似合っていた。
 わたしが所持しているのは、その二年後に文庫化されたものだ。
 文庫版のあとがきに、著者のモチーフは、これ以上ないほど明瞭に、ほぼいいつくされている。

 《終戦の時。私は学徒兵として外地にいた。捕虜生活中、ある運命から白人女性に対して被虐的性感を抱くことを強制されるような境遇に置かれ、性的異常者として復員してきた。(中略)祖国が白人の軍隊に占領されているという事態が、そのまま捕虜時代の体験に短絡し、私は、白人による日本の屈辱という観念自体に興奮を覚えるようになって行った。(中略)……
Occupied Japan という字面の屈辱感を失いたくなかった。(中略)日本は独立国家に復したが、私の内心の屈辱感は、被占領状態を失ってますます完全な隷属を求めるようになり、それだけいよいよ飢渇して行った》

 これが、沼正三の永久革命論ならぬ「永久奴隷化」渇望論である。それ以上でもなければ、それ以下でもない。しかし、彼の思考を理解できても、それで充分なのではない。屈辱が「秘められた快感」を燃えたたせるという嗜好を想像できなければ、ヤプーの世界を外側から眺めるにとどまるしかないのだ。
 アメリカによる占領事態を、沼正三は、己れのアブノーマルな生理慾情にとっての理想郷として置き換えた。
 『家畜人ヤプー』の物語は、白人女と日本人男のカップルが数世紀未来の「宇宙社会」に時間旅行して体験させられる架空旅行記の体裁をとっている。ストーリー性は希薄で、主人公の男女の葛藤が描かれるわけでもない。小説風のかたちを借りて、極端な幻想をカタログ風に記述した特異な読み物だ。
 ジャンル的観点でいえば、まだ確立していなかった日本SFの先駆的作品ともいえる。50年代SFのスケールの大きな作例である。比較として、違和感はあるかもしれないが、「人間改造」イメージにおいて、プリモ・レーヴィ(アウシュヴィッツの生き残り作家)の『天使の蝶』との親近性を認められる。
 ヤプーの未来社会は、三層の「カースト制」で律せられている。女帝の君臨する白人貴族が頂点。その下に白人平民、下層に黒人奴隷、さらに最底辺に家畜人ヤプー(日本人)が置かれる。奴隷は半人間だが、家畜人はそれ以下の「畜生」だ。——この構図がオキュパイド・ジャパン社会の単純な還元であることは明らかだ。
 家畜人という生存形態はまず、SF的に改造された生体イメージで登場してくる。登場順にいえば、一は舌人形〈クニリンガ〉。クニリングス奉仕に特化された性具としての家畜家具だ。次は、生体家具の便器人間——読心家具〈テレパス〉とも称され、主人の排泄行為を「受け止める」便器に改造された家畜家具なのだ。
 白人女性を崇めたてまつり、セックスにかしずくだけでなく、汚穢の排泄物までを体内に納めようとする欲望。アブノーマル全開の欲望を、ふたつの改造イメージとして、作者は、冒頭においた。
 極論すれば、『家畜人ヤプー』の全体像は、じつは、ふたつの改造体を描いた冒頭の数十ページにおいて、すでに完結しているのではないか、という印象もある。マゾヒズムの願望は、原理的にはそこで語られきっていて、次余は、ヴァリーエーションの平板な羅列のようにも読める。ポルノグラフィの構成法は反覆あるのみだから、その原理にしたがっているわけだ。
 この小説は、最初、一九五六年から雑誌『奇譚クラブ』に連載されだが、一度中断されている。単行本として一応の完結をみるのは、十数年後。そのさいに、著者は「まだ序章を終えたにすぎない」と見得をきっている。著者の口ぶりは、埴谷雄高が『死霊』の第三章までを刊行した時、「序曲」と銘打ったのにも似ていると思える。著者は、未来の白人帝国社会の全体像を呈示したいという抱負まで述べているが、『家畜人ヤプー』の方法論では、そもそもそれが不可能であることをあえて無視したのだろう。
 以降、続編が書き継がれ、『完結篇』として刊行されたのが、一九九一年。その二年後に、「正編・続編」を合わせて、かなりの加筆もほどこし、三分冊の「決定版」となった。これが五分冊の文庫版となり、現在も流通している。
 作者が後から加筆増補することは、この作品のカタログ的構成の質によく見合っている。小説的世界が深化・拡大していくのではなく、作者によって披露される静的な風俗社会模様が、次つぎと語られていくのみだ。「物語」は、それが書きはじめられた地点から一歩も動いていない。
 占領をマゾヒズム体験から逆照射した時、『家畜人ヤプー』のイメージは、ひとつの時代批評(もしくは、占領への倒錯的な抗議)でありえた。だが、その緊張を喪ってしまえば、『家畜人ヤプー』というテクストは、少数異端者の哀しみを映す奇矯な作品にとどまる他ない。
 そこで展開される人種差別思想の正当化は、差別されることに歓喜をおぼえるアブノーマルな情慾を媒介することによってのみ、かろうじて「許容」できるものだ。だが、その媒介が現実に意味を持つのは、厳密にいえば、占領時代に限定されるのではないか。占領の記憶が薄れていけば、ヤプーの思考を危うく支えていた「倒錯をもって・時代に・倒錯的に・抗議する」という構造は崩れる。バラバラに崩壊する。
 残るのは、白人女に踏みつけられる歓喜と、その糞便を舐め取り、頬張り、咀嚼し、嚥下する快楽、それらへのひりつくような飢餓だ。原始(はじめ)に人種差別があったのではなく、ヤプーにおいては、これら少数精鋭の倒錯愛を可能にするために、人種差別差別理論が利用された。そう擁護することはできないではないが、それはほとんど無意味な理屈づけにすぎない。
 性というメタファーによって占領批判を試みた『家畜人ヤプー』の方法意識は、画期的なものだった。同時に、『家畜人ヤプー』は、人種差別をジョークのように倒錯的に形象化することによって、鬼畜米英に叩きつぶされた日本人の敗北の本質を凝視しつづけた、といえる。
 多くの占領小説は、とくに男性作家によるものは、自民族の女を略奪・陵辱されるという被害者感情を顕わにしたものだった。白人女のふりまく性的イメージの侵略については、造型されることはなかった。その脈絡からも、ヤプーの特異な位置は明瞭だ。だが、『家畜人ヤプー』を、そうした時代的コンテキストから外し、天下の奇書と有り難がるのでは、その人種差別思想を無批判に、現在的に受け継ぐことのみで終わるだろう。

 

  • 『家畜人ヤプー』
    沼正三
  • 『家畜人ヤプー』沼正三
    『家畜人ヤプー』
    1972.11 角川文庫
  • 『家畜人ヤプー 完結篇』沼正三
    『家畜人ヤプー 完結篇』
    1991.12 ミリオン出版
  • 『家畜人ヤプー』上中下
    『家畜人ヤプー』上中下
    1993.1-3 太田出版
  • 『家畜人ヤプー』全五巻
    『家畜人ヤプー』全五巻
    1999.7 幻冬舎アウトロー文庫
野崎六助
プロフィール:野崎六助(のざき ろくすけ)
1947年 東京生まれ。
1960年から1978年 京都に在住。
1984年 『復員文学論』でデビュー。
1992年 『北米探偵小説論』で日本推理作家協会賞受賞。
1994年 『夕焼け探偵帖』で小説家デビュー。
1999年 小説『煉獄回廊』 
2008年 『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』
2014年 電子書籍kidle版『李珍宇ノート』『大藪春彦伝説』『高村薫の世界』
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