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『マッカーサーの二千日』 袖井林二郎

GREAT BOOK占領期を知るための名著

VOL.34
『マッカーサーの二千日』
 袖井林二郎

ここでは、小説家・文芸評論家の野崎六助が
過去の名著から占領期の時代背景を考察します。
占領期を知るための名著シリーズ 第34回

contents

 

『マッカーサーの二千日』 袖井林二郎

 本書は、一九七三年八月から翌年七月まで『中央公論』に連載され、七四年に刊行された。占領研究の初期の成果であるのみならず、読み継がれるべき「古典」の質をも帯びている。
 元になったものは、思想の科学研究会による『共同研究 日本占領』である(本連載の2829回を参照)。著者は、その共同研究でマッカーサーを担当したが、論考の提出はできず、別途に単著を書く結果になった。
 本書の成功をきっかけにして、政治学者、歴史研究者の途に進むことになる。学者として占領研究に踏み入ったわけではない。そのことが、本書の柔軟な記述スタイルにプラス価値を与えている。
 「思想の科学」特有の在野精神と市民的中道左翼の良心と、鶴見俊輔への感謝が記されているのも、儀礼的なものにとどまるわけではない。本書は、『共同研究 日本占領』から派生して、その最も豊穣な成果となった、といえるだろう。
 それはともかく、最初の本がその著述家の運命を決定づけるという意味でも、本書は典型的なケースをつくった。時おり、この世界には、書き手が「最初の本」に自己の全存在を傾注してしまうような、混沌と熱気をはらむ書物が現われる。テーマが何であるかに関わらず、「制作の悪魔」は気まぐれに人を囚えるのだ。書いた当人はいざ知らず、少なくとも読者にとっては、こうした書物との出会いは「愉しい」。『マッカーサーの二千日』は、仮にその内容を抜きにしてみても、著者における運命的な出会いを映して、異様なオーラを放つ数少ない書物なのである。

 さて、本書のテーマは、マッカーサーだ。一から十までマッカーサー、といっても過言ではないくらいに。
 マッカーサー以外の人物によってでは、日本占領は成功しなかった。多くの保留は当然つきながらも、著者の主張は、この本線を邁進していく。一種の英雄史観なのか——。本書の記述は視野広く、多岐にわたって、周到なものではあるが、単純には、そこに帰着してしまう。
 そこが、松浦総三などから「GHQ史観」と、見当はずれの批難を招くことになる。だが、袖井の主張の力点は「占領された側の歴史」を救済するところにある。一貫してそうなのだ。にもかかわらず、著者のマッカーサーへの「恋闕」のあまりの激しさが、不当な誤読に導くことになる。
 著者の欲求としては、礼賛するにしろ否定するにしろ、現代史解釈のなかで両極端の評価に分かれているマッカーサーという存在を、出来るかぎり「公正に・客観的に」研究するところにあった。そのことは疑いない。
 最高司令官・元帥。というより、マック将軍、「超」天皇。スーパー・パワーを体現した存在。その功績は功績として評価しつつ、著者は、そのエクセントリックな「天才」的性格に関しては、辛辣にコメントする。マッカーサーの『回顧録』に散見される、事実歪曲や虚偽、誇張された自己宣伝癖などを暴き出す作業は《有効でまた楽しい仕事であった》と、著者は書く。
 ルソーの「立法者」概念を援用し、著者は、マッカーサーこそ真性の立法者だった、と断定する。絶対的権限を持ち、公正無私な立場に立ち、ほとんど人間を超える神のような存在。歴史にはこうした偉人が稀に現われるのだが、占領期のマッカーサーこそ、まさにそうした超越者だったと——。
 ただし、そう指定する文節のなかに、次の一行が紛れこんでいる。《さらに開明的絶対君主として、マッカーサーは公正無私の立場に自分が立っていると思いこむことの名人であった》
 この意味は、文節全体の主張を補強するというより、むしろ、壊してしまうようにも読める。つまり、碧眼の将軍は、得意の自己催眠術によって「その役」を演じてみせたものの、その内心はわからない、という含意を読み取れる。立法者とは、現実というより、理想の概念なのだ。ここには、超越的権力者になりきろうとして懸命に克己的演技に努める「凡人」の顔つきさえ垣間見えてくる。
 著者の文体は、平たく伸ばしてしまうと、やはり、薄ぼんやりした愛マックのイメージに還元されてしまうのだ。複雑怪奇な性格の二面性などといった説明が付されたりするが、それは英雄には付きものであるし、もっと掘り下げを期待したいアプローチだった。

 本書はタイトル通り、マッカーサーの滞日二千日、五年八カ月の歴史を描くが、前半五分の一ほどを占める「前史」のパーツも重要だ。軍人の家に生まれ育ち、エリート士官の階梯を登っていった男が、第二次大戦・太平洋戦争の前期において、屈辱的な敗北を喫するまで。
 東京裁判の前奏と位置づけられる、山下奉文と本間雅晴への戦犯処刑に一章をさき、著者は、そこにマッカーサーの明確な報復意志を読み取る。将軍に屈辱を与えた「責任者」にたいして「神の許す」復讐の機会を、マッカーサーは逃さなかった、と。

 本書は、初刊から三〇年後、新装改版された。著者は「新世紀版」と銘打っているが、内容的には、何箇所かの訂正がある他、改稿・加筆などはない。索引をつけ、新たな文献案内が追加されたにとどまる。
 といって、この点は、かえって本書の、不朽性を示すのではないか、と思える。後から手を加えられないほどの「完成品」だという意味ではなく、初刊の文体の息遣いに、後年の著者すらも寄せつけない不動性があった、ということだ。
 そうだとしても、研究者として無為に過ごしたわけではないと、著者も弁明し、以降の主たる仕事として、三点あげている。


  • 『拝啓 マッカーサー元帥様
    占領下の日本人の手紙』

  • 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』
    日本放送出版協会 1982
    福島鋳郎との共著
    (改定版『図説・マッカーサー』)

  • 『吉田茂=マッカーサー往復書簡集
    1945-1951』
    編訳
    法政大学出版局 200.5
    講談社学術文庫 2012.7

 これに加えて、小文集『占領した者された者 日米関係の原点を考える』がある。
 タイトルをながめるだけでは、なんだ、マッカーサー本ばかりじゃないか、と思われるかもしれない。
 だが、繰り返すが、著者の史観はGHQ側に寄り添ったものではない。「占領した側・された側」相互に目配りし、歴史を問う基本的スタンスは一貫している。
 このうち、「マッカーサー元帥様」あてに日本人が出した「五〇万通」の手紙について考察した『拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』を、次回に紹介しよう。
 本書の「解放軍の虚実」の章で、件んの手紙のいくつかは引用されている。その「衝撃」が、別の一冊を書くことを著者に要求したのだろう。

 

  • 「袖井林二郎の著書の数々」

  • 『マッカーサーの二千日』
    中央公論社 1974.8

  • 『マッカーサーの二千日』
    中公文庫 1976.10

  • 『マッカーサーの二千日』新装版
    中公文庫 2004.7

  • 袖井林二郎・福島鋳郎
    『図説・マッカーサー』
    河出書房 2003.10

  • 『占領した者された者
    日米関係の原点を考える』
    サイマル出版会 1986.11

 

野崎六助
プロフィール:野崎六助(のざき ろくすけ)
1947年 東京生まれ。
1960年から1978年 京都に在住。
1984年 『復員文学論』でデビュー。
1992年 『北米探偵小説論』で日本推理作家協会賞受賞。
1994年 『夕焼け探偵帖』で小説家デビュー。
1999年 小説『煉獄回廊』 
2008年 『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』
2014年 電子書籍kidle版『李珍宇ノート』『大藪春彦伝説』『高村薫の世界』
http://www002.upp.so-net.ne.jp/nozaki
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