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THOSE DAYS流行歌、映画の情報などお届けします
さる2017年4月26日付「毎日新聞」に、「『幻の大島憲法』知って 敗戦直後 島民が独立模索し草案」という見出しの記事が報じられている。それによれば、「敗戦直後の1946(昭和21)年1~3月に53日間、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により、伊豆諸島が日本の行政から分離された。この間に伊豆大島(大島町)では一部島民が独立を模索し、平和主義や主権在民をうたった暫定憲法草案を作成。この存在を知った調布市の郷土史家、古橋研一さん(70)が、作成過程や行政分離の経緯などを冊子『幻の大島憲法草案』(B5判約280ページ)にまとめた憲法記念日の5月3日付で発行し、調布市立図書館などに寄贈する。【佐藤浩】という。
記事本文を以下に引用する。
日本国憲法公布の8ヵ月も前に、先駆的で画期的な暫定憲法草案が存在したことを4年前に知って衝撃を受けた古橋さん。調布の郷土史が研究対象だが、大島にも渡り、資料収集と研究に没頭した。
古橋さんによると、人口約1万1000人の大島にあった6村の一つ、元村の柳瀬善之助村長が行政分離の指令を知り、自治・尊厳を保つために大島が独立し理想郷を実現すべきだと島民に説いた。
柳瀬氏と柳瀬氏の幼なじみで三原山の休憩茶屋を営む高木久太郎氏、大工の雨宮政治郎氏(政次郎、政二郎とも表記)の3人が中心になり、憲法制定までの暫定的憲法草案の作成に挑んだとみられるという。柳瀬氏は元農林学校教員、高木氏はキリスト教徒、雨宮氏は共産党員で、法学の専門家ではなかった。
資料が限られ、詳細な経緯を知る島民もいなかったが、古橋さんは国会図書館で元村の旬刊広報紙「もとむら」第2号(46年2月25日発行)~第8号(同年9月15日発行)の写しを発見。行政分離の現況報告、6村長らでつくる自治組織の準備委員などに関する記述をはじめ、村民の投稿欄があり、雨宮氏と高木氏の意見などが載っていた。
暫定憲法草案について古橋さんは、共産党が45年11月に公表した「日本共産党の新憲法の骨子」と共通点があり、雨宮氏が島外の共産党員と接触し骨子の知識があったと推測しながら「骨子の理念を取り入れ、独自の憲法草案を作り出した」と結論づけた。
古橋さんは「GHQとは関係ない素人が作った憲法草案が、現行憲法に通じる主権在民や平和主義をうたっている。議会リコールのハードルを低くする仕組みもある。戦争から学んだ当時の一般国民が、こうした考えを持っていたことが分かる」と評価している。
そして解説メモが付してある。
大島暫定憲法草案
手書きガリ版刷りで3章23条からなる。前文で、近く「大島憲章ヲ制定スベシ」などと暫定的な位置づけを明記したほか「万邦和平ノ一端ヲ負荷」することを、島民相互に誓うという平和主義を記した。第1章「統治権」で「大島ノ統治権ハ島民ニ在リ」と島民主権を制定。第2章は「議会」、第3章は「執政」で、有権者2割以上の要求で議会の解散も定めた。司法権の規定はない。原資料の所在が分からず幻ともされたが、約50年後に大島町の収蔵庫で発見された。近年、再び所在不明になっている。
伊豆諸島の行政分離
GHQは1946年1月29日付で「日本からの一定の外辺地域の政治的行政的分離」という覚書を出し、南西諸島や小笠原諸島をはじめ伊豆諸島などを日本の行政から分離すると日本政府に指令。伊豆諸島は米海軍太平洋艦隊の管理下に置かれた。しかし、GHQは同年3月22日付で理由も示さず覚書を訂正し、伊豆諸島の復帰を指令した。
さる5月3日は、憲法記念日である。以上の伊豆諸島の戦後を思ってみる必要があろう。
いまから67年前の1950年6月25日と言えば、「朝鮮戦争」の勃発が思い起こされる。そのとき、日本における占領米軍がどうだったかのドキュメンタリーがある。
そして朝鮮戦争がどう展開されたかの記録もある。それは、中国軍の参戦までの前編(マッカーサー指揮の仁川上陸作戦がクライマックス)と停戦協定までの後編に分かれているが、この海外ドキュメンタリーを見ていただきたい。
前編
後編
また、英語版(日本語字幕あり)の「朝鮮戦争1945―1955」と「戦況報告第105号 アメリカ国防総省」も併せて見ると参考になろう。