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THOSE DAYS流行歌、映画の情報などお届けします
今回は、1947年、シュウ・タグチ製作、つまり田口修治の製作した「立ち上がれるか日本」を紹介しよう。
これは、GHQのCIEが資金提供した占領下における民主主義プロパガンダ映画である。
製作した田口修治は、黒柳徹子の父でヴァイオリニスト黒柳守綱(旧姓田口)の実弟である。彼は兄の田口桜村が所長をしていた松竹蒲田撮影所のフィルム現像所で働き始め、1924年に日本電報通信社(のちの電通)の写真課活動写真係で「電通ニュース」の撮影に携わっている。1939年の同盟通信社本社の名簿には、総務局映画部ニュース主任に田口修治の名前が見える。その後、日本ニュース映画社外国次長、同ニューヨーク支局長となり、日米開戦時には、ニューヨークに滞在している。そのへんのことは、『戦時下アメリカに呼吸する』(1942年上梓)に触れられているが、同書によれば、ハワイ襲撃の日にはニューヨークから帰国しようとしていた時で、足止めをくらい、様子見にロックフェラープラザの同盟通信社紐育支局を訪ね、慌ただしい状況を目撃している。そしてFBIに逮捕され、エリス島の収容所に2ヵ月余り収監、日米交換船で帰国している。敗戦の1年前には、日映のフィリピン・マニラ支局長に就任、敗戦2年後に帰国、それからはシュウ・タグチを名乗り、CIE映画などを製作しているのである。53年以降は、アメリカ国務省が設立したUSISのPRライブラリー用映画の制作を請け負っているようである。
要するに、占領期の田口修治は英語を武器に、GHQを相手に、映画製作で活躍したのでる。