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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方占領期調査報告第30回
「福井県史」

地方占領期調査報告第30回「福井県史」

 今回は福井県への進駐軍の動きについて、「福井県史」通史編第6(以下をクリック)から、第三章http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-3-01-01-01-02.htm
を紹介します。

 第三章 占領と戦後改革
       第一節 占領と県民生活
    
    一 米軍進駐と福井軍政部の活動

          武装解除


 敗戦後、ただちに執り行われたのが、各地に分散収容されていた連合国の捕虜および一般抑留者の解放であった。終戦時に福井県下の捕虜収容所で強制労働に服していた捕虜は、敦賀市に三八二名、武生町に二一〇名、大野郡阪谷村六呂師に約八〇名である。彼らは終戦と同時に労働を停止し、五日後には解放された。解放された捕虜に対する当面の衣料および食糧は、連合国軍の航空機により投下されたが、投下物資の探索、収集などは所轄警察署の業務とされた(『福井県警察史』2)。武生町ではこうした物資の落下傘投下により家屋の破損被害や負傷者を出し、それを知った捕虜たちが自らの配給品を出しあい被害者を見舞うということもあったという(『福井新聞』45・9・5)。
 捕虜たちは一九四五年(昭和二〇)九月一六日、本国送還のために横浜に集められることになり、県警察部輸送課が約二台のトラックを出して彼らを福井駅に運んだということである。六呂師からの捕虜も午後一時に福井市に到着し、市内見物ののち午後五時の臨時列車で福井県を去ったとされている(『福井県警察史』2)。

 さて、捕虜の移送は本格的にアメリカ軍が進駐する前に日本の警察の手によりなされたわけだが、いよいよそのつぎの段階ではアメリカ軍の進駐を迎えることになる。福井県への占領部隊の進駐は、本土侵攻のダウンフォール作戦(九州上陸のオリンピックと東京侵攻のコロネットの両作戦からなる)にかわる平和進駐のブラックリスト作戦計画にしたがい、四五年九月末に、アメリカ陸軍第六軍に属した第一軍団の第三三師団第一三六歩兵連隊第二大隊があたることに決定し、その旨、県に対して通告された。一〇月一三、一四日に、この部隊に所属するマッケンジー中尉指揮下の九名が敦賀郡粟野村の旧敦賀連隊兵舎(敗戦時、中部第一三六部隊)の下検分を行ったのが本県にアメリカ軍が記した第一歩であるが、一七日にはカルメイヤ中尉以下一五名が先遣隊として元植山別荘に進駐し、旧陸軍関係の接収業務を開始した(『敦賀市戦災復興史』)。

 同二五日には大津より列車で到着したランパータ少佐指揮下の三一七名(うち将校一四名)が粟野村の中部第一三六部隊に入り、ケッセル大尉指揮下の一個中隊約四〇〇名が今立郡神明村の旧鯖江連隊兵舎(敗戦時、中部第八部隊)に分駐した(『福井新聞』45・10・26)。さらに一個分隊が高浜町へ派遣された。

 指揮官ヘーゲン中佐が大隊主力を率いて到着したのは一一月六日のことである。これに先立って県側では、占領部隊の受入れを準備するために福井県渉外事務局(一〇月四日)および福井県進駐軍受入連絡委員会(一〇月一一日)を設置した(県告示第三五九、三六二号)。敦賀市においても一〇月一八日に進駐軍受入準備委員会が開かれ、「連合国軍進駐ニ伴フ心得」の配布や、慰安施設の設置がなされた(資12下 二、『敦賀市戦災復興史』)。市民に配布された上記の諸注意は、はじめて体験する外国軍隊の占領という事態をうけての緊張感をよく表現しているし、当日の進駐の模様を伝える新聞記事は、アメリカ軍に存外占領者としての横柄さを単純に表現する行動があまりなかったがゆえの安堵感を伝えている。

写真42 福井県へのアメリカ軍進駐

 この進駐してきたアメリカ軍部隊は武装解除を目的とした実戦部隊であり、旧帝国陸海軍の施設等に進駐し、これを接収し残存部隊の武装解除を進めることをその任務としていた。この任務については、全国的にほぼ同様のことがいえるが、当初のアメリカ軍側の予想を裏切って日本側の非常に積極的な協力が得られ、すこぶる順調に進んだ。たとえば福井県でも、県警察部はカルメイヤ中尉の先遣隊が敦賀に入った一月一七日に大工五名、一般作業員二名を旧敦賀連隊兵舎に集め、翌一八日より突貫工事で兵舎をアメリカ軍部隊用に改造し、同時に兵舎より敦賀市街地までの道路を整備した(『福井県警察史』2)。また敦賀市民は市厚生課長を隊長とする進駐軍協力隊敦賀市隊を編成し、敦賀港駅に貨車で転送された旧軍より接収した弾薬を海中投棄する作業に協力した(『敦賀市戦災復興史』)。こうした協力により、制圧と武装解除の任務を早々に終えた実戦部隊はかなり早い時期に撤収していくのである。

 全国的にも武装解除は順調に進み、これにかわって軍政部隊の役割が重要になってくる。当初日本側の抵抗を予想したアメリカ軍は戦時編制のまま日本占領に乗り出し、クルーガー中将指揮下の第六軍が西日本を、アイケルバーガー中将指揮下の第八軍が東日本の占領を担当したが、予想外の抵抗のなさに太平洋陸軍の再編成を行い第六軍を日本から撤収させる。これに対応した動きが福井県でもみられた。福井県に進駐した実戦部隊、第一三六歩兵連隊第二大隊は四六年はじめにその任務を第八軍所属の第一二七歩兵連隊第一大隊(ラッツ中佐指揮)に交代している。さらに、この交代したばかりの部隊も二月三日には撤退した。こうした一連のことの行われた四六年はじめに、占領政策が軍事的手段によるものの段階はすみやかに終わり、軍政部隊による政治的手段による段階に入っていったといえよう。この時期以降、福井県には演習などをのぞき、実戦部隊が常時駐屯することはなくなった。

 以上です。