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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方占領期調査報告第25回
「宮崎県」

地方占領期調査報告第25回「宮崎県」

 宮崎県北コミュニケ―ションペーパー「ウイング」公式サイトに、以下の「県北雑学 終戦後の県北と進駐軍」の記事がアップされています。なお、写真も数葉掲載されていますが、それらはネット検索でご覧になってください。

県北雑学 終戦後の 県北と進駐軍
 昭和20年(1945)8月15日、終戦。延岡・日向には焼け跡や爆撃の跡が、ほとんど手付かずのまま残っていた。そんな中で、市民は復興へ向けて第一歩を踏み出した。
 ところが、9月に猛烈な「枕崎台風」が襲来、焼けずに残った住家や建てたばかりのバラック住宅が倒壊するなど出端をくじかれた。延岡市だけで実に2600戸が全壊、旭化成は戦災を上回る被害をこうむった。
 これに食糧難と物資不足が追い打ちをかけた。配給される食糧では足りるわけがなく、市民は買出しを余儀なくされた。各駅にはリュックを背負った市民が行列をつくり、すし詰めの列車に乗った。
 遠くまで出かけて、せっかく買い求めたコメやイモなのに、やみゴメ買出し一斉検挙の網にかかって没収された人も多かった。
 そんなとき、米軍の進駐が始まった。GHQ(連合国最高司令官総司令部)宮崎軍民政部が置かれたのは20年10月、初代民政部長官にマスマン少佐が着任、県知事の上に君臨した。延岡にキャンプを張ったのは、同年12月のことだった。事実上の占領支配である。
 延岡市の進駐軍は緑ケ丘の現ホームワイド一帯に、かまぼこ型のハウスを建て、その西側の旭化成雷管工場社員寮を接収して宿舎にした。日向市は富高駅(現日向市駅)前の源屋旅館などを宿舎にあてた。
 延岡では旭化成で生産された火薬や、赤水町の特攻艇「震洋」などの処分、日向は富高飛行場の接収・解体、梶木の「震洋」と細島の人間魚雷「回天」の接収・火薬廃棄が進められた。
 また、市町村は民政部の顔色を伺いながら業務執行をせねばならず、戦災で全焼した延岡市庁舎の仮庁舎となった岡富小校舎には、英語の看板が掲げられた。同時に戦犯捜しも行われた。
 その一方で、進駐してきた軍人たちと市民との交流も少なからずあった。体の大きなアメリカ人が一度にたくさんやって来たことに、まずビックリ。しかも、チョコレートやチューインガムなど、見たこともないようなお菓子を、惜しげもなく子供たちに振舞う姿を見て、「こんな国と戦っていたのか」と、感想を漏らす人も少なくなかった。
 医薬品も豊富に持っていて、宮崎市では当時日本にはなかったペニシリンで、ひん死の肺炎患者を救った美談もある。
 フィルムや印画紙が手に入らない当時、焼け跡や人々の生活ぶりをカメラに収める進駐軍の軍人もいた。その写真の一部が延岡にも残っており、終戦後の状況を知る貴重な資料になっている。
 進駐軍が県北から引き揚げたのは、24年(1949)11月。最後の民政部長官は、アラバマ州出身のウィンバリー中佐だった。中佐は延岡が気に入り、市職員だけでなく、旭化成社員や一般市民とも親しくした。和装や和家具に興味を示すなど、日本の文化に大きな関心を持っていたという。