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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方の占領期 第10回「愛知県名古屋市」

地方の占領期 第10回「愛知県名古屋市」

 北川組のホームページに、こうある。

「名古屋市は中部地方で唯一、終戦後進駐軍に占領された都市でした。
観光ホテル、名古屋城、郵政局、名古屋市公会堂始め多くの施設が進駐軍に接収されました。
司令部は愛知県に進駐軍下士官家族住宅として、現在の白川公園一帯にアメリカ村建設の指令を出しました。北川組は昭和22年(1947)に住宅の建設、その他、八事の山の手に将校住宅、名古屋城の周りの進駐軍が占領してた第3師団の司令部の改築工事を請けました。
この頃の支払いは新円と旧円があり、愛知県は、この工事を新円で決済しました。」

 また、沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」の第6講には、こうもある。――

進駐軍が広小路を闊歩する


進駐軍に強制軍用接収され、司令部が置かれた名古屋観光ホテル。
司令部が大和生命ビルに移動してからは高級将校の宿舎となった。
写真:昭和9年頃建設されて間もない名古屋観光ホテル。

 広小路がアメリカの進駐軍に占領されていた時代があった。 中西董の『米英占領下の名古屋』に、進駐軍の命令書が数多く紹介されている。その中に名古屋市長名で、「乗客に警告」という一枚がある。警告文は次のとおりだ。
「名古屋観光ホテル前を通過する際は、車掌の指示により北側の窓の日覆いを必ず降ろして車外を見てはならない。亦乗客はホテルの進駐軍将兵を見下ろしてはならない。違反者は厳罰に処する。」
 名古屋に、最初に進駐軍が到着したのは昭和二十年九月二十六日午後七時だ。米軍第二五師団副司令官E・ブラウン准将率いる二十名近い先遣隊が、京都からジープに分乗し、名古屋観光ホテルに乗りつけてきた。翌日には百六十名余りの米軍部隊が、名古屋の大成小学校に進駐してくる。名古屋観光ホテルを強制軍用接収した米軍は前進司令部を設置し、後続の二五師団が名古屋港に上陸するのに備えた。
 観光ホテルの玄関前には、戦車が広小路通りに面して配備された。自動小銃を構えた歩哨二名が、玄関先でにらみをきかせていた。ホテルの屋上には星条旗がかかげられていた。
 警告文は、観光ホテルの前を通過する市電の乗客に対して出されたものだ。日本人は、米軍の進駐している観光ホテルを見たり、のぞいたりしてはいけないという警告だ。 次の警告文は、進駐軍より出されたものだ。
「日本人は米国を尊敬すべし。日本人の車馬は米軍を追越すべからず。違反者は射殺する事あるべし。」
 リヤ・カーや馬車が荷物を満載して、広小路通りを通ってゆく。それらの車馬は、充分に米軍に敬意をもって通行せよというものだ。もし違反した場合には射殺をするという文面が、進駐軍の実態をよく表している。


名古屋観光ホテルから大和生命ビルへ司令部が移された。
写真:終戦直後の広小路本町交差点。
中央のビルが大和生命ビル〔旧徴兵館〕(名古屋市広報課提供)

 後続の米軍二五師団の主力部隊が名古屋港に入港したのは、昭和二十年十月二十六日だ。この日、二万七千人、翌日一万五千人が上陸し、各地に進駐した。主力部隊の本格的な進駐により、司令部は観光ホテルから大和生命ビルに移された。観光ホテルはモラン師団長など高級将校の宿舎となる。おびただしい数の米軍のトラックやジープが広小路通りを往来した。
 広小路通りに面した焼け残ったビルも、次々と米軍に接収されていった。納屋橋と笹島の間にある三井物産ビル、観光ホテルの前に建つ朝日新聞ビル、三菱商事ビル。観光ホテルと大和生命ビルの間にある電話ビル、住友ビル、そして大和生命ビルの前に建つ岡谷ビルなどだ。
 名古屋城の前にはキャッスル・ハイツ、キャッスル野球場が造られた。東海郵政局の建物は、接収されて米軍専用の病院となる。隣接地はカマボコ兵舎となる。広小路と名古屋城をつなぐ本町通りは、米軍のジープが轟音をたてて通り過ぎてゆく。日本人の車両の通過を禁止する米軍専用の道路となった。
「虎の威を借る狐」の類の警告文も多く見られた。広小路通りの映画館では、軒並み次のような警告文が貼り出されていた。
「進駐軍の厳命に依り、衣服に蚤やシラミを保有している者は、当館への入場を禁止する。」
 米軍の入場しない映画館に、このような警告文を出すいわれはない。映画館側が、浮浪者を断る口実として勝手に作成したものであろう。
 大和生命ビルの正面玄関前には、米極東第五空軍司令部名で、次のような警告文が貼ってあった。
「日本人に警告する。当司令部の前を下駄履きで通行することを厳禁する。違反した者は厳罰に処す。」
 終戦直後の日本人で、靴を買って歩くことのできる人は限られていた。大半は下駄履きだ。買うことのできない靴のかわりに下駄を履いていて、厳罰に処せられてはたまったものではない。
 愛知県衛生部では、進駐軍の命令として、肥溜を積んだリヤ・カーが大和生命ビルの前を通ることを禁止した。化学肥料のない終戦直後、人糞だけが唯一の貴重な肥料だ。郡部の農家の人たちは、リヤ・カーで野菜を名古屋の街に売りにくる。空になったリヤ・カーには得意先から糞尿を汲み取り、肥溜に入れて帰ってゆく。当時の、そんな日常的な光景も広小路からは姿を消してしまった。肥溜車は大和生命ビルの百メートルも先から迂回して、通行しなければならなかった。
 名古屋観光ホテルが米軍より返還されたのは、昭和三十一年十月十二日である。 大和生命ビルは、昭和三十一年二月に接収が解除された。米軍が闊歩する広小路通りが日本人の歩行する道にもどったのは、実に十一年ぶりのことであった。――

 さらに、料亭つたも主人の深田正雄さんによる「住吉の語り部となりたい」シリーズ第3回に、以下のような記述がある。

アメリカ村
戦後、名古屋栄のど真ん中に「アメリカ」があったのを御存知ですか?? 太平洋戦争直後、昭和 20 年 9 月 26 日には進駐軍が名古屋到着、10 月には米軍 27000 人が 名古屋港に上陸、広小路大和生命ビルに司令部開設、そして、上級将校の家族住宅 132 世 帯が翌 21 年 8 月から現在の栄 2 丁目に建設されました。 日本占領後、1 年で大都心の中心に家族とともに居住生活するというトンデモナイ発想でし た。一面焼け野原となり、生活苦にあえぐ名古屋市民には自分の家どころか、米軍の要請 で一刻も早急に敵国家族の住宅建設が命令されたわけです。 用地は戦前の名古屋の都市計画に沿って寺町を中心に公園予定地(現在の白川公園)と北 部分となりました。 地域の尽力者でもある紅葉屋の故・浅野甚七さんのお話をご紹介しましょう。 「友人が通訳をしており、司令部では当初、進駐軍のプランでは東は本町と西は伏見通り となっているとの情報を入手。名古屋の文化歴史のメイン本町御幸通りを占領されては、 沽券にかかわると案じ、早速、仲間たちと焼け跡の本町に小屋建て住みつき境界を一本西 に移動させた。」との武勇伝を何度も聞かされたことがあります。 アメリカ村のゲートは北側、入江町通りにあり(現在のハミルトンホテル栄近辺)周りに はキャバレーミカドや映画館など賑やかに米軍と市民が一緒に遊興できる地域となりまし た。住吉町の子供達は栄小学校通学にはアメリカを北廻りに毎日往復することとなり、ゲ ートで朝には「ハロー・・・」とスマイル顔の衛兵さんに挨拶して、手を出すとハーシー のチョコレートやリグレのチュウインガムをもらって国際交流?大好きなアメリカとなっ たのでした。 正雄君は小さいときにはアメリカ村が米国と思っていた次第です。そして、少年ケニアの ワタルのガールフレンド「ケート」金髪の少女にあこがれていたので、珠に村内に誘われ たときの興奮は今も忘れません。緑の芝生に囲まれた住宅、靴を履いたまま入り、風呂や 蒲団に足がついているのにビックリ!エアコン、キッチン、冷蔵庫・・・映画で見るアメ リカの生活に感動いたしました。そして、村内学校の中で8mm映画鑑賞、本当のアメリ カは海の向こうで素晴らしい発展している国であることを知り、大きくなったらアメリカ で生活するのが夢となりました。そこで飲んだ真っ黒のジュースがコカコーラと知るのに は数年の歳月がたってからのようにも思います。 祖父良矩は、このアメリカ村が名古屋の産業や文化に与えた影響を語ってくれました。 「進駐軍は占領前に日本の研究を徹底的にしていた。原爆投下予定地の名古屋の都市計画 を知りつくし、いち早く区画整理を実施、寺社には60%、庶民には40%の土地の供出 実施で新しい街づくりを実行させたのだ。反対すれば銃殺だとも言われたぞ!」 そして、住宅建設、造園、警備、清掃、電設工事、キャバレー・バンド、ダンス、ゴルフ など欧米の技術や文化を名古屋市民に伝承させたのでした。 戦災で全てを焼失した栄では、市内で最も早く市民の宿泊施設としてマルコウ支援を得な がら蔦茂旅館が再興されたのも昭和 21 年春。宿泊だけでなく、毎日、宴席が開かれ繁盛し て、常駐の芸妓も数名在籍しておりました。この宿屋にも、外人さんが日本のガールフレ ンドとともに短時間の投宿?正雄くんはニコニコ笑顔で「コンニチハ・・」沢山のチョコ レートや 25 セント玉を貰って喜んでいました。住吉通り向えキャバレーメイフラワーや赤 玉会館では庶民とともに遊ぶ米兵がとても明るく友好的に感じました。米軍の駐屯で多く の外貨が住吉の復興と繁栄に寄与したようです。 祖父曰く、「挙母の自動車会社が経営危機の時、朝鮮動乱の調達として 500 台のトラックを 発注!その自動車会社は軍の発注書を持って銀行融資を得て再建した。」 本当に、アメリカ村の名古屋市民への経済・文化への貢献には感謝せねばなりません。 写真:昭和 33 年 1 月 11 日撮影、アメリカ村写真、この年に返還、南半分が白川公園となり北は元地主に返納されました。」

 

 以上、名古屋へ進駐した占領軍に関する記述を紹介させていただいた。