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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方の占領期 第5回「横浜」ふたたび

地方の占領期 第5回「横浜」ふたたび

 丸の内中央法律事務所の事務所報に、弁護士の堤淳一氏が執筆していたエッセイ「進駐軍が街にやって来た」(平成27年8月1日)で、横浜の占領について触れているので、ここで紹介しよう。

 本誌第17号(平成12年2月15日号)に、「横浜大空襲と飢餓」と題する一文を載せた。その末尾に「米軍による横浜占領下における話はまた次回にでも」と書いたが、早いものであれから15年が経過した。そんなに長く経って続編もないものだが、今年は終戦から70年。改めて横浜の占領のことを書いてみようと思う。

 

Part 1 翻える星条旗
日本占領をめぐるパワーポリティクス

 昭和20年夏、連合国軍と戦いを継続しているのは日本1国のみとなっていた。アメリカは、日本がドイツ降伏(20年5月)の後も10数ヶ月は戦い続けるであろう、という予測にたって「オリンピック作戦」(昭和20年12月1日発起予定。宮崎海岸を指向)、「コロネット作戦」(昭和21年4月1日発起予定。関東平野を指向)という日本本土進攻計画(全体をダウンフォール作戦と称し、全兵力見積107万4600)を立案していた。
 しかしかかる作戦を待つまでもなく日本が降伏する可能性が高くなってくると、太平洋陸軍総司令部が準備していた「ブラックリスト作戦」が進駐計画として現実味を帯びてくる。この計画は、日本本土を14、朝鮮を3ないし6の地域に分かち、太平洋陸軍の総兵力(第8軍252,000、第6軍309,000)を3段階で各地に展開させて、日本の軍事、政治、経済の全般を制圧しようとする直接軍政案で、7月16日には第一次案が完成し、おそくとも8月11日には統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff=JCS)によって承認された。この間、海軍太平洋艦隊司令部は海軍主体の「キャンパス計画」を立案するが、JCSは、陸軍を占領軍の主体とし、海軍が支援するという形での同時上陸案で妥協させた。陸海軍の対抗意識は何れの国でも同じとみえる。
 天皇による終戦の詔勅は8月15日に渙発されるが、詔書は8月14日付で作られ、次の文章で始まる。冒頭のこの部分が詔書の本旨(主文)である。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ(以下略)
 こうして8月14日午後11時過ぎ、日本政府(総理大臣:鈴木貫太郞)からスイス政府を経由してアメリカ及び英華ソ政府に対し、日本がポツダム宣言(注1)を受諾する旨が伝えられ、駐スウェーデン公使にも参考に電送された。アメリカ政府は既にその前の8月13日、統合参謀本部指令をもって連合国最高司令官司令部(Office of the Supreme Commander for the Allied Powers)の設置を決めていた。そして翌8月14日、トルーマン大統領は、「停戦実施方に関する日本政府宛通報」をもって、降伏の受理及びその実施のため、当時マニラにおいて「ブラックリスト作戦」を準備中であったマッカーサー元帥を正式に連合国最高司令官に任命し、同時にその任務に関する指令を与えたことを日本政府に通知し、マッカーサーは8月15日、上述した「ブラックリスト作戦」に基づく命令を麾下の部隊に示達した。
 日本の占領の準備をアメリカが他の連合国軍に先だって行うというのはある意味、妙な話ではある。今次の大戦は「連合国」が共同して戦ったものであり、終戦の半月後には降伏文書が米英華ソその他5箇国との間にとりかわされたのであるから、複数の国が占領に関わってもよさそうに思える。しかし、現実にはそうはならなかった。
 アメリカ政府は、当初は四大国(米英華ソ)によって日本を占領することもやむをえないとしていたが、独力で日本に勝利したという実績を背景に、やがて他の連合国の発言権を排除した単独占領を実施する。
 これに対し他の諸国はどうであったかというと、イギリスと中華民国は今次の大戦によって疲弊し、とても日本占領管理に加わる余力は持ち合わせず、それゆえアメリカの単独占領に異を唱えようとする力はなかったと言ってよい。ドイツとの戦争により本国が崩壊に瀕したフランスとオランダは言うまでもない(もっともイギリスは英連邦軍を米極東軍の指揮下に入れたけれども、占領を管理するつもりはなかった。また、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドも一部地域に進駐したが同様である)。
 しかしソ連は抵抗を示す。8月8日に対日参戦をしたばかりだというのに、モロトフソ連外相は8月11日、ハリマン駐ソ米大使に対して、ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥とマッカーサーの2人の最高司令官による二頭支配を提案したが、ハリマンによって厚かましいとばかりに拒否された。8月16日、今度はスターリンがトルーマン大統領宛に書信を送り、日本軍によるシベリヤ出兵(大正7年)の例をもち出して、ソ連軍による北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線の北側)の占領を要求した。しかしトルーマンは18日にこれを拒否しているが、この間のやりとりに米ソ冷戦の芽ばえを看取することができる。
 ソ連はなおアメリカの1人勝ちを許さずとばかり、連合国最高司令官司令部を牽制するため、管理機構の頂点に置くこととされた極東委員会の権限と参加国をめぐって12月のモスクワ会議に至るまでアメリカ及びイギリスとの間に激しい鍔競合いを演じた。
 なお四大国から成る理事会が東京に置かれ、連合国最高司令官に助言を行った。
日本占領の中央機構は下図の通りである。

米極東軍
 ところでマッカーサーは連合国最高司令官であると同時に、実施部隊としての極東軍(Far East Command)の司令官でもあった。この極東軍(戦時中から終戦直後においては太平洋軍(Pacific Command)と汎称したものが昭和22年1月1日から組織改編により「極東軍」と改称)が実質的に占領を担当し、麾下の第8軍(8th Army)と第6軍(6th Army)及び極東海軍のうち駐日海軍、極東空軍のうち駐日空軍(第5空軍)と英国連邦軍が日本へ進駐した。なお英連邦軍は中国、四国へ進駐したが、その後第8軍の指揮下に入った。
 第8軍(司令官アイケルバーガー中将)は横浜に司令部を置き関東及び甲信越から北海道にいたる東日本の占領を分担し、第6軍(司令官クルーガー中将)は京都に司令部を置き西日本を分担することを予定し、駐日海軍は横須賀に、駐日空軍は名古屋にそれぞれ司令部を設置することを予定していた。

日本の「間接統治」
 ところでアメリカが当初直接軍政を企図していたことは上述の通りであるが、日本政府の機関が予想以上に強靱であることに鑑み、ワシントンはやがて占領政策の基本を間接統治方式(日本政府を連合国のエージェントとして統治する方式と言って妨げがないであろう)へと大きく転換した。現場司令官であるマッカーサーとしては、直接軍政に要する軍事的・経済的負担は憂慮すべきものであったから、間接支配態勢は好ましいものとして受け入れたであろう。しかしそれが徹底するまで末端には混乱も生じた。
 進駐軍の任務は、「最高司令官による指令の遵守を監視する機能として、また必要があれば最高司令官が遵守を確実にするために用いる機関として」行動することであった(昭和20年12月19日付マッカーサー元帥の麾下の部隊に対する訓令)。
 このうち「指令遵守監視機関」としての位置づけがいわゆる軍政機構である。結局アメリカは日本の占領政策として、形式上日本政府を通じて行う間接統治を採用したので、米極東軍は軍組織を利用しながらも軍の編制とは建制上別組織として軍政機構を形作り、日本政府によって行われる政策の実施を監視してゆく態勢をとったのである。
 訓令後段の、「遵守を確実にするために用いる機関として」とは、指令が守られない場合には軍の実力を行使することを含意していることは言うまでもない。

占領の下準備―マニラ使節
 8月17日、東久邇宮稔彦王を首班とする内閣が成立した。同日、ポツダム宣言受諾を前提に、停戦を実施するためアメリカ政府から日本政府に宛て、連合国最高司令官が作成する降伏文書を受理することに関し、十分な権限を有する使者(複数)を連合国最高司令官の許へ派遣することを命ずる通告文が伝達された(来電1号)。
 
 次いで同日、連合国最高司令官発「来電2号」をもって日本軍の戦闘の即時停止が命ぜられ、日本政府からの使者は、フィリピンマニラ市にある連合国最高司令部へ派遣せられたい旨を命じた。
 日本側から同日午後4時、大陸令1382号、大海令48号(注2)をもって陸海軍全部隊に対し「即時戦闘行動ヲ停止スヘシ」との命令が発せられた(奉勅伝宣)(注3)。
 日本政府はマニラへの使節派遣が、降伏文書への調印を含むかどうかの点につき8月16日に米国側に照会を行った。これに対し、連合国最高司令官発大本営宛電報(8月17日午後接受)「来電4号」を以って、マニラ使節の派遣は降伏文書への署名調印を目的とするものではない旨を答えた。
 使節の代表者は陸軍中将で陸軍参謀本部次長である河辺虎四郎に決まり、8月18日、「聯合軍最高指揮官ノ指定スル地點ニ出張スヘシ」とする命令が大本営から下される(大陸令1384号 大海令50号)。
 それに伴い、人選はすこぶる難航したが、随員として、外務省から岡崎勝男(調査局長)外1名、陸軍から天野正一(少将、参謀本部作戦課長)外6名、海軍から横山一郎(少将、軍令部出仕)外6名が命ぜられた(8月18日奉勅伝宣)。

先遣隊の受入
 マニラ使節を乗せた一式陸上攻撃機2機(無武装にして、白塗にした胴体と両翼に日の丸を塗りつぶして緑十字のマークを描く)は、厚木海軍航空基地(第302航空隊)には反乱の動きがあり不穏のため、8月19日午前7時18分に木更津飛行場を離陸し、沖縄の伊江島で米陸軍の輸送機に乗り換えて、同日午後5時54分(マニラ時間)にマニラに到着、午後8時30分マニラ市庁にあったマッカーサー司令部に出頭し、サザーランド参謀長と会議を行った。
 使節団は深夜から未明にかけて日本側の要求、質疑事項をまとめたが、20日の午前9時過ぎに連合国最高司令部から、降伏調印にかかる3文書(日本国天皇布告(詔書)(案)、降伏文書(案)(注4)、陸海軍一般命令第1号)(注5)、及び日本本土に上陸する先遣部隊の安全を確保するため及び占領後の進駐に関する浩瀚な「要求事項(第1~4号)」が手渡された。そのため日本側が準備した要求書は結局、連合軍側に手渡されなかった。
 使節は20日夕刻マニラを出発し帰途に着いたが、乗機の不具合もあって21日午前8時に調布飛行場に到着、午後1時過ぎ上奏復命を行った。連合軍側からの要求事項は関係諸機関に伝達され、一斉に受入準備が開始された。
 大本営陸海軍部は、21日付を以って、
「大本營ノ企圖ハ右聯合國軍ノ進駐ヲ圓滑ニ實施セシムルト共ニ進駐地域附近ノ治安維持ニ遺憾ナカラシメ以テ我カ信義ヲ中外ニ宣明スルニ在リ」(大陸令1387号、大海令52号)とする命令を内地の各軍司令官(及び司令長官)に伝達し、所要の部隊移動を命じた。
 連合軍の先遣隊は、厚木、横須賀、鹿屋の3地域に進駐することとされ、日本側の受入準備機関として地域ごとに連絡委員会が設置されることになり、23日から翌日にかけて政府よりこれが発令された。
厚木連絡委員会(委員長 陸軍中将 有末精三)
横須賀連絡委員会(委員長 横須賀鎮守府司令長官 海軍中将 戸塚道太郎)
鹿屋連絡委員会(委員長 第5航空艦隊司令長官 海軍中将 草鹿龍之介)
 以下厚木について記述する。
 8月28日午前8時20分、連合軍先遣隊(長:テンチ大佐)の一番機(C54輸送機)が厚木に到着、11時半頃までに16機が先遣隊全員146名(内30名は士官)を乗せて到着した。マッカーサーは8月30日厚木到着(台風のため当初の予定より2日延期されていた)、飛行場内のテントにて記者会見を行い小憩の後、横浜へ向かう予定である旨が告げられた。

マッカーサー到着
 8月30日、厚木連絡委員会は午前6時に飛行場と全車輌(乗用車200輌、貨物車450輌のほかバス等)を先遣隊長に引き渡し、委員会の任務は終了した。
 午前7時、第11空挺師団長スウィング少将が先着し、続いて第8軍参謀長アイケルバーガー中将が到着した。有末中将はスウィング少将と横浜進駐の行路、行事予定などを打ち合わせたのち、鎌田中将と共に横浜に向かった。横浜には大本営横浜連絡委員会が30日付で設置され、外務省を主体とした横浜終戦連絡委員会と連携しつつ連絡業務にあたることになっていた(このことについては後述する)。
 午後2時過ぎマッカーサーの乗機(C54輸送機「バターン号」)が東の上空に飛来し、2時5分、機は中央滑走路を北から南に着陸した。やがて連合国最高司令官にして米極東軍司令官マッカーサー元帥が、上着なしのカーキー服にサングラス、コーンパイプをくわえて飛行場の夏草の上に立った。マッカーサーは幕僚に囲まれ、記者団に対して、「メルボルンからの道は遠かった」で始まる短い声明を発表した。
 日本側が準備した河辺中将らマニラ使節団による出迎行事は拒否された。司令官たる者、ようやく日本に来たのに、ここで一服盛られたのではたまらない。出されたジュースにすら口をつけなかった

横浜の部分占領
 小憩の後、連合国最高司令官の隊列が横浜へ向かって進発した。消防車が先頭に立ち、サイレンを吹鳴して神奈川県警の車を先導した。
 次いで、日本の武装警察、憲兵など60名が第8軍司令官アイケルバーガー中将の率いる進駐部隊1200名を先導した。進駐部隊は日本側が用意した貨物車10台、乗用車25台に分乗し日本警察及び憲兵の厳重な沿道警備のもと、24キロの道を進んだ。マッカーサーと幕僚の乗った車の前後は米軍の護衛隊が固めた。
 一行は厚木→長後(藤沢)→戸塚→保土ヶ谷→桜木町を経由して、夕刻までには横浜市の中心である中区の一部(関内地区)に進駐し、概ね大岡川より東の関内地域を部分占領した。
 連合軍総司令部を税関ビルに、第8軍司令部を郵船ビルに置き、マッカーサーとその幕僚はホテルニューグランドに宿泊した。アメリカ空軍は横浜の中心部一帯を焼き払いゴーストタウンにしたが、戦後を見通し、必要とする建物はぬかりなく爆撃の対象から外していたのである。

焼き払われた横浜の中心部。右上に見えるのがホテルニューグランド、左上が大桟橋。その下に税関が見える。
外人墓地からでも撮影したのであろうか。
(「日本帝国の最期」37頁より)

 その後9月17日、総司令部(General Headquarters=GHQ)は東京赤坂の米大使館へ移り、10月2日以降日比谷の第一相互ビル(現在の第一生命館)において執務を開始する。

終戦連絡事務局
 マニラ使節に手渡された第3号文書は、日本に進駐する連合国への情報提供、設営事務の執行、取次などにあたる中央機構及び主要占領地における下部機構の設置を要求していたが、これが8月26日に設立されて(勅令496号)終戦連絡事務局と称し、「終戦連絡中央事務局」及び「終戦連絡地方事務局」から成るものとされた(以下終連という)。
 中央事務局は岡崎勝男(後に外務大臣)をはじめ、全員がキャリアの外交官によって占められた。なおそれに先だって8月22日に終戦処理会議(首相、外相、陸・海相ら)とその下部機構である終戦事務連絡委員会が設置され混乱するが、次第にこの終戦中央事務局へと収斂されて行く。
 その後組織の重大性に鑑み、終連を外務省に設置することの妥当性をめぐって論争が起き、10月1日新官制が公布され、児玉謙次(元横浜正金銀行頭)、吉田茂(後に首相)、芦田均(同)らが総裁(複数)に任命され、組織は大幅に改組された。

降伏文書への調印
 降伏文書への調印は9月2日午前9時に始まり9時20分に終わった。調印式が行われた戦艦ミズーリ(ハルゼー大将麾下の第3艦隊旗艦。排水量45,000トン)は16インチの主砲に最大角の仰角をかけ、数10隻の艦船を従えて待機した。ミズーリには砲塔からマストにまで水兵たちが鈴成りになって調印式を見守った。
 降伏文書(草案はさきに連合軍側によって用意されマニラ使節に手交済)には天皇・政府を代表し外務大臣重光葵、大本營を代表して参謀総長・陸軍大将梅津美治郎が署名し、対するに連合国最高司令官マッカーサー元帥、米全権ニミッツ元帥、そして英華ソの代表の他、日本国と戦争状態にある諸国(オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド)の代表が署名した。
 戦艦ミズーリの檣頭には星条旗が翻り、主砲近くの壁には幕末に来航したペリーの乗艦に掲揚されたものだという、36個の星と13条のストライプの星条旗が掲示された。
 降伏文書への調印が終わるや大小数百の戦闘機などの作戦機と、テニアン基地から飛来した9機のB29とからなる、雲霞の如き編隊が轟々と上空を通過し、その後東京上空を飛行した。降伏したと詐わって、日本の特攻機が突っ込んでくるかもしれないではないか。
 降伏調印が行われた時点における日本の陸海軍現有兵力は、陸軍154箇師団、136箇旅団、主要海軍部隊20箇、合計6,983,000人であり、このうち日本本土だけでも57箇師団、45箇連隊、計2,576,000人の兵力が存在していた。
 降伏調印が終わると、さきにマニラ使節に手交されていた陸海軍一般命令がサザーランド参謀長名による「指令1号」として発出された。

本格占領
 8月30日午前9時半頃、横須賀では既に米第31機動部隊から星条旗を掲げた上陸用舟艇が次々に発進し、完全武装の海兵隊員約17,000名が上陸し、次いで、同日11時過ぎバッジャー少将が上陸し、鎮守府長官から施設の引渡しを受けている。
 横浜関内地区及び厚木飛行場に進駐した先遣部隊の一部が、9月1日から、鶴見・神奈川・磯子・高津(川崎)などの軍施設や工場へ移駐しはじめていたが、その動きは、降伏調印式以後、著しく活発化した。
 降伏文書調印後、本格占領が始まる。

 9月2日午前11時半頃から、愈々横浜港の大桟橋等に、米第8軍麾下の騎兵第1師団4~5000名が上陸を開始し、引続き同日午後から翌3日にかけて、第8軍の主力部隊が相次いで上陸した。厚木への空輸も益々頻繁になった。そして3日中に部隊は散開して県下各地の軍施設へと進駐した。9月4日以降中旬までの間に、県内における進駐区域は、さらに平塚・小田原・秦野等へも広がった。
 これを受け入れる神奈川県側の対応も大童であった。横浜には、横浜地区連合軍受入委員会が8月24日に設置された。30日にはこれが鈴木九萬公使を委員長とする横浜終戦連絡委員会に改編され、9月25日、横浜終戦連絡委員会は名称を横浜終戦連絡事務局と変更した。
 マッカーサーの司令部は既述の通り東京へ移ったが、米第8軍司令部は横浜に残った。そして西日本の占領を担任していた第6軍司令部は、昭和20年12月31日に解散し、所属部隊の指揮及び占領行政は翌21年1月1日から第8軍に承継された。
 したがって、日本全域の占領は以後第8軍によって行われることになり、その司令部が置かれた横浜は日本全土(沖縄を除く)にわたる占領の本拠地となった。

進駐軍の展開
 進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐(旭川・10月6日)を完了した。最も遅いのは松山で、10月22日である。展開が迅速に成し遂げられたのは日本の官憲の協力に一部を負うとしても、戦争中に上空から写真を撮影し、これに基づいて飛行場や日本全土の道路地図を作製したアメリカ陸海軍の空軍情報部隊による情報活動に負うところが大きい。
 日本各地への進駐兵力は、展開がほぼ終わった10月末には総員30万人、11月末に43万人、12月中旬に45万人を超えてピークに達している。こうしてアメリカは、圧倒的な力を日本人にも、そしてソ連にもみせつけることに成功した。
 占領の本拠地となった横浜には、当然、圧倒的多数の進駐軍将兵が進駐し、昭和20年12月末で94,094人を数えた。即ち、当時の進駐軍将兵のおよそ4分の1が横浜に集中していたことになる。そしてこの数字は20年11月1日現在の横浜市総人口624,994人の約15%に相当する。
横浜市内における土地・建物・施設の接収も急増の一途をたどり、昭和21年9月末、土地の接収面積は2,785,662坪で、市総面積の2.3%に達し、建物(住宅・事務所・ビル・学校・工場・倉庫等)の接収は、合計363件、延床面積287,784坪に及び、中区においてとりわけ著しく、土地は区域面積の34.6%が接収された。接収地の大半は空襲の焼け跡であった。そのほかに、横浜港も占領の対象で、当然軍艦や輸送船も接岸した。山下公園・横浜公園なども接収地に含まれていた。

第1図 進駐部隊の主要司令部の所在地

 

Part 2 焼け跡にジープ
関内・伊勢佐木町への進駐

 こうして横浜への進駐が本格化するが、占領軍はまず焼け跡の整地を始めた。広大な焼け跡はブルドーザーで均され、関内などに何百というかまぼこ兵舎(進駐軍の下士官、兵のための兵舎)がたちまちのうちに整然と建築され、広大な敷地の周囲は有刺鉄線で囲われた。
 この兵舎は文字通り蒲鉾形の外壁を持ち粗末なものであったが、空襲によって住居を失った一般市民にとってはうらやましい限りであった。
 土地建物の接収が最も多かったのは中区、ついで神奈川区である。中区は横浜の中心であり、今も昔も官庁や商店街が集中している。伊勢佐木町も当然接収の対象となった。伊勢佐木町にはさまざまな店舗があるが、焼け残った多くが接収された。横浜で最も有名なデパートであった野澤屋はPX(注6)として松屋は病院として、また不二家は第8軍サービスクラブとして接収された。オデヲン座(映画館)は接収され「オクタゴンシアター」となった(因みにオクダゴンとは8角形を意味する。第8軍の8である)建物の一例である。接収された建物で日本人オフリミットのキャバレーにされた店はいくつもあった。横浜公園野球場はルー・ゲーリック球場と改名され、後に平和球場と名前が変わった。現在の横浜スタジアムである。
 伊勢佐木町には星条旗が翻ってアメリカ主体の街となった。因みに日の丸の掲揚は、日本全域にわたって、新年とわずかな祝日だけに制限され、昭和24年1月1日までは自由に掲揚することはできなかった。
 伊勢佐木町の西側から大岡川に接するまでの焼け跡の一帯(もとは繁華な街並みがあった若葉町、末吉町あたりであったろうか)に飛行場が設けられた。セスナ機のような単発機や小さなヘリコプターが発着していたのを憶えている。滑走路は敷き詰められた鉄板から成っており、その物量及び工兵部隊の実力に、大人達が、日本軍のモッコによる飛行場建設工事とは訳が違うと感心していたのを憶えている。
 上述の通り横浜には一時10万人弱の占領軍将兵が進駐していたから、占領地及び接収した施設にはアメリカ兵が溢れかえっていた。
 第1騎兵師団の、黄色地に黒で馬の頭を象ったマークは、私にとっては懐かしいような気がする。今次の大戦の頃からは馬に代わって戦車や装甲車が装備されたが、シンボルとして馬の絵をそのまま使い続けたのであろう。

第一騎兵師団徽章

 前掲第1図(地図)に挿入した前掲の第8軍のマークも(こちらは赤地に十字マークを白抜きにしている)もMPのヘルメットなどに着けられて馴染みになった。
 兵隊たちは体格も顔色も良く、若者のこととて元気で、そして陽気であった。顔色が良かったのは栄養が行き届いていたせいもある。カーキ色の軍服にギャリソン・キャップ(略帽のこと。子供たちはこの帽子を”ハローの帽子”と言った)をやや斜めにしてかぶった若者が群れをなして闊歩した。ハローの帽子を被った米兵はジープを運転し、颯爽と市内を走りまわり、たちまち町の風俗の一部を成すようになった。
 横浜市民たちは焼け出された者も夥しく、着るものとてボロに毛が生えたようなものであったので、行きかうアメリカ将兵の体格の良さ、そして美々しさに圧倒されたのである。

ギャリソン・キャップを被った士官(「第2次大戦米軍軍装ガイド」より)。大戦末期の軍装を扮装したイメージ写真である。下襟にあるマスケット銃を交差させた徽章は歩兵科であることを示し、上襟につけたU.S.のマークとギャリソン・キャップにつけられた徽章が中尉を表す(同書P17)。

米兵による不法行為ないし犯罪
 市民の対米感情は概ね良好であったと言えるが(戦略爆撃調査団の調査による)、そうだからと言って進駐が全く平穏に行われたわけではない。
 進駐軍が横浜及び横須賀へ進駐した直後から、警察官や一般市民に対する米軍兵士の不法行為が頻発した。戦場から敵国へ直行してきた兵士たちが抱いていた緊張感と警戒感から生ずる不法行為もあったが、やがて日本側に進駐軍に対する抵抗の動きがないことが明らかになると、勝者としての思い上がりから、勝手気ままな行動に走るものが現われ、そのために数多くの不法事件を生じることになった。
 内務省警備局が作成した報告書によると昭和20年8月末から9月10日までの間、神奈川県下では、強姦7件(他に未遂4件。但しこの種の犯罪被害は届けられないことの方が多いのでこの数字を鵜呑みにはできない)、警察官に対する不法行為61件、一般人に対する不法行為246件が発生しており、そのうち横浜での発生件数はそれぞれ2件(未遂3件)、43件、188件となっている。
 一般人為対する不法行為は、いわばおもしろ半分の悪ふざけに類するものから、犯意の明白な窃盗・強盗にいたるまで、さまざまであった。女性用衣類(和服)や布地、ラジオ受信機やカメラ、それにビール・ウィスキー・酒などを奪った事例が多かったと言う。
 警察官の被害は日本刀、サーベル等の武器類である。米兵の目的は、それを実際に使うことではなく、日本進駐の戦利品ないしは記念品として持ち帰ることにあったと思われる。第8軍麾下の各軍団では、帰国する兵士に戦利品として分配するために、日本軍の兵器類を組織的に収集し、昭和20年12月末までに、銃剣15万挺・ライフル銃30万挺・カービン銃1万6015挺・拳銃1万6534挺・刀剣7万862振りを分配したという。また、第8軍司令部も、日本軍の戦車や臼砲などを戦勝記念のために収集していた(「占領の傷跡」(48頁以下))。

米兵にゾッキ本を買ってもらう
 小学校に入ってからのことだったと思うが、母親に連れられて伊勢佐木町通りを歩いたことがある。
 この通りに面した建物は殆どが、接収はされていても、土地が接収されていたわけではないので日本人も大勢歩いており、通りはごった返していた。赤い灯台が屋上にあるデパートがあったが(その建物を「赤トーダイ」と言っていた。後の京浜百貨店になる建物であったろうか)、あれは接収されなかったのだろうか。
 伊勢佐木町通りには、うさん臭いものも含め露天商が既に沢山出ており、道傍に本を商っている露天商がいた。立ちかかって見ていたら、アメリカ兵が2人ほど通りかかったというのである。母親が言うには「ハローって言ってごらんと言ったら、お前がハローと言ったんだ。」そうしたらアメリカ兵がポケットから金を出してその本を買ってくれたというのである。頭の一つも撫でてくれたかもしれない。その本というのは、いわゆるゾッキ本(注7)であったろう、再生紙を用いたもので、それを何冊かを束にして縄で束ね、一山幾らという風情で売っていた。それを米兵が買ってくれたらしいのである。
 2,3冊にはとどまらず、かなりの分量のゾッキ本を抱えて喜んで家に帰った。いまでも思い出すのであるが、その中に長谷川町子の描いた漫画本があった。長くとっておいたので憶えているが、「姉妹社」(調べてみたら昭和22年の設立)と、発行元が書いてあった。長谷川姉妹は自前で出版していたというからその頃の本であろうか。「サザエさん」ではないが、その原型のような若い女性が活躍するマンガであった。
 野毛(大岡川を隔てて伊勢佐木町の近くである)は、伊勢佐木町がアメリカ人の街であったのと対照的に日本人の街であった。闇市が立っており、焼鳥、するめ、飴、ふかし芋、天ぷら、ドーナッツ、南京豆、すいとん、代用品、それに衣類等。何でもござれ・・・(だったと言う)。
 靴もあり、1年生のとき、父に連れられて編上靴を買ってもらった。育ち盛りということで大きめのものを買ってくれた(というか、ぴったりとしたサイズのものがなかった?)のでブカブカであった。この靴は3年生くらいになって、ちょうどよい寸法になった。

復員兵としらみ虱
 私の家は南区中島町2丁目というところにあり、昭和の初めに建てられたサラリーマン向けの3Kの小さな家であり、風呂場が附設され、猫の額と言っては猫が可哀想なくらいの狭い庭がついていた。運よく焼夷弾が当たらなかったため、焼け出されはしなかったが、対空砲弾の破片が屋根に幾つか突き刺さって、雨が降ると桶や金盥に雑巾を敷いて雨漏りを受けた。
 水道は断水もしたが、それほど事情は悪くなかった。しかし当分の間、電力事情は悪く、関東配電という東京電力の前身の会社(だったか公社だったか)が電力を供給していたが、発電力の不足から屢々停電した。都市ガスが引いてあり、これは戦後暫くして供給されるようになった。
 私の父は古河電気工業㈱横浜電線製造所(西区西平沼にあった)に勤めていたが、軍需工場とあって5月29日の空襲でB29の狙い撃ちにあって壊滅。戦後従業員はレイオフとなっていた。今と違ってまだ労働基準法がない時代なので、給与はどうなっていたか知らないが、父が太い束線(長さ30センチ位に切り揃えてあった)を持ち帰ったことがある。現物支給として給与代わりに与えられたものであろうか、被覆を剥ぐと(これが子供の役目で大変な手間なのである)純度の高い銅線が何本も出てきてこれを業者に売ると結構な実入りになった。
 戦争中職場から応召し、南方へ出征していた父の部下が復員してきて、その2,3人が我が家に居候していた時期がある。彼らの実家が空襲で焼け、帰るところがなかったからである。母が煮沸消毒するのであるが、軍服の縫い目にみっしりとたかっている虱は家中に繁殖して大弱りであった。やがて彼らが帰郷した後も虱は残った。

 彼らは若く、レイオフの解除の目途が立たないことに退屈して、敬礼や担えつつ銃(ついでに立てつつ銃)や捧げつつ銃の仕方、それにゲートル(巻脚絆)の巻き方などを大真面目で私に教えてくれたりした。

オンリーさん
 私の家のあたり一帯は皆同じような造りの小住宅が軒を連ねていたが、色々な事情から、住宅を貸す家があった。貸家だけでなく、一部に家主が居住し一部を他人に貸す、いわゆる「間貸し」も行われた。私の家の裏手にもその手の間貸しがあって、オンリーさんに二間ほどを貸していた。
 当時は多くの占領地域に、街娼が多く生まれた。彼女たちのうちにはアメリカ兵の腕にぶら下がって得意そうに歩く者もいて、町のおばさんたちの顰蹙を買った。これらの女性は「パンパン」と呼ばれ、米軍や日本の警察の取り締まりの対象となった(「占領の傷跡」138頁)。
 これとは少しちがって、特定のアメリカ兵の相手になったのが”オンリー”であり(”Only You”というわけである)、彼女らは自前で部屋を用意しなければならなかった。
 私の家の裏手のオンリーさんは、名前は覚えていないが、きっと20代であったろう、気さくな女性で、私や近所の子供たちにも声をかけたり、私の家に「おばちゃんお醤油貸して」と言いながら小皿片手にやってきては話し込んでいった。
 相手になったアメリカ兵が士官であったか下士官であったかはわからないが、ジープ(注8)で時々通ってきた。オンリーさんの間借り住宅は私の家の裏手にあったので、ジープはいつも私どもの家の前に置き放しにされる。そんなわけで一度ジープに乗せて貰ったことがある。オンリーさんの彼がオンリーさんを野澤屋のPXへ買い物に連れて行くついでに、彼が運転するジープに文字通り便乗したわけである。やがて両手にいっぱいの品物を抱えて帰ってくる二人のお伴で横浜公園あたりへ乗せて行ってもらった。
 横浜公園は菜園として「開墾」されていた。何かの催しでもあったのだろうか、テントが張られた風景を憶えている。そこらあたりを一周して家に戻ったという、ただそれだけのことであるが、焼け跡少年にとってみるとドライブは夢のような話であった。近所の友だちに大いにやっかまれたのは言うまでもない。
 帰り際に蝋引きの紙で作られた袋に入った食パンを1斤ほど貰った。あるいはチューインガムも入っていたかもしれない。それを持って帰ったときの母親の一言。「淳や、よくやった。」(まさか)これが当日の夕食になった。

ジープ(JEEP)

 あるとき、オンリーさんの悲鳴が聞こえたので裏手のガラス戸を開けてみると、彼女が彼に髪を掴まれて畳の上を引き摺り回されているのが垣間見えた。後で聞くのには、何でもオンリーさんが他の兵隊と浮気したことに原因があるとかないとか言うのだが、怖いもの見たさで見ていたら、母は「見るんじゃない」とばかり、ピシャリとガラス戸を閉めた。オンリーさんのひどくはだけた裾のシーンが、暫く罪悪感を伴って記憶に残った。

ギブミー・チョコレート
 ”Give me chocolate”と言うと米兵がチョコレートやガムを呉れたというのは本当である。しかし我等がオンリーさんの彼は、ジープから降り、子供たちが寄っていくと”Give me”などと言わなくても呉れた(但し”Hello”位は言わなければならない。当たり前である)。節分の豆撒きのように撒いたというのは、話としては聞いたけれども私は見たことがない。
 ガムはとっても良い香りがして甘かったが、チョコレートはとても苦かった。銀紙をはがして皆で分けて食う。ただし、むしゃむしゃ食べる程沢山はないので前歯で「食い欠く」。ガムはリグレー、チョコレートはハーシー(注9)と言うのだそうで、上の学校に行っている誰かが教えてくれた。

 食べ物の話のついでにチーズのことについて。今考えるとナチュラルチーズだったのであろうが、蝋紙の包装がしてあり、とても固く、黄色味が強かった。軍用のものだったからかもしれず、においと塩味がややきつかった。味は今もかすかに覚えているが、あれ以来実際には味わう機会がない。
 昭和25年6月25日、朝鮮動乱が始まった。在日アメリカ軍は速やかに反応し、一部の空軍部隊はその翌日に、地上部隊はその月の30日に朝鮮半島へ出動した。
 その頃のことであったろうか、オンリーさんがやって来て、彼と別れなくてはならないというようなことを言いながら、母の許で「えんえん」泣いて行ったと言う。「多分朝鮮へ持って行かれたんだ」と母は近所のおばさん連中に話をしていた。
 それから暫くしてオンリーさんがお別れにやって来た。予ねて撮ってあった自分のポートレートを持ってきて、「おばちゃんに」と言って置いていった。
 そうして彼にも贈ったのかもしれない。そのポートレートは今も私のアルバムにある。長身ではないがややふとりじしの、化粧のせいか一寸きついが、眼の大きな魅力的な女性が写っている。
 間もなく裏の「貸間」には別の人が入居してきた。オンリーさんは国許へ帰ったらしい。ただそれが何処かは母も知らなかったようだ。そのうち大家さんも引越していった。

食糧事情
 食糧事情はきわめて悪く、既に昭和16年に採用されていた配給制の下においては、一人一日あたり主食糧である米2合3勺の配給基準が、昭和20年7月のはじめには2合1勺に切り下げられた。この基準ではとうてい市民の空腹を満たすには足らなかった。おまけに昭和20年は枕崎台風が来襲し(9月17-18日)、稲作は壊滅し、敗戦の痛手を負っている国民をひどく苦しめた。「米よこせデモ」が皇居に押し寄せた。
 日本の飢餓状態はアメリカにとっても坐視することは許されなかった。けだしそのまま放っておけばやがて軍国主義に逆戻り(後にこのことを「逆コース」と言った)するか、共産主義がはびこるか、アメリカとしてはそのいずれの状況をも危惧せざるをえなかったからである。そこでアメリカはアジア救済委員会(LARA)(注10)を設立し、主として日本への救済の手を差し延べた。

「代用食」
 米は貴重であり配給制度のもとに置かれた。市民は「米穀通帳」を保持することが義務づけられ、それなしには米の配給を受けられなかった。多分営団(食糧営団と言ったか)指定の米屋でこれを呈示して配給を受けた。米穀通帳は住民登録の代用としても用いられた。
 配給される米は七分搗きというのもあったが、精米されていない玄米も多く、米搗きをしなければならない。精米機(器)などという気の利いたものはないから一升壜に米を入れ竹の棒でざくざくと搗く。これも子供の仕事で、退屈でならなかった。何百回も米を搗いた竹の棒の先端(節の真下で切る)は丸くなっていた。米にゴミが入っているのは屢々であった。平盆に薄く敷き並べ丹念にゴミをとる。穀象虫の死骸や藁屑なら発見しやすいが、極めて小さなガラス片や白っぽい石の粒などが混じっており、これを選別しそこねて炊き込んでしまい、歯がガリッと噛んだときの不快さを伴う痛さは飛び上がるようであった。
 白米100%の飯(銀シャリと言った)は仲々食べられなかった。たいていは何かを一緒に炊き込むか雑炊にしてそれに入れた。小麦を五分でも六分でも混ぜて炊くことができればご馳走であるが、小麦を入手するのも困難であったから、大麦とか粟、とうもろこしなども混ぜた。穀物以外では芋が最も多かった。それに大根等の野菜の葉やさつまいもの茎をきざんで混ぜることもあったが、これら何かを混ぜたものを「代用食」と総称した。
 恥ずかしいが、私が銀シャリを食べるのはサンフランシスコ講和条約が締結された昭和26年頃のことであった。その頃だったか、母の実家(農家である)で催された法事で五目飯をはじめて食べたとき、「代用食じゃないか」と私が言ったので(たしかに五目飯は混ぜ飯である)、伯母だったと思うが聞き咎めて「ハナちゃん(母の名)のところでは何を食わせてる?」と言われ、母は肩身の狭い思いをしたろう、私の小さな(母にとっては大きな)舌禍を叱った。

さつまいもとカボチャ
 甘藷とカボチャの話。
 甘藷には黄色味が強いものと白っぽいものと2種類があった。「農林1号」という名の芋があって、そのどちらが「ノーリン1号」だったかは覚えていないが、黄色いものは筋っぽく、白い物は水っぽく、いずれも肝心の甘みがなかった。
 黄色といえばカボチャの花を思い出す。配給されたのかどうか、カボチャの種子が、物置代わりに使われていた縁側の隅においてあった。父が家の脇の露地にこれを蒔いた。やがて芽を出して花がいくつも咲いたのだが、やたらと大きな花で、派手な割には実は小さく、水ぽくて味もなかった。花が大きいのは実を太らせるほどの栄養が土にないせいであり(なんといっても道路である)、何だか次世代への準備をするためだけに咲いているようで痛々しかった。花粉は大量で、学童服の肩につくとポンポンと叩いたくらいでは落ちなかった。

買い出しと「担ぎ屋」
 そのようなわけで食糧の買い出しが行われた。都市に住まう人々は食糧を生産することができないので、近郊の農家へ米・麦を買いに行くのである。この点、都市というものは実にひ弱である。ひどいインフレのため現金の価値がアテにならないので、父や母の着物や反物を持って行って物々交換するのである。もっとも私には長後の方まで母について行ったわずかな記憶しかない。
 買い出しとは逆に、「担ぎ屋」という商売があった。多くは復員兵だったようであるが、統制の眼をかいくぐって米をどこかから仕入れ、5~60キロ位を入れたリュックサックを背負って行商する、闇米の運び屋のことをそう言った。私の家に「弁当使いたいので茶を振る舞ってほしい」などと言い乍ら立ち寄ったのがきっかけで馴染みになり、数年通ってきた担ぎ屋サンは三十代後半のガッシリした体格の老兵で、憲兵下士官であったと自称し、「憲兵の襟章は黒なんだよ」とか言い乍ら(ついでに言うと歩兵は赤、砲兵は山吹色である由)、軍隊内の犯罪を取り締まったことなどを、茶を啜りながら母や私を相手に縁側で話し込んでいった。
 また少し世の中が落ち着いてからの話であるが、「引き売り」がやってきた。近郊の農家の主婦やおやじさんが、リヤカーを引いて野菜を売りに来るのである。丁度「買い出し」の逆である。

マーケットと公設市場
 通町1丁目の角に「タケダマーケット」という、露店をまとめた一区画があった。食べ物を主にしている「店」が多く、あたりを仕切っているのが「タケダ」さんという名前であったかどうか確かでないが、「予科練帰り」であると噂され、革の半長靴を履いて、成程、海軍から復員してきたと言われればそうかと思わせる風情で、昭和30年頃まで近所をノシ歩いていた。
 それとは別に通町2丁目には公設市場があって、倉庫仕様の建物に何軒もの店(ブース)が並んでいた。この「市場」の最悪の記憶は「雑炊」である。これは「外食券」を持って行かないと食べられないのであるが、赤ん坊なら行水をつかえる程の大きな鉄鍋に得体の知れない物が混ぜこぜにぐらぐら煮られており、それを若い衆が杓子でお椀に掬ってくれる。その悪臭さは胸をつくようで表現できない程気持ちが悪かった。それを食うのである!夜盗虫が入っていたという話にも真実味があった。そんなものを食って腹を壊した者が続々・・・・という話は聞かなかったから、不思議といえば不思議な時代、みんな命をつなぐのに必死だったのである。

 

Part 3 巷にあさひ旭日は滔々として
大岡小学校

 私の入学した小学校は横浜市立大岡小学校と言い、明治5年の創立と言うから、全国で最も古い学校の一つである。昭和3年に関東大震災復興小学校の一つとして南区大橋町に鉄筋コンクリート造3階建の校舎が建築され、昭和13年にはプールが建設されるなど、いずれも市内では珍しい立派な学校であった(但しこの校舎は老朽化にともない昭和57年に取り壊され改築された)。

 校歌も昭和9年に制定された、いまでも唱われている立派なものである(作詞:加藤末吉、作曲:井上武士)
  旭日とう滔々 輝やうちまた巷
  春は川辺に 花さきみだれ
  秋はこ木の間に 錦をかざる
  あゝ心地よや 自然の姿

 昭和20年5月29日の横浜大空襲時には避難民の収容所となり7千余名を受け入れた。
 私の家からは1キロ弱の距離にあり、私の場合通学に不便ではなかったが、多くの学校が空襲で焼失したから、焼け残った大岡小学校には遠くからも不便を冒して大勢の子供が通学した。私の同期である昭和23年入学組は入学時9クラスで1組60名。これでは教室に一杯一杯というわけで、1組当たり6名を抽出して翌年第10組が作られた。因みに後に日本画家として名を成す片岡球子画伯が私共の学年の9組の担任教諭として奉職しておられたが、昭和30年に退職して東京に移られた。私は3組で、転入転出があり、卒業アルバムには58名の同級生が写っている。
 なお昭和23年入学組に限ってのことだろうと思うが、この学年は全クラス「持ち上がり学級」(1年から6年まで組替えがなくかつ同じ先生が受け持つ。但し退職による後任との交代は除く)であった。何かの意味を見つけるため、指定研究として採用されたのであろう。

大岡小学校全景。昭和29年頃。(南側から撮影されており、写真の左側奥が、横浜港の方角。現在ランドマークタワーが見えるあたりである)卒業記念アルバムより。

二部授業、新教科書、学校給食
 大岡小学校は当時総生徒数2,500人位のマンモス校であった。教室の不足から、午前に授業を受けるクラスと午後に受けるクラスを分けるという二部授業が行われた。従って授業時間は普通の半分というわけなのである。午前と午後を間違えて登校する生徒もいて混乱もあった。
 昭和22年3月、学校教育法が制定、4月から施行された。六三制(小学校6年、中学・高校各3年、大学4年の単線コース。つまり現在の制度)が始まり、「大岡国民学校」という名称が大岡小学校に改まった。次いで新憲法が5月3日に施行された。
 私共小学校1年生の国語の教科書は東京書籍の本で、冒頭は、「みんなよいこ おはなを かざる みんなよいこ」というものである。多分その前年までがいわゆる「墨塗り教科書」で、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」というような軍国主義的な思想を鼓吹する(・・・とGHQが考える)箇所はスミで塗り潰された(それも生徒が先生の指示で塗る)。私共の用いた教科書は、平仮名で書かれ、平和憲法に基づく新しい教育方針に沿って、戦後初めて出版されたものであった。
 初めてと言えば、横浜市は最も早く学校給食が実施された地域の一つではなかったろうか。給食費はたしか徴求された。大岡小学校には既に昭和22年に学校給食の調理室が設置されている。
 3年生か4年生の頃給食された脱脂粉乳(スキムミルク)は同級生に聞くとすべてが覚えていると言う。不味かったからである。カップ(これは各自が自宅から持って行く)の底に砂が沈澱するうえ、味が殆どしない。先生から「注いですぐ飲んではいけない」との注意があったが、それは砂を一緒に飲んでしまうからである。どろどろのトマトジュースにも閉口した。トマトケチャップに近いのである。
 これらは既述したララ物資によるもので、私共はこの点アメリカの世話になっている。

鶏と兎の話
 今の人には判らないだろうが、鶏卵は高価(100匁(6個位)で1円82銭(闇価格21円)であり、対するに白米1升が53銭(闇価格70円)であったから(昭和20年10月現在警視庁調べ。「占領の傷跡」80頁)、貴重な食べ物であった。それゆえ、卵1個で飯茶椀2杯分くらいを食うという風に大事にした。
 それならばとばかり、鶏の飼育がはやって近所に鶏を飼う家がいくらもあった。当時弘明寺商店街には毎月3のつく日と8のつく日に縁日(サンパチの縁日)が開かれた。お三の宮日枝神社のそれは1と6のつく日(イチロクの縁日)であり、この2つが近所では賑わっていた。
 例によってであるが、露天商がヒヨコを売っていた。白色レグホンだと言われて買ってくると何だか茶色っぽく育って名古屋コーチン風の雑種だったり、「めす雌だよ」と言われて買ってくるとおす雄だったりして、そのあたりはいい加減であった。
 ともかく狭い庭に金網張りの囲いを作ってトタン屋根を葺いた鶏舎(?)を作って飼った。やがて成長し卵を産むとそれを飯にかけて食う。朝、巣からとってくる産みたて卵は生暖かかった。何羽かいる鶏は鶏同士が何だか家族のようで離ればなれにするのも忍びないが、雄はやがて近所の焼鳥屋へ売りに出されてしまうのである。
 学校帰りに焼鳥屋を覗いて、篭の中によそから売られてきた鶏と一緒にいるのをみると「今日も居た」と安心する。しかし彼はある日突然に居なくなる。潰されてしまったのである。
 親にねだって兎を1羽買ってもらった。これは金網を張った林檎箱に入れて飼った。空襲で、工場だったことを窺わせる煙突が一本立っているだけになってしまった焼野原(いまは蒔田公園になっている)へ時々箱ごと持って出かけた。どういうわけか(進駐軍が種を蒔いたのであろうか)広場一面にクローバーが繁り、焼け跡を隠していた。カーペットのようになったクローバーに寝ころび、兎は放してやる。青空とクローバーと、もぐもぐとこれを食う兎と。それ以外は、兎が真白で片耳が折れていたことしか思い出せない。いまは遙か遠く、こうして書き物にでもしようと思い立ちでもしないと、どこかに行ってしまうような思い出である。

ラジオ
 テレビの本格放映は昭和28年であるから、私の小学校時代はラジオの時代であった。ラジオは真空管を使っていた。「球」と言い、5球スーパーというと真空管が5個ついていて「スーパー」モデルであるということ。「4球」というのが普及品であったような気がするが、いずれにせよ時折フィラメントが切れ、音声が聞こえなくなったりした。
 アナウンサーが「NHK JOAK、こちらはNHK(「東京」とコールが入ったか)第1放送です」というコールサインのあとに周波数まで告げる。第2放送はJOBKで、コールサインは今も同じである。民間放送が始まるのは昭和26年であり、それまではNHKの独占であった。
 天気予報は戦時中放送が禁止され、新聞にも載っていなかった。戦後放送されるようになったが、今のように正確ではなく、「神奈川県、晴れ時々曇り、ところにより俄雨」といった具合。一都六県、千葉県が北部と南部に分けて予報が出された。予報が不確かだったのは、気象観測システムが十分でなかったせいである。B29が気象観測機械を積んで台風の眼へ突っ込んでいったなどの雑誌の記事に、へぇーと驚いた記憶がある。
 「尋ね人の時間」という番組があった。外地で離ればなれになった人などの安否を尋ねるのである。「昭和19年○月頃、牡丹江(満州の地名)で○○部隊におられた○○○○さん、板橋区板橋○○へご連絡下さい。」というように(本当はもっと詳細に)言う。アナウンサーの感情を押し殺した淡々とした語り口が記憶に残っている。あれは何年頃まで続いたろうか。
 昭和20年9月、藤倉修一アナウンサーが全国を中継車で訪ね歩く「街頭録音」(もとは「街頭にて」)が、また「のど自慢」が昭和21年に始まった。「紅白歌合戦」が始まったのは昭和26年である。
 子供向けの放送劇(ラジオドラマ)もよく憶えている。戦争孤児を扱った「鐘の鳴る丘」、幻想時代劇「笛吹童子」、「新諸国物語」、学校モノの「三太物語」「ジロリンタン物語」、武内つなよしの漫画を放送劇化した「赤胴鈴之助」等々。大人向けの菊田一夫作「君の名は」は女性に大人気で、午後8時頃の放送時間には銭湯の女湯がガラ空きになったというのは多少作り話めいているが余りにも有名な話。
 「ラジオ歌謡」というのがあって、ラジオが歌を教えてくれた。
 「麦踏みながら」という題名で、
  山ふところ懐の段々畑 麦踏みながらみた雲は
  あれは浮き雲流れ雲 一うね畝踏んで振り向けば
  風にちぎれて 空ばかり
というのを、お蔭で今も覚えている(昭和27年)。アナウンサーが一小節ずつゆっくり読むので歌詞を書き取ることができる。そして、「それでは通して読んでみましょう」と、一番、二番・・・と読み上げ、次いで歌が入る。朝放送された番組のようで、どういうわけか冬の寒いときに聞いたことのみを憶えている。この番組のことを思い出すと、ついでに家の中の寒さを思い出す。建物は隙間だらけでとにかく冬は寒かった。

「貰い風呂」
 家の中の暖房は火鉢と炬燵(置き炬燵と掘り炬燵があった)で、燃料は木炭のほか煉炭、豆炭、「たどん」などがあった。いずれも一酸化炭素中毒の危険と隣りあわせで、煉炭は屋外である程度燃焼させてガス抜きをしたうえ屋内にしまわなければならない。それを怠ったことによる中毒死が一冬何件か新聞に報じられた。
 私の家には風呂場がついていたことは既述した。風呂場といってもいまの団地サイズ位の浴室スペースに焚き口(そこにしゃがんで薪に火をつける場所)が収容され(気の利いた風呂場は屋外の下屋をつけた焚き口から焚くのだが)、余ったところにやっとスノコが敷いてあったから狭いことこの上ない。
 そんなようであったが、焼け出された親戚や近所の親しい人が「貰い風呂」に来た。詳しいことは忘れたが、貰い風呂に来る人が持参してくる「お持たせ」の焼き芋、ふかし芋を食べながら皆で一緒に談笑した思い出がある。同じ位の年頃の従弟妹たちも交じっていたから、それは楽しかった。蚊取り線香の匂いと共にある、古い記憶である。そういえばかや蚊帳も日常的であった。そこで思い出に駄句を一つ。
  貰ひ風呂芋が馳走の月見かな
お粗末。

界隈の子供たち
 〔第2図〕は私が住んでいた南区中島町2丁目のうち21番~25番あたりの範囲を表わしている。この南北の通りは120~130メートルほどの狭い区画であるが、この狭い範囲に住んでいた私と同じ位の年頃の子供たち(2歳か3歳上下で、名前が判り、遊びに仲間になりうる範囲)を記憶をたよりに図示してみた。こんなに沢山の子供がいたのである。年齢を上下に広くとればもっと大勢の子供が居た。

 このうち小学校の同学年の者は、男児6、女児5であるから、これもかなり多いと言ってよいであろう。
 そのようなわけで誰かが「○○ちゃん、遊ぼうよ」と呼びかければ次々に子供たちは外へ出て集まったものである。断るときは「あ~と~で」と言う。遊び場は別図に網かけした道路(幅員8m弱)と、露地(幅員2m)である。
 露地はともかく道路が遊び場になったというのは一寸信じられないであろうが、戦後昭和30年位までは自動車がこのあたりを滅多に走っていなかった。自動車が払底していたからである。

石ぶつけ
 これも信じられないであろうが、この道路で「石ぶつけ」というのをやった。織田信長の映画などを見ていると吉法師が河原で子供を指揮して、石投げ(石打ち)に興じているシーンをみるが、それと同じようである(多分)。2組に別れて「わーわー」言いながら石を投げ合う。「勝った負けた」はない。飽きると自然にやむという、実に他愛がない。
 もっとも投げる石はほんの小さいもので、当たれば痛いが大怪我をする程ではない。大怪我をする程大きいものは用いない(というよりそこらに無い)。しかし、大きな石でなくとも砂利より大きい位のものはあったのである。何故かといえば戦前施してあった簡易舗装をアメリカ軍が戦後壊してしまったからである。それがいつのことかはっきりしないが、この道路を米軍の装甲車が走ったことがある。アメリカ軍は独立記念日その他何度となく、機会をとらえてはパレード(というかデモンストレーション)を東京や横浜で行っている。そのうちのどれかに参加する機甲車両が中島町のこの道路を一列縦隊をなして通った。この通りだけではない。東に平行している道路は鎌倉街道であり、市電(桜木町←→弘明寺⑩系統)が走っていて、幅も広いからそちらの道路は装甲車だけでなく当然戦車も通ったであろう。
 そのため我が家の前の薄い舗装は装甲車の履帯(キャタピラ)にふみにじられてひとたまりもなく壊れたというわけである。小石には事欠かなかった所以である。時々行われる下水管・ガス管工事による工事も道路をぬかるみにした。

紙芝居」
 〔第2図〕に「病院」とあるその脇の露地の入口あたり(電柱がある)に紙芝居がやって来た。「オペラ」と言った。この名前は何となく判るが、もう1人、露地で二筋ばかり南へ行った角に出る紙芝居の名前は「ペッチャンパイパイ」と、全く意味不明。いや「ドンガラピッチャン」だったという学友もいるが、いずれにしても同様。何とも訳が判らない。「オペラ」の方が年長者で「黄金バット」とか「ライオン丸」を演っていた。「ペッチャン・・・」の方の売りが何という出し物だったか記憶にない。「ペッチャン・・・」の方は自転車でやって来るとすぐ洋楽器の大太鼓(ドラム)を打って到着を知らせる。これをやってみたい子供は何人もいて、やらせてもらうのは順番待ち。子供には大きすぎる太鼓をバンドで肩に掛け「ドンドンドンガラガッタ」と鳴らしながら、露地二本分位を廻って来ると、只で紙芝居を見られるのだったか、水飴だったか、手伝いの褒美をもらえた。子供が寄ってくると水飴を売り、何人か集まると(何人と人数は決まっているわけではない)紙芝居を始めるのである。そしてひとわたり演じ終えると、紙芝居の舞台を自転車の荷台に畳み、どこへともなく走り去る。一寸さみしい瞬間であった。

タガまわし
 道路での遊びに「タガまわし」というのがあった。自転車の車輪からゴムタイヤ、チューブ、スポークをはずすと鉄の輪(輪っぱと言った。それゆえこの遊びは”輪っぱまわし”とも言った)が残る。これがタガ(箍)である(普通は桶を緊束する竹製のものをタガという。これを使った「タガまわし」もありそう)。輪にチューブが入る溝があるが、そこに竹棒をあてがって押すことによって鉄輪を回す。その際、輪の円弧と地面の間に出来る隙間に竹棒をあてがい、タガをやや掬うようにして前へ押すと滑り出し好調。まわりはじめればタガを棒でひっぱたけば勢いがつく。これを駆けっこで相手と速さを競うのである。下手をしてタガがあらぬ方向に素っ飛んで行き、よその家の塀にでもぶつかれば大変。怒声を浴びること必定である。

ドロ巡
 「泥棒巡査」、略して「ドロ巡」という。後にこの遊びは「ドロ警」と言うようになった。「泥棒」と「警察」の謂である。この遊びは集った子供が紅白の2組に分かれ、〔第2図〕に示した電柱の1本を警察署に見立ててゲームを始める。2組のうち、例えば泥棒グループを赤、巡査グループを白とし、紅組がスタートと同時に八方に逃げ散る。百ぐらいを算えた後、白組が捜索に出て「犯人」(紅組全員が犯人である)を捕まえる。何処までを逃走範囲とするかは自ずから決まるのであるが、この潜伏先が問題で、露地に物陰はないから、塀や垣根を越えて他家の敷地に入り込む。それを白組が追う。「犯人」にタッチすれば「逮捕」であり、取っ組み合いをして「公務」の執行を妨害するのは無しである。捕まった「犯人」は警察署に見立てた電柱まで連れて行かれ、電柱にタッチしていることを強いられる。「勾留」という見立てである。次々に逮捕者が白組グループによって連行され、やがて数珠つなぎになる。
 こうして勾留された逮捕者は仲間の救出を待つ。「犯人」側の1人が勾留されている者の誰かにタッチすれば救出が成功し、全員が解き放ちになる。そうならずに紅組の全員が逮捕されればゲームセットとなり、「ドロ」組と「巡査」組とが交代して第2ゲームが始まる。
 塀の裏側に潜む「犯人」がはなみず洟水を啜り上げる音や植え込みの木の枝が摺れる音で発見されたり、このゲームは逃亡する側と追う側との間に一定の緊迫感があり大いに流行した。
 このゲームは勝ち負けがつくまでに時間がかかることは想像いただけると思う。電柱に灯りがつき、そこに蚊柱がたつまで続けていたことを憶えている。しかし何といってもよその家の庭や、塀と建物の隙間に入り込むうえ、巡査側はおしゃべりをしながら捜索するし、逮捕する際「居た居た」とか、「○○ちゃん、捕ったー」とか大声で叫ぶものあり、植木鉢をひっくり返して壊したりするものありで、大騒ぎ。やがて庭に入り込まれた家から学校に文句が付き、このゲームは禁止へと追い込まれるに至った。

母艦水雷
 このゲームは、行われていた地方・地域によってさまざまの遊び方があり、そのネーミングも様々のようである。私が遊んだのは、次のように、「ドロ巡」の亜種である。
 まず紅白2組の艦隊に分かれ、それぞれの艦隊に艦長1名を選定する。艦隊司令という見立てである。その余を母艦と水雷に分かつが、そのそれぞれの人数は適宜とする(大体が半々である)。
 ここからがドロ巡と違って、まず全員が帽子を着用する。学帽でも野球帽でもよいが、ツバ(鍔)がついていなければならない。艦長はツバを顔の正面に、母艦は顔の横に、水雷は後頭部にそれぞれ向けて被る。
 紅・白のそれぞれが電柱1本(学校の屋上でやるときは金網の角など)を確保してこれを基地とし、スタートと同時に全員が散開する。ドロ巡と同じで相手を捕まえるのであるが、それにはルールがある。
 艦長は母艦に勝ち(捕まえることができる)、母艦は水雷に、水雷は艦長にそれぞれ勝つ。つまりジャンケンか、お座敷遊びの「トラトラ」のような勝ち負けを想起していただければよい。そして艦長が捕まえられると、その艦隊は負けとなる。艦長をとらえ得るのは水雷だから、艦長は母艦をまわりに配して水雷を拿捕させようとする。そんな具合だから水雷と母艦の人数とその運用をどうするかについて戦術的な配慮が必要とされたかもしれない。ただし艦長を大事にするの余り、母艦で固めて動かないのではゲームは進まない。そんなことをするチームは敵方によって馬鹿にされる。
 また拿捕された者は、相手方の基地に連行され(連行している最中は敵方は手を出せない)、捕虜として繋がれる。これがゲームの進行によって数珠つなぎになることや、味方の”タッチ”によって解き放ちになるなどは「ドロ巡」と同じである。しかし進行の加減によって、例えば艦長のほかには母艦ばかりが残ったときはどうなるのであったか、はっきり覚えていない。艦長1人が母艦を追いかけまわすというのも図柄としてはウンザリである。引き分けということにしてゲームセットとなるのであったろうか。それとも捕虜にタッチしてゲーム継続になるのだったろうか。

紅梅キャラメル
 私共の年代の子供はたいてい紅梅キャラメルを知っている(もっともこのキャラメルは東京、南関東が商圏であったらしく、他県の方は知らないという)。赤い箱に梅のマークが入っていた。1箱10円で、キャラメルは10粒入っていたかと思う。
 紅梅キャラメルの場合は、キャラメルはともかく、中に入っているカードが売りで、カードは巨人軍(ジャイアンツ)の選手の上半身を描いたブロマイドになっており、子供たちはこれを集めるために必死でキャラメルを買った。「昭和のこども図鑑」を参考にすると、当時巨人軍には次のような選手が活躍していた。
監督・水原、投手・別所、大友、捕手・武宮、一塁・川上、二塁・千葉、三塁・宇野、遊撃・平井、外野・与那嶺、青田、小松原、南村、樋笠、
などである。
 これらのカードには安打(1点)、二塁打(2点)、三塁打(3点)、本塁打(4点)と点数がついており、4点でキャラメル1箱と店頭で引き換えてくれた。本塁打券1枚ならそれで1箱、2塁打券1枚、安打券2枚でも1箱である。キャラメルと引き換えずにこれを何枚も集めると点数に従って商品が貰える仕組みになっていた。
 商品は最下等が赤バット(川上選手のトレードマーク)に切れ込みを鉛筆の芯を差し込んだだけの「シャープペンシル」(似て非なるもの)。最上等はグローブであった記憶だが、手が届かないことが明らかなのではっきり憶えていない。さまざまな景品があり、バリエーションに従って点数が決まっていた。最上等の景品が仮に1,000点だとすると、どれだけのキャラメルを買わなければならないか?
 景品の引換所は吉野町の裏通りにあり、私の場合は偽シャープペンシルかノートか選手のブロマイドを引き換えに行った記憶がある。
 選手カードは名刺より少し小振りで紙質は薄手の名刺くらいである。これを少しそらして机上に置き、掌を内にすぼめて上から叩くと撥ねて掌に吸い寄せられるので、すかさず掌の内に掻い込むようにカードを掌と一緒に素早く移動させる。このとき掌に息を「ハー」と吹きかけ、「ポン」と机を叩くことから「ハーポン」と言った。このカードを相手が出す「賭け札」に乗せる(相手が表を上にしている場合、裏を上にして重ねる)ことに成功するとそのカードをゲットできる。
 「ハーポン」遊びは結局のところ、メンコと同じような遊びであるが、室内で行う。ということは学校の机を使ってゲームをすることもでき、授業の合間にハーポンをやることが流行した。
 上述した札のやりとりの例は、賭け札が1枚のケースを示したが、実際にはトランプのスプレッドのようにカードを展げ、これを賭け札にしてとり合うことが行われた。詳しいことは覚えていないが、スプレッドのどこかに親札を置き、こちら側の賭け札を「ハー」「ポン」と移動させ、表と裏が食っ突いた場合にスプレッドの賭け札全部をゲットできるというものであったから、賭博性が強い。
 そうしたことから学校ではこの遊びを禁遏した。
 紅梅キャラメルを製造・販売していた会社は間もなく倒産したのであろう、泡のように消えてしまった。同じような趣向(「動物合わせ」や「家族合わせ」等)を売りにしていたカバヤ製菓も同じような憂き目にあっている。カードを使った遊びもさることながら、カードを収集して景品と交換する商法も射倖性を煽るというふうにみられ、かかる商品から児童を保護する必要性があるという、いつの世にもいる「良心的大人」の不買運動でもあったのだろうか。

読書
 戦時中から終戦後、紙が不足して出版事情が極度に逼迫したことは周知の通りである。言論統制の暗い時代から言論の自由が新憲法に謳われる時代を迎え、多くの雑誌が雨後の筍のように発行された(これらの雑誌には取材がいい加減なものもあり、こうした雑誌はカストリ雑誌と呼ばれた)。私の家にもそのような雑誌があって、いわゆる「真相はこうだ」と言う手の記事や、風刺マンガがザラ紙もどきの粗悪な紙に印刷された薄っぺらなものであった。
 子供向けにも数々の雑誌が刊行された。私が目にしたものを思いつくままに挙げてみる。もっともこれら全部を私が持っていたということではない。近所の家に上がり込んで見せてもらったものもあり、で様々である。
少年(光文社。手塚治虫「鉄腕アトム」は昭和27年この雑誌に連載開始)、冒険王及び漫画王(秋田書店)、東光少年(東光出版社)、少年画報(少年画報社)、少年少女譚海(博文館。これは既に廃刊になっていたか)、少年倶楽部(講談社・同)、おもしろブック(集英社)、「小学一年生(~6年生)(小学館)、「1年生の学習」(~6年生の学習)(学習研究社)。
 これらの雑誌の特徴の一つは付録であった。綴じ込み付録や小冊子をはじめとし、後楽園スタヂアムの模型とか、「十大付録」などという豪華な号もあった。高学年向けには望遠鏡などもあり、やっと組み立てて片眼をつぶって月を見たところ、辛うじて見えることは見えたが、糊が眼にしみて涙目になったことを憶えている。
 何といってもこの時期は少年・少女漫画の勃興初期であり、いまでも憶えているのは「いがぐり君」(福井英一、柔道モノ)、「ポスト君」(馬場のぼる、学校モノ)、「赤胴鈴之助(武内つなよし、剣術モノ)。後に放送劇化され、子供の頃の吉永小百合が、小百合という名前の鈴之助のガールフレンドとして出演していたと後に聞いたが・・・)などである。

 

Part 4 グッバイ・ダグラス
北鮮軍の進撃

 昭和25年6月25日、朝鮮動乱(後に朝鮮戦争と呼ばれる)が始まったことは既に書いた。北朝鮮軍は北緯38度線を突破して雪崩をうって南へと進撃した。
 この勢いにマッカーサーは開戦2日目、「韓国軍の壊滅が近いものと思われる」旨、統合参謀本部(JCS)に打電し、トルーマン大統領は直ちに「貴官の指揮下にある空海の兵力をもって-ただし38度線の南において-韓国を援助すること」および「第7艦隊を台湾海峡に派遣すること」をマッカーサーに訓令した。第7艦隊の派遣は毛沢東の共産軍と、蒋介石軍の動きの両方を牽制するためのものであった。米議会の決議なしに行われた大統領命令による軍事行動は国連軍の警察行動の名において行われるものとされたが、大統領の戦争権限は如何にあるべきかという今日に連なる問題を含んでいる。
 マッカーサーは6月29日朝、「バターン号」で朝鮮の前線へ飛んだ。バターン号は無武装であり、ソウルの南32キロの水原飛行場でマッカーサーを降ろすと直ちに東京へ戻らなければならなかった。マッカーサー一行は漢江の岸辺に立って炎に包まれるソウルを視察した。マッカーサーは戦況視察を待つまでもなく、バターン号の機上において既に1つの決断をしていた。つまり、トルーマンの訓令を無視して、同乗していたストラトメイヤー空軍司令官に対し、空軍の作戦領域の拡大を命令したのである。ストラトメイヤーからパートリッジへ極秘電として「直ちに北鮮をたたけ。マッカーサーの許可による」旨のメッセージが送られ、29日にはB29が平壌その他北鮮の軍事目標を爆撃した。北爆の知らせを聞いたワシントンは激怒したが、結局は北鮮爆撃の権限を6月30日にマッカーサーに与えた。しかし、現地司令官マッカーサーによる権限踰越をめぐる「抗命」問題はこの北爆をきっかけに始まったのである。
 6月30日には北朝鮮の戦車が南朝鮮の漢江防衛戦を突破し、南へと進撃した。マッカーサーは地上軍の派遣を欲していた。マッカーサーはトルーマンに対し、地上軍の投入を勧告し、大統領は一個連隊の地上軍兵力の投入を許可した。しかし、マッカーサーはこれに従わず、その内心的欲求は一挙に二個師団に膨らんだ。トルーマンの許可は「マッカーサーの指揮下にある兵力を使用する権限」にとどまっていたところ、既述の通りマッカーサーは日本占領のため、第8軍を指揮下に収め、それは第7、第24、第25、第1騎兵の4個師団から編成されていた。しかし第8軍はつとに占領管理のための軍隊に変容していたから、もはや実戦部隊としての十分な能力を欠き、編成装備ともに標準兵力の3分の1以下に縮小していた。マッカーサーはこの部隊を逐次、しかも急速に前線に送り込み陽動作戦によって北鮮軍を牽制したものの、めぼしい戦果は挙がらず、やがてマッカーサーは更なる増派を希望するようになる。
 しかし、第8軍を引き抜いて朝鮮半島に投入することにより日本には軍事的真空が生ずることは言うまでもない。そこで、その真空を埋めるために日本に警察予備隊(陸上自衛隊の前身)の設立を求めたことはよく知られている事実である。

仁川作戦
 7月7日付でマッカーサーは国連軍最高司令官に任命された。これは同日の国連安保理事会の決議に基づき、北鮮における軍事作戦の主導権がアメリカに委ねられたことによるものである。その結果、マッカーサーは国連から白紙委任状を受けたが如く振る舞いはじめる。当初マッカーサーは2個師団を与えられれば、北鮮軍を撃破するに足りると豪語していたが、それは完全に北鮮の戦力を下算したことにもとづく誤りであることがすぐに判ってくる。マッカーサーは国連軍最高司令官に任命された7月7日には、早くも増援部隊の要請を行なっている。トルーマンはさしあたって少なくとも完全装備の5個師団と3個戦車大隊が必要だというこの進言を拒否したが、マッカーサーは通信を寄越すたびに兵力の増加を要求してくると嘆いている。
 8月初旬現在で、朝鮮に投入された米地上軍は既に65,000に達していたが、当時、北鮮軍は破竹の勢いで進撃を進め、国連軍は釜山を中心とする狭い地域に追い込まれ、まもなく第2次大戦中のダンケルクにおける英軍の敗北の如く、日本海に追い落とされる虞れに直面していた。
 これに対し、マッカーサーは仁川逆上陸作戦を企てた。ソウルの西32キロにある仁川港に水陸から2個師団を上陸させ、南方からの第8軍の反撃と合わせて北鮮軍を挟み撃ちするという、日本の戦国時代にその例を求めればいわゆる「中入り」と称された作戦である。敵の戦線が伸びきって補給が不十分となり、かつ戦線に隙間ができたときに楔を打ち込むようにして敵方を二つに分断し、その一を包囲・挟撃しようとするこの種の作戦は、逆に「中入り」を行った側が敵方によって挟撃される危険も孕んでおり、過去における実践例に照らしても成功は殆どないとされる。この作戦計画に対しワシントンは激しく反対したが、結局、JCSは作戦を承認し、マッカーサーは9月15日にこの作戦を敢行し、大成功を収めた。ソウルは回復され、国連軍の支配下に入り、北鮮軍の捕虜総数は上陸作戦後1か月で13万人に達した。
 この作戦による影響は二つの面から観察されうる。一つは逆上陸によって北鮮軍を一挙に壊滅させたということは、単なる警察行動を越えて本格戦争の要素を朝鮮半島の中に持ち込むことになった。いま一つ。マッカーサーの戦略の正しさが実証されたことは彼の心中に「われ過まつことなし」いう危険な信念を一層強固に植え付けることになった。しかしワシントンは仁川作戦の大勝利の結果にひきずられることになり、国連軍は38度線を越えた。戦争の目的は北鮮軍による「侵略の阻止」から「北鮮軍の壊滅」へとコンセプトを変えた。

ウエーキ島会談
 統合参謀本部は国連決議を待たず、9月28日付の指令でマッカーサーに対し北鮮領内における軍事行動を許可した。「貴官の軍事目標は、北鮮軍を壊滅させることにある。この目標を達成するため、貴官が朝鮮の38度線以北で軍事行動をとることを許可する」。
 こう訓令しながら、JCSの指令は他方で「陸海空部隊は如何なる場合にあっても、満州およびソ連と朝鮮との国境を越えてはならない」、「国境に沿う位置においては、韓国軍以外の部隊を使用してはならない」、「38度線の北または南で行う作戦のための支援行動には、満州またはソ連領域に対する空海からの攻撃を含めてはならない」とも命じていた。ワシントンは中共軍の介入を危惧していたのである。しかし、この訓令を遵守することは実に難しいことであった。マッカーサーはこの司令が現地司令官を不当に束縛するものだとし、アメリカは朝鮮で勝つ意思がないのかと訝った。
 10月15日、トルーマン大統領の希望により、太平洋上ウエーキ島でトルーマン=マッカーサー会談が行われた。今日では会談の目的は、大統領(民主党)が翌月の大統領中間選挙を前にして、いまやアメリカ中の英雄であるマッカーサーと親しく会談することによって、野党である共和党からの攻撃をかわし、選挙の結果を有利に導こうと考えたためであったことが通説となっている。
 しかしてマッカーサーがこの会談でみせた、人を人とも思わぬ行状はほとんど常軌を逸していたという。マッカーサーはわざとのように大統領を迎えに出ない。漸く現れた現地司令官は大統領に敬礼もせず、やおら大袈裟な身振りで握手を求める有様であり、トルーマンはこの非礼に対しマッカーサーを怒鳴りつける。「君がハリー・トルーマンという男をどんな風に考えているか、そんなことは私の知ったことじゃない。だがね、君の最高司令官を待たせるようなことは二度とするな、わかったか」(注11)
 結局ウエーキ島会談の「成果」は大統領(即ち最高司令官)が現地司令官に対する不信の念をいっそう強め、現地司令官が最高司令官に対して持っていた、もともと少ない尊敬の念を霧散させてしまったということであった。両者の破局は時間の問題となった。
 この会談でマッカーサーはトルーマンに対し中共軍の介入はないと言明したが、その同じ頃、朝鮮と満州を隔てる鴨緑江の岸には、中国人民解放軍が続々と結集していた。
 10月14日、マッカーサーは麾下の全軍に対し「全速力を以て」鮮満国境に進撃すべし、と命令した。マッカーサーは彭徳懐指揮下の18万の中国「義勇」軍が北鮮領内で満を持して待ちかまえていることを全く知らなかったのであった。

マッカーサーの越権行為
 ワシントンは10月31日中共軍の介入を知った。統合参謀本部の要求にこたえて、マッカーサーが11月4日に提出した「最新の状況判断」は「いまただちに、北鮮への中共介入の現実性について、正確な判断を下すことは不可能である。…私は性急に結論を出すことに反対する。もう少し軍事上の事実を収集検討した上、最後の判断を下すべきであると思う」と。不意打ちに対する驚きにもとづいたのか、中共軍の行動意図に対する誤判断に基づいたのであろうか、かかる判断は不適切であった。それからわずか2日経った11月6日、マッカーサーは鴨緑江に架かっている新義州-安東を結ぶ橋梁を爆撃することを要請してくる。
 中間選挙の前日に出されたこの要求を拒否することは難しいと政治判断したトルーマンはこの要請を認めるが、「橋梁のうち北朝鮮側の部分に限る」という履行困難な条件を付けた。
 11月24日、マッカーサーは第8軍を以て主攻勢を開始した。しかしマッカーサーが「戦争を終結に導くための全面的攻勢」と呼んだこの作戦は、林彪の率いる中共軍の大兵力の中にむざむざ飛び込むに等しかった。マッカーサーの軍隊がこれまでに経験したことのない、寒さとの戦いが状況をいっそう悪化させた。第8軍はアメリカの陸軍史上最大と言われる敗北を喫し、38度線の南へ敗走した。
 しかし国連軍は中共軍の補給線が伸びるにつれて前線の戦力が低下するところをとらえて押し返し、3月中旬にはソウルを奪還し、38度線に達することができ、以後、一進一退の状態となった。
 3月20日、JCSは国連軍が中共軍を38度線を越えて押し返したので、停戦協議のためのチャンスが生まれたと判断し、マッカーサーに対し、国連は朝鮮における紛争終結の条件を討議する用意がある旨の、大統領声明を国務省において考慮中であると通告した。

解任
 しかるに、マッカーサーはこれを無視して、3月24日にそれと全く反対する自分自身の声明を発表した。
 その声明とは「国連軍が敵の沿岸地域や領土内の軍地基地まで軍事作戦を拡大することを決定したならば、中共は即刻軍事的な崩壊の危機に追い込まれるであろうということを骨身に徹して知らなければならない」とか「私は軍司令官としての権限において、各国の間で意見の対立があり得ない朝鮮における国連の政治的目的を、これ以上の流血を見ることなしに達成する等、軍事的手段を発見するために心からの努力を続けるものであって」、戦場において中共軍総司令官と会見する用意がある、とする声明であった。
 参謀本部が停戦の工作を準備しているのを知りながら、マッカーサーが出したこの声明は、アメリカの外交方針が2つに分裂していることを示す以外の何ものでもなかった。
 トルーマンのマッカーサーへの怒りは益々膨らみ解任の決心は強いものとなったが、ダメ押しのように別の越権行為が表面化した。それは中共軍との戦いに台湾の国民政府軍を利用したらどうか、との共和党下院議員(院内総務)ジョセフ・マーチンの提案に賛意を表す返信を、当のマーチン議員が下院の議場で読み上げたのである。マッカーサーはこの手紙の中で共産主義に対する勝利を唱えたが、かかる勝利のためには中国の都市の爆撃、そして中国全土に戦闘を拡大する恐れ、要するに第3次世界大戦の覚悟を必要とした。こうして大統領の反対勢力である共和党の大物と組んでアメリカ外交における対案を挙げることは最高司令官に対する公然たる抗命である。トルーマンは昭和26年4月1日遂にマッカーサーを解任し、上院は4月15日その承認決議を行った。
 後任はマシュー・リッジウェイに決まった。リッジウェイは中共軍により大敗走させられた第8軍の司令官ウォーカー中将が昭和25年12月、交通事故死したあとを受けて大将に進級し、第8軍司令官に任ぜられていた。そしてマッカーサーが国連最高司令官を解任されると直ちに戦闘服のまま後任として着任した。
 4月16日早朝マッカーサーはジーン夫人、子息のアーサー、ホイットニー少将ら側近8人がアメリカ大使館を出発し、京浜国道を羽田空港に向かった。沿道には星条旗と日の丸を両手に持った都民がギッシリと立ち並んで一行を見送った。「ニューヨーク・タイムズ」は「マッカーサー元帥は日本国民にとって恐るべき征服者としてその土を踏んだが、帰国に当っては敗戦国民の愛情の嵐を巻き起こすという史上まれな情景を展開させた」と報じた。
 羽田空港に駐機する「バターン」号の前で簡単な歓送式が行われた。後任のリッジウェイ最高司令官はじめ各国代表・高官、日本側からは天皇の名代として三谷侍従長、政府からは吉田首相ら閣僚が並立し、礼砲が放たれる中、マッカーサーは見送りの一人一人と握手を交わし、バターン号に乗り込んだ。7時23分、バターン号は滑走を始めた。元帥にとって15年ぶりの帰米であった。
 リッジウェイ連合国軍最高司令官の重要な任務は連合国の占領下にあった日本を独立させて西側陣営の一員に加えることであった。リッジウェイは吉田茂首相と協調することによってこの課題を達成し、昭和27年4月にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領が解除された。
 その年9月、サンフランシスコのオペラハウスで開かれた対日講和会議にトルーマンはマッカーサーを代表はおろかゲストの列に加えることもしなかった。その頃マッカーサーは全米を演説してまわりながら、翌年の大統領選挙への出馬を策していた(もっともかかる企ては高齢のため断念せざるを得なかった)。
 マッカーサー元帥は昭和39年3月6日死去する。84歳であった。

 

あとがき
 米軍による占領下における横浜のことを書こうという意図に従って、Part2のあたりから書き始めたのであるが、本稿をお読み下さる若い方にとっては日本占領という状況がどのような経過で現実のものとなったのかよくわからないのではあるまいか。そのような心配から日本占領の経過に関する資料を整理し書き足し始めてみた。
 ところが、日頃から資料をしっかりと整理しているわけでもないゆえこれがなかなか厄介で、かつ当時の国家組織・制度、軍事用語や兵器に関する用語など片端から注釈をつけなければならない誘惑にかられもしたし、今では使われていない言葉も多いところ、これを平易な言葉使いにするのも案外に難しく、できるだけ工夫をしたつもりではあるものの判りにくさは避けられないと思う。ご海容いただきたいところである。
 私にとって小学校の時代がアメリカによる占領の時代と重なる。そのような事情がきっと私のアメリカに対する見方を規定していると思う。
 私のアメリカに対する感情はかなり複雑である。日本の主要都市の90以上が爆撃され、焼失戸数236万以上、罹災者は804万5000人を越える。日本中が徹底的な無差別爆撃によって焼き払われたのである。非戦闘員を殺戮したアメリカの対日戦略爆撃(原爆投下を含む)は国際法に違反する。その意味ではアメリカのその部分を許そうとは思わない。
 しかし、その反面、占領中および講和後においていやおうなく示されたアメリカの豊かさ、軽躁にわたる程の自由・闊達さは、決してその全部が不愉快なものではなかった。後になって日本が手に入れるようになる空調設備(チック=ヤング『ブロンディ』という漫画が新聞に連載されて間接的に知った)などはアメリカの豊かさの象徴であり、ディズニーの映画『バンビ』は美しさの象徴であった。
 しかしこうした素朴なアメリカに対する憧憬とは別に、さらに感情は反転する。アメリカが信奉する「正義」やアメリカ型民主主義体制の過度にわたる押しつけとか、アメリカ式の法制度・会計制度など諸制度を世界中にバラ撒くアメリカの無神経さには抵抗感を覚える者の一人である。このように私にとってアメリカという国は、アンビバレントな感情が整理されていないまま、未だに心の中に残っている対象である。
 しかしなにはともあれ、戦後70年、日本はアメリカの強い影響力の下に世界史的な地位を占めてきた。もしこれがアメリカ以外の国家による占領ないし強い影響力の下におかれたとすれば、いかがであったろうか。そう考えると、消去法的に言えばアメリカとの付き合いを無礙に否定することはできない。ただ、今のような対米従属の姿勢を未来永劫にとり続けて行くかどうかは別の問題で、ただ漫然と米国との同盟をいまのまま続けていけばよいという単純な考え方にはついていけない。
 私の幼少期におけるアメリカ占領の経験は、かくの如く対米観を複雑にしているのであるが、さりとてどうしようもない。
 本稿は上記のような執筆の経緯から全く別の書き物を無理矢理合体したような体裁になって、木に竹を継いだようになった。これが妙であることは十分判っているが、国際情勢を鷹の目で観察し、一方では地上を歩く駝鳥の目を持って敗戦の結果を観察したという風に理解していただければ、それなりにお読みいただけると思う。ご批判を得られれば幸いこれにすぐるものはない。

 


(注1) ポツダム宣言
 13項目からなり、7月26日に米英華の3国(当初はソ連は入っていない)の名で出された対日降伏勧告。第1~5項は該宣言発出にいたる3国の決意乃至経緯の記述である。
6項 日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出ずるという過誤を犯させしめたる権力、勢力の除去。
7項 日本国の戦争遂行能力が破砕されるまでの間における日本の占領。
8項 カイロ宣言(日本が日清戦争以降に獲得した領土の奪還)の履行。日本の主権範囲を本州、北海道、九州、四国及び小諸島へ局限。
9項 日本国軍隊の武装解除と家庭への復帰。
10項 戦争犯罪人に対する処罰。民主主義的傾向の復活強化に対する障礙の除去。言論、宗教、思想の自由並びに基本的人権の尊重の確立。
11項 日本国による産業の維持、世界貿易への参加の許容(但し再軍備をなさしむる産業を除く)。
12項 日本国民の自由に表明する意思に従い、平和的傾向を有し責任ある政府が確立せられたときにおける連合国の占領軍の撤退。
ところでポツダム宣言によって日本が無条件降伏したことは明らかであるとする考え方が通説になっている。しかし、ポツダム宣言に「無条件降伏」という文言は第13項にのみ見られ、他の箇所には規定されていない。第13項は次の通りである。
13項 吾等は、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動に於ける同政府の誠意に付き、適当かつ十分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。
上記の通り無条件降伏の主体はすべての「日本国軍隊」であり、全く連合国の言いなりにならなければならないという意味で日本国が「無条件降伏」をしたのではない。日本国が無条件降伏をしたというのは、ポツダム宣言を枉げるアメリカ国務省を中心とした意図的な仮構である(江藤編「占領史録(下)775頁以下)。
(注2)「大陸令」とは大本営陸軍部命令の略称、「大海令」とは同海軍部命令の略称である。
(注3)「奉勅伝宣」とは陸海軍を統率する天皇から直接下される命令の伝達形式のことである。
(注4) 降伏文書の内容は要旨下記の通りであった。
ポツダム宣言の受諾。
日本国軍隊の連合国に対する無条件降伏。
日本国軍隊による敵対行動の終止。
日本国軍隊の指揮官による隷下部隊に対する無条件降伏の命令。
一切の官庁等の職員による連合国最高司令官の命令の遵守及び非戦闘任務の継続。
ポツダム宣言の誠実なる履行。
連合国俘虜及び抑留者の解放。
天皇及び日本国政府の国家統治の権限が連合国司令官の制限に置かれるべきこと。
ここにおいても無条件降伏する主体は日本国軍隊とされている。
(注5) 陸海軍一般命令の第1号は、日本軍の戦闘停止と武装解除を命ずると共に、外地における日本軍の降伏相手国を規定し軍隊の展開、軍事施設、捕虜、被抑留者に関する情報の提供を要求していた。
(注6) PXとはPost Exchangeの略で占領軍将兵のために設けられたショッピングセンターのことである。日本人は立ち入りが禁じられ、占領軍将兵及びその家族のみが利用できた。
(注7) ゾッキ本とは、出版社や流通での在庫がだぶついているなどの理由で、見切り品として捨て値で売られる本のこと。また、出版社が倒産して在庫が流出した場合にもこの言葉が使われる。
(注8) ジープ(Jeep)の正式名称は「トラック・1/4t 万能車」と言い、米軍によって汎用された車である。昭和15年(1940年)の春から米陸軍の要請で開発され、7月には試作車が作られて以後フォード社外数社の大量生産ラインに乗り、ヨーロッパ及び太平洋戦線に配給され、戦争が終わるまで実に640,000輌が生産された(なんと1日当たり520輌!)。連絡、輸送、偵察はもとより、機銃を装備して攻撃にも用いられる万能車であった。戦後日本の警察車両としても用いられた。イラスト画はオープン車になっているが、必要に応じ幌をかけることができた。
(注9) ガムはリグレー(Wrigley)、チョコレートはハーシー(Hershey)であり、前者はシカゴに本社があり、後年日弁連の用事で同地を訪れたとき、本社社屋を遠くから望見して懐旧の念に耽った。後者は米軍の軍用チョコレートメーカー。そのせいか?とても苦かった。
(注10) アジア救済委員会(LARA:Licensed Agencies for Relief in Asia)とは、1946年6月にアメリカ合衆国救済統制委員会が設立を認可した日本向け援助団体であり、LARAの提供する援助物資は「ララ物資」と呼ばれていた。第1便は昭和21年11月30日に横浜に到着し、昭和27年に終了した。
(注11) 大統領は合衆国軍の最高司令官であることについて合衆国憲法第2節は次の通り定める。
Article Ⅱ Section 2 大統領は、合衆国の陸海軍及び合衆国の軍務に就くため召集された各州の民兵の最高司令官(Commander-in-Chief)である。
またSection 2 [2]は「・・・また大統領は、大使、その他の外交使節及び領事、最高裁判所判事、並びに本憲法にその任命に関する特別の規定がなく、また法律によって設置される他のすべての合衆国公務員を指名し、上院の助言と同意を得て、これを任命する。」と定めており、この規定から罷免も当然大統領の権限に含まれると解されている。

 

<参考文献>
江藤淳編「占領史録」(上)(下)(講談社学術文庫1184)講談社、1995
服部一馬、斉藤秀夫「占領の傷跡―第二次大戦と横浜」(有隣堂新書20)㈱有隣堂、1983
三根生久大「記録写真 終戦直後」(上)(下)(カッパブックスB-309)光文社、1974
ワールドフォトプレス編「東京占領1945」(ミリタリーイラストレイテッド13)光文社、1985
毎日新聞社編「日本がいちばん苦しかったとき―21世紀への伝言」毎日新聞社、2001
半藤一利編・著「敗戦国ニッポンの記録」アーカイブス出版、2007
三野正洋「改善のススメ―戦争から学ぶ勝利の秘訣24条」(新潮OH!文庫)新潮社、2000
太平洋戦争研究会編「日本帝国の最期」新人物往来社、2003
リチャード・ウインドロー(三島瑞穂監訳・北島護訳)「第2次大戦米軍軍装ガイド」並木書房、1995
高橋晃「日記『学舎・1982・夏』―横浜市立大岡小学校旧校舎写真集」(同写真集を作る会)1995
奥成達「昭和こども図鑑―20代、30代、40代の昭和こども誌」ポプラ社、2001
柚井林二郎「マッカーサーの二千日」(中公文庫)中央公論社1976
<挿画>高橋亜希子(1Div.)