GHQ CLUB. あの日あなたは何をしていましたか? あなたにとってGHQとは?

HOME > 地方占領期調査報告 > 各地域の占領期についての調査報告書 Report.9

地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT各地方自治体へのアンケート調査を報告します

 GHQクラブでは、2016年7月に、地方自治体(広報部門)を対象に、「占領期」(1945~52年、沖縄は72年まで)についてアンケート調査を行いました。また、2013年11月には数カ所に予備調査を行っています。調査結果は、それらをまとめて行います。
 それらの回答が一応、終了しましたので、その結果を、このGHQクラブホームページで順次、公表させていただきます。皆さまの「占領期研究」に資することが出来れば、幸いです。

report

 

地方占領期調査報告(9)静岡県・岐阜県
 静岡県中央図書館の回答――

  • 「ナトコ映画」について
    1 静岡県中央図書館(葵文庫)発行資料
    『静岡県立中央図書館報 葵5号』(p28 – 31 に葵文庫創設期からの視聴覚活動についての記述がある。その中に「ナトコ映画時代の幕開け」と題して詳細な記述がある。)
    『静岡県立中央図書館葵文庫報 葵』掲載関係号

    • 『同1号(№1)』(p2に日米文化センターの記事があり。P8にU・S・I・S番号のフィルムが40点紹介されている。)
    • 『同2号』(p9 に静岡日米文化センターの記述があり、センターでは映画フィルムを約300本所蔵していることが記述されている。)
    • 『同4号』(p8―9にナトコ16ミリ映写機台数やUSISフィルムの本数などの記述がある。また、裏表紙には16ミリ映写機(ナトコ)技術者養成講習会が県内各地で行われた記述がある。)
    • 『同5号』(裏表紙記述からUSIS映画会が行なわれていたことがわかる。)
    • 『同6号』(p6 に視聴覚資料利用実態の記述があり、USIS映画についても若干の記述がある。)
    • 『同8号』(p6 に直接ナトコ映画には関係ないが、アメリカ教育文化研究会(事務局日米文化センター)の記述がある。)
    • 『同20号』(p12 にナトコ映画とは書かれていないが、静岡県視聴覚教材の利用統計(昭和37~昭和42)が紹介されている。)
      『事務事業の概要』静岡県立中央図書館葵文庫/編、掲載関係号
    • 『同1964年』(p6-8 にナトコ機材数やUSISフィルム数、貸出本数が紹介されている。)
    • 『同 昭和40年』(p7-8 にナトコ機材数が紹介されている。フィルムの数や貸出本数があるが、1964年のようにUSISフィルムとは記述されていない。)
    • 『同 昭和41年』(p8-9 には昭和40年の記述と同じ内容あり。)
    • 『同 昭和42年』(p7-8 には昭和40年の記述と同じ内容あり。)
    2 静岡県教育委員会発行資料
    『静岡県教育史 通史篇 下巻』静岡県立教育研修所/編、静岡県教育史刊行会、1973年
    (p468 に「3戦後の地方文化、文化活動の勃興」と題してCIE図書館やUSISフィルムが後に視聴覚ライブラリーの基礎となったことが数行書かれている。同じくp606に「軍政から社会教育法の成立へ」と題して数行記述がある。)
    『静岡県の教育 昭和25年度』静岡県教育委員会/編、静岡県教育委員会、1951年
    (p213-218 に「視聴覚教育」の現状として、ナトコ映写機などを使っての活動や諸問題、p48,49 にはCIEフィルムの分類ごとの本数、鑑賞者数、ナトコ操作技師数の統計数字が紹介されている。)
    『静岡県教育年報 昭和26年度』静岡県教育委員会/編、静岡県教育委員会、1952年
    (p30にナトコ含め映写機配置図やフィルムの上映回数・観客者数、他にフィルムの保存状況や離島への機材搬入状況の写真が紹介されている。)同じく『同 昭和27年度』p35-36にナトコ映写機技術者数のほかナトコ技術講習会風景、ずらりと並んだナトコ映写機、フィルム戸棚、フィルム視聴風景の写真が紹介されている。)
    『視聴覚教育指導者名簿 昭和27年度 ナトコ映写機操作技術者』静岡県教育委員会/編、静岡県視聴覚教育協会、1953年
    (全57頁の内容は、静岡県教育委員会視聴覚教育関係者名簿、視聴覚教育指導者数の地区別人数、ナトコ映写機主任技術者名簿、地区別免許所有者名簿(含む免許更新年度)が紹介されている。)
    3 市・町史、その他の資料
     市町発行の市・町史、教育史などにも掲載されている可能性はありますが、本館の蔵書検索システムで「ナトコ」をキーワードに検索した結果を紹介します。
    『小山町史 第5巻 近現代資料編2』小山町史編さん専門委員会/編、1995年
    (p630 に「ナトコ映写機による成人教育の奨励」通知文書あり。)
    『小山町史 第8巻 近現代通史編』小山町史編さん専門委員会/編、1998年
    (p834 に「初期公民館とナトコ映画」記述あり。)
    『裾野市史 第5巻 資料編』裾野市史編さん専門委員会/編、1999年
    (p630,631 に「ナトコ映画フィルムの自由貸出について」の通知文書あり。)
    『遷喬 稲小百年のあゆみ』稲小百年史編さん会/編、稲小百年史編さん会[東伊豆町]、1980年
    (p393 に、「ナトコ映画とタンポポ劇団」として当時の様子が数行記述されている。)

 

 岐阜県図書館の回答(2013年11月)――

  •  岐阜県内における進駐軍による施設・住宅の接収について、その実態を示す地図やリストですが、残念ながら接収の実態のわかるリストや地図は所蔵しません。ただ以下の文献を紹介します。
    ■「進駐軍の残した軌跡」1-3 桂井恒安著(『岐阜県歴史資料館報』第4号-第6号〈岐阜県歴史資料館編・刊、1981-1983〉所収)
    (進駐軍に関連する出来事を昭和20年から昭和24年10月までの期間について、年表形式でまとめています。「総司令部関係及び主なできごと」と「岐阜県関係」の2つに分けて列記しており、後者には、県内のどの場所にいつ進駐したかがわかる記述も見られます。例えば、昭和20年10月28日にはレンドマン大佐以下3000名が進駐し、「那加の元飛行連隊教育隊に駐屯、長良ホテル(将校クラブ)岐阜養蚕試験場(下士官クラブ)51飛行師団兵舎(岐阜軍政部宿舎)岐阜市役所加納出張所(CIC事務所)等次々接収。」といった記述があります。)
    ■「岐阜地区の進駐軍輸送の実態を探る」前編・後編 渡利正彦著(『鉄道ピクトリアル』2011年5,6月号〈電気車研究会刊〉所収)
    (終戦直後の占領輸送から朝鮮戦争関連の輸送まで、進駐軍輸送関連の変遷をまとめたものです。「岐阜地区進駐軍輸送関連の変遷略年表」(『鉄道ピクトリアル』2011年5月号)、「岐阜地区進駐軍輸送に関する年表」(同6月号)などにその変遷が分かりやすくまとめられています。後者には、「進駐軍の動き」「岐阜駐留部隊」「名鉄各務原線を走った車両」について、それぞれの変遷が図示されています。「岐阜駐留部隊」の欄には、1945年10月28日に約3000名が駐留、その後も1947年(約3000名)、1950年(約1500名)、1951年(人数記述なし)、1953年(約8000名)に部隊や師団等が駐留したことが示されています。
     このほか、以下の資料にも若干の記述がありましたが、いずれも断片的なものです。
    ■『岐阜県史 通史編 現代』岐阜県編、大衆書房、1987年刊
    (第1章 政治 第1節 終戦と民主化 占領軍の進駐――岐阜県では進駐軍受入れ連絡事務所を県庁内に設置し、兵舎には各務原の元飛行第1,2連隊や航空廠等の建物を修築して利用したほか、士官官舎に長良川ホテル(岐阜市)を用意したとの記述があります。)
    ■『那加町史』小林義徳著・刊、1964年刊
    (第5編 近代・現代社会 第25章 那加町の発展 第1節 敗戦から独立の年まで 終戦と占領軍の那加進駐――1945年10月に占領軍が各務原基地へ進駐することが決まった後、清掃をするために多数の町民(男性)が動員されたとの記述があります。また「基地那加」の項等には、基地周辺の治安の悪化等にふれています。)
    ■『各務原市史 通史編近世・近代・現代』各務原市教育委員会編・刊、1987年
    (第9章 市政の展開 第2節 米軍の進駐――米軍の各務原市那加基地への進駐の記述がありますが、接収された施設・住宅の等の記述はありませんでした。なお、『各務原市史 史料編近代・現代』(各務原市教育委員会編・刊、1986年)のp503-513には、米軍の進駐に関連した新聞記事が掲載されています。)
    ■『新鵜沼の歴史』梅田薫著、鵜沼歴史研究会、2011年刊
    (「戦後の各務原」の項に各務原飛行場に米進駐軍が進駐してきた頃の記述があります。P346 には「鵜沼町では後藤別荘、城山、犬山城の東側カントリークラブ(現・犬山ホテルの場所)に進駐してきた。……昭和20年の進駐軍43万人のうち、11万人がキャンプ岐阜に進駐して来た」という記述もあります。)
    お問い合わせ先は、以下の通り。
     岐阜県図書館 サービス課
     〒500-8368岐阜市宇佐4-2-1
     TEL:058-275-5111 fax:058-275-5115