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COLUMN「東京會舘いまむかし」-1
- VOL.3
- 小川 真理生さん
ここでは、「東京會舘社史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第3回 「東京會舘いまむかし」(1)
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第3回 「東京會舘いまむかし」(1)
丸の内界隈で空襲で生き残った建物は、第一生命館以外にも、東京會館がある。そこの社史を見てみよう。まずは、「第四章 戦時下で揺れ動く東京會館」はどう記述されているか。
「大政翼賛会による徴用と解除
昭和初期の再建から十年代初頭まで、順調に進展してきた東京會館は、十年代に入って戦時体制が強まるのに伴って、再び大きく揺れ動いた。
昭和十一年二月二十六日のいわゆる二・二六事件を契機として、日本の社会は軍部の発言力が増し、社会生活のあらゆる面で統制が厳しくなった。また、中国大陸への進出にともなう外交問題の行き詰まりから、日本は、世界の中で孤立化を深め、一気に戦時挙国体制へ突入していった。
そうした時流は、国民各層への文化・風俗の統制に及び、昭和十二年十月の国民精神総動員中央連盟の発足、翌十三年四月の国家総動員法の公布に至って、女性のパーマネント禁止、欧米の音楽・文学・演劇・スポーツへの抑圧となって現れた。
こうした世相の荒波は、東京會館にも容赦なく押し寄せてきた。
それはまず、建物の金属部品の撤収という形で現れた。昭和十四年五月、政府は、全国的に鉄製品の回収運動に乗り出した。不要不急の鉄製品を回収して、兵器その他の資源として再活用するためである。
東京會館でも、正面玄関に張り出した庇を支える四本の鉄製の支柱が取りはずされた。さらに二階のお濠側に突き出たベランダの手すりも取りはずして供出した。
翌十五年になると、建物自体が戦時挙国体制の中に取り込まれた。すなわち、この年の十月に結成された大政翼賛会の庁舎として、十二月に全面的に徴用されたのである。実際には、建物を大政翼賛会に引き渡す十日前の十一月二十日で、営業停止となっていた。
帝国劇場も、その年の十月には、やはり内閣情報局の庁舎として徴用されていた。時を同じくして、東京・丸の内のシンボルの一つであった劇場や国際社交場といった文化施設が姿を消したのである。
当時の東京會館
関東大震災、世界経済恐慌という荒波を乗り越えて発展してきた東京會館も、ついにその営業を中断することになる。従業員たちは、生活のすべてを賭けて働いてきた職場に未練を残しながら、帝国ホテルに引き上げた。
なお、昭和十五年当時の東京會館の持ち主は、東京宝塚劇場である。したがって大政翼賛会と東京宝塚劇場の間で建物の賃貸契約が結ばれたが、その結果、帝国劇場と帝国ホテルとの間で結ばれた、東京會館の営業委託契約は、一年四ヵ月の期間を残して解消された。
東京會館が徴用されてほぼ一年後の昭和十六年十二月八日、日本は米英に対して宣戦を布告した。いわゆる太平洋戦争の勃発である。以後日本は、暗い戦争の時代に入る。
戦争が始まってしばらくの間、戦局は日本の有利に展開した。こうした状況を反映して昭和十七年一月二十五日、東京會館の建物が急遽徴用解除になり、一年二ヵ月ぶりに返還された。
(一年以上、大政翼賛会の庁舎として使用されていたため、宴会・料理を提供する機能を失っていた東京會館は、改装工事に取り掛かった。その間、以下のような大きな変化が進行していた)
東京會館を『大東亜会館と名称を変更せよという指示が、内閣情報局からもたらされたのである。
東京會館だけでなく、当時は多くの企業が戦争遂行のイデオロギーを象徴するような名称に変えられていった。『大東亜共栄圏の建設』という国家目的に沿って、世界に誇る国際社交場である東京會館に”大東亜”の冠をつけたいという政府の意図から出たものであったが、そのことは、とりも直さず、国際水準の社交場として東京會館が認められていたということでもある。
(こうして昭和十七年五月十七日に、「大東亜会館」の名のもとに営業を再開している)
大東亜会館の開館とともに、一時、帝国ホテルに移っていた従業員が、帝国ホテルを退職して続々と古巣に戻ってきた。(略)
……戦局の悪化する中で、大東亜会館の運営は極めて順調に進展していた。米をはじめほとんどの食糧品は配給制となっていたが、昭和十八年頃はまだ少しばかりのゆとりがあり、宴会料理の材料は不十分ながら確保できた。
その前後、大東亜会館では、軍関係の宴会が多かった。そのため大東亜会館には料理等の材料も配給され、従来までの東京會館の実績に対する特別割当配給もあった。大東亜会館には、こうした戦時下にあっても、かなりの宴会ができる態勢があった。また、結婚披露宴については、会館の用意する料理のほかに牛肉や酒などの持ち込みもあり、立派な宴会を維持することができた。そうした状況だったので、食糧不足に悩む人たちにとって、大東亜会館は一つの大きなオアシスであった。
東京會館が徴用を解かれた二ヵ月後の昭和十七年三月二十日、帝国劇場も徴用が解除され、東京宝塚劇場に返還されている。帝国劇場は、松竹との賃貸契約が終わるのを待っていたかのように徴用されていた。返還を受けた帝国劇場は、三日後の三月二十三日には、芝居の上演を開始した。松竹時代、ほとんど映画館として利用されていた帝国劇場にも、ようやく本来の芝居が帰ってきたのである。
[東京宝塚劇場と東宝映画の合併]昭和十八年十二月十日、この日開かれた東京宝塚劇場の臨時株主総会で、東京宝塚劇場は東宝映画との合併を決議した。挙国一致体制の確立という政府方針のもとに企業の合併・合同が協力に推進され、東京宝塚劇場もそうした方針に沿って合併に向かったものである。
これは両社の対等合併で、新会社の資本金は、東京宝塚劇場の六九二万円と東宝映画の四五〇万円を合わせて一一四二万円となり、新会社名を東宝株式会社とした。
新会社の役員は、取締役会長に渋沢秀雄、取締役社長に大澤善夫、取締役副社長に秦豊吉、大橋武雄、田辺加多丸、常務取締役に増田麟、那波光正、森岩雄、風間健治、中㑨正男、岡庄五、そして取締役には林正之助ら五人が就任した。
だが、この合併は、大東亜会館の運営にはほとんど影響がなく、東宝副社長の田辺の指揮下で、従来どおりの営業が続けて行われた。
ただし、営業内容は、ますます悪化する戦時下経済を反映して大きく変わらざるを得なかった。
食糧事情は悪かったが、当時の仕入部門は物資の調達がうまく、乾燥卵、食用蛙等を手に入れていた。カレーライスには、千葉県佐倉の農場で養殖していた食用蛙の肉を使い、イルカの肉を工夫したカツレツを提供するなどして人気を得ていた。特にプルニエは、お濠側の入口に長い行列ができるほどだった。また、阪急から来た、当時の調理顧問・杉本甚之助は、ジャガイモを使って“宝米”という白米風のものを作り、これも人気があった。
戦争が長引くにつれ、男子従業員は次々と召集され、大東亜会館は、女子従業員中心の営業を強いられたが、そんな中で軍・官・公共団体の会合(各統制会など)の出張宴会が目白押しだった。
[東京都庁に徴用]昭和十九年の暮になると、首都東京にもアメリカのB29爆撃機が大挙して来襲し、焼夷弾の雨を降らせた。たび重なる首都空襲に、女子従業員も、もっぱら防火作業に追われた。そして昭和二十年三月十日、今までにない大空襲が東京の大半を焼き尽くした。
幸い、大東亜会館は焼失をまぬがれた。だが、同じ日、庁舎を失った東京都は、ただちに焼け残った大東亜会館の、一階と五階を除く建物を徴用し、仮の庁舎とした。二階に経済局、三階に長官室と都議会、四階には教育局がそれぞれ置かれた。
大東亜会館は、再開後わずか一年十ヵ月で再度、営業中止のやむなきに至った。一階のグリルと五階の宴会場、喫茶室、地階の中華食堂だわずかに残されたが、會館としての機能は、ほとんど失われたも同然であった。
それから五ヵ月後の昭和二十年八月十五日、日本は連合国に対して無条件降伏をした。長い戦争の時代は、ようやくにして幕を閉じた」(つづく)
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー