コラム社史より 「日本交通公社七〇年史」」その1 Vol.69 小川 真理生さん | GHQ.club

GHQ CLUB. あの日あなたは何をしていましたか? あなたにとってGHQとは?

HOME > コラム > コラム社史より 「日本交通公社七〇年史」」その1 
 Vol.69 小川 真理生さん

「日本交通公社七〇年史」

COLUMN「日本交通公社七〇年史」その1

VOL.69
小川 真理生さん

ここでは、「日本交通公社七〇年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第69回「日本交通公社七〇年史」その1

article

 この社史の戦後編から、「第一期 日本交通公社として再出発(昭和二十年代)」を見ていきます。まず冒頭の「この時代の社業のあらまし〈昭和二十年代〉」を紹介します。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本のポツダム宣言受諾により、長い戦争の幕はおりた。
 終戦とともに、外地のすべての事務所を失った社は、同年九月一日早くも東亜交通公社の名称を、財団法人日本交通公社(JAPAN TRAVEL BUREAU)と変更して、再出発への活動を開始する。
 “国破れて山河あり”のたとえのとおり、観光事業こそ戦後の復興に大きな役割を果たすべきであるとする経営陣の達見により、いち早く社内体制を整えた。当面、進駐軍のあっ旋、大陸や南方地域からの復員軍人や一般邦人の引揚輸送あっ旋の大半を社が引受けたほか、当時統制発売であった国鉄乗車券類の割当販売業務にも従事しつつ、困難な時期を堪え、戦前のビューローの名声回復に努めた。このため、事務所の復旧と要員の確保を急ぎ、二十二年末には、終戦直後に倍する二〇三か所の事務所と三三〇〇名の社員を擁するまでに盛り返した。
 戦後の鉄道再建に忙殺されていた運輸省に代り、交通博物館の経営を社が受託し、二十一年一月当初交通文化博物館として開館して以来、社は文化事業面の一環としてこの運営に当たることになった。
 二十二年四月初の参議院議員選挙において、社をはじめ観光関係業界の推す理事長高田寛が六年議員に当選し、国政に“観光立国”を大きく採り上げることを主張、関係立法の建議制定に努めた。これより先の二十一年六月には、社が主導して地方観光機関の全国的連絡機関である全日本観光連盟を設立、社がその実質的運営を担当した。そのほか、社の海外観光宣伝事業は、二十五年度から国庫補助金の交付を受け、海外宣伝部を新設して本格的な活動を始めた。同時に、国内における観光に関する文化・宣伝活動も活発に行なった。もとより、政府においても終戦の年に運輸省に観光係を、二十一年六月には観光課を設け観光行政の復活を進めていたが、戦後の二十年代における社の観光文化面の活動は、実施面を中心にまさに行政そのものであったといっても過言ではない。
 いっぽう、戦後の経済の混乱はひどく、激しいインフレが続くなかで、社の財政事情は苦しく、このため代売契約の拡大、船車券・旅館券の復活、図書販売その他の付帯事業など、積極的な自己収入増大の道を拓いていった。着々と再建への道を歩みつつあった社は、ここで思わぬ困難に直面した。
 二十三年から、占領軍は東西の冷戦激化を背景に、日本の自主復興に手を貸す方策を講ずるとともに、二十四年には、財政均衡化、一ドル三六〇円の単一為替レートの設定等を内容とする“ドッジ・ライン”が実施されるにおよび、さしものインフレも急速に終息に向うのであるが、この政策の一環で、同年六月、国鉄の合理化のために、社の財源の大部分を占めていた国鉄代売手数料廃止と、政府補助金停止の措置がとられ、社の財政は再び致命的な打撃を受けるにいたったのである。
 これに対して社は、組織・要員の徹底した縮減と各事業部門の独立採算制による積極的増収策をとった。このとき、社の歴史上唯一の希望退職募集の非常措置をとり、五〇〇名余の社員が去った。また収入源を求める手段として、本来の旅行あっ旋業務のほかに、土産品はもとより日用品の販売まで手がけた。この間、不慣れな雑誌の取次業務では多額の売掛代金が回収不能となり、不良資産をかかえて財政再建をかえって遅らせる結果となった。手数料うち切りからの数年間は文字どおり茨の道であった。
 二十五年六月、朝鮮動乱が勃発、日本経済は巨額の特需収入と世界の軍拡気運による輸出の増大で、一転、急ピッチで自立化が進む。翌年七月動乱は休戦となるが、国内の設備投資は一段と活発化し、二十六年には鉱工業生産指数、民間投資等が、二十七年には実質国民総生産がようやく戦前の水準に回復する。
 こうした状況の下で、二十年代の後半から消費景気も上昇に向うにつれて、旅行あっ旋業務は次第に活況を呈するようになる。廃止されていた国鉄代売手数料も国鉄の支援のもとに逐次復活され、二十八年には戦前並みの水準に復帰した。これに伴い、事業収支にもようやく安定化の見通しが立つようになった。
 進駐軍のあっ旋に始まった外客あっ旋業務は、民間外客の来日増加や在外同胞の母国訪問などで次第に活発となる。さらに、わが国における外客受け入れのための諸体制が著しく整備されるに伴い、二十年代の終りには豪華客船による観光団の来航が始まり、外人あっ旋は華やかな時代を迎える。いっぽう、邦人の海外渡航は、当初きびしい制限下におかれていたが、着実に実績を積み重ね、来るべき拡大の時代への基礎固めを行ないつつあった。
 あっ旋代売事業以外への幅広い事業の展開は、戦前の大蔵構想を引き継ぎ、戦後は「付帯事業」として各種の事業展開が進められた。国鉄手数料うち切り後の財政再建下でこれらの事業はいったん整理、縮少されたが、この中で残った事業の幾つかが現在の交通公社グループの中核をなす企業に育っている。
 出版事業は、戦争直後は文化事業部門の中に位置づけられ、当初進駐軍向け刊行物が主であった。やがて邦人の旅行への希求の高まりとともに、独立の部門として国内向けの企画をふやして増売増益の実績を高め、社内の期待を担う事業への発展の基礎を固めたのである。
 ”人が財産“といわれる社の人事諸制度は、二十年代前半はインフレに悩む当面の社員の生活確保に重点がおかれたが、後半は、あらゆる近代的人事管理手法による諸制度の導入がはかられ、こんにちの社の人事制度の原形はほとんどこの時代に完成した。二十一年二月には労働組合が結成され、積極的な経営協議体制ができあがった。

 

 これで引用終了、次回から「第一章 「日本交通公社」として再出発」に入っていきます。

 

img_column_writer01
プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー