コラム社史より 「日本交通公社七〇年史」」その5 Vol.73 小川 真理生さん | GHQ.club

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 Vol.73 小川 真理生さん

「日本交通公社七〇年史」

COLUMN「日本交通公社七〇年史」その5

VOL.73
小川 真理生さん

ここでは、「日本交通公社七〇年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第73回「日本交通公社七〇年史」その5

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 今回は、「日本交通公社七〇年史」の「第四章 団体あっ旋に真価を発揮」を紹介します。

引揚邦人輸送のあっ旋
 敗戦の悲惨さめやらぬ二十年十月、六〇〇万人を超すと推定された引揚邦人の受け入れ輸送が開始された。とくにその頂点を迎え大半を終了した二十一年までのあっ旋の苦労は想像以上のものであったが、よくその大任を果たし社の真価を世に示した。また、朝鮮などへの帰還非日本人輸送が並行して行なわれた。
 この間の様子は当時の理事長名による謝辞の中で「ただに社の使命であるといふのみでなく、広く国民的責務としてこれが完遂に努力し、(中略)しかも、入港時における輸送手配、乗車斡旋、又車中乗継地における集団給食の斡旋に当っては、いずれも多大の支障困難を伴ったが、不充分な施設及び要員で能く遂行し得たことは、全く関係各位の熱意と努力に因るものであって深く感謝する。また諸種の悪条件下に敢行した宿直勤務を始め、深夜、早暁の現地斡旋並びに幾多の暴行不祥事件をすら伴った非日本人の斡旋面における担当者の労苦に対しては衷心から同情し、且つ敬意を払ふものである。……(中略)この事業も既にその大半を終了した感はあるが、今や冬期を目前にしてなほ百万に近いソ聯地区残留者のあることに想到するとともに、内地着後におけるそれ等の窮状に想ひを到すとき、これが斡旋になほ一段の努力を痛感する次第である」(昭和二十一年十二月)と述べていることからもよく伺うことができよう。
 全国主要一〇駅(門司、宇品、大阪、京都、品川東京、上野、仙台、青森、函館)へ派出員を配置し、「引揚者の秩序保持に関す政令」による厳しい制限の中で唯一社、社名腕章を着用しての乗車勤務、援護局所在地案内所に『日本交通公社引揚邦人旅行案内所』(佐世保、宇品、舞鶴、函館)の看板を掲げてのあつ旋、途中指定駅での弁当積込みは、二十二年にシベリア、満洲地区からの引揚開始、さらに、二十八年三月、それまで内戦で中断していた中国地区、同年十二月、シベリア地区からの引揚再開後も引き続き行なわれた。
 またこの頃、北海道入植者、炭鉱労務者など臨時列車による輸送あっ旋が、関係者庁の要請を受けて行なわれた。

 樺太抑留記
 この引揚者のあっ旋輸送に関連して、当時語られざるひとつの記録がある。その責任感から、終戦の直後から帰国までの九年に及ぶ、札幌地方部(当時)本間英昌の苦難記である。
――東亜交通公社札幌地方部社員本間は、終戦直後の八月二十日、本社からの特命を受けて、樺太の豊原にある樺太地方部へ連絡のため札幌を後にした。小樽から樺太に向った船は最後の連絡船で、本社からは、書類を渡すだけでよいから、上陸しないようにといわれていた。
 豊原には、八月十九日すでにソ連兵が進駐しており、大混乱の中で火災も発生していた。船上からでは地方部へ書類をとどけるすべもなく、また、現地社員の安否や、邦人の引き揚げ計画も気掛りであった。本間の乗っている船が最後の引揚船とは知りつつも、責任感の強い本間は、危険を覚悟の上で、引揚船を見送って現地にとどまり、ようやくにして地方部への書類をとどける任務は完了することができた。しかし内地へ帰るには密航船に乗りこむほかなかった。当時五馬力ぐらいの小船に、三〇人ぐらいが乗り込んで内地への密航が行なわれていた。
 ソ連兵の監視の眼を逃れ、ようやく沖に出て安堵したのも、つかの間、礼文島を目前にソ連の監視機に発見され、豊原に連れもどされてしまった。本間は、豊原で一年の刑に服したのち、シベリア鉄道沿線のメボシビリスクに抑留された。重労働と寒さのため健康を害し、肺結核で喀血しながらの苛酷な労働が続いた。二十二年にいったん知らされた消息も、その後は絶えたが、二十八年十一月生存が人伝てに判り、翌二十九年三月に、いよいよ帰国するという情報が届いた。舞鶴に入港した引揚船から、担架にかつがれた本間は、実に九年ぶりに祖国の土を踏んだのである。肺結核と気管支喘息による三九度からの高熱を隠しての帰国であった。
 ただちに帰港地の病院に収容され、その後札幌の病院で加療に努め、三十二年十月ようやく復職した。五十年八月定年となるまで北海道支社(のちに営業本部)に勤務したが、抑留生活で害した健康は元に戻らず、将来を嘱望されながら不本意な公社マン生活を余儀なくされたのは、まことに気の毒であった。

あい次ぐ大会、大祭、社がほぼ一手に
 スポーツの振興を通じて国民生活に明るさを――を目的に終戦の翌二十一年十一月には第一回国民体育大会が京都を中心に開催された。二十二年、金沢で開催された第二回国民体育大会夏季水上競技会、秋季総合大会では、大日本体育会の要請を受けた社の全面的なあつ旋協力が、戦後の集団輸送にまたひとつの大記録を残した。
 以来、天理教春秋大祭、金光教例祭、二十四年の善光寺御開帳一五万人と平和博覧会、東西本願寺蓮如上人四五〇回大遠忌法要、二十五年覚如上人六〇〇回忌法要、二十七年の永平寺高祖大師七〇〇回大遠忌法要五〇万人、身延山開宗七〇〇年祭一〇〇万人、二十八年には伊勢神宮式年遷宮祭等々宗教参拝団体の輸送あつ旋要請があい次いだ。
 飯米持参、列車は三人掛け、通路にござ敷きながら、二十一年には修学旅行も復活し、国鉄との日夜の協力、主催者側との緊密な連携のもとに、輸送の確保、集客、あつ旋に東奔西走する時代が、東京・大阪間に特急「平和」が運転され、ようやく国鉄輸送力に回復の兆しをみせ始めた二十四年以降も続いた。
 とくに二十年代初期における国鉄輸送の確保は、戦災被害に加え石炭不足による列車削減、進駐軍需要の増加でほぼ半減状況のしかもいっぽうでは、おりからの深刻な食糧難からデッキはいうに及ばず、連結器さらには貨車にまで、はみださんばかりに買い出し客を満載するという極度の列車不足の中から捻出するもので、こちらでかま(機関車)一基、あちらで客車何両、乗務員何名、どこどこで給水何トン、貨車線を迂回してのスジ引きといった具合に、団体枠の確保や多客臨、小口集約臨の編成に注がれた苦労は並大抵なものではなかった。まして春・秋の旅行シーズン、大会、大祭などの大口要請に対しては国鉄当局と共同の困難なそして連日夜を徹する作業がしばしばであった。
 いっぽう、国鉄との共催、社主催の募集団体も、戦後間もなく始まる。対日講和条約の調印、朝鮮動乱による特需景気などを契機にようやく経済は立ち直りをみせ、国鉄輸送力の回復、国内航空の復活などの明るい材料も手伝って二十年代後半からは一般の旅行も次第に増加し、やがて大衆旅行時代へと発展していくが、同時に他社の進出を促し競争時代へ突入していく。
 国鉄代売手数料うち切り
 昭和二十四年六月、連合軍最高司令部による経済安定政策、いわゆるドッジ旋風によって、社はその収入の大宗を占める国鉄代売手数料をうち切られ、全面的に復活されるまで約四年間の苦難時代を経験するが、同年八月以降一部券種に対する手数料が段階的に認められた。とりわけ、団体取扱手数料の交付は、力を注いでいた同業務に光を与え種々強化策が講ぜられた。

国鉄との共催団体と各地企画旅行
 戦後の旅行は、まず宗教大祭、本山参詣団などで復活を迎える。旅行といっても参詣のための“移動”という方が正確で、それでもその往、復路に半日、一日の観光が組まれ、参加者を楽しませた。
 もうひとつは国鉄との共催による募集旅行があった。
 いずれも、臨時列車を駆っての団体旅行であるが、国内の復興は未だしで、列車事情も悪い時代であったから、快適な旅行とはいえなかったが、これらへの参加を通じて、戦争中抑えられていた旅行を実現する手段としては格好の機会となり、急速に拡大していった。

 活発な国鉄との共催団体
 この共催団体は、戦前の日本旅行協会時代に遡り、昭和初期にはすでにかなり盛んであった。日中戦争の勃発を境にその性格も徐々に変化していくが、昭和十四年に制定された社の「主催団体取扱規則」の定義、目的によれば、「主催団体ハ協会ニ於テ、一般公衆ニ旅行趣味ヲ普及シ、旅行ニ依ル敬神崇祖ノ思想ヲ助長シ、国体観念ヲ認識セシメ、健康ノ増進、知識ノ啓発、団体行動ニ依ル協力一致ノ訓練、旅行道徳ノ向上並ニ名勝地ノ紹介、開発及改善ヲ促シ産業ノ発展ニ資スル等ノ目的ヲ以テ遂行スルモノニシテ、其ノ旅行費ハ乗物、宿泊、食事案内、入場料等実費本位ニ計画スルモノトス(第一条)」とある。敬神崇祖、国体観念などとうたわれているのは当時の国策を反映したものである。昭和十六年の「旅客斡旋規則」では、さらに主催旅行の中で、この旅行を社主催の甲種に対する乙種、すなわち「本会団体事務嘱託ガ計画シテ之ヲ実施スルモノ(註 本会団体事務嘱託トハ省――現在の国鉄――関係員トス)と位置づけている。現在でいう共催団体である。
 戦後もかなり早い時期に、共催団体が実施されたのは、国鉄の旅客誘致策として急がれたこともあるが、前述の戦前における実績と経験に培われた技術的な裏付けに負うところが多く、また、すでに旅行をつくって売るという、今日の商品化の思想の源流がここにあるといえよう。
(以上、「業務と研究」第一五号掲載の“主催旅行の昔と今”岡本耕治寄稿から一部要旨を引用)
 ともあれ、戦後の旅行は、この共催団体で幕を開けたといっても過言ではなく、とくに地方農山村地帯を中心に全国的に非常な勢いで定着し、戦後の一時代を築いた。その一例を、二十年代から三十年代にわたり、この共催団体を営業の主力として市場の掘りおこしに奮闘した東北にみてみたい。

 東北の「共催臨」
 昭和二十年代はじめの、戦後の混乱が未だ立ち直らない時期、農村地帯に潜在市場をもつ東北地方では、すでに国鉄との共催団体、つまり「共催臨」が活発に行なわれた。
 昭和二十三年春、国鉄再建のかけ声のもとに国鉄福島管理部と社の福島、郡山、会津若松案内所とが共催した十二両編成、八〇〇人の「お伊勢詣り」の催行にはじめて成功した。次いで翌二十四年、仙台で「関西臨」が、さらに二十六年には「九州一周臨」と「北海道一周臨」が、東北支社管内全域にわたって続々と催行され、爾来、東北の「共催臨」は、営業のドル箱としてその黄金時代を迎える。
 中でも二十六年の九州一周は、三月一日出発を第一陣に毎回五五〇人、合計十二本という大型なもので、しかも、このような大型団体の九州一周旅行は初めてであったことから、添乗員の苦労はもちろん、受け入れ側の苦労も大変なものであった。
 このほか、東北では、農村における伝統的信仰の対象となっている神社仏閣に各年日帰りの初詣で臨時列車を催行しているが、とくに岩沼の竹駒神社、長井の熊野神社、金華山詣でなどは、その後もおとろえぬ人気を保っている。

 「六〇六」と「一二一二」
 一見単なる数字合わせの如くみえるこの「六〇六」と、奇しくもこの倍数となった「一二一二」は、戦後の団体を語る際、ひとつの変革を示すものとして今日もなお語り継がれている国鉄の通達番号である。
 そのひとつ「六〇六」、正しくは「営旅第六〇六号」は、昭和二十六年六月に発せられた。その年四月に起きた桜木町事件を契機に、老朽車両の交換その他輸送力整備の必要から輸送事情が極度に逼迫し、緊急策として、

一.国鉄が直接または他の機関と共同して行なう団体旅行の募集を禁止する
二.輸送も臨時列車による団体旅客の取扱いは漸次縮減して、九月以降を目途に停止する
三.小口団体は、余裕のある定期列車を原則とし、多客期には集約臨、多客臨によって対応する
四.必要に応じて臨時列車あるいは増結で輸送する場合も、一般列車との乗車効率の均衡をはかる

などがうち出された。この通達は、当時共催団体が活発化しつつあった時期であっただけに、その影響が懸念された。しかし、増大する旅客の要請に応えて列車の確保に奔走し、いっぽう、他社の台頭に対抗する積極的な渉外活動などと相俟って、社の取扱額はむしろ伸長し発展の第一期となった。
 この六〇六号は、その後の輸送力の好転から、三十年六月廃止され、ここに新たに登場したのが「一二一二」すなわち「営旅第一二一二号」である。これによって国鉄共催は、第二発展期ともいうべき本格時代を迎えたのである。この番号は、前の「六〇六」がある種の連想を含め不評であったこと、旧に倍する伸長への期待感から当時の立案担当者が立案簿を確めちょうど間近にあったこの番号を意図的に付したときく。この一二一二号は「団体旅客の募集の方法について旅行あっ旋業者の主催するもの、国鉄において主催するものおよび国鉄において主として募集し、あっ旋のため旅行あっ旋業者と共同主催するものの三種とするが、団体旅客の募集は、極力旅行あっ旋業者の主催をもって行なわせるものとする。
 前項による旅行あっ旋業者のみの活動をもってしては地域的にも、また募集内容からも、その誘致効果が乏しいと認められるときに限り、国鉄主催または共催のもとに団体旅客(普通団体に限る)の募集を行なうことができる。この場合における団体旅客の募集は輸送力が弾力性に乏しい現状にかんがみ、別に営業局長が指定する期間を除き、これを実施することができるものとする。」
とし、同時に添乗員の人員、配置基準、集客宣伝、添乗員旅費等の費用負担方法、団体券の発行箇所、方法などの細目が、あらためて明確化された。

 各種の主催、共催旅行
 国鉄との共催臨と並んで、各地企画の主催旅行も盛んに行なわれ、戦後の新しい市場の開拓や顧客の創造に接客的な役割を果たし、あるいは旅行商品化の先駆けとなって、その後の大衆旅行時代の基盤をつくった。それらの中のいくつかをひろってみる。
【JTBスキー学校】
 まずあげられるものは、JTBスキー学校であろう。その戦後第一回は、昭和二十一年二月越後湯沢で開催された。公社、毎日新聞、国鉄東京鉄道管理局のタイアップによるものであったが、当時、社の文化事業部にいた鈴木正彦の“戦後の混乱の世相に、健全旅行を”という提唱が実現したものであった。鈴木は、戦前創設された全日本スキー連盟スキー指導員第一期生の経験を活かして計画を進めた。また、自ら、指導と検定にあたるかたわら、添乗員として八〇人からの参加者を掌握し、この第一回をはじめ、この年開催された五回のスキー学校をいずれも成功に導いた。
 爾来、スキー人口の増加と、鈴木らの活動により、年を追って盛大となり、“早く、楽に、上手になれる”「JTBスキー学校」として今日の声価を得るにいたった。この間、社内におけるスキー技術者の要請には、前出の鈴木、あるいはプロスキースクールで著名な若林省三などを講師とする指導員、準指導員養成講座の開催、連盟検定試験への派遣等社員教育の一環として特段に力が注がれ多くの人材が輩出した。これらの人材は、国民的スポーツとしてのスキーの普及に大きな功績を残すが、その一部は後年㈱サンアンドサンに設立に参画する。
 このほか二十年代半ばから後半にかけて、蓼科にはじまるキャンプ村の開設、初期には東京から自転車を一括現地に搬送してのサイクリングツアーなどが、社の主催あるいは共催で企画され、勤労者、少年に対する健全旅行の普及に貢献したことも記憶されてよかろう。
【礼文島日食観測船団員募集】
 この時期、異色の企画のひとつに、二十三年五月九日、札幌支社が企画した礼文島日食観測船団員募集がある。
 この日、礼文島での金環食の観測には、戦後はじめての国際的な大観測陣がしかれ、また、しばしば見られる皆既日食と異なり、この機会をはずすと、これから百年は見られない金環食ということで、一般の関心は、いやがうえにも高まった。
 札幌支社は、この金環食をなんとか一般の人にも見せたいと団体募集を計画することになったが、観測点一キロの中心地である香深村は人家も少なく、すでの多くの観測隊や報道陣などを受け入れていて、一般人の宿泊するところがなく、一般の観光客は絶望であった。そこで、支社係長の内田忠廣を中心に計画を練りなおし、大型船を乗りつけ、それを宿舎代りにすることに決め、北海道新聞社と共催で観測船の団員を募集することとなった。船中二泊三日、定員七五八人の募集は、発表と同時にたちまち満員となる盛況ぶりであった。
 五月八日、観測船――日本海汽船白山丸、四二九三トン――が小樽港を出帆すると、北海道大学の堀教授の金環食の解説などもあって、翌日の世紀の金環食に期待をよせていたが、当日は朝から、荒れ模様で船が大揺れに揺れ折角の好企画も無為に終るかと思われた。しかし、金環食のはじまる午前十一時五十八分の直前、奇跡のように晴れ、ダイヤモンド・リングが暗黒の空に輝いた。観測船は、しばし感動の声にどよめき、船酔いの苦しさも一瞬にして吹き飛んだかのようであった。こうして社あっ旋史に残る日食観測は大成功のうちに終ったのである。
【日本経済産業視察団】
 いまひとつ、当時の団体旅行の特徴を伺えるものに、これも札幌支社の例であるが、昭和二十五年三月から四月にかけて、郵政省、国鉄との共催で同支社が戦後はじめて募集した「日本経済産業視察団」、つまり、東京、関西方面への観光団がある。募集には道内の一〇二三か所の郵便局が動員され、二〇万枚のチラシ、三〇〇〇万枚のポスターが用意された。毎月一〇〇〇円を一年満期で積み立てる方法に、当初、約五〇〇〇人の応募者があったが、一年後の参加歩どまりは三割となった。それでも一四〇〇人を数え、一〇本を予定していた臨時列車を、札幌、旭川、岩見沢各駅からそれぞれ一本、合計三本として出発することになった。
 列車は、三等車に板を張り、その上に毛布を敷き、また、食堂車一両を座敷風に改造し、そこに、すし屋、そば屋、天ぷら屋などを乗せて屋台を設けるなどの趣向をこらしたので、参加者は、長旅の無聊と疲れをいやすことができた。医者と看護婦も同行して万全を期した。
 宿泊地では、まだ大きな宿泊施設が十分整っていなかった当時としては、一列車五〇〇人もの観光客を宿泊させるためには二〇数軒に分宿させざるを得ず、また、京都見物のときなど、バス十二台に分乗して回ったが、先頭は南座に入って芝居見物、最後尾のバスは、まだ京都御所を拝観しているといった有様であった。添乗員も毎日午前二時に就寝、五時起床という苦労の連続であった。

 以上は、当時のごく一部の例に過ぎない。この種の活動が全国各地で精力的に展開された。金沢をはじめ北陸地区でいち早く始められた信用金庫など金融機関との提携、関西地区を中心に各宗教団体旅行の組織化。ミステリー列車などもこの時代に試みられている。「共催臨」も全国を網羅し、北海道から九州、九州から北海道へと長距離化し、一、二等利用の優等臨や、やがて飛行機利用も現われ次第に快適に向う。相互交流により地域間の意思疎通が深まり、社内の連帯感が強まっていく。
 試行錯誤の間に、制度、体制の整備も格段に進んだ。この中で、販売網の一翼として団体嘱託制度が確立し、大曲はじめ全国屈指の拠点が育ちもした。
 これらの一つ一つを述べることは、量的な制約から困難であるが、他社の台頭著しい中で、社業再建途上のこの二十年時代を支え、それにも増して、戦後の旅行の復興に先駆的な役割をこの部門は果たしたのである。

競争時代へ―国鉄団体券代売複数制に
 団体旅行の伸長は、戦中の抑圧から解放され、渇望してやまなかった旅行を実現する手段としてこの時代に迎えいれられたことの表われであり、やがて経済の成長とともに旅行大衆化時代へと花開く萌芽の時代をなしたといえよう。
 この二十年代から三十年代にかけての団体旅行の全盛は、いっぽうに他社の進出を急がせ、有望市場をめぐる競争は、たちまち熾烈をきわめた。
 近畿日本ツーリストの前身である日本ツーリストと近鉄観光部が二十三年に発足し、日本旅行会のちの日本旅行も二十四年には営業を再開したほか、中小を含め地域、系列、規模を問わない団体旅行専業業者が競って進出した。まさに戦国時代というにふさわしい様相を呈する中で社の団体旅行の牙城を揺がす勢いである。
「旅行あっ旋業法」は、こういった状況を背景として、健全な旅行の発展と業界の秩序を求めて二十七年十月施行された。
 また三十二年一月には、国鉄部外団体等公正委員会の答申にもとづいて団体券の代売が日本旅行、近畿日本ツーリスト、全日本観光の三社に、その一年後には東急観光に認められ、手数料交付業者も十二社、他社の認可営業所数は六〇か所に及ぶなど本格的競争時代に突入していった。
 その頃の他社の進出ぶりについて、二十五年十一月、当時、着地支社・案内所の一部手配・あっ旋上の問題点に対し、最盛期において個々の団体客総てに社員を添乗させることは困難としつつ、社ならではの万全のあっ旋を期するために全国的組織網という他社にない絶対的な優位性を充分に発揮することが肝要である――と訴えた旅行部長名指示の前文に、「最近旅行事情の好転に伴い、一般旅行斡旋業者の進出は著しいものがあって、公社の団体斡旋業務に対して極めて脅威的存在になりつつある」とふれられている。

組織、制度の整備――戦後への対応
 敗戦によって社業の様相は一変し、組織、制度全般にわたる対応が急務となった。
 団体旅行部門においても二十年九月、いち早く本社業務部内に「旅行課」を新設、戦後に即応した組織整備を行なうと同時に、二十二年十二月には「集団旅行取扱方」を制定し、あっ旋旅行・請負旅行・主催旅行の区分、社員附添の基準、あっ旋料・附添係員実費、見積差準備金、宣伝費その他の収受基準、業者に対する集団取扱手数料の割戻し、あっ旋・手配手続を明確化するなど、制度面の整備が進んだ。集団旅行は、翌二十三年には団体旅行とされ、「旅程表」「旅費計算書」作成手数料、のちには附添手当、通信実費、二十八年には「総係費」の収受が明示されるなど、「邦人旅客斡旋取扱規則」(二十六年)あるいは「邦人団体旅客斡旋取扱規則」(二十八年)として逐次内容の整備が進められた。二十六年には、修学旅行の実費主義がいわれている。
 爾来、業務の拡大に伴い、二十四年旅行部の独立、二十七年旅行部内に「団体課」設置、同年十月には(財)日本修学旅行協会が文部省、運輸省、国鉄、社などの発起で設立されたのに合わせ、団体旅行・修学旅行の二課からなる「団体部」に昇格させるとともに関東・関西の二支店から順次各支社に団体課を設置するなど競争対策を含めた積極的指導支援体制がしかれる。
 また、国鉄団体輸送手配業務の能率化のため、二十三年に門司鉄道管理局に二名の駐在員を配置したのに始まり関係各局への駐在員常駐制が定着し、二十七年には全国に五三名を数えるまでになった。
 いっぽう、二十七年には懸案のラナー制度を復活させ、その第一陣として東京、名古屋、大阪など全国主要一八駅に制服制帽着用の要員を常駐させ団体の送迎、誘導、あっ旋にあたらせることにしたほか、団体最盛期の箱根、江の島、雲仙などの主要観光地に臨時あっ旋駐在員を配置するなど、あっ旋体制の整備充実がはかられた。
 あっ旋用社旗をなびかせた駅頭の添乗、送迎あっ旋風景、シーズンともなれば、支社別に誂えた真紅、黄、紫、緑、橙、青の六色の小旗を掲げた団体旅行客が全国の観光地を賑やかに行き交う姿をこのように早く見ることができると、終戦直後の混乱のさ中で引揚邦人の受け入れ輸送あっ旋に悪戦苦闘した時代に誰が想像できたであろうか。

 こうして、旅行は着実に国民各層の中に根付きながら、またいっぽうでは、三十年代に向かっていっそう本格的な競争時代に突入していく。

 ここまでで、第四章は終わりです。次回は、「第五章 復活した戦後の外人来日」になります。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー