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COLUMN「第一生命五十五年史」-2
- VOL.2
- 小川 真理生さん
ここでは、「第一生命五十五年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第2回 戦争下の第一生命館がどういう役割を果たしたか
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第2回 「第一生命五十五年史」より
第一生命館は占領軍に接収されるわけだが、そのドラマと、それ以降について、第一生命の社史は以下のように記述している。
「終戦
昭和二十年八月十五日、ついに戦争終結の大詔を拝した。
わが国はポツダム宣言を受諾して、連合国軍のまえに無条件降伏をよぎなくされた。建国以来未曾有の事態に際会した祖国をおもい、われわれは五体わななき、ただ茫然としてなすところを知らなかった。その夜、初秋の空は晴れ、満天の星はあくまで清かった。「商女ハ知ラズ亡国ノ恨、江ヲ隔テテ猶唱ウ後庭花」神州不滅を信じたわれわれにはただ文学的感興をさそうにすぎなかったこれらの古詩も、いまや実感をもってせまってきた。
敗戦という冷厳な事実を境目として、日本の様相を変えようとする大きな動きは時をうつさずはじめられ、それは疾風となりあるいは激浪となった。それから数年のあいだ、栄誉ある七十年の歴史をもつわが生命保険業界も、さまざまの苦難に直面して、まさにあやうくみえたこともあった。風にそよぐ葦とは当時の業界のすがたであった。しかしこの葦は強かった。瓦礫のなかから立ちあがり、狂瀾怒涛にもまれながらも本来の底力を発揮し始めたのである。
わが社も創立以来四十三年になんなんとして終戦に遭遇し、そののち多年にわたって幾多の試練をうけねばならなかった。その苦しみは創業の苦しみにまさるともあえておとるものではなかったが、わが社はよく耐えて立派に復活した。これから物語るのは、受難時代におけるわが社の汗と脂とのにじむ記録である。
ちなみにこの年八月末におけるわが社の保有契約高は百十三億四千万円、資産は十六億二千万円であった。
第一生命館の接収
終戦後の十二旬はたちまちすぎた。日ごと夜ごとの空襲もやみ、灯火管制もとかれた。わが社の玄関前にうず高くつみあげられていた爆弾よけの土嚢もきれいにとりのけられ、午前と午後の執務開始に吹きならされていた勇ましいラッパもベルに代えられた。兵役に服し、徴用され、あるいは女子挺身隊員として働いていた職員もポツポツと職場に復帰しはじめた。
しかしやがてきたらんとする占領軍の噂は、とりどりにみだれ飛び、都会にも田舎にも恐怖の思いがみちみちてきた。八月三十日連合国軍最高司令官であるマックアーサー元帥は愛機バターン号で厚木に着陸、先遣隊とともに横浜に入り、いよいよ日本占領がはじまった。
厚木基地に降り立ったマックアーサー元帥
マックアーサーの愛機バターン号と同型の
C54輸送機
九月になると、東京はアメリカ兵の往来で緊張味をおびてきた。人通りもまばらな銀座や日比谷に、自動小銃を肩に担ってジープをとばす兵の眼は鋭かった。彼らはわれがちにめぼしい焼けのこりのビルにはいりこんでは中を見てゆく。占領軍思い思いの家さがし競争である。この分では、空襲の被害をまったくうけず、日比谷原頭に威容を誇ってきたわが第一生命館も近く接収されるのではないかと思われた。
はたして五日には、第一騎兵師団の少将が一人きたが、六日にいたって、連合国軍総司令部(GHQ)から大佐二人が来社したので、矢野常務取締役が面接して社屋の説明をなし参考資料を提供した。
引きつづき七日には、総司令部の参謀副長で設営の責任者であるイーストウッド代将と工兵隊の司令官であるケイシー少将とが、正式に総司令部の代表者として来訪、矢野常務に面会した。イーストウッド代将は、今回の進駐にともない連合国軍総司令部用の建物を提供することは日本政府の義務である。したがって政府所有の建物中に適当なものがあればこれを提供すべきであるが、不幸にしてそれがないために、私有財産である貴社の社屋に迷惑がかかる。まことに御気の毒であるが、これは日本政府の責任であるから日本政府は貴社に対し、できるだけその迷惑を少なくするよう努力するだろうから、どうかあしからず諒承してほしい、と挨拶した。矢野常務は、これは日本国家の大事であるから、第一生命の運行がつづけられる範囲においてならばできうるかぎり協力するが、会社の性質上、第一生命館の地下室にある生命保険契約関係の書類はそのまま残置して日々使用したい、とのべた。両将はよくその事情を納得して、できるならば三階以上ぐらいの接収にとどめるよう努力してみたいとかたり、明日午後一時参謀長サザーランド中将が検分にくるからと言いおいて帰った。
翌八日には、連合国軍の東京入城式が平穏のうちに行われ、午前中にアメリカ大使館で星条旗掲揚式があった。午後予告の時よりもすこし遅れて、マックアーサー元帥みずから幕下の将星のほとんどすべてをともなって検分にきた。
元帥は矢野常務とイーストウッド代将との案内で、まず当時臨時的に五階にあった社長室にはいった。そこには淡緑色の大理石の置時計がしずかに時をきざんでいた。戦塵にまみれた元帥はこの静謐な空気にひかれるものがあったのであろう。しばらくジッとたち止って「きれいな時計だ」とつぶやくのがきこえた。
ついで元帥は六階の社長室、貴賓室などを見、ふたたび五階の臨時社長室にもどり、しばらくしてから一階に降りて「ありがとう」の挨拶をのこして、検分する予定であった他のビルにはたちよらず一路横浜の宿舎にかえった。これでわが第一生命館は総司令部になることにきまったな、と直感された。
あとに残ったイーストウッド、ケイシーの両将は、昨夜本部における会議の結果、地上は全部接収することにきまったのであしからず、しかし地下室は会社の使用にまかせる、と断言した。地下室は大部分が倉庫と建物の保安設備とであるが、これで生命保険契約申込書をはじめとする数多くの書類は安全に保管されることとなり、わが社の業務は確保された。
アメリカ側はただちに館内を調査点検、移駐の準備をはじめた。イーストウッド代将は幕僚とともにとまりこんで部屋割をねった。それは初秋の夜がしらじらと明けそめるころまでつづいた。矢野常務もこれに参加するなど、日米の協力はきわめてうまくすすんだ。そして六階の重厚な英国風なつくりの社長室がマックアーサー元帥の部屋にあてられた。
わが社としては、いずれ正式に政府から接収命令がくるであろうが、もはや接収されることは確定したものと思われるので、それまでに社内の体制をすっかり整備してこれをまつことでした。
そこでまず館内にもちこまれている職員の私有物は一切自宅にもち帰らせた。空襲に対してもっとも安全と目されていた建物だけに、もち込まれたその量はおどろくべきものであった。こうして一切の私有物を整理して、政府の正式命令をまったのは大成功であった。
十日午後日本政府から正式に接収通知をうけた。連合国軍総司令部として接収するから、きたる九月十五日正午までに書類だけをもって立ち退け。机、椅子、電話機、その他什器は屑籠にいたるまで一品といえどももち出してはならぬ、というのであった。
この命令はわが社が予期していたことでもあり、またこの第一生命館が、戦いに敗れた祖国日本再興のお役に立つならば気持よく提供したいとは思うものの、いかんせん移転のために与えられた期間は正味わずかに四日。苦心してさがしつづけた行く先もまだきまらない。
イーストウッド代将の言うように政府に頼んでみても、当時の政府はまったく無力であった。しかし業務は一日も休めない。わが社はいかになすべきかまったく思案しあぐねた。
矢野、稲宮両常務は、それならばよし、われわれの手で出来るだけやろうと決心し、やむを得なければ一時、深川あたりの焼倉庫にでも荷物を持ち出そうとまで考えた。
ちょうどその時であった。京橋の旧館、すなわち第一相互館の大部分の使用者であった大日本麦酒株式会社の山本(為三郎)専務(現朝日麦酒株式会社社長)から貴社は行先がなくてさぞお困りのことであろう、自分の方は銀座と目黒とに引揚げるから、ただちにこちらに荷物を運びこまれるがよい、との好意をもたらされた。ビル難の当時にあって夢にも予期しなかった好意である。行き暮れた旅人にも似たわが社にとって、その好意は何にたとえようもなく嬉しかった。
これに力を得て、いよいよ移転作業に取り掛ったが、この大世帯をどうして引き移すか。肝心のトラックがない。よしあってもガソリンがない。数百人の人夫を賄う食糧がない。一日も早く明渡そうと気はあせる。困難は言語に絶した。
「戦争に敗けた国家に奉仕するのだ。四の五の言わずに、大石内蔵助の赤穂城明けわたしのように、きれいさっぱりとやろう」と矢野常務に激励され、アメリカ兵の銃剣の監視きびしい中で、書類を整理する者、運搬する者、全職員は空腹も忘れ不眠不休で働いた。九月とはいえ、残暑はまだまだきびしかった。
矢野常務の渉外折衝、稲宮常務の陣頭指揮の活躍は目覚しかった。のちに稲宮常務は当時を述懐して「第一生命三十二年の在職中、渾身の精力を使い果したのはこの一週間だった」と言ったほどであった。
移転作業は予想以上に整然とはかどり、早くも十四日の午後には、ビル全館の清掃も充分に、日本政府の手に引渡すばかりとなり、ついで十五日正午引渡しをすませた。これだけの大ビルディングをこれほど整然と引渡したことは、当時としてはほとんど奇蹟的のことで、アメリカ側も口を極めて感嘆したが、その蔭には、業務に必要な机その他のものを特に融通してくれたり、また接収されることによってわが社の事務能率が低下することをおそれて、わが社の附近の地域に移転先を提供するよう特に日本政府に依頼してくれたというアメリカ側の好意あったことも忘れられない。
かくして十五日には本社を正式に第一相互館にうつし、十七日から営業を開始したが、それまで第一生命館という大ビルディングを使っていた大世帯のこととて、旧館だけにははいりきれず、やむなく数箇所に分散して執務した。その不便さには人しれぬものがあって、戦にやぶれ、あたらしく出なおすのだという感慨を身にしみて味った。
一方第一生命館は、十五日正午から二十七年七月まで約七年のあいだ、連合国軍総司令部の使用に供せられ、マックアーサー、リッヂウエイ、クラークの歴代総司令官の本営として、「GHQ第一ビル」の名は世界に知れわたった。
第一生命館が接収されるにあたって、わが社が心をいためたことは、接収中の館の維持保全についてであった。第一生命館はわが社の貴重な資産であり、契約者の大切な財産であるから、建物が作られた当初から専門家が掛り切りで、わが子に対するような愛情をもって管理してきた。一旦これがわが社の手をはなれたらどうなるか。わが社は考慮のすえ、たとえ接収中でも、みずからの手によって完全に管理してゆこうと、それまで建物を手塩にかけてきた松本與作その他を館に残して、総司令部と協力して管理せしめた。この人々は、日本人の名誉にかけて慎重に職責をつくしたから、総司令部もよろこび、また館の維持保全も充分に行われたのであった。
終戦後の世相
終戦ののち、はやくも四カ月すぎて昭和二十一年となった。十数年ぶりにむかえた平和な正月ではあったが、敗戦の打撃はあまりにも大きく、国民の意気はさらにあがらなかった。
日本の将来をふかく案じられた天皇陛下はこのころから戦災都市や農村、諸工場を御歴訪、したしく国民を激励されはじめた。まず二月二十八日には都心を御巡幸、わが第一相互館にもお立寄りになった。
本社玄関におむかえした石坂社長はじめ全重役に対して薄茶色のソフト帽子をとっていちいち会釈された陛下は、エレベーターで展望台にお上りになり、焼けはてた市街を御覧になった。そして石坂社長に「このごろ保険の申込はどんな状態か?」「この建物は大震災のときにも焼け残ったんだね」などいろいろ御質問があった。なお陛下がエレベーターをお使いになったのはこの時がはじめてであった由である。
まことにわが社の屋上から見る東京は、ただいちめんの廃墟であった。かつての花の都のおもかげはどこにもなかった。目を農村にむけると、そこにはリュックサックをせおった食糧買出しの人々がつづいていた。敗戦日本のすがたであった。
一方では連合国の手によって急激な改革がはじめられた。思想犯はながい幽囚生活から解放され、軍国主義の指導者は公職から追放された。財閥の解体、農地改革、労働組合の助成、あるいは婦人参政権の実施など、日本の民主化が性急に進められた。わが社にも職員組合が結成された。
すべてが破壊と混乱と革新とのさなかにあって、国民はただ毎日を生きるのに懸命であったが、敗戦後頭をもたげつつあったインフレーションは加速度的に高進して生活はいよいよ苦しさを加えた。そのおそるべきインフレーションを収束すべく、二月、政府は新円の発行、預貯金の封鎖などの非常措置を断行した」
戦後の東京の様子
こうして、第一生命館は、1952年(昭和二七年)7月に接収解除される(52年4月28日にGHQは廃止される)わけだが、その接収されていた約7年間、戦後日本の重要な政策はここで決定されていったのである。
(次回は、「東京會舘いまむかし」(1)につづく)
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー