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COLUMN占領時代を検証する-2
- VOL.2
- 片野 勧さん
ここでは、「GHQによる日本占領時代」にまつわるコラムを紹介します。
片野 勧さん(フリージャーナリスト)
隠されたヒロシマ・ナガサキ
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昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島に世界で初の原子爆弾が投下されました。「核の恐怖」――。しかし日本は戦意喪失を恐れて、原爆の脅威を隠しました。一方、原爆を投じたアメリカも国際的非難を恐れて、被爆の実態を隠しました。
ダグラス・マッカーサー。日本に進駐した時、すでに65歳。余人ならば退役の身でありながら、占領下日本に君臨した男です。同年8月30日、神奈川県厚木海軍飛行場に降り立ったマッカーサーは、日本全国のお役人を集めて、こう言いました。
「自分が、ただ今から日本を占領して国民を支配する。……(中略)天皇も総理大臣も一切権限はない」
そして9月2日に降伏文書の調印を終えて占領が始まると、今度は広島にきて次のように言い放ったのです。
「原爆で被害を受けた人間は、自分が見た、経験した、聞いた、その被害の現状について、一切話してはならぬ」「書いても、写真を撮っても、絵にしてもいけない。違反した者は厳罰に処す」
つまり、親子だろうが、夫婦だろうが、しゃべっちゃいけないというのです。なぜなら、「お前たちの受けた被害は、それが痛みであれ、火傷(やけど)であれ、病気であれ、怪我であれ、すべては米軍の機密である」(肥田舜太郎『被爆と被曝―放射線に負けずに生きる』(幻冬舎ルネッサンス新書)と。
占領直後からGHQ(連合国軍総司令部)は日本の民主化を進めました。政治犯の開放と特高警察の解体、新憲法の制定、財閥解体と農地解放、自衛隊の前身である警察予備隊など。なかでも、マッカーサーは9月21日、「プレスコード」を発令し、原爆報道も含めて占領軍にとってマイナスとなる報道は一切禁止しました。
たとえば、11月に開かれた文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会で、マッカーサーは医師や医学者に対してこうも言ったというのです。肥田医師(98)の証言。
「職務がら、患者がきて診てくれと頼まれたら、これは診てよろしい。しかし、その結果を記録したり、複数の医師で研究したり、論文に書いて発表したり、あるいは学会で報告したりするのは一切、ダメ」と。
こうして1952年に占領が終わるまで、日本のマスメディアから原爆報道は消えたのです。そんな中で、禁止命令が出されるほんの1カ月前に、放射線障害に関する研究論文を発表した日本人医師がいました。東京大学教授の都築正男博士(1892-1961)。
彼は、先の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として広島市内に派遣され、現地調査の結果を医学雑誌に発表しました。
広島で被爆した人の死因は「原子爆弾症」。カルテには「ストロンチウムという放射性物質が骨に沈着して、骨の中にあるリンという化合物を放射性リンに変える」「紫斑が出て、粘膜出血を起こして死んでいく」などと書きました。
しかし、この研究資料はGHQの逆鱗に触れ、ただちに没収されました。都築博士は真っ先にマッカーサーの名指しで公職追放処分となり、東大教授を退官させられてしまったのです。
京都大学医学部も8・15敗戦直後、広島に入って調査しました。しかし、それらの研究記録もすべて没収されました。以後、日本の学会の調査・研究は禁止され、原爆放射線の被害に関する情報は、すべて隠されてしまったのです。
これによって、広島・長崎の被爆者たちの苦しみは、日本国内だけでなく、全世界の人々の目からも遠ざけられてしまいました。先の肥田医師はこうも語っています。
「米国が日本に原爆を投下したことは大変な罪悪です。それにもまして米国が罪深いのは、自分の落とした原爆によって、被爆者の生きる道を閉ざしたことです。それは、原爆という新しい爆弾の秘密が、よその国に漏れることを恐れたからにほかなりません」
その後、日米安全保障条約が結ばれ、日本は米国の「核の傘」に守られるために軍事機密として被爆の実態を隠しました。さらに肥田医師は言いました。
「私もGHQから何度も睨まれ、捕まりました。よく殺されなかったと思います。でも、誰も被爆者の治療をやらないなら、私は殺されても、やる覚悟でした」
肥田医師は軍医として広島市に駐在していた時に被爆。当時28歳。その直後から被爆者の治療に当たり、約6000人の被爆者を診てきたと言います。
原爆被害に関する箝口令を敷いたGHQ――。その被害は外国人記者にも及びました。「デーリーエクスプレス」や「ロンドン・タイムズ」などの特派員をしていた国際的に著名なバーチェット記者もその一人。
彼は9月2日、多くの外国人記者たちが米艦船ミズーリ号の艦上で歴史的無条件降伏の取材に腐心していた時、それを見向きもせず、汽車に乗り、約30時間かけて広島に潜入。翌3日早朝、広島市の郊外に立っていました。
バーチェットは朝の太陽がさし始めた広島を見て、「スチーム・ローラーをかけられて消滅した大都会」と表現しました。その惨状を見て、他のいかなる戦場とも違って、“死の臭い”を感じ取ったと言います。瓦礫の上に座り、タイプを打ったその記事は「原子の伝染病」という見出しで全世界に流れ、センセーションを巻き起こしたのです。
しかし、バーチェットの記事が出た後、GHQは外国人特派員を一切、広島と長崎に足を踏み入れてはならんと報道管制を敷いたのです。バーチェットに対してアメリカはなぜ、こんな弾圧的態度に出たのか。
それはマンハッタン計画と呼ばれる原爆製造過程から投下に至るまで、極めて厳しい秘密主義で一貫していたためです。しかし、「核の恐怖」を封印する占領軍のこうした態度は、基本的に70年後の今日まで変わっていません。それは「核密約」で証明されています。
広島県 原爆ドーム
プロフィール:片野 勧(かたの・すすむ)
略歴:1943年、新潟県生まれ。
フリージャーナリスト。日本ペンクラブ会員、日本マス・コミュニケーション学会会員。著書に『マスコミ裁判―戦後編』(幸洋出版)『メディアは日本を救えるか』(蝸牛社)『捏造報道―言論の犯罪』(音羽出版)『戦後マスコミ裁判と名誉毀損』(論創社)『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)『8・15戦災と3・11震災』(第三文明社)ほか。