HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-2 Vol.2 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-2
- VOL.2
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-2
平沢には〝土地勘〟があった。また、銀行を舞台にした犯行歴もあるので〝識勘〟もあったことになる。
帝銀事件が発生したのは現在の西武池袋線椎名町駅すぐ近く。当時、平沢の家は中野にあった。また、戦前から平沢は板橋の中丸町にも住んでいて、池袋から山手通りにかけては、目を瞑っても歩けるくらい熟知していた。もしかしたら犯人が赤痢の発生現場として名前を出した「相田小太郎方」の井戸の存在も知っていたかもしれない。それくらいあのあたりは自分の庭だった。「池袋モンパルナス」といわれる芸術家が多く住んだ地域でもある。
実は、わたしはその池袋にキャンパスがある立教大学の出身である。入学したのは一九七五年。その前年に立教OBの長嶋茂雄が現役を引退して、巨人軍の監督になった年である。わたしは一九五六年、香川県坂出市に生まれ、青雲の志を持って上京し、この年から西武池袋線の椎名町駅の一つ先の東長崎駅近くに下宿していた。大学までは歩いても行ける距離で、実は、帝銀事件のあったすぐ近くのガードを潜って登校していたわけだが、当時は帝銀事件のことなど知る由もなかった。
いつ頃から帝銀事件の存在を認識したのか。明らかにテレビでこの事件のことを知ったのだと思う。確か、TBSの報道番組で事件の謎が取り上げられ、その過程で、登戸研究所、七三一部隊、陸軍中野学校のことが追及されていた。
また、学生時代から頻繁に池袋の文芸坐に通うなど映画好きだったわたしは、熊井啓監督の映画『帝銀事件・死刑囚』を観ていた。その白黒画像はGHQ占領下のあの時代の空気・雰囲気を実にリアリティをもって再現していて、しかもGHQが旧・軍関係者に捜査の手が伸びるのを妨害する場面などもしっかりと描かれていて、見ごたえがあった。
これまで、帝銀事件の真相に挑んだ映画監督、テレビ・ディレクター、小説家、ジャーナリストなどあまた存在した。しかし、誰も決定打を打った人物はいなかった。一人を除いては。その人物については、こののち詳しく書くつもりだ。
帝銀事件を追及すればするほど、誰もが迷路にはまってしまう。犯行に使われた毒薬は何なのか。『小説・帝銀事件』を書いた松本清張を中心にもはや定説となりつつあるのが、戦前に陸軍第九研究所、別名・登戸研究所が開発した青酸ニトリル、もしくはアセトン・シアン・ヒドリン。単なる青酸カリ(青酸ナトリウム)ではなく、遅効性のこの毒薬が犯行に使われたのであるという説。しかし、裁判では犯行毒物は致死量すれすれに希釈された青酸カリ、もしくは青酸ナトリウムと認定されている。事件当時もこのことは問題となり、捜査本部でも登戸の元・隊員が厳しく取り調べられていることは、当時の捜査記録に残されている。
帝銀事件とは何だったのか。その本質とは何か、と問われれば、戦前の日本の軍部と戦後の占領軍(GHQ)、この二つが合体して産み落とした怪物が行った犯行であると、わたしは見ている。
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など