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CIE
FILMニュース映画とCIE映画

VOL.2
GHQクラブ編集部

このシリーズでは、占領期を記録したニュース映画の映像について、
一方、GHQ=支配者サイドが日本を民主化する一環として活用した
短編映画(ナトコ映画)について、考究していきます。

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「日本ニュース映画史」その2
(5)戦時下映画法と国策ニュース映画

 

 ◆昭和12年8月、日本軍は戦局を華中に拡大して上海に進撃し、12月には首都南京を攻略した。日中戦争は長期戦の様相をおびてきた。
 そして、内務省は映画製作者にたいし次のような要望を発した。
[1.軍紀をみだし、又軍隊を滑稽化せざる事。2.多量の血糊等を用い残忍なる戦争の場面を殊更に誇張表現し、実戦感をそそらざる事。3.応召兵並びに応召家族の意気を挫き、又喪失せしむるものにならざる事。4.享楽的、退廃的なものを避ける事]

 

◆1938年(昭和13年)4月、政府は戦争遂行の挙国体制をつくるべく、国民経済と生活を国の統制下に置く「国民総動員法」を公布した。
 そして、翌昭和14年4月には、総動員法に基づく映画法を公布した。映画法とは、ナチスドイツの映画法にならって立案された法律で、「映画は弾丸である」という考えのもとに、国策を宣伝する道具として映画を利用することを目的としていた。主な条文として以下のようなものがあった。
[1.劇映画脚本の事前検閲。 2.国民教育上有益な映画を認定し、一般非一般に区分する。 3.製作、配給事業は許可制にする。 4.文化映画やニュース映画は強制上映する。  5.俳優、監督、撮影技師は登録制とする。]

 

◆1940年(昭和15年)4月、政府はさらに一歩を進めて、半官半民のニュース映画製作会社「社団法人・日本ニュース社」を設立し、同盟、朝日、大毎東日(毎日)、読売の4社ニュース映画を強制的に吸収統合した。
 この国策会社の経営と製作の中心になったのは、政府と密接な関係を持ち、戦地からの報道に強力な取材力を持つ同盟ニュースだった。
「日本ニュース」は、6月13日に第1号を配給し、全国の映画館で強制上映された。そして、「日本ニュース」は、厳しい統制と検閲を受けるかわりに手厚い保護を受け、聖戦遂行を旗印とする国策の宣伝の一翼を担っていった。

 

◆昭和15年という年は神武天皇の即位から2600年にあたるとされ、紀元2600年を祝う国家的祝典が華々しく挙行されたが、日中戦争は一層泥沼化していた。
 ヨーロッパでもナチスドイツ軍が周辺各国に侵攻を進め、世界大戦の様相を深めていた。そして9月、日本はドイツ、イタリアとの間に三国同盟を締結した。
 昭和16年になると戦局はますます緊迫し、内閣情報局から映画業界に次のような宣告がなされた。「臨戦体制下の物資動員計画によって、軍需に必要な物資は民間に回らぬことになった。映画用生フィルムも軍需品であるから、民間用としては1フィートも回すことができない。映画界はよろしく善処されたい」。

 

◆軍部による独裁色の濃くなった政府は、国内のすべての産業をさらに強い統制下に置くべく、産業界の整理統合を一段と進めた。。
 昭和16年8月、情報局は、映画製作業界にたいして次のような政府案を提示した。
「(イ)劇映画製作者は営利法人として2社(現状では10社)とする。(ロ)文化映画製作者は営利法人として1社(現状では200社以上)とする。(ハ)公益法人たる日本映画社はそのまま継続せしめる。(ニ)以上により劇映画月4本、文化映画月4本を製作する。(ホ)官庁映画は陸海軍以外は全廃する」

 

◆この政府案の伏線として、この年の5月にはすでに、社団法人・日本ニュース社を「社団法人・日本映画社」と改称し、文化映画部を設けて、ニュース映画だけでなく文化映画の製作配給も行うようになっていた。
 しかし、文化映画製作会社の統合は政府案通りにはならず、第一次統合として日本映画社文化映画部に統合されたのは、松竹、東宝、読売、新興キネマ、東日大毎、冨士スタジオ、十字屋など7社の文化映画部門であった。この統合によって、日本映画社文化映画部は部員が一挙に200名にふくれあがった。そして、第二次統合として理研科学映画に10社が統合され、第三次統合として朝日映画社に8社が統合された。さらに、第四次統合として京都在住の京都映音製作所など3社が統合され、電通映画社と社名を改めた。

 

◆1941年(昭和16年)12月8日、日本の連合艦隊がハワイ真珠湾を奇襲攻撃。ついに、アメリカとの戦争に突入した。
 翌9日には、早くも特集ニュース映画「帝国米英に宣戦」が上映された。この中に、有名な大本営発表の場面がある。しかし、これは生の実写ではなく、後からやり直したものだった。当時の同時録音機材はまだ機動性はなく、機密が事前に洩れることを恐れたためという。

 

◆翌昭和17年の正月興行では、「ハワイ大空襲」と題する特集ニュースが全国一斉に上映された。このハワイ奇襲攻撃はニュースカメラマンが撮影したものではない。極秘の作戦行動にニュースカメラを同行することは許されなかったからである。
 フィルムは海軍軍人が作戦記録用に撮影したものであったが、大本営がこのフィルムを取り寄せ、ニュース映画として使用させたのであった。
 ニュース映画「ハワイ大空襲」は、フィルム不足の時代に500本ものプリントを焼き、どこの映画館も観客で超満員になったという。

 

◆日本軍は、ハワイ空襲にひきつづき、アメリカ、イギリスから中国への軍事援助ルートを断つべく、仏印に進駐。
 これらアジア南方諸地域の国々との間に、軍事、政治、経済にわたる緊密な関係を確立することを目的に、南方作戦を着々と進めた。そして、映画による文化工作は南方作戦の重要な一環であった。

 

◆1942年(昭和17年)9月、陸海軍両省、外務省、情報局は次のような「南方映画工作要領」を決定した。
「南方諸地域に於ける時事映画並びに文化映画の現地製作に関しては、社団法人日本映画社をして之に当たらしむ」
 これによって、日本映画社は本社に海外局を設け、南方諸地域に香港、サイゴン、バンコック、マニラ、ビルマ、ジャカルタ、セレベスの各支局を開設し、現地語版のニュース映画と文化映画の製作を開始した。

 

◆一方、日本ニュースは陸海軍に多数のカメラマンを従軍させ、前線における将兵の活躍と苦労、聖戦の戦果を取材し、銃後の国民たちへの報道に努めた。
 また、文化映画部は従軍カメラマンたちから送られてくるニュース・フィルムを使用して、「マレー戦記」「空の神兵」「ビルマ戦記」「東洋の凱歌」などの戦意高揚を目的とする戦争記録映画を多数製作した。これらの戦記映画はいずれも一般の映画館で興行され、劇映画以上の感銘を人々に与えた。
 そして、戦争が終わったとき、日本ニュースの従軍カメラマンの殉職者は52名を数えるにいたった。

 

◆1943年(昭和18年)2月、日本軍はガダルカナル島を撤退。5月には、アッツ島で守備隊2500人が玉砕。もはや戦局の不利はおおうべくもなかった。
 6月、政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、10月21日には、出陣学徒の壮行会を神宮外苑競技場で挙行した。ゲートルを巻いた7万人の学徒が雨の競技場に泥をはねあげながら行進する映像は、当時の日本ニュースの名場面として今日でもしばしば使われている。

 

◆1944年(昭和19年)、アメリカ機動部隊の日本への侵攻はさらに激しさを増した。6月にはサイパン島に上陸、翌7月には日本のサイパン守備隊3万人が玉砕した。
 そしてサイパン上陸の3日後には、B29爆撃隊が北九州に来襲して日本本土への初の爆撃にくわえ、以後、九州、山陰、中国地方の各地をつぎつぎに襲った。
 北九州への空襲をうけて、日本映画新社は「北九州空爆の体験」と題する映画を緊急に製作した。映画は、敵の空爆に対する国民の覚悟と災厄防止の方法を説くものだった。以後、文化映画は、「敵の焼夷弾を発く」「待避はいつすればよいか」「どんな敵機が来るか」などの緊急時局映画となっていった。

 

◆一方、8月に政府は「一億国民総武装」を決定。本土決戦に備えるとして、竹槍訓練を本格化した。また、学童集団疎開の第一陣198人が上野駅を発って疎開地に向かった。10月、日本は乾坤一擲の賭けに出て、フィリピンのレイテ島沖での海戦に臨んだ。
 しかし、アメリカ艦船への神風特別攻撃隊の体当たり攻撃もむなしく、連合艦隊はここに事実上壊滅した。
 そして11月24日、マリアナ基地を発ったB29約70機の編隊が東京を襲った。もはや、ニュースカメラが撮影しうるものは、焦土と化してゆく国土だけとなった。

 

◆1945年(昭和20年)2月、アメリカ機動部隊は硫黄島上陸作戦を開始。激戦の末、日本軍守備隊2万6000人は玉砕し、硫黄島は占領された。
 3月9日夜から10日未明にかけて334機のB29の編隊が東京を空襲。死者8万4000人、罹災者150万人、焼失家屋23万戸の大被害をだした。
 3月14日には、大阪を空襲し、13万戸が焼失。以後、空襲は日本のあらゆる都市に及んだ。
 4月1日、米軍は50万人の大兵力を投じて沖縄本島に上陸を開始。日本軍は全滅し、軍人軍属の死者は約12万人、一般県民の死者は約17万人に達した。
 こうしたなかで、なおも政府は本土決戦方針を採択し、戦争継続を表明した。
 ヨーロッパでは、5月7日、同盟国のドイツが無条件降伏した。

 

◆そして、8月6日、広島に原爆が投下された。死者は推定14万人だった。
 8月8日、ソ連が相互不可侵条約を一方的に破棄して、日本に宣戦を布告。満州と南樺太への攻撃を開始し、怒涛のように侵入してきた。
 8月9日、広島につづいて長崎に原爆が投下された。死者の推定数は7万人だった。

 

◆8月10日、政府は御前会議によって、ポツダム宣言を受諾し降伏することを決定した。そして、8月15日正午、天皇がラジオで終戦の詔書を放送。玉音放送とよばれるこの放送によって、日本が敗北したことを国民につたえた。
 ニュースカメラは、焼け跡のなかに立ちつくして玉音放送を聴く人々、皇居前広場に平伏して涙を流す人々の姿を撮影した。
 日本映画社は原爆投下直後の広島にカメラマンを派遣した。「日本ニュース」第257号(原子爆弾―広島の惨害)は9月22日封切され廃墟となった広島の姿を報じた。

 

◆原爆の投下から約1カ月後の9月中旬、文部省のもとに「原子爆弾災害調査特別委員会」が設置され、200名からなる現地調査団が組織された。
 日本映画社は、原爆の被災状況を学術的に記録するために、調査団に撮影スタッフを同行させた。調査団は、生物班、物理班、土木建設班、医学班、ニュース及び遊撃班によって編成されたが、その各班に日本映画社の演出とカメラマンが加わっていた。

 

◆現地での撮影は、途中で連合国占領司令部(GHQ)に知れて一時中止が命じられたが、間もなく米軍の監視下に置かれて製作が再開された。
 翌昭和21年3月、撮影されたフィルムは東京でGHQの監視下で編集され、「原子爆弾の効果、広島・長崎」と題する2時間45分の記録映画が完成した。しかし、米軍は公開を許さず、完成映画、未使用フィルム、資料のすべてを没収し、木箱十数個に詰めて、アメリカに持ち去った。
 映画が日本に返還されたのは、21年後、昭和42年11月のことだった。
(つづく)

記事:GHQクラブ編集部