今回は、「日本交通公社七〇年史」の第二章「戦後の観光と文化運動の展開」です。
「全日本観光連盟」の設立
終戦とともに、国際観光事業を振興しようという“観光立国”の気運が盛りあがってきた。
昭和二十年十一月には、まず運輸省の鉄道総局業務局に観光係が設置され、二十一年六月にはこれが観光課となった。戦時中休止または廃止されていた地方の観光機関や観光関連事業があい次いで復活し、六月頃には三〇を数えるほどとなり、これらの諸機関、事業を糾合する民間の中央機関設立が強く要望されるにいたった。
機熟すとみた社は、地方観光機関の大同団結に着手、東京都観光協会ならびに京都観光連盟とともに発起人となって、二十一年六月二十二日、京都二条城で「全日本観光連盟」(略称全観連)の創立総会が開かれた。総会の決定で会長に元宮内大臣の松平恒雄、副会長に公社会長の新井堯爾、専務理事に元台湾鉄道局長武部英治がそれぞれ就任した。事務所は社の二室を借り、約五〇名の職員の大部分は社から移籍された。運輸省から一〇〇〇万円の補助金が交付され、ここに地方観光団体の全国的連絡機関の誕生をみたのである。なお、これに伴い、戦時中から休止状態にあった日本観光連盟は発展的に解消した。
全観連が最も力を入れた仕事は、荒廃した日本の国土を緑豊かなものとする植樹運動で、全国的規模で行なわれた。そのほか、国際観光上重要な道路の改善を外客誘致の先決問題として当局に要望したり、奈良公園の鹿の復旧、岐阜の鵜飼の復活その他観光資源の再興を促すなど、戦後の観光事業復興発展に寄与した役割は大きい。
理事長高田寛の参議院進出
社では、日本再建のために国際観光事業の振興を期するには、国会への働きかけが急務という判断から、二十二年四月第一回の参議院議員選挙にあたり、同年二月理事長に就任したばかりの高田寛をその候補者に推すことに決定、直ちに運動を開始した。
観光事業面の職域代表として広く支持を得たのみならず、社労働組合も出馬要請したほどで積極的に支援し、全社員がこぞって選挙運動にあたり、一五万以上の得票で上位四〇番で六年議員に当選した。
高田の議会における活動は、社ならびに観光業界の支持を得て活発に行なわれた。まず、両院文化委員会の中に観光事業を管掌する小委員会の設置に成功したのに続き、二十三年七月十日、内閣に「観光事業審議会」の設置をみたのも高田の積極的な活動の結果であった。このほか、国際観光事業助成法、国際観光ホテル整備法、通訳案内業法その他観光関係立法の制定ならびに建議に努め、斯界のために果した役割は大きかった。
社の海外観光宣伝活動
社の海外観光宣伝事業は、二十四年十二月制定公布をみた「国際観光事業の助成に関する法律」に基づき、二十五年度から国庫補助金が交付されたので、新たに「海外宣伝部」を設置して本格的な海外宣伝活動を開始した。
しかし、初年度の補助金額は二〇〇〇万円、翌二十六年度も微増のため、社の一般会計等から補填しても三〇〇〇万円程度に過ぎず、海外宣伝事務所の設置などは到底及びもつかない状況で、効果的活動は期待し得なかった。
二十七年度にいたり、政府補助金は一挙にほぼ倍増、社もこれに勢を得て繰入金を倍額し、合わせて六二〇〇万円余の予算で、同年七月ニューヨークの中心ロックフェラーセンターに日本観光宣伝事務所を開設、所長岩田一郎と安居院平八の二名が赴任した。昭和十六年日米開戦でニューヨークの事務所が閉鎖されてから十二年目のことであった。
さらに二十八年度には、補助金、社繰入金とも増額され、九月からサンフランシスコにも事務所を開設、所長榎本容二と大迫辰雄とが赴任した。
このように、社が政府補助金の交付を受けて外客誘致宣伝を担当してから五年を経過したが、その間補助金の飛躍的な増大は得られず、社自体も公益法人とはいえ際限なく宣伝費に繰入れるだけの財源の余裕はなく、宣伝活動資金の確保についてはいまひとつ十分な成果を得られなかった。
「旅行あっ旋業法」の制定
昭和二十年代の中頃から、わが国はようやく復興の軌道に乗り、旅行環境の整備が目にみえて進捗した。これに伴い内外旅客の往来は次第に繁くなり、当然のことながら旅客の誘致あっ旋活動も活発なものとなってきた。二十七年当時には全国の旅行業者数はすでに五〇〇社を越える盛況であったが、その反面、一部悪質業者の背徳行為も現れはじめ、社会の非難を受けることもしばしばであった。
そこで政府は、旅行の安全、快適化をはかり、旅客の接遇向上に資するとともに、旅行あっ旋業の健全な発展に寄与するため、フランス、イタリア等海外諸観光先進国の立法例を参酌のうえ、昭和二十七年七月「旅行あっ旋業法」を公布、十月から施行した。この法律は、元来悪質業者の規制を目的とした取締り法規として制定されたもので、これによって業者は登録を要し、かつ所要の監督を受けることとなった。
旅行あっ旋業は、外国人または外国人と日本人を対象とする「一般旅行あっ旋業」と、日本人を対象とする「邦人旅行あっ旋業」とに分けられたが、施行から一年半後の二十九年四月一日現在で、前者の登録数は一六社、後者の登録数は九三〇社であった。すでにわが国を代表する最大の旅行あっ旋業者であった(財)日本交通公社は、二十八年一月、運輸大臣による一般旅行あっ旋業第一号の登録を受けている。
この旅行あっ旋業法は、こののち三十一年の第二次、三十九年の第四次の大改正をふくむ数次にわたる改正にもかかわらず、旅行あっ旋業法の取締り法規的な性格は、本法における大きな柱として存続した。戦後初期の段階における“旅行あっ旋業”の健全な発達には一応対応し得たものの、三十年代の半ば以降における空前の旅行ブームのもとで、本法は十分な機能を果たすことができず、やがて四十六年の業法改正による「旅行業法」にとって代わられるのである。
「日本修学旅行協会」の設立
かねて、公社も発起人の一人として設立準備を進めていた「日本修学旅行協会」が昭和二十七年十月一日、修学旅行の指導啓蒙を目的として発足した。次いで同協会は、同年十二月十五日文部、運輸両省から財団法人の認可を得、本格的な活動が開始された。
初代会長には、元文部次官菊池豊三郎が就任したが、発会式の席上、
「由来、修学旅行は最も感銘深い学校行事であり、教育効果も大きいところから、逐年盛んになり、二十六年度は国鉄利用の修学生徒数二八〇〇余万人、その乗車賃実に一五億円の巨額に達しました。しかし反面、十分な効果を挙げ得ぬ旅行や、はては不測の事故を起こして、悲惨な結果を生んだ事例もしばしば現われてきて識者の強い関心と不安を喚起し、その解決は時代の急務とされるに到りました」
と述べ、修学旅行対策の公的機関として、調査研究、関係各方面との意志疎通により事態の改善に努めるという会の進路を表明し、また「有効に」「快適に」「経済的に」を目標に関係者の支援協力を要請している。
当初、事務局を公社内に設置し、事務局長に、前旅行部長の濱田義夫を配して発足した同協会は、爾来、各関係機関との緊密な連携のもとに、時代の推移とともに多面化する修学旅行についての要請に応えながら、その発展に指導的な役割を果たし今日にいたっている。
その間、二十八年には機関誌「修学旅行」(のち一時「校外学習」と改題)、その後も「修学旅行の手引き」各篇の作成配付、修学旅行研究校制度の確立、さらには修学旅行の実態調査、計画調査を実施、その結果から旅行の時期、方面等についての平準化を提唱しその推進をはかるなど、きわめて幅広い活動を展開した。
なかでも、国鉄をはじめ各地方自治体当局、関係団体に働きかけて実現した修学旅行専用列車は、同協会の努力に負うところが大きく、三十四年の「ひので」号「きぼう」号を第一号にやがて全国的に拡大し、また、要保護、要準保護家庭小、中学生の修学旅行に国費補助を求めた活動が実を結ぶなど、特筆すべき多くの成果をあげている。
「交通博物館」の経営受託
「鉄道博物館」は、鉄道開通五〇周年記念日にあたる大正十年十月十四日、東京駅北口に開館された。二年後の関東大震災で貴重な資料の大半を失い、いったん閉館、二年後の大正十四年四月再開した。昭和九年にいたり、旧万世橋駅の高架下の大部分が不要となったのを機会に鉄筋コンクリート三階建の本館を新設し、東京駅北口から移転した。本館および高架下を併せて昭和十一年四月開館したが、太平洋戦争の激化に伴い、二十年四月閉鎖して終戦となった。戦後運輸省は国鉄再建に忙殺され、鉄道博物館の経営にまで手が回らなかったので、二十年十月運輸省と社との間に鉄道博物館委託経営に関する契約が結ばれ、館の経営は社に引き継がれることとなった。
社では、さっそく館の修理と陳列品の整理に着手、四か月後の翌二十一年一月二十五日、名称を「交通文化博物館」と改め開館した。館長は山中忠雄、館員は二十一名で、この年の入場者は早くも二〇万人を数えた。
受託直後の館の経費は一切社が負担したが、二十二年度から陳列品の製作費と大補修費は省が負担し、陳列品の整備、小規模補修費および経常経費は社の負担とした。この年の入場者は前年と同じく約二〇万人、その内訳は、中学生六割、小学生三割、一般一割の比率で、子供たちの支持層の厚さを示している。その後、二十三、四年に若干の減少をみたものの、入場者は年々増加の一途を辿った。
その間、二十三年九月には「交通博物館」と改称するとともに、経営上の経常経費以外はいっさい運輸省の負担として委託手数料が社に支払われることになった。これは、運輸省が委託後の社の博物館経営を高く評価したためで、この結果、二十四年六月、社が国鉄代売手数料を断たれてからも、博物館経営委託を継続できたのであった。
博物館の陳列品は年を追って整備充実されたが、二十三年には、東京都より広瀬中佐銅像跡六六坪を譲りうけて屋外展示場を拡大、二十七年には、国鉄八〇周年記念事業として新展覧会場の増築を行ない、館内の面目一新をはかった。三十年には、鉄道八五周年に備えて三か年改善計画を樹て、建物の全面保修、展示では、従来の図板中心から実物および模型中心に改めるなど、利用者の利便増大に努めるとともに、館外活動をも活発に展開して鉄道をはじめとする交通知識の普及をはかった。
活発な文化宣伝活動
終戦直後の列車削減、食糧事情の窮迫など、旅行面の極度の悪条件にもかかわらず、いなむしろ、こういう状況下であったからこそ、旅行秩序の回復・改善、旅行あっ旋・サービスの向上に努めるなど、社は国内文化宣伝事業を積極的に展開した。この仕事は、社が、旅行を通じて国民一般の生活向上に寄与するという重要な使命をもつ公共的機関であるところから、多彩な方法で活発に行なわれた。
まず、二十一年四月の一か月間、社が全社的に展開した「サービス昂揚月間」は、戦後低下した旅客サービスを社自らが率先垂範して本来の水準に戻そうというのが主旨で、“良きサービスは先ずビューローから”をモットーに大いに効果を発揮した。この運動は翌年も、全国各地でサービス講習会の開催、旅行道徳の鼓吹など、その徹底を期して幅広く続けられた。
日本観光写真コンクールは、戦後の荒廃した人心を癒やすのに効果があった。二十二年四月募集の第二回コンクールの応募作品は一八八二点にのぼり、翌年一月東京日本橋三越で開催の発表展には七万人の入場者を集めるなど人気が高かった。応募作品の中の「初冬の富士」(名取久作氏)は、数年のちに社から著作権を譲り受けた大蔵省が五百円紙幣の裏面に使用して有名になった。
二十三年になると、国内の輸送も次第に復旧し、旅行の緩和に伴い、若人の登山、ハイキング、スキー、スケート熱などが漸次高まってきたので、社では長野県蓼科高原で夏季キャンプ講習会の開催、北アルプス推賞コースの踏破、越後湯沢でスキー学校の開催など、青年層のレクリエーションの指導を行なった。そのほか、ハイキングの標語募集や実地指導による健全な普及に努めるとともに、この間、NHKの全国各局とも緊密な連絡をとり、正しい旅行と健康旅行の普及をはかった。また、二十六年日本ユースホステル協会設立にさいしては、かねてからこの運動を紹介し各方面に働きかけてきた社が参画し、理事入澤文明を協会副会長に送りこむとともに、引き続きその発展につくした。
二十六、七年ごろから、観光バス旅行が盛んとなるにつれて、バスガイドの要請が急務となったので、社では全国的にバスガイドのコンクールを開催してその質的向上に努めた。
二十八、九年のデフレ傾向下では、旅客吸収のための大量のポスター、カレンダー、切符袋などを作製、次第に贈呈形式のものの大量作製が目立つようになった。
「日本旅行倶楽部」の復活
太平洋戦争によって一時事業を休止していた「日本旅行倶楽部」は、終戦後各方面からの熱望にこたえ、昭和二十一年十一月九日をもって再発足の運びとなり、機関誌「旅」十一月号も復刊第一号として発行された。
再スタートを切った倶楽部の歩みは順調で、僅か二か月の間に会員数は三〇〇〇人を超える盛況を示した。この年十二月二十二日東京神田共立講堂で開催した「世界民謡旅行の夕」には四五〇〇人の参加者を集めた。
こうした状況に力を得て昭和二十二年には組織固めに力を入れることになり、本部世話人会・専門委員会・各地方支部委員会・班委員会を設置して運営の強化をはかる。同時に戦前からの会則を改正し、会員の種別や会費額の改正も同時に行ない、機関誌「旅」もさらに充実していくこととなった。
社における対応箇所としては当初独立した事務局がなかったが、二十二年一月には文化事業部に「旅行倶楽部事務局」が置かれ、事務局主幹が倶楽部の運営を担当することとなった。主幹には入澤文明が就任した。
昭和二十四年八月から機関誌「旅」が市販雑誌へと性格変化を遂げたため、新たに「旅行倶楽部」を刊行することとなった。同誌はその後「クラブ・ニュース」を経て「旅行春秋」と改名され、現在にいたっている。
昭和二十八年頃からは支部活動が飛躍的に盛んとなり、たとえば京阪神地区では各班の合同企画の旅行が実施された。同時に、ようやく台頭してきた“ソーシアルツーリズム”の動向を先取りして、あるいは「JTBスキー学校」に多数参加し、あるいはサイクリングツアーの試走に会員が社員と同行するなど、戦後わが国のレクリエーション旅行の基礎づくりに旅行倶楽部は大いに貢献したのである。
次回は、第三章「あっ旋代売部門、苦難の再出発」となります。