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「大林組」

COLUMN「大林組」

VOL.63
小川 真理生さん

ここでは、「大林組」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第63回「大林組」

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 今回は、「大林組」の社史を取り上げます。「大林組八十年史」(1972年刊)も「大林組百年史」(1993年刊)も電子化されていて、ネットで検索できます。その中で占領期に関連する部分を、以下に引用して示します。「大林組八十年史」からで、それには写真も掲載されています。

 

第一章 敗戦の衝撃―虚脱と混迷
第四節 進駐軍工事と復旧工事

きびしい督励―ときには銃剣の下で…
 敗戦により、すべての産業が活動を停止したなかで、いち早く立ちあがったのは建設業であるが、その端緒を開いたのはいわゆる進駐軍工事であった。GHQの占領方式は間接統治であったが、はじめは日本国民の向背がわからないまま、府県ごとに軍政部をおき、各地に部隊を駐留させた。そのために多くの兵舎や将校宿舎、また航空基地を必要としたが、日本の旧軍事施設は壊滅していたため、占領開始とともにこれらを新設しなければならなかった。
 したがって進駐軍工事は、かつての軍工事と同様、至上命令として行なわれ、工期の遅延などはゆるされず、ときには銃剣で督励された。言語や風俗習慣の相違により、意思が疎通しないまま命令をおしつけられ、業者が苦しめられた多くの秘話が伝えられている。その意味では、旧陸海軍工事の場合より様相はきびしく、建設業者にとって、終戦は戦時状態の終わりではなかった。
 進駐軍工事は、まず都市の焼け残りビルを宿舎に改装することからはじまった。米軍上陸直後の九月、東京支店が日比谷の三信ビル、翌十月に東京商船学校の改修を命じられた。本店では十二月伊丹飛行場の修理を、つづいて翌二十一年(一九四六)一月には琵琶湖ホテルの改装と府下金岡キャンプの建設、東京支店は三菱本館改装と宮城県矢本航空基地建設を、ほとんど同時に受注した。
 また、このころは諸名士の邸宅が高級将校用に接収され、数寄屋建築の床柱をペンキ塗りとするような改装もしばしば行なわれた。神戸市御影の大林社長邸の洋館も米軍将校の住宅となり、大林組住宅部が施工した阪神間の大邸宅で接収されたものは数多い。これは東京、大阪のみでなく、各地支店管内も同様であった。大林組の本店建物も一階と六階と地下室を接収されたが、社員の出入りはおろか、のぞき見することさえゆるされなかった。
 つづいて兵舎の建設がはじまったが、下士官は本国から家族をよびよせて同居するようになったので、そのためのDH(デペンダントハウス・家族住宅)が各地に建設された。進駐軍工事は昭和二十三年(一九四八)ごろが最盛期であったが、基地建設はその後もつづき、朝鮮戦争以後は沖縄にまで延長された。大林組が行なったこの種工事のうち主要なものは次のとおりである。
 接収ビル改装―東京三信ビル(通信部隊宿舎)、同如水会館(将校クラブ)、同三菱本館(婦人部隊宿舎)、同住友ビル(外国貿易実業団宿舎)、大阪伊藤萬ビル(米軍通信隊、婦人部隊宿舎)、琵琶湖ホテル(将校宿舎)、愛知県蒲郡ホテル(同)
 兵舎建設―京都岡崎、同祝園、大阪金岡、岡山、倉敷、防府、宮城県神町、北海道真駒内、青森県三沢、神奈川相模原、朝霞駐留軍行政部庁舎
 家族住宅建設―大阪浜寺、宮城県多賀城、山口県岩国、福岡県西戸崎、横浜本牧、同根岸、青森県三沢
 航空基地施設―兵庫県伊丹、宮城県矢本、東京羽田、青森県三沢、北海道千歳
 レジャー施設用改装―阿蘇観光ホテル、雲仙観光ホテル、三河大島休養施設
 以上のうち、代表的なもの二、三について記しておこう。

金岡キャンプ
 昭和二十一年(一九四六)一月、米軍が関西に駐留を開始すると同時に、この地区の基地建設を担当する第八軍三二三技術部隊は、堺市郊外の旧陸軍兵舎を改装し本部とした。現在、府営金岡住宅団地の東方にある国立病院はその後身である。
 工事は終戦連絡大阪事務局を経由して発注さるべきものを、当時は手続き関係が不明確であったためか、部隊みずから市内の建設業者を物色し、直接大林組に下命してきた。その第一は、大正飛行場の格納庫を金岡に移転させ、屋内運動場をつくり、ボウリングなどの設備を設けよ、というものであった。つづいて兵舎、将校集会所、食堂等の修築、劇場の新築等を命じてきたが、すべて暖房完備ということであった。
 旧陸軍にはスチーム暖房などはなかったから、ボイラー室を新築し、二十数棟をつなぐダクトを地下に埋設する工事を行なわねばならなかった。これらの設備にもみられるように、同じ兵舎でも日米両軍の差はこれほど大きかったのである。この工事に当たり、はじめてブルドーザ、ショベルカー、大トレーラ等の大型機械を使用したが、いずれも米軍の貸与で、ここで使われたシープスフートローラなどは、はじめて目にする工事用大型機械であった。

浜寺DH
 昭和二十一年(一九四六)九月、第八軍二十五師団の下士官用家族住宅として、浜寺公園(堺市)五七万平方メートルの区域に浜寺DHが建設された。これも最初は三二三技術部隊が大林組一社に施工させる予定であったが、あまりにも規模が大きいため、銭高組、浅沼組と共同で請負い、一種のジョイントベンチャーの形式で工事に当たった。設計、監理は大阪府特別建設課であるが、三二三部隊も現場に駐在して指導した。
 工事は公園内の建物や施設の撤去からはじまったが、困難をきわめたのは数多い老松の根をのぞく作業であった。チェーンブロックや動力ウィンチでは能率があがらず、見かねた米軍が、ついに爆薬を用いたほどである。海への斜面が急であるため、これを三〇〇分の一勾配に平均させ、また強風によって砂がとぶのを防ぐ目的で全面を芝生とした。さらに高潮にそなえ、国道線より五〇センチ高い防潮堤も築造した。
 ここに建てられたのは、一一九棟二二五戸の住宅(延二万二五〇〇平方メートル)と三一棟の公共施設(延一万平方メートル)で、教会、学校、劇場、クラブや、電信局、消防署まであり、さながら独立都市の観があった。建物はすべて木造で、外部は色つきのモルタル壁、住宅内部は板張りであるが、公共施設は漆喰壁であった。
 DHでは設備工事が重視された。各戸とも台所にはガスレンジ、ガス瞬間湯わかし器、電気冷蔵庫はもとよりのこと、湯と水の配管をして、浴室にはバス、シャワー、水洗便所と電気暖房装置をした。室内暖房にはガスを用いたが、電熱用の予備もあり、また照明と防湿を兼ねて押入れや天井裏にも電灯をとりつけた。劇場その他の公共施設には、それぞれ専用のボイラー室をそなえ、電気による温水あるいは熱風放射の暖房装置をして、換気も照明も完全なものとした。DH用の水道、ガス、電気などはすべて軍専用のものであった。
 当時の日本人の生活は、被災地では地面に穴を掘り、トタン板を乗せた壕舎に住み、毎日が停電つづきでロウソクの灯にたよるほかはなかった。また浴場などなく、ドラム缶で入浴するものが多かったが、それすらも燃料がとぼしくて意にまかせない状態であった。その生活とくらべると、現在ならば普通ともいえるDHの設備ではあったが、天と地ほどの相違があり、施工担当者は切実に敗戦の悲哀を味わったといわれる。
 そうした世相であったから、労務者の必要数を確保するには食料、衣料などのヤミ物資の入手は欠かせず、そのための努力もしなければならなかった。また現場での盗難も多く、一〇人以上の集団窃盗にしばしば襲われ、大きな被害を受けた。工事用のモーターやベルト、木材、電線、電球などはもとより、工事事務所の窓ガラスまで持ち去られたほどであった。
 この工事は、完成までに十六カ月を要し、昭和二十三年(一九四八)一月、引きわたしを終わった。使用した労務者は延一一六万人、トラック同三万二〇〇〇台、荷馬車同一万五〇〇〇台に達し、工費は土木工事九五〇〇万円、建築工事一億六〇〇万円、設備工事一億二五〇〇万円、合計三億二六〇〇万円であったが、その五二%に当たる約一億七〇〇〇万円は労務費および運搬費であった。工事主任は宝来佐市郎である。なお、このDHは米軍撤退後には撤去され、昭和三十六年(一九六一)四月、府立浜寺公園が再開された。

千歳航空基地
 航空基地工事は、本店では伊丹が、東京支店では宮城県矢本が最も早く、つづいて昭和二十三年(一九四八)一月、青森県三沢基地を受注した。三沢の工事は格納庫およびモータープール建設で、同年末に完成し、さらに同二十五円には家族住宅(四月~八月)、滑走路延長工事(七月~十二月)を施工した。
 しかし航空基地工事として代表的なものは北海道の千歳基地であった。朝鮮戦争勃発の直後(昭和二十五年六月)着工、約二十六年(一九五一)十一月に完成した。これはアメリカ第五空軍から直接発注され、本店直轄のもとに、工事総主任上山敏夫、主任赤野豊らが工事に当たった。主要工事は滑走路(延長二一三五メートル、幅員四五・七五メートル)、誘導路(二二五三・九五メートル×二二・八八メートル)、ウォームアップ(試運転)エプロン(二四四メートル×六一メートル)、サービス(給油)エプロン(一六九・二八メートル×五一・八メートル)、ガソリン容量一万バレル(一五九〇立方メートル)および一〇〇〇バレル(一五九立方メートル)の鉄製円型タンク据付工事などで総請負金額は六億四二〇〇万円にのぼった。
 この工事は、アメリカ式の仕様書により、アメリカ人の監督下に行なわれ、路盤工事からコンクリート工事まで一貫したアメリカ式機械化施工であった。工事用敷地の転圧にはキャリオール、スクレーパ、グレーダ、シープスフートローラなどの重機械を米軍から貸与、あるいは払い下げを受けて用いた。はじめは使用に慣れずとまどったものの、これによって機械力に開眼し、また技術を習得したことは、のちに大きなプラスとなった。資材の砂利も、はじめは日高の武島川で手ぶるいで採取したが、間もなくパイプレックス・スクリーンを使用するようになった。労務者の不足も機械による省力化で解決された。
 しかしその反面、仕様書の表記がヤード・ポンド法であることや、種々の慣行がわが国とちがうことなどで苦心もしたが、同時に貴重な経験を得たこともある。
 与えられた仕様書によれば、コンクリート舗装の基礎となる路盤材料は「セレクテッド・マテリアル(精選材料)」とあるだけで特別な指定はなかった。これは所定の条件さえととのえば、なにを使用してもよく、材料の選択は業者に一任するという方式で、こうしたやりかたは日本になかった。このような場合、切込み砂利を使うのが当時の常識であったが、砂利を使用したのでは施工が容易でなく、また不経済でもあった。そこで特に試験室を設け、研究を重ねたのが新材料と新工法の開発にむすびついた。
 火山砂の下の赤土(褐色ローム)をバインダーとして、現地盤の火山砂と一定の割合いで混合し、適度の水を加えてしめ固めた路盤材料を開発し、約三〇〇平方メートルを現場施工してみたところ、そのテストに成功した。実験には米軍監督官も立会い、その成果を認めたので、いよいよ本採用と決定した。しかし、これを実施するには大量生産しなければならなかった。
 上山総主任は、みずから道内の開拓村をたずねまわり、農耕用のボトムプラウディスク・ハローや旧陸軍の戦車改造品を入手してきた。これは赤土の混合や牽引に用いるためであるが、国内の建設機器が未発達だった当時の応急手段であった。この路盤安定処理工法は千歳工事のみならず、その後の工事にも応用され、工期短縮と工費節減に大きく貢献した。
 このように、千歳工事は大林組にとって最初の機械化土木工事であったから、きわめて有意義ではあったが、米軍監視下で行なわれたため、現場の空気は重苦しかった。払下げを受けた重機類は古くて故障しやすく、オペレーターも未熟で、とかく予定が狂いがちであったが、能率一点張りの彼らは、いささかの遅延もゆるさなかった。コンクリート工事の場合でも、もし豆板をつくるようなことがあると、たちまち監督官がかけつけ、目の前でこわすように命じられた。そのためにバイブレータをかける打設係は絶えず緊張の連続で、手のひらにマメをつくらない者はなかったといわれる。当時うたわれたザレ歌、”千歳、千歳といさんできたが、なんだ千歳は監獄ぐらし、足に鎖がないだけよ”が、その雰囲気をよく伝えている。
 現在、千歳空港は北海道の表玄関として栄えているが、この工事が行なわれたのは朝鮮戦争中で、アメリカ軍人の町であった。バラック建のいわゆるパンパン宿が毎日一軒ずつ新築されたといわれ、風紀がわるく物価も高かった。キャラメルでさえ市価の一割増しで、赴任した現場員の労苦は、あらゆる意味で容易ならぬものがあった。

平和産業への切りかえ―復旧工事活発化
 進駐軍工事と並行して戦災復旧工事も開始された。GHQの政策転換により、産業復興援助の方針がとられるとともに、工場やビルの復旧も活発となり、やがて増築、新築にまで発展したが、この当時はきわめて微々たるものであった。
 終戦の年、昭和二十年(一九四五)後半についてみれば、この種民間工事の主要なものとしては、九月に三菱重工業第五製作所、十月に川崎重工業知多工場、日東製粉名古屋工場(以上名古屋支店)、日本麦酒西宮工場、十一月に神戸製鋼本社工場(以上本店)、十二月に石川島芝浦タービン鶴見工場(東京支店)その他を受注したにすぎない。これらの復旧工事は、戦前、戦中の軍需品生産を平和産業に切りかえるためのもので、川崎重工業知多工場は電気炉を新設して製塩を行なうのが目的であった。また日東製粉名古屋工場は当時の食料難を解決するためのもの、日本麦酒西宮工場は占領軍将兵用のもので、いずれも緊急とされた。
 翌二十一年(一九四六)にはいると、一月に徳島造船から製氷冷凍工場の新築、二月に大洋漁業から冷凍工場の増築、三月から四月にかけて日本肥料の四日市工場と名古屋工場の復旧を受注した。また五月には、大阪で近畿日本鉄道阿倍野百貨店の第一期復旧工事に着手、引きつづき本格的復旧工事に従事した。同年四月に着工した名古屋引揚援護局建設工事も時局の要請による緊急工事であった。
 このころ名古屋支店では中部日本新聞社の復旧工事を受注したが、輪転印刷機を設置するために鉄筋コンクリート建築とする必要があった。しかしこの当時は鉄筋やセメントを民間用として入手することは不可能であったから、鉄筋は鉄板からつくり、セメントはいわゆる代用セメントを用いるなどの苦心をして、ようやくこの要求にこたえることができた。
 公共工事では、昭和二十年十一月に受注した東京駅の応急復旧工事が最も早く、つづいて同二十二年二月から二十四年一月にかけて本格的な本屋復旧を施工した。これは昭和二十年五月二十五日の大空襲で被災し、三階全部と二階の大半が焼け、乗車口、降車口のドームが焼け落ちたものの復旧であるが、請負金額は約二億二六〇〇万円、当時としては大工事であった。
 道路工事では、昭和二十一年十月着工、翌二十二年六月竣工した京浜国道(品川八ツ山橋~神奈川県境六郷橋間)改修がある。これは戦時中酷使したうえ、さらに爆撃によって破壊された国道の復旧で、アメリカ第八軍東京工作隊の要求により、東京都渉外部から発注されたものであるから、進駐軍工事でもあった。工事は一期、二機に分かれ、約一〇キロの間に八カ所のプラントを設けた。工事区間は軍命令によって交通を禁止し、工事用車輛以外は迂回路を通行させたため、大いに能率があがった。
 工事に用いるブルドーザやグレーダは米軍のものが貸与された。手持ちの重機類は、戦車の改造品で能率が悪く、またローラーも戦時中はほとんど修理なしで酷使していたため半数が役に立たなかった。路面の旧コンクリートをとりこわすにも、人力では工期に間に合わないので、杭打機のモンケンを櫓にとりつけ、それで打ちこわすなどの工夫をした。
 この工事は、大林組として戦前にもなかった大道路工事であるが、アメリカの主要道路なみの両端一〇インチ、中央八インチというコンクリート舗装は、日本における最初の試みであった。完成後、任意の個所を一五カ所ボーリングし、比重、強度、厚さについて検査が行なわれたが、あらゆる点で適格とされ、米軍ならびに東京都の監督者を満足させた。工事主任は秋山学、請負金額は約一億円であった。
 戦時中から引きつづく衣料品不足を解決するためにも、また、来日した米国綿業使節団からマッカーサー宛に日本の繊維工業再建勧告が出されたこともあって、繊維工業の再建は緊急の要請であった。昭和二十三年からはこの種工場の復旧工事が発注されはじめた。主要なものをあげると、同年一月、倉敷絹織倉敷工場、四月、同西条工場、日本繊維工業都城工場、八月、倉敷絹織岡山工場、十月、帝国人絹岩国工場などがあるが、これらは復旧に引きつづいて増築、新築など施設の拡張が急ピッチで開始された。
 また、産業復興にとって不可欠な石炭、電力のエネルギー源も、いちじるしく不足していた。政府はこれを解決するため、「傾斜生産方式」により、鉄とともにこれらエネルギー源の開発に特別な保護を加えた。これによって、石炭産業は急速に伸長したが、当時、大林組が炭鉱労務者のために建てた住宅(炭住)も数多い。その最盛期は昭和二十二年~二十三年で、北海道では大夕張、日東美唄(以上三菱鉱業)、雄別茂尻(三菱地所)、歌志内、奔別(以上井華鉱業)、九州では鯰田(三菱鉱業)、大之浦(貝島炭鉱)などの炭住や病院等を施工した。
 電力不足は戦時中からのことであったが、このころが最もはなはだしく、工場の休電日は相次ぎ、家庭も連夜の停電により石油ランプやロウソクの用意を欠かせなかった。また街灯もなく、夜間の外出は危険で、電力の復旧は治安の上からも急を要した。政府は本格的な電源の開発に先立ち、昭和二十二年から二十三年にかけて電力会社に命じて応急措置を講じさせた。当時、大林組が受注した電力工事中、主要なものは次のとおりである。
日本発送電―群馬県佐久発電所放水路その他、石川県吉野谷発電所修理、山口県小野田発電所漏水修理、岩手県腹帯発電所災害復旧、岐阜県牧発電所放水路その他、山形県白岩発電所改良
東北配電―宮城県池月発電所護岸その他、同災害復旧、岩手県岩根橋発電所災害復旧
 このように進駐軍工事と復旧工事によって業務は再開されたが、その遂行に当たって最も困難をきわめたのは物資の入手であった。金岡キャンプの建設に際し労務者の食料をおぎなうため、米軍のトラックを借用して和歌山方面へヤミ米の買出しに出たものが捕えられ、警察沙汰になったこともある。また進駐軍工事であっても建設資材の配給はなく、その調達は業者の才覚によらねばならなかった。セメントを入手するために、炭鉱から石炭をヤミ買いして物物交換を行なったり、板ガラス業者に札束をつきつけて大量のガラスを買うなど、やむをえざることとして脱法行為もせざるを得なかった。
 こうした統制違反は、建設業界のみならず各方面の日常茶飯事であったが、もとより違法で、捕えられれば処罰はまぬかれない。しかし進駐軍工事の場合、理由のいかんを問わず工期の遅延はゆるされず、銃剣や拳銃によっておびやかされた。この間に処する資材担当者の労苦がなみなみならぬものであったことは、いうまでもあるまい。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー