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「ワコール50年史」

COLUMN「ワコール50年史」の「塚本幸一の生涯」その4

VOL.59
小川 真理生さん

ここでは、「ワコール50年史」の「塚本幸一の生涯」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第59回「ワコール50年史」の「塚本幸一の生涯」その4

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 今回は、いよいよ「ワコール50年史」「塚本幸一の生涯」(湯浅叡子著)の「第四章 青年社長奮闘す」後半に入り、「ワコールの社史」編は、これで終わりです。

 

■第三節 国内市場の開拓
欧米への視察旅行
 一九五〇年代半ばを過ぎ、日本経済は急ピッチで復興し、大量生産、大量消費の時代が幕を開ける。一九五六(昭和三十一)年七月には経済企画庁が『経済白書』のなかで「日本経済の成長と近代化」を発表し、「もはや『戦後』ではない」とバラ色の展望を示した。
 一九五四(昭和二十九)年には深刻な不況に襲われた和江商事も、無事に乗り切り自信を強めた。開けて一九五五(昭和三十)年に入ると一転して、ブラジャー、コルセットの飛躍的需要増加によって業績は順調に伸びていた。その年の四月、二百万円の増資がなされ資本金八百万円、従業員数は三百人に達しようとしていた。
 この数年の需要の伸びは前年比三、四割増といった急カーブで推移し、ブラジャーやコルセットといったファンデーションに対する認識が、ようやく日本の女性の間にも定着し始めたことを表わしていた。雑誌や新聞にも頻繁に紹介され「下着ブーム」が巻き起こっていた。この一連の流れを仕掛けてきたのが和江商事であり、今や業界のリーディング・カンパニーとしての地位を固めようとしていた。
 しかし、立て続けに米国大手の下着メーカーと提携して、あらゆる面での差を痛感していた幸一にとって、欧米の先進諸国を巡ってその実情を確かめることは緊急の課題であった。慎重に旅立ちの機を見計らい、十年目の復員記念日であり、かつ創業記念日である一九五六(昭和三十一)年六月十五日に合わせて欧米視察の計画が進められた。
 視察の旅程はアメリカでほぼ一ヵ月を過ごしたのち、大西洋を渡ってロンドンに飛び、パリで十日間、西ドイツ、スイス、イタリアを回る二ヵ月半の旅である。通訳を兼ねた秘書役には、日本ワーナーブラザーズ社で働いていた元吉という女性を帯同することにした。
 当時海外渡航といえば出征兵士を送る出すような感覚の御時世で、幸一が京都を出発する日は和江商事全社をあげての見送りであった。皆が北野神社に参拝し、参道の両側に並んで旗を振り、駅頭には幟が立てられた。幸一も帰国できないかもしれないという一抹の不安があり、遺書まで残しての出発であった。
 遺書は便箋数枚にわたり、「万一の事故」のときに備えて和江商事社員としてとるべき態度、考え方がしたためられていた。その内容は当然後継者の問題に触れていたが、「指導者となる人は、つねに己れを知り、他を活かす」人でなければならず、「世のため、人のために働くのが人間としての本当の働きである」と、「生かされている」という幸一の基本となる信念を吐露する内容であった。

 

三十三室の試着室に驚嘆
 ホノルルを経て南回りで飛んだ幸一は、シアトルを経て北回りで来る元吉とサンフランシスコ空港で落ち合うことになっていたが、行き違いから宿泊先のホテルでようやく巡り合うというハプニングが起こる。二人の間は、旅のスタートからぎぐしゃくした関係となり、終始、いわば典型的日本男性と非典型的日本女性のすれ違いで幸一は疲労困憊するが、おかげで遊び心をおこさず、視察という本来の仕事に専念することができた。
 最初の訪問国アメリカは下着の世界市場を押さえているだけあって、名実ともに下着王国というべきものであった。ブラジャーなどの下着製造業は第七産業の一つに数えられており、デパートの売上げでも全体の五パーセントを占めていた。ロサンゼルスで訪れたメイ百貨店では、一階から三階まで各階にブラジャー売場が常設されその力の入れように驚嘆するが、さらに三階売場の奥には三十三室ものフィッティング・ルームが列車の寝台のように並んでいて、幸一は圧倒される。
 シカゴではシアーズ・ローバック社を訪問し、和江商事のサンプルを見せながらさっそく売り込みを開始する。シカゴで四日間過ごしたのちニューヨークへ飛び、日本ワーナーブラザーズ社の社長あるソリアーノと合流する。ソリアーノの紹介でワワーナーズズラザーズ社のニューヨーク工場を訪れた幸一は、日本の下着時代を切り拓くような数々の有益な知識に触れ、貪欲に吸収していった。技術や素材のことから始まり、デザイナー教育や養成といった人材に関すること、有力メーカーやその市場に占めるシェア、商品の売上げ動向、そして広告宣伝などなど、すべて日本では未知のことばかりであった。
 ほぼ一ヵ月をアメリカで過ごしたのち、ロンドンを経てパリへ渡る。パリの街角にもアメリカに劣らず下着小売店が多かった。十軒に一軒は下着の店で、さしずめ当時の日本で言えば煙草屋くらいに目についたという。下着は生活必需品の一つぐらいの気安さであった。アメリカのブラジャーはほとんど白ばかりであったが、パリでは淡い色のサーモンピンクが多く、ヨーロッパの風土とよくマッチして落ち着いた感じを受けた。一点一点手縫いという上等なブラジャーもあり、五千円、一万円という値段に幸一は目を疑った。
 視察旅行中に、幸一が限られた持ち出し外貨の枠のなかから欧米各国で買い求めたファンデーションは、大型トランク二杯分にもなっていた。合わせて撮影した三十巻に及ぶ八ミリフィルムは、帰国後、全国のデパートで関係者に公開し、海外における洋装下着の実情と将来性をアピールするのに大いに役立った。

 

世界に通用するブラジャーを
 かねてから「布帛産業立国」を思い描いていた幸一であったが、視察旅行も終わりに近づいたドイツ・ミュンヘンのホテルで日本のファンデーションの現実を見極め、その進むべき方向を次のように規定している。
「出発前、われわれの世界市場進出は近きにあり、と私は思っていた。しかし、それは間違っていた。日本のカメラの世界的進出は、日本国内におけるカメラの普及に根を持っている。ブラジャーの水準が世界を抜くためには、日本における需要度がカメラの水準に至って、はじめて実現できることなのだ。
 われわれの第一段階としては、まず国内市場を開拓、啓蒙して、その需要を喚起しながら、商品の水準、生産技術、設備その他、すべての分野にわたっての高度化が必要である。
 現在の段階での輸出は、世界の最低商品輸出のみちでしかない。なぜなら、その技術も、知識も世界最低だからだ。
『和江』は、世界の真のブラジャー業界に挑戦するものである。まだ多年の研鑽を重ね、日本市場を唯一の訓練地盤として、あらゆる角度から向上を図らねばならぬ。」(『ワコール物語』)
 そして、旅の終わりには、前途洋々たる日本下着業界の発展に意欲を燃やしつつ、その実現を支えてくれるやる気のある組織を持っている喜びを述べている。
「今回の私の旅行が、おそらく日本の洋装下着の業界を根本的に向上発展させる導火線となることは確実である。大きな抱負を持ち帰る私にとって、それを一〇〇パーセント受入れ、これを実現しようとする意欲に燃える会社を持つ私の幸福を思う。
 この会社をリードして誤りなければ、かならずや世界に冠たるものとなるだろう。その素質を十分具有していることを喜ぶ。この十年足らずで、よくこれだけの会社が出来たものである。その内容、その可能性は世界一と自負する。
 しかし地球は、とどまるところなく回転している。会社も一日も止まっていない。つねに変化しつづける。自惚れることは静止である。
 絶えざる研鑽、絶えざる反省、絶えざる向上を続けねばならぬ。
 私の旅行が、この点において、正しい指導の方向を掴んだことを喜ぶ。」『ワコール物語』)
 幸一にとっては現地事情の視察のみならず、日本の下着業界の進むべき方向を考えるよい機会となり、収穫の多い旅行となった。
 通訳の元吉との間がしっくりせず、仕事が終わればホテルの部屋に籠もることが多かったせいか、幸一は一日三十通余りの手紙をしたため、旅行中に大学ノート二冊分の日記を書いた。とくに三越日本橋本店とはまだ取引きが開けていなかったので、仕入部長あてになんどもエアメールを送り、帰国後にぜひ商品を見てほしいと依頼を重ねた。
 三越との取引きは難航していたが、東京支店長川口郁雄の四年におよぶ三越通いの甲斐あって、翌一九五七(昭和三十二)年春にはようやく口座が作られるようになったのである。

 

十年を固めて建てて次の夢
 幸一にとって欧米視察旅行の意義は大きかった。世界の下着業界の製品開発の実情、業界やマーケットの規模、流通の仕組みなどを徹底的に調べ、しっかりと自分のものとして帰ってきた。さらに欧米を回ってみて、自分が苦境のなかで夢として描いた「百年の大計」に対する自信の裏付けのようなものができたことも大きな収穫であった。
 十年一節計画でいうと、1959(昭和三十四)年が第一節の「国内市場開拓」期の締めくくりの年である。会社としての基礎固めということで毎年資本金を増やし、大阪支店、東京支店などの移転や新築、工場などの増設と相次いで施設設備の拡充を図る。
 一九五九(昭和三十四)年の創立十周年には現在の京都ビルの場所に鉄筋三階建て地下一階の新本社ビルを完成させ、静かな京都の町を騒がせるビックニュースとなった。このニュースは中央公論社から出ていた『週刊コウロン』一月二十六日号(一九六〇年)で「ブラジャーでビルを建てた近江商人」の記事として紹介され、幸一とワコールが初めて全国版のマスコミで大々的にとりあげられた。
 松村淑子の筆になる記事では、新社屋の説明やワコールの経歴などに触れたあと、「近江産のサラブレット」として幸一は、次のように紹介されている。
「ブラジャーを売る男塚本氏は近江商人である。近江は牛で知られている。ところがこの近江商人は、ある社員の言葉を借りると『サラブレット四歳馬』。
 カン馬で、眼先も利くかわりに、まごまごしていると騎手を振り落して、どこかへ突っ走りかねない“近江馬”である。」
 ワコールという今や八百人余りの従業員が働く会社を牽引する「近江馬」幸一は何事にも積極果敢であったが、文中にあるように「騎手を降り落して、どこかへ突っ走りかねない」ところがあった。その幸一を組織づくりや経理・財務の面から支えてきたのが中村伊一であった。「社長が二階の壁を塗っていると、自分は一階の土台を打っていた」と語る中村は、言い出したら聞かない幸一のよき女房役であったが、その苦労は人並みではなかっただろう。しかし、中村自身は幸一とともに経営に携わる者として、考えの道筋は違ったが結論は同じであったという。
 無から有を生みだす積極的な戦法で次々と生産や販売の拠点となるビルを建て、また事業規模に不似合いなほど早い時期から宣伝に金をかけたことも、すべて成功に結びついていった。「運がよかった」「ツイていた」と幸一は言うが、先見性と決断力がいかんなく発揮された証(あかし)であった。
 幸一は十周年を記念し、五十年計画第一節の区切りを迎えた心境を次の句に詠んでいる。

「十年を 固めて建てて 次の夢」

 欧米視察旅行から早くも世界戦略の可能性をつかんできた幸一は、世界へ羽ばたくための跳躍台として、いよいよ第二期の国内市場の確立期へと向かってゆく。

 

四太郎会を結成する
「呉方洋方」という言葉がある。百貨店の繊維関連業者の集まりなどで、呉服屋は上座に座り、洋服・洋品関係は下座に座るという暗黙の了解である。最近ではこのような慣習もほとんどなくなったようであるが、戦後しばらくの間は厳然として存在していた。呉服関係は百貨店のメイン取引先となったし、洋品関係、なかでも洋装下着はいわばメリヤス屋でしかなく、なかなか売場の確保は許されなかった。
 その呉服優位の風潮が、とくに京都では強かった。京都織物卸商業組合、通称「織商」と呼ばれる組織が大きな力を誇り、これに対して洋装・洋品雑貨を扱っているものは影が薄く、吹けば飛ぶような存在でしかなかった。
 一九五四(昭和二十九)年、西陣織のネクタイを専門に扱っていたアラ商事の荒川為義が織商の向こうを張って、洋装・洋品雑貨関連の商売をする者同士で会を作ろうと持ちかけてきた。これには幸一も二つ返事で賛成し、人選の結果、洋傘やショールの河与商事、後のムーンバットの河野卓男、ハンドバッグの近藤庄三郎が参加することになった。いずれも全国百貨店との取引きがある者ばかりであった。会の名は「四太郎(よたろう)会」と名づけ、寄って酔うて、悪いことをしたろうというのである。
 初会合は台風の晩で、発会にあたっては盃を交わし、お互いに百貨店の納入業者として各地の会合に出席し、大いに意気を上げようということで一致した。荒川が兄貴分となり、三人から入会金十万円を集めた。
 荒川の采配で、十万円は上加茂ゴルフクラブの会員権と中古クラブ・ワンセットの購入代金にあてられ、四太郎会メンバーの健康と遊びを兼ねたゴルフ練習が始まった。
 広い自然のなかでゴルフを始めてみると、幸一はこれまで経験したことのなかったような爽快感を味わった。当時はまだゴルフをする人も少なく、午前中にワンラウンドを回ってから、午後は仕事につくことも可能であった。幸一の上達は早く、翌年にはBクラスのグランドチャンピオンを獲得した。
 兄貴分である荒川為義の目には幸一の仕事はたいそう危なっかしく見えたようである。
「お前の勢いなら仕事はなんとか成功するだろうが、遊びを忘れた人生なんて意味はない。よく働き、よく遊び、健康で長生きしてこそバランスのとれた人生というものだ」
 この忠告は仕事人間の幸一にこたえたが、荒川の慎重すぎるほどの仕事のやり方はまどろっこしくて我慢ならないものであった。荒川はあらゆる場合を想定して準備をするので堅実かもしれないが、それでは勢いをつけて走れないではないか。物事には勢いというものが必要である。
 幸一はインパール作戦で一度死んだ人間である。生かされ、与えられた人生を歩んでいる。常に素っ裸であるから、身を守ったり、つくろったりする必要はない。裸ゆえに身軽で、走れるときはどんどん走れる。
 のちに荒川は本拠を東京の浅草橋に移したために脱会し、四太郎会には新たに大島武郎(七彩工芸社長)と石束晃一(第一レース社長)が加わることになった。

 

 

■第四節 相互信頼の経営
労働組合の結成
 社名をワコール株式会社に変え、売上げもハイペースで伸びてゆく。すべてが順風満帆に進んでゆくかのようであったが、幸一にとって大きな悩みが出現した。一九五八(昭和三十三)年十一月十七日、ワコールに労働組合が結成された。二度目の組合結成である。
 一度目の組合結成の動きは、一九五三(昭和二十八)年十一月に製造部門で起こった。このときは零細企業から中小企業になったころで、労働組合に慣れない幸一にとって多少ショックがあった。しかし当時の社会状況のなかでは、遅かれ早かれ労働組合はできるもの、これをうまくコントロールして仕事をしていくのが今日の経営であるし、いい試練になるだろうくらいに幸一も割り切っていた。
 思惑どおり試練はすぐにやってきた。十二月の組合との団体交渉の席で組合員から大いになじられた。このときは賃金や待遇のみならず、工場全体の労務管理などに不満が爆発したような格好であった。組合と会社は辛抱強く交渉を重ねたが、なかなか妥協の糸口が見出せないまま、いよいよストライキという最悪の事態を迎えねばならなくなった。営業関係の従業員はこぞって組合に反対で、幸一に同調してくれるのはわかっていた。そこで全従業員を工場の二階に集めて、幸一は自分の信ずる経営方針を熱烈に説いた。
 幸一は、株式公開以前から社員持株制度を推進し、自らも社宅に住み、厳しく個人と会社とを区別するように律してきたつもりである。協力と信頼こそが経営の基本方針であると信じてきた。だから幸一の考え方と行動が従業員に理解されないならば、もはや経営者の立場を辞するか、会社を解散するしかあるまい。真剣に耳を傾ける従業員を前にして、幸一は自らの不徳を詫び、その信念を語るうちに感極まり、涙で声を詰まらせてしまった。幸一退場後、本社従業員から組合に対する猛烈な反発が出て、結局組合が社長遺留の陳謝状を書き、即刻組合解散ということで事態は収拾された。
 その後組合は解散されたまま、みつば会という現業系従業員の会が組合のような役割を果たしていた。一九五七(昭和三十二)年には本社を室町から西大路に移し、新たにワコール販売株式会社を設立し、製造と営業が分離された。その一年後、ワコール株式会社製造部門の女性従業員を中心に京都ワコール労働組合が結成されたのである。

 

解決できない対立
 労働組合ができた理由は二つあった。一つは、塚本社長が事実上、製造従業員と営業従業員とを差別しているというのである。当時縫製工場従業員は日給月給で、営業などの事務職従業員は月給制であった。二つ目は工場従業員はほこり予防のため三角巾をつけるなど、支給される制服は一見して事務職と違いがわかるものであった。
 折からの労働者の権利意識の高まりを背景に、ワコールでも従業員の半数近い三百人余りの工場従業員たちのあいだに団結の気運が盛り上がり、外部から労働運動のオルグが乗り込んで扇動し、その結果、労働組合が結成された。幸一は、従業員の人数の増え、憲法で労働組合結成の自由が認められている以上仕方ない、そのときはいかに労使協調路線をとるかを考えていた。
 しかし当時はアメリカ経営学が華やかなりしころで権限の委譲がいわれ、幸一は労務担当重役に労使交渉を任せざるを得ず、直接交渉できない歯がゆさを味わっていた。いっぽう労使側の思想の原点になったのが、経営者は労働者にとって敵であるという考え方であった。経営者は甘言を用いて労働者を働かせ、その利益を横取りしてゆく。経営側の権力に対して労働者が対等の権利でその利益配分を要求するには、労働組合を結成して強固なる団結を図らねばならないという。「経営者は敵だ」と言われる立場の幸一にしてみれば、同じ企業で働く人間がなぜ対立し合わなければならないのか、その根本的な疑問が解決されないままであった。
 集団を組んでなにかを成し遂げようとするとき、それは音楽であろうとスポーツであろうと会社であろうと、最も大事なのはチームワークである。良き指導者を中心に、お互いに信頼し合えるような関係がなければ真の発展はあり得ない。それが対立・対抗するような関係になれば、発展どころか、最終的には破滅に至るに違いない。幸一は強調こそが企業発展の基本と心得て、行動してきたつもりであった。
 ところが現実には、団体交渉はまるで仇同士のような怒鳴り合いの喧嘩がくり返されるようになっていた。従業員でありながら、それが上司に向かって言う言葉かというような罵詈雑言が飛び交い、時には徹夜も続く。
 五十年計画の第二節を前にしてこんなことでは、計画の完遂どころか、会社の存続も危ぶまれるような状態である。次第に幸一の苦悩は深まり、不眠症に悩まされるようになった。カッターシャツを脱ぐと、背中から白い粉がぱらぱらと落ちる。七十四キロあった体重も五十二キロにまで減り、背中のあばら骨が浮き上がるほどになった。不眠症の苦しさは、精神的に安らぐ時間が片時も持てないことである。
 このころ、幸一の体調は最悪であった。戦争で痛めつけられた肉体に、経営者としての精神的緊張が加わり、胃潰瘍や不眠症となって現われた。ガリガリに痩せ、はた目にも気の毒な様子であったが、その治療に当たったのが灰塚義郎であった。灰塚は印刷業のかたわら背骨の矯正や指圧による治療をおこない、医者から見放された難病の患者を救ってきたという評判であった。幸一の体を一目見て驚愕した灰塚は、「命がけで治してみせる」と懸命の治療を始めた。その成果はみるみる現われ、幸一は健康を取り戻すことができた。

 

スト回避へ説得
 一九六二(昭和三十七)年春、ついに労使関係は重大な局面を迎えることになった。ベースアップを巡って、満額回答しなければ四十八時間後にストライキに突入という通告が組合から出されたのである。
 商売が活性化する四月を前にストをされたら、営業的に大損害であるし人間関係にもしこりが残る。幸一たち経営側は、硬軟両面作戦に出た。まずワコール販売に手を打った。ほとんどが営業部員で占められる販売会社では全員が社長支持派で、いかなることがあろうと団結して組合にあたるという方針が固まっていた。とりあえずバリケードを築いて在庫確保をし、組合からの妨害に予防線を張った。会社のなかはまるで戦場のような様相を呈ししてきた。
 幸一はあらゆる準備を重ねながら、最後の手段は自分が交渉の場に出るしかあるまいと覚悟していた。
「おれに会わせろ。おれの部屋で、おれ一人でいい」
 幸一は制止する幹部を振り切って、組合員や外部から来ているオルグたちと話し合いの場に臨んだ。部屋に入ってきた相手の顔を見た瞬間、幸一は「勝てる」と感じた。戦争体験を持つ幸一にしてみれば、命を賭けて事に臨もうとしている者とそうでない者の差は歴然としている。相手はあくまでも作戦にもとづいて行動しているにすぎない。一方の幸一は命がけである。命がかかっている人間の迫力というのは、相手が十人いようが十五人いようが恐れるには足りない。昼から四、五時間に及ぶ折衝になった。
 幸一は、会社の経営の現状、財政状態、将来への展望、労働者の生活向上と職場環境の改善など将来計画を熱っぽく語った。言葉の端々に、会社と組合にとって最も不幸なストライキだけはなんとしてでも避けたいという思いが滲みでていた。
「おれはこういう人間だ。命など惜しくない。おれは立派な会社を作ろうとしている」
 最後にはインパール作戦で得た人生観にまで触れて、話し合いが終わった。幸一はついに説得に成功し、ストライキは中止され、妥協案で事態を乗り越えることができたのであった。

 

出光佐三の講演を聞く
 ストライキという非常事態は回避できたが、幸一の悩みは解決しなかった。たいへんな持病のある人間が、発作に対して頓服をのむか手術をして一時しのぎをしただけであって、本質は全然治っていない。この状況が決して永続できるような安定したものでないことは、幸一にはよくわかっていた。
 解決策を見出せず反問をくり返す幸一であったが、大きな転機が訪れることになった。その年の七月二十三日のことである。夕方六時すぎ、幸一はたまたま時間が空いたので、京都ホテルで開かれている京都経済同友会主催の講演会に飛び込んだ。当時の京都経済同友会の代表幹事は千吉の西村大治郎であったが、西村は関西経済同友会幹事の大原総一郎を非常に尊敬していたので、大阪と京都で共通の年間テーマを掲げていた。そのときの年間テーマは「経営者の人間像」であった。そのテーマに従って月一回、当時の創業経営者に講演してもらうことになっていたのである。
 幸一がなんの予備知識もなく飛び込んだその日の講演は、出光興産の出光佐三社長によるものであった。出光は完全な人間尊重の経営論者で、その日の講演内容は幸一の頭に「百万ボルトの電流を流された」ように感じるほど強烈なものであった。
 出光によると、日本文化、日本の伝統は永い歴史の間、聖徳太子以来、「和を以て貴しとなす」の人間関係を作ってきた。欧米のような何事にも弁護士を入れる契約社会とは違い、日本では言葉だけで命を賭けてやり抜くという精神文化を連綿と作りあげてきた。例えば「おまえを見込んで頼むぞ」と言えば、意気に感じて素晴らしい力を発揮することができる。出光興産では人間尊重の精神をそのまま取り入れて、就業規則もなければ定年制もなく、出勤簿もないという日本人独特の精神文化で会社を経営しているという。
 そのときの感動を、幸一は次のように述べている。
「約一時間半、立ったままで話を聞く。私の考え方の中で共鳴し、かくありたいと夢見る現実をそのまま、七、五〇〇人の大世帯で実践しておられる。(中略)
 この姿こそ、真の人間の平和境であろう。顧みれば当社も創業以来、約六、七年間は、そのような家族的な温かいムードがあり、全員が一丸となって仕事に喜びを感じ張り切っていた。
 すばらしい躍進の時期であった。その根があったので今日までの社運を作り上げる事ができた。ところが今日を冷静に考えると、年数がたち、人員が増加し、組織が拡大するに従って、色々と規則規定が出来てきた。
 特にこの二~三年私の体調が悪くなり、ファイトが幾分後退していた間、組織の運営に委せたので、欧米の学術的な経営組織管理が前進し、権利義務の観念が支配的となり、人間関係の温かさが後退しかけて来た。しかし、支配層は古い私とのつながりを持ち続けているために、まだまだ温かい床しいものが残ってはいるが、このままの状態を続けるとすれば、近い将来に人間関係はますます薄らいでゆくにちがいない。
 いい所でいい話を聞いた。私は出光氏のような強固な信念を持った立派な人とは比べる事は出来ないが、私は私なりに個性をもっと事業に映す事を考えねばならぬ。」(『私の経営信念』)
 ここまできてしまった労使対立の状況を考えるにはどうすればよいか。その夜、興奮のままに帰宅した幸一は、一晩じゅう組合問題を考え続ける。
「私の身体の中にある今一人の塚本が私に質問して来た。
『お前はワコールの社員を信頼しているか。本当に信頼しているなら現在のワコールの規則や規定はおかしいではないか、特に日々仕事に従事する基本となる就業規則は、お前は自らの意思で作っていない、世間一般がやっている一般のルールをそのまま持ち込んでいるだけである。それでは世間並の会社しか出来ないのは当たり前である。お前に信念と決意があれば、先ず社員を徹底的に信頼するところから始めるべきである』」(『ワコールの基本精神』)
 人間はあえて人間を変えることはできない。人間が変えられるのは、己れ自身しかいない。己れ自身は自分の決意によって変革できる能力を持っている。ところが他人を変革することは至難の技である。もしそれで他人が変わったとしたら、変わるきっかけを与えただけであって、本当はその人の決意によって変わったのである。
 労使関係も同様であろう。労働組合を力で牛耳ろうとしても、思うようにいかないのは当然である。人間を変えるのは自分自身である。幸一はその言葉を反芻しながら、一夜を明かした。

 

創業者の決断
 翌朝、幸一は出社すると、すぐに緊急役員会を招集した。その席上で幸一は、
「五年間苦しみ続けたが、ようやく解決の道を掴んだ。これからは組合員であり社員であるワコールの従業員を徹底的に信頼してゆくことにする」
 と宣言した。しかし信頼し切るといっても、彼らはそんなことを受け入れないだろうから、次の条件を示すことにした。

  1. 遅刻早退私用外出のすべてを社員の自由精神に委ね、これを給料とも、人事考課とも結びつけない。
  2. 工場作業関係者の給料制度を販売会社の社員と同じ制度とする。但し、販売会社は高卒以上採用であるので、工場の中卒採用者は高卒者の年齢に至る三年間は日給精度とするが、三年たてば自動的に月給制度に切り替える事とする。
  3. 工場作業者と一般事務者との女子の服装は作業の関係上、別のものを支給していたが、これを統一する。
  4. 労働組合の正式の文書による要求はこれを一〇〇パーセント自動的に受け入れる。

 四番目が重要であった。これまでの労使交渉の経験で幸一が最も馴染めずに苦しんでいたのが、ベアの金額のやりとりである。たとえば今年のベアは一万五千円をと腹の中にあっても、まず一万円からスタートする。相手は二万円から来る。最終一万五千円で手を打つが、実は五万円しか出せないという資料は必死でそろえる。こんなくり返しで「だまし合い」をくり返してきた。
 今後の労使交渉ではそんなだまし合いはもうしたくない。これまで対立していたのは、相手に不信感を持っていたからで、こちらがすべてを信ずれば相手も変わるのではないか。幸一は組合からのいっさいの要求は百パーセント承認することを最後に強調した。
 居並ぶ役員たちは皆驚いて、誰一人賛成する者はいない。永らく労務担当をしてきた木本が言った。
「そんなことをしたら会社は潰れてしまう」
「ほんとうに潰れるか」
 と幸一が聞くと、
「潰れる」
 と全員が口をそろえる。
 しかし、幸一は創業者である。これだけの自由と権利を組合員である従業員に与えて、待ちかまえていたように蜂の巣のごとく潰してしまうとしたら、そんな従業員や会社を作ってきた創業者である自分の不徳である。潰れるというなら潰そうではないか。今ならワコールも小さく、潰れたところで社会への影響も少ない。幸い赤字会社ではないから、財産を分ければ食べていける。それとも一致協力してこの事業を継続するというのなら、われわれ経営陣は潔く退陣し、従業員が信頼できる新たな経営者を迎えたらいいだろう。
 幸一は自分の決意を一気に述べると、あとは誰の意見にも耳を貸そうとしなかった。社長の決意の堅さに、どの役員も諦めて言った。
「仕方がありませんな、枕を並べて討ち死にしましょう。しかし一つだけ条件があります」
「実施時期を、八月三十一日が決算だから九月一日からというのではなく、十月実施にして、その二ヵ月間社長の決意を社員に徹底してほしい」
 幸一もその努力だけはやってみようということになった。

 

人間信頼の哲学
 製造部門は西大路の本社工場と北野工場に分かれていたが、全社員に対する社長自らの説明が始まった。小さな応接室に六人ほどずつのグループに分けて呼び入れ、口切りから次のように述べた。
「私は皆さんを徹底的に信頼することにしました。と言っても、あなた方は私の言うことを信頼しないと思います。しかし、ここに四つの条件があります。その条件を十月一日を期して実施します。これでもなおかつ経営者は口先だけでうまいことを言ってわれわれをだまそうとしているというのなら、この際なんでも聞く。組合の要求は一〇〇パーセント受け入れると言ってるんですから、なんでも聞きます」
 どの社員も「なにもありません」と一言。
 幸一の本心からすれば、「自分を信頼してほしい」と心底から言いたかったが、そんな要求はできない。しかし社員たちには、社長の自分から信じられていることだけは頭のなかに入れておいてほしかった。
 説明は二ヵ月間、連日おこなわれた。そしていよいよ十月一日の朝が来た。始業時刻は八時半であったが、八時過ぎから急ブレーキをかけて車がとまる音がする。遅れたらいけないというので、タクシーで駆けつけてくる。社内に張りつめたように緊張感が出はじめて、雰囲気が変化してきたのが伝わってきた。
 組合の要求を一〇〇パーセント受け入れるという条件については、それが完全に実行されるには一年余りの期間が必要であった。組合側も自分たちが出す金額が削られて妥当な金額になるなら気は楽だが、ほんとうにそのまま承認されたらえらいことになると、慎重にならざるを得なかった。
 一九六四(昭和三十九)年春のベースアップで、いよいよ組合の要求に対して満額回答が出され、本格的に相互信頼の経営が断行された。幸一は要求書を受け取ると、その金額にかかわらず即刻、判を押した。要求額が妥当なものであるかどうかは社員一人ひとりが判断することである。
 人間は機械ではない。機械は誰かにスイッチを押してもらえば、百ワットなら百ワットの電灯はつく。人間やる気になれば一〇〇は無理にしても、集団で八〇パーセントぐらいの力は出せるはずである。案外、普通は四〇ぐらいの力しか発揮されていないものである。経営者は上がってきた利益のなかからしか配分できない。組合の要求がそれを上回れば、その要求自体がアンバランスなものなのである。
 もしも組合員が「会社を支えるのは自分たちだ」という自覚をもって仕事に取り組んだなら、会社は組合の要求を受けたうえ、そのまま発展の方向へ向かうだろう。できるかできないかは、あとは組合員の問題である。
 本来なら満額回答で大喜びするところであるが、組合はすぐに大会を開き、「満額回答が出た、あとはひたすら働くのみ。がんばろう」と組合方針を決めた。「働け」という組合方針が決まったら、全員が猛烈な勢いで働きだした。能率は上がる、経費は下がる。職場の雰囲気は、幸一が青ざめるほどに変わったという。
 社員が一丸となって、運命共同体である会社の発展のために、脇目も振らずに働いている。エネルギーが充満し、目に見えて工場の生産性が上がった。
 幸一は経営への自信を深め、喜びを噛みしめていた。創業者塚本幸一の人間信頼の哲学である「相互信頼の経営」は、ワコールの企業理念として浸透していった。

 

 ―― 以上、「ワコールの50年史」に収められた「塚本幸一の生涯」戦後-占領期編を見てきましたが、ここで終わりです。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー