今回は、「ワコール50年史」「塚本幸一の生涯」(湯浅叡子著)の「第四章 青年社長奮闘す」前半に入ります。
第四章 青年社長奮闘す
■第一節 企業としての基礎固め
社長直轄の宣伝部門
ようやく百貨店での店頭販売が動く出した当時の状況は、「営業報告書」に「昨春(一九五〇年)未だ珍奇なる商品として人々の目をひきありしコーセット、ブラジャーは今や市場の一角に新商品として確実なる地歩を占むるに至る」と書かれているが、この「珍奇なる」商品である洋装下着を一般に普及させるために広告宣伝活動が必要なことは、幸一も早くから気がついていた。
一〇九五二(昭和二十七)年、幸一は自然社で一人の美大生と出会った。自然社では信者の子供たちを集めて手製の幻灯や紙芝居を作ってアトラクションをしていたが、その絵柄を描いていたのが西村恭一である。西村は京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)の同好会で劇団に属して、こうした装置作りはお手のものであった。幸一はその西村の腕とセンスを見込んで、夜間のアルバイトとして和江商事に来てもらうことにした。それまで宣伝やパッケージのデザイン的なことは幸一が素人なりにも器用に仕上げていたのだが、量や種類が増えてくるともはや限界であった。
西村の仕事場は洋館の一階の階段下にある小さな部屋であった。頭の上には斜めに階段があり、人が歩くとゴトゴトと音がするような場所である。西村は毎日学校が終わると出勤してきて、ここで夜十時過ぎまで働いた。部屋は独立していたが、宣伝という仕事が組織のなかに位置づけられるのは、もう少し後のことになる。
そのうち、西村の後輩で、同じ美大で彫刻を学ぶ内田論義がアルバイトに来るようになる。西村と内田は一階の階段下から二階の社長室の前の踊り場に移って仕事場とした。舞台の書き割りの要領で三方を囲み、「アトリエ」という看板を掲げた。和江商事における宣伝部門の草創期であった。
社長室の前という位置関係は、そのまま宣伝部門の性格を表わしていた。洋装下着という商品は、品質の確立もさることながら、まずブランドを確立しなければいけない。
「これをやる人間は、今日なんぼ儲かってなんぼ損したというのではできん話やねん」
とかくミシン台数を増やすことを優先しがちな社内の大勢であったが、幸一はイメージづくりのための投資も必要であることをくり返し説いていた。結局、宣伝部門は仕入れや販売、総務などとは一線を画し、当分の間は社長直結のラインで結ばれることになった。
下着ショウ開催
西村がアルバイトで和江商事に来てまもなく、一九五二(昭和二十七)年八月には、かつて大宝物産の安田のもとで働いていた片尾泰祥が企画・宣伝部門の統括担当として入社し、西村が宣伝全般を受けもった。
好奇心が強く、新しい時代の動きに敏感であった片尾にとって、洋装下着というのは刺激が多く創造力をかき立ててくれるものであった。この年に大ヒットしたベルト、ジュードー・サンチュールの販売は片尾の発案によるものである。
片尾が宣伝活動の一つとして手がけたのが下着ショウであった。大阪、京都の百貨店との取引きは順次開拓されていったが、唯一難攻不落、最後まで残ったのが阪急百貨店であった。ねばり強く交渉を重ねて、ようやく取りつけてきた取引きの条件は「売場ホールで下着ショウをせよ」というものであった。
下着ショウと聞いて、誰もがいったいなにをやればよいのか見当もつかなかった。そこで正しい下着の着付け方を、下着教室と銘打ってショウ形式でやることにした。当時はファッションショウ華やかなしころであったが、さすが下着モデルとなるとなかなかなり手がいなかった。仕方なく片尾は、販売のマネキン嬢のなかでもスタイルのよい女性やバレエの素養のある女性をモデルに仕立て、なんとか格好をつけることにした。
一九五二(昭和二十七)年秋、阪急百貨店で日本初の下着ショウが催された。百貨店でストリップをやるのかと店内でも物議をかもしたが、ホールの入り口にはガードマンが立ち、男子禁制の札が立てられた。会場に集まった三百人余りの女性客からは、ブラジャーやコルセット、パニエなど目新しい下着で整えられた美しい肢体に熱い視線が注がれた。この下着ショウは次々と着衣してゆくので「逆ストリップ」とあだ名されたが、たいへん評判となり、各地の百貨店で開催されていった。
デパートに売場ができると、こんどはケースの上に商品を陳列する什器類やマネキン、そして背後の壁や柱に貼る写真といった売場装飾が必要になってくる。そのなかで画期的であったのが内田の作った首長トルソーであった。首が長くて宇宙人のような恰好をしていたが、人びとの注目を集め、セールスプロモーション・グッズの基本を押さえた展示器具として販売に貢献した。
内田の入社に際しては、内田が持参した作品をまったく理解できず、西村に「あれどないや、さっぱりわからへんけど」とたずねる幸一であったが、この首長トルソーは一目で気に入り、「よくできた」と絶賛した。
ナショナル・ブランドへの道
和江商事が、当時次々と創刊された洋裁関連の女性雑誌を媒体にして、広報普及活動を展開し始めたのも同じころである。東京の広告代理店新弘社の大川篤三社長の紹介によって東京の出版社とつながりができ、それまでほとんど取り上げられることのなかった下着関連記事の取材や原稿執筆依頼がくるようになったのである。
大川が和江商事と深いつながりを持つようになったのは、一九五二(昭和二十七)年に、たまたま室町姉小路の角で当時まだ目新しい「ブラジャー・コルセット」という看板を目にして、会社を訪問したのがそもそものきっかけであった。
東京に戻った大川は、ある繊維関係者の集まりで京都の洋装下着メーカーとの出会いを話題にしてみた。ところが居合わせた人から、洋品雑貨は東京が本場で関西ものはバチもの(二流品)だから、手をつけないほうが利口ですよと言われ、その忠告とは裏腹にとことんこだわってみようと大いに発奮したのである。
たとえ東京が本場だとしても、品物が良くて世の中に広く知られるようになれば、有名品として日本一になれるはずである。東京の業者の目に物を見せ、和江商事が一流の洋装下着メーカーになるように自分のできる範囲で最大限の協力をしてやろう。大川にそう決心させたのも、幸一との出会いが発端であった。
大川の尽力によって、『婦人画報』や『スタイル』など女性誌から下着関連の記事の取材や原稿依頼を受けるようになった。広告ではなく、あくまで記事であるから、広告料も不要である。適当なデザイナーの名を借りて、一般記事のように見せかけて商品紹介の原稿を書いた。原稿を書くのは片尾である。文末に記された「和江商事提供」の文字がいかにパブロシティ効果を発揮したか、幸一たちはその予想以上の威力を追々思い知ることになる。
全国版の雑誌を媒体にして、関西の一地方メーカーに過ぎない和江商事の名は、いつのまにかナショナル・ブランドとなって浸透してゆくのである。
東京のカタびいき
大川が東京の業者の間で聞いた言葉のとおり、洋品雑貨や繊維二次製品における関西製品の地位はまだまだ低いものであった。東京のメーカー品はセンスもあり、縫製もきっちりとして上等なものというのが、一般の認識であった。かたや関西、とくに大阪製品は俗に「阪物」と呼ばれ、野暮ったい粗悪品を意味していた。京都は呉服では伝統を誇っていたが、洋装となると大阪と似たり寄ったりで、関西物は二流品というのが通り相場だった。
全国制覇を目指す幸一にとって、こうした意識が幅をきかせる東京をどうやって攻略するかが重大な問題であった。一九五〇(昭和二十五)年二月から始まった半沢商店への夜行による行脚は翌年五月まで一年四カ月ほど続いたが、室町の工場でコルセットの自家生産ができるようになったため、しばらくのちに取引きは途絶えた。半沢にしてみれば、「京都から熱心に通っていた若いのが、そういえば来なくなったな」といった程度で、ほとんど気にも止めていなかったに違いない。
その年十一月、かつてイラワジ会戦で幸一の所属する隊の大隊長であった薮中謙二が、若い畑中保男を連れて就職の依頼にやってきた。薮中は幸一より一歳年下であったが、陸軍士官学校出身のポツダム少佐という肩書きを持っていた。幸一の目から見れば、薮中は大らかな性格であまり商売向きとは思えなかったが、一緒に連れてきた畑中が商売の経験もあり、考え方も商人らしく筋が通っていたので、二人の組み合わせならば任せてもよいかと判断した。
一九五二(昭和二十七)年一月、東京出張所は中央区日本橋久松町の栄会館の一室を借りて店開きした。
東京進出の挨拶にと半沢商店を訪ねた幸一に、半沢の社長は驚いて色を失った。かつて頭を下げて商品を受け取っていた京都の若造が、こんどは同業のライバルとなって東京に進出するという。まさに青天の霹靂であったが、自信たっぷりに「やれるものならやってみろ」鼻にもかけない様子であった。
半沢の社長の嘲笑に満ちた言葉どおり、確かに東京のほとんどの百貨店、有力な専門店は半沢の製品で押さえられ、和江商事の食い込む余地はなかった。品質に対する信用のみならず、永年のつきあいから半沢では至れり尽くせりのサービスで取引先を引きつけていた。
東京のカタびいきという言葉があるが、一度取引きができるととことん付き合い、新規参入に対しては聞く耳すら持たないそっけなさが東京の商売にはある。「阪物」に対する先入観に加えて、そのそっけなさが幸一はじめ東京出張所の面々を苦しめた。
半沢の取引先に対する接待攻勢を見て、東京出張所の薮中や畑中からは「毒には薬をもって立ち向かおう」と意見も出たが、幸一は断固として「正々堂々、誠意でゆけ」とハッパをかけ通した。今日のワコールの誠意と商品本位で商売するという営業方針は、こうしたところからも生み出されてくるのである。
軍隊と商売
いかに赤字続きであっても、東京市場の開拓は是が非でも成功なければならないことであった。遅々として取引きは進まなかったが、薮中の「狭すぎて接客もできない。一流を狙うなら、一流の店舗が必要である」という要望を聞き入れて、東京出張所は人形町へ移転する。広くなったスペースには応接セットを並べ、営業のための体裁は一応整えられた。
しかし、ある日上京した幸一は、様変わりした出張所の様子に目を疑った。驚いたことには、壁には東京全域の地図が張られ、軍隊の作戦計画そのままに赤青の線を書き込み、小さな旗まで立てられている。それを指差しながら薮中は、広い東京を歩いては埒が明かないので、ワゴン車を購入して機動力を駆使した発展計画を検討中である、という。
このとき、幸一は薮中の軍隊流やり方との根本的な違いをまざまざと感じた。軍隊と商売では世界が違う。どんなすばらしい作戦でも実行が伴わなければ、なんの成果も出てこない。商売で大切なのは、相手と顔をつなぎ、着実に信頼関係を築いてゆくことである。一軒一軒得意先を訪問して、足で稼ぐ地道な苦労なくしては成り立ち得ないものであった。
東京市場での売上げの伸び悩みに、いつまでも漫然と手をかまぬいているわけにはゆかない。一九五三(昭和二十八)六月には薮中所長の京都本社への転勤が命じられた。営業マンとして再教育するためである。
結局、これを機に薮中は退社することになり、東京開拓の重責は東海道、山陰を担当するかたわら北海道開拓をおこなっていた川口郁雄に引き継がれることになった。
布帛(ふはく)産業立国の夢
「百年の大計」を思い描いた当初から、幸一の頭のなかには、製造卸業としての和江商事の企業イメージが描かれていたが、それがいっそう明確になるのが一九五〇年代であった。
京都という町で創業した意味も大きかった。京都の町は千二百年の伝統をもつ日本文化の中心地である。京都で安物づくりは似合わず、狙う商品は中高級品の価格帯である。将来は大衆化するが、現在はまだ普及していないものを大衆化ささせるための販売法方法を考えると、一般大衆が入りやすく信用のある都市のデパートがふさわしいだろう。
こうして事業内容を固めていったが、幸一には成算があった。これは洋装化する日本女性が対象であり、縫製中心の商品であるから、手先の器用な日本人にとってぴったりの事業に発展するに違いない。いずれ欧米と競う時期がくるかもしれないが、縫製事業で冠たる日本は絶対に負けないはずである。呉服の町として長い伝統を誇る都市で育ち、家業を手伝いながら、幸一はその洗練された技術やデザインの素晴らしさが文句なしに世界一流のものであることを肌で知っていた。
幸一は一九五二(昭和二十七)年六月ごろから折にふれて、「布帛産業立国」の夢を語るようになっていた。布帛というのは本来、生地や織物のことであるが、そこに「繊維加工」の意味を含めていた。日本には、永い歴史のあいだに培われた優美なる伝統工芸とそれを支える優秀な労働力がある。その恵まれた条件を生かして、世界に冠たる繊維加工産業国として立国すれば必ず日本は豊かな国になるという構想があった。
戦後の日本経済が鉄鋼、金属、化学など重化学工業への道を突き進み、巨大な設備を必要とする重厚長大産業がもてはやされるなかで、幸一の目は浮き草のような存在であったファッション製品に注がれていた。
スイス時計のように精度の高い高級品としてブラジャーを位置づけ、世界の隅々まで浸透させよう。ミシンの保有台数わずか三十七台事業規模でありながら、幸一のスケールは世界規模であった。
事業の本質
事業が拡大するにつれて、和江商事の事業の本質に対する理解が進んでいった。中村伊一の認識によると、その推移は次のように整理される。
- 布帛産業立国
一九五二(昭和二十七)年に木原工場と統合を果たし、ようやく製品が自家製造されるようになったころは、しばしば布帛産業立国を語り合った。 - 繊維二次製品製造卸
戦前はもちろん、戦後もかなりの期間まで、消費者は生地を買って衣料品を自分で仕立てるか、他人に仕立てを頼むかしていた。既製品は下級品としての取扱いであった。それが戦後十年余り過ぎると、繊維製品の既製品化が急速に進み、やがて繊維業界の基本潮流となる。
一九五四(昭和二十九)年ごろから、和江商事は自らを繊維二次製品製造卸商と位置づけていた。これは、当時の和江商事とは比較にならないほど巨大企業であった原糸メーカーや染色織布業者に対しての、かつて「潰し屋」と言われ、軽蔑されていた立場にあった縫製業者の独立宣言、あるいは自己主張であった。 - 洋装下着製造卸
その後、ファンデーション・ランジェリーの売上げが急増するにつれて、一九五七(昭和三十二)年ごろから、洋装下着製造卸という表現に変わっていった。と同時に、既製品業者こそ繊維製品を最終消費者へ届ける窓口であることが明確になってきた。 - 装美製品製造卸
一九六五(昭和四十)年ごろになると洋装下着の本質は美の創造、つまり美しく装うための道具であり、繊維はそのための原材料であるとの認識に至った。ワコールの事業の本質は、女性を美しくするための道具の製造卸という結論に達したのである。
■第二節 ワコール誕生
黒船来航
一九五三(昭和二十八)年八月、和江商事は前年比二〇三パーセントの売上高をあげて、第四期の決算を終えた。資本金は四百万円、従業員数は百五十五名になっていた。第五期も依然として明るい市況を期待していたところ、アメリカから下着の大手メーカー、ラバブル・ブラジャー社進出の情報が飛び込んできた。日本ラバブル・ブラジャー株式会社が設立されたというのである。それまで国産品だけでまもられてきた市場への外国企業の進出、「黒船来航」である。
当時、国内のどの同業者でも自社生産率は低く、下請けに依存するメーカーが少なくなかった。そのなかの一社と提携でもされたら生産面は完全に押さえられ、巨額な宣伝費を使って物量にものを言わせた嵐のような市場進出がおこなわれるであろう。
十月、幸一は東京出張所の中村平之助と通訳として惣司秀雄を伴って、日本ラバブル・ブラジャー株式会社の工場を訪れることにした。その朝、夜行で東京に着くと、まず皇居に参拝した。幸一にしてみれば、国の威信を一身に背負うほどの覚悟であった。ラバブルの工場見学が許されたときのために、撮影用のカメラも持参した。
日本ラバブル社からは社長のニコラス・シェンクが現われ、交渉にあたった。日本国内での提携先を早急にみつけ、一刻も早く販売にもっていきたい意向である。提携にあたっては百万円の保証金が必要だという。幸一は一晩考え抜いて、提携に踏み切る決断を下した。ここはとりあえずラバブルの言い分をのんで国内販売権を握り、いずれ牛耳ってゆこうという腹づもりであった。
契約書を交わすと、ラバブルの工場見学が許された。四十坪ほどの地下工場にはリングレットの最新鋭のミシンや、一気にブラジャー周辺部がバイヤステープで縫える機械などが並び、ようやく自動の一本針ミシンができたばかりの日本とは雲泥の差があった。後日、縫製技術に詳しい渡辺あさ野も工場見学を許され、永年憧れていた機能が実現していることに驚嘆した。
日本ラバブル・ブラジャー社と提携した直後、こんどは同じ米国の下着メーカーであるエクスキュージットフォーム・ブラジャー社が日本に駐在している事実を知った。幸一はすでにその名前は業界誌などを通じてよく知っていたから、まったくの偶然でラバブル社と背中合わせのビルにその看板を発見したときは仰天した。運命的なものさえ感じて、躊躇せず会社のドアを叩いたのであった。
すでに日本の業界を調査していたエクスキュージットフォーム社では、東京を除くほとんどの地域で和江商事が圧倒的なシェアを持っていることを調べ上げていた。提携の条件は、ラバブルに比べ有利なものであった。保証金は不要、取扱数量の制約もない。販売にあたって都内のデパートに副支配人が同行し、売場にはアメリカ人女性を立てるつもりだという。
ラバブルとの独占販売契約に調印した上、エクスキュージットフォーム製品の国内販売に踏み切るというのは、和江商事にとって大きな賭けである。一つ間違えば、外資の大きな荒波にのみ込まれかねない。幸一は幹部に「マル秘文書」を配った。自分の行為は米国に屈しているようであるが、必ずや二社を自分の手で押し込め、日本の市場を守り、和江商事発展につなげていくという決意文であった。
旬日を経ず、都内の百貨店回りが始まった。エクスキュージットフォーム社のリチャード・ソリアーノ日本副支配人と同行して訪問すると、それまで玄関払いだったどの百貨店でも社長室に案内され、担当部長が呼ばれて直ちに納入が決定した。敗戦から八年、日本では未だにアメリカ人が直接交渉に来るということも珍しく、幸一は外国人の威力がたいへんなものだと驚いた。こうして次々と都内の一流百貨店に売場ができ、アメリア人のセールスガールが立つと大勢の人が集まった。
水際作戦完了
これを見て驚いたのがラバブル社である。契約期日の十二月に入るなり、即刻契約分の商品を販売するように要求してきた。しかし、販売はスタートしたが売れ行きはよくなかった。いっぽう幸一は、ラバブル社が慌て出すのも計算の内で、エクスキュージットフォーム製品の販売に力を入れた。
案の定、ラバブルは焦り出した。ラバブル社が、和江商事との独占販売契約がありながら、横浜の専門店に商品を納入しているという知らせが入った。明らかな契約違反である。
幸一は保証金百万円の返還と損害賠償を求めたが、ラバブルは応じようとしない。そこで京都地方裁判所に提訴し、執達吏がラバブルの製造機械とできあがった製品を差し押さえ、赤紙で封印した。ラバブルは自ら墓穴を掘ったのである。
いっぽう華々しく売り出したエクスキュージットフォーム製品であったが、その売上げははかばかしいものではなかった。アメリカ流に派手にデモンストレーションすれば大量需要に結びつく目論見だったが、日本ではそれが見事にはずれてしまった。加えて米国人向けに作られたブラジャーはカップサイズが合わず、またそのころの日本女性はブラジャーをむしろふくらみをおさえ込むものとして使用しており、バストを大きく突出させることを嫌ったのも一因であった。
売れないのだから仕方がない。その隙をみて和江商事から派遣された販売員たちはせっせと自社製品を売り込み、和江商事の製品に対する認識が深まっていった。
わずか半年の間に襲来した二隻の黒船であったが、幸一の機転と才覚で国内市場への参入を水際で防いだことになった。防衛というよりは、むしろ両社を「手玉に取った」ような形で積極的に新しい知識の吸収に役立てた。エクスキュージットフォーム社からは販売方法を知り、ラバブル社からは生産技術を学んだ。幸一は戦勝国アメリカと正々堂々と駆け引きをして、ついに打ち勝ったことに満足した。
エクスキュージットフォーム社はアメリカに引き揚げてしまったが、副支配人のソリアーノは幸一の営業的手腕を見こんで、帰国に際してはもっとしっかりとした提携先を持ってくると約束した。翌一九五四(昭和二十九)年、その約束にたがわず、アメリカのワーナーブラザーズ社から日本での生産・販売権を獲得して再来日した。ソリアーノとの共同出資によって、和江商事は日本ワーナーブラザーズ社を設立した。しかし、ワーナーブラザーズ製品の生産、および販売は結果的にスムーズに進展せず、数年もたたないうちに解消することになった。和江商事にとって、製品づくりの先進的な技術を大いに吸収することができたのは幸いであった。
「ブラジャーの神様になれ」
和江商事では生産から販売まで一貫しておこなう生販一体の体制が整いつつあったが、幸一は基礎研究と製品開発の手薄さが気がかりであった。そのころの幸一の日記にはしきりと、「知らぬ者が知らない商品を作って、知らぬ人に売るようなやり方。いつかあかんようになる」と書かれている。社員たちには優勝劣敗、優れた品質こそがメーカーの基本であるとくり返し述べていた。
京都女子大学で服飾史や服飾美学の講義をする玉川長一郎に和江商事の技術研究部門への誘いがあったのは、一九五三(昭和二十八)年秋であった。入社の面接にあたって、幸一から「ブラジャーの神様になれ」と激励された玉川は、体型研究とデータをもとにブラジャーのサイズの見直しから始めることにした。
ラバブル社やエクスキュージットフォーム社との提携を機に、続々ともたらされる外国製ブラジャーは驚きの連続であった。日本製の単純なS・M・Lではないサイズ区分で、カップの大きさにも大小があり、玉川はその細やかなサイズ分類に洋装社会の歴史の厚みを感じ、感嘆した。
しかし、いざ和江商事のブラジャーにサイズ設定をしようにも、いったい日本女性がどのような体型をしており、どのようなタイプに分かれているのか、データはないに等しかった。玉川は手はじめに洋裁学校に依頼して、ある程度の数値を得てアップ制に基づくブラジャーのサイズ基準を完成した。それに従って、トップバストサイズとカップサイズによる新しいブラジャーサイズをいち早く作りあげた。このサイズ基準を商品に導入し、宣伝・販売に活用することで、和江商事は業界のリーダーの地位を確立することになったのである。
一九六〇年代になると、美しいプロポーションの見直しという動きが出てくる。一九五三(昭和二十八)年に、ワコールのモデルでもあった伊東絹子がミスユニバースの第三位に入賞して以来、八頭身という言葉が使われていたが、その基準が日本人女性の現実に合っているものなのかどうか、真に日本女性の体型にふさわしいモデルづくりの重要性を痛感していた玉川は、幸一に研究のための新たな組織づくりを進言した。
何事もデータ収集から始まり、それを分析し筋道を立てて考えようとする玉川のやり方に対して、幸一はその基礎研究の重要性は認めつつ反論を述べた。これは琵琶湖のモロコ釣りを例にした「魚釣り論争」として、のちに有名な語り草となった。
玉川の主張は、魚を捕ろうと思ったら、魚の大きさが何センチであるかを想定し、それから浮きの大きさ、針の大きさを考え、計算ずくでやったら必ず捕れるというものである。ところが幸一は、魚がいそうな場所を狙って一網打尽、その職人芸的要素の優位性を主張した。科学的思考の常道をゆこうとする玉川と、かたや直感と行動力で事業を発展させてきた幸一との釣り仲間同士の論争であった。
「言いだしたら片意地張って、お互いになかなか譲らない」
後年、当時を語る玉川は、社長と意地を張り合うことが許された会社の伸びやかな空気を懐かしむ。
結局二人とも自説を曲げず、釣果での実証はなされずに終わったが、玉川の進言は塚本に容れられるところとなり、一九六四(昭和三十九)年に製品研究部が設立される。製品研究部は膨大な人体計測データをもとにして、日本人女性の理想的体型を数値によって表わした「ワコール・ゴールデンプロポーション」の発表をはじめ、数々の研究成果によってワコール発展に寄与した。製品研究部は中央研究所、人間科学研究所と名称を変え、研究内容を発展させてゆく。
初の大卒採用
商業学校を出て一日も早く商人になり家業を手伝おうと決意していた幸一にとって、真理の追求は商取引きという実業の世界でこそおこなわれるものであった。しかし、商業学校では学べない、より高度で専門的な知識が必要なこともよく承知していた。幸一が八幡商業在学中から「大学に行かなくても、大卒を使えばいいんや」と語るのを、妹の富佐子は印象深く記憶している。
一九五四(昭和二十九)年、深刻な不況が訪れた。戦後の日本経済復興の大きな弾みとなった朝鮮動乱が終わり、その反動として強烈なデフレの波にもみぬかれたのである。経費節減のため幸一自身が決済の印鑑を握り、やむなく月給を下げ、社長以下幹部でも出張で使う列車はすべて三等にして出費を切りつめた。
大阪や京都でも有名な問屋が次々と倒産し、大企業の採用中止は相次ぎ、大学生にとってたいへんな就職難となった。しかしこの大卒の就職難が和江商事にとっては幸いし、優秀な人材を得る好機となった。ワコール躍進期の経営に携わった幹部の何人かは、一九五三(昭和二十八)年からの大学卒業生採用組である。その第一号は酒田清光、惣司秀雄だった。
妹婿の木本はすでに八幡商業の教職から和江商事に移り、工場長となっていた。木本は、かつて彦根高等商業学校の同期生であり、当時滋賀大学経済学部で教鞭をとっていた高田馨を訪ね、優秀な学生が欲しいと依頼した。
木本のたっての願いから高田は和江商事を訪問して業務内容や規模を確かめ、社長である幸一から会社の将来性について説明を受けた。二人とも陸軍と海軍の違いはあったが戦争経験者であったので、「参謀室」や「幕僚室」といった軍隊用語を用いて、経営の中枢機関にあって「幕僚補佐」の役目を務めてくれるような人材が和江商事の今後にとって重要であることを語り合った。
一九五四(昭和二十九)年三月、この高田のゼミナールからは伊藤文夫が推薦され、同じ滋賀大学から池野啓爾が入社することになった。同じ年に「企画宣伝マン」の募集に応募してきたのが、同志社大学出身の藤井宏康であった。
当時、和江商事はほとんど無名に近い会社であったし、男のくせに女の下着会社に入るということで誰しも少なからず抵抗を感じ、人に話すのもためらいがあったという。喜んで入社した者は皆無で、就職難でどこでもいいから採用してくれるところにきたというのが本音であった。それを聞いて幸一も半ば諦めの心境で、「君たちは敗残兵やな」と笑っていた。その敗残兵たちが幸一の強力なリーダーシップのもとで、やがて一流企業の優秀な幹部へと成長してゆくのである。
ワコールブランド誕生
関西一円の百貨店攻略が順調に進んでいた一九五二(昭和二十七)年、和江商事は名古屋進出の手がかりとして、丸栄百貨店で売り出しをすることになった。ところが当地で店を構える森本本店という老舗からクローバー印に商標権侵害の訴えが出された。森本本店はファンデーション業者ではないが、小間物、雑貨を取り扱う、かなり近い業種であった。
かつて戦友の立花とともにアクセサリーの行商に汗を流していたころ、幸一は電車のなかでふと考えた。たとえ仕入製品にしても、自分の手を経た商品にはなんらかのマークをつけて、品質保証の意思表示をすべきではないかということであった。そのマークとして思いついたのがクローバー印である。それ以来、クローバー印はすべての商品に使い、幸一にとっては苦労をともにした永年の友のように愛着の強いものであった。譲ってもらいたいと、名古屋で市会議員をする知人を通じ交渉したが、結局許されず、登録商標権侵害賠償金を支払うことになってしまった。
新しい商標は、誰も考えつかないようなユニークなものでなければならない。すぐに幸一の頭に浮かんだのが「和江を留める」ということである。父粂次郎が考え出した「和江」という社名を永遠に残しておきたかった。「和江を留める」は「和江留」である。「わこーる」、幸一が口に出してまわりの社員にその印象を尋ねると、男より女、寒いより暖かいという意見が多く、なによりも柔らかな響きが好感を与えた。さっそく仮名で「ワコール」とアルファベットで「WACOAL」の二通りの表記で登録した。
クローバー印に愛着が強く、ワコールというブランド名とセットにした。この新しい商標は急激なファンデーションの普及で、またたく間に一般に浸透していった。
そのうちにワコールと言えばファンデーションとすぐに理解されるようになったが、和江商事ではなんの会社かわかってもらえないというギャップが生じてきた。正しく「わこう」とは呼ばれず、間違って「かずえ」と呼ばれる。東京に「和江商事」と電話しても、「服部和光ですか」と聞かれたり、「シッカロールの和光堂」と言われるなどしばしば混乱があった。このような事情から、ついに一九五七(昭和三十二)年十一月、社名を和江商事からワコール株式会社へと変更することになったのである。
ワコールという新しい社名は、ある意味で社員たちの士気を高めるのに役立った。幸一に敗残兵と笑われた新入社員たちは皆、「下着を一生売ろうとは考えていなかった。ただ、せめて入社した以上は、ワコールと言ったらすんなり通るようになるまでがんばろう」と、当面の目標を設定して、自らを奮い立たせていった。
(つづき)