ワコールの戦後の歩みが、「ワコール50年史」に、「塚本幸一の生涯」(湯浅叡子著)を通じて、綴られている。それを、「第三章 日本再建の一助たらん」「第四章 青年社長奮闘す」をそれぞれ2回、都合4回に分けて紹介していきたい。今回は、その1で、「一九四六(昭和二十一)年六月十三日、復員船は浦賀に接岸した。幸一にとって、五年半ぶりに見る祖国であった」に続くところから見ていく。
第三章 日本再建の一助たらん
■第一節 ゼロからの出発
復員
一九四六(昭和二十一)年六月十五日、幸一たち一行を乗せた復員列車は前日に品川を発ち、終着の京都に向かった。
午前四時、京都駅着。浦賀から電報で到着時刻を知らせてあったので、駅には父粂次郎と妹富佐子、そして叔父の岡田貞三の三人が出迎えていた。幸一の姿を見て、出迎えの家族は一様に驚いた。みすぼらしい軍服、目だけがギョロギョロとして痩せこけた顔。そこには永い戦地での苦闘が滲んでいた。幸一にしてみても、五年半ぶりに見る父や妹の姿である。父粂次郎は髪がすっかり白くなり、その目には光るものがあった。
自宅で母信と再会の喜びを分かち合い、久方ぶりに幸一はくつろいだひとときを過ごしたが、その心中は生きて帰れた喜びの一方で、明日からの身の処し方にも思いを巡らせ、じっとしていられない気分だったのではないだろうか。京都駅から自宅に向かう道すがら、「今にビルを立ててやる」と言って妹富佐子を驚かせたのも、幸一のはやる気持ちの表われであった。
幸一は休む間もなく、東山にある護国神社に向かった。戦後の新しい生活を始めるには、なんとしても戦場での日々に区切りをつける必要があった。
一人社殿にぬかずき、生還の報告と多くの亡き戦友の冥福を祈った。参拝を終えて帰ろうとすると、参道わきの草むらで音がする。とっさに身構えた幸一が目を凝らすと、茂みのなかで一組の男女がからみ合っているところであった。米兵とパンパンと呼ばれる日本女性である。そのけばけばしい化粧をした女と視線が合った途端、幸一は驚きと羞恥心で逃げるように走り出していた。
日本女性がかつて敵であった米兵と抱き合っている。場所はよりにもよって戦友の霊が祀られている護国神社の境内である。自分たちが遠い異郷の地で抱き続けてきた、大和撫子の清純なイメージは虚像だったのか。日本の女性もすっかり変わってしまった。幸一はこれが敗戦の現実だと自らに言い聞かせながら、家路を急いだ。
模造真珠ネックレス
塚本家は戦時中の一九四二(昭和十七)年、企業整備令で父粂次郎の商売が廃業に追い込まれ、その後は売り食いでしのいでいるような生活であった。家に戻っても幸一には継ぐべき家業もなく、明日からの生活をどうするかが問題であった。よそに勤めた経験もなく、また就職を世話してくれそうな相手もいなかったので、いまさら商売以外の職業につくことも考えられなかった。
しかし、事を成そうと志を立てた者が、親の世話になることは一日たりとも我慢ならないことであった。早く商売を始めたいと思うが、何をやったらいいのかわからない。その幸一に手がかりは身近なところから訪れた。
自宅の離れに住む叔父の岡田貞三は、いずれ電機商を始めようとラジオの修理をして生計を立てていた。たまたまその叔父を訪ねた幸一は、そこで井上早苗という人物と出会った。井上は叔父がかつて勤めていた島津製作所での同僚であった。
挨拶もそこそこに、井上は抱えていた風呂敷包みからいくつかの桐箱を取り出した。箱には花の図柄が描かれていた。京都在住の画家に一つ一つ手書きしてもらったものだという。蓋を開けると、なかには台紙に留められた模造真珠が入っていた。
あまりの可憐な美しさに驚いて、幸一は思わず聞いた。
「これは数珠でっか」
「あほかいな」と井上に笑われて、それがネックレスというものであることを教えられた。井上は岡山に住む親戚が作った模造真珠を取り寄せ、人絹でくるんだ台紙に載せて、それを桐箱入りの商品にした。統制品でないから自由に商売ができ、アメリカ兵相手のスーベニアショップやPXと呼ばれる基地内の売店でよく売れるという。
「これからの日本の女性は和服を捨てて、洋服に変わってゆくのかもしれない。それにつれて新しい戦後の商売が動き出している」
幸一は模造真珠を手にしながらそう感じた。
装身具の行商
召集前に幸一が唯一自分で開拓した取引先に、御池(おいけ)通の趣味の店「ハナフサ」という小間物屋があった。幸一は、復員の挨拶がてら、その店を訪ねることにした。主人の花房吉高は商売人というより図案家としての実績があり、かつて幸一から仕入れた黒繻子の帯に図柄を描いて売っていたことがある。
花房との話からも、細々とした装身具や雑品が商売になることを確信した。そしてなによりいいことは、どれも統制品でないことであった。統制品でなければ自由に仕入れて正々堂々と商売することができる。幸一は花房と井上に頼み込んで、商品をその日決済の約束でトランク一杯分貸してもらい、商売を始めることにした。
重いトランクを提げての行商が始まった。真っ先に行ったのは少女歌劇のある宝塚であった。装身具を売るのにふさわしい土地柄と思っていたのだが、駅を降りるとかつての華やかなムードはどこにもなく、劇場は米軍の戦争処理の事務所になっていた。繁盛していた土産物屋もほとんど店をたたみ、昼間というのに通りには人っ子一人歩いていなかった。唯一開けていた店の主人に話を聞くと、賑やかなのは豊中と十三(じゅうそう)の闇市だという。
戦後の廃墟のなかで、人びとはたくましく生きていた。一九四五(昭和二十)年末の東京では人口四百万に八万人の露店商がおり、じつに五十人に一人が闇商人であったという。闇市では食物、酒、下駄、古本などあらゆるものが売られていた。
豊中の闇市でも、地面にぼろ布を敷いて、その上で雑多なものが売られていた。信用売買などできず、その場限りの現金取引きである。幸一も売れそうな場所を見つけ地べたに商品を並べると、どうにか当日分の稼ぎを上げることができた。
翌日は三宮、心斎橋と回ってみたが、どこも戦災でやられて、焼け跡にバラックがポツポツと立っている有様であった。人びとは生きることに必死で、装身具とは無縁の世界であった。結局、京都が一番栄えていることがわかった。なにもすし詰めの満員電車に乗って、遠くまで商売にいく必要はない。幸一は地元京都の開拓に切り替えることにした。
和江商事設立趣意書
GHQの指導によって日本の政治、経済、教育などあらゆる面にわたって非軍事化と民主化が推進されていった。戦争中に軍国主義的職業についたと見なされる者は公職追放され、学校ではいわゆる「黒塗り教科書」指令によって教科書から軍国主義的な文言抹が抹殺されていた。価値基準の変動が怒涛のように押し寄せ、日本国民は戸惑いながら民主主義という新しい衣を身につけ初めていた。
こうした社会の空気を反映してか、戦地から続々と帰国する復員者を迎える世間の目は冷たかった。国をまもるために戦ってきたというのに、まるで厄介者扱いであった。新聞には連日のように復員者による犯罪が報道され、それが人びとの冷たいあしらいに拍車をかけた。皆が温かく迎えてやらないから復員者は血気にはやって犯罪に走り、闇行為をするのだ。幸一は憤りを覚えながらも、持ち前の負けん気から決して闇商売はやるものかと決意を新たにした。
一ヵ月後、ようやく商売にも慣れてくると、幸一は戦友を通じて全国展開できないものかと考え始めた。全国に手を広げるにあたっては、商号が必要である。たまたま父粂次郎が商売のために用意していた各種の印鑑があったので、使わせてもらうことにした。新しい商号は出身地の近江の呼び名「江州」にちなんで、和江(わこう)商事としていた。これを見て幸一は、別の意味から気に入った。「ともに戦った揚子江の河岸で契り合った和」とも理解することができるからである。
一九四六(昭和二十一)年七月、幸一は一枚の大きな模造紙を自宅の表に貼り出した。和江商事設立趣意書である。
「終戦以来道義地に落ち、人情紙の如く、復員者の益々白眼視されつゝある現在、揚子江の滔々として絶ゆる事なく、悠々天地に和す。彼の江畔に契りを結びたる戦友相集り、明朗にして真に明るい日本の再建の一助たらんと、茲に、婦人洋装装身具卸商を設立す。(大要)
京都 塚本展見
山口 塩見
新潟 高橋
北海道 茶谷太一」
闇でなく正々堂々と商売をしていることを公表し、あわよくば新聞にでも紹介されればよい宣伝になると目論んでいたが、反響は意外なところから現われた。税務署の係官がやってきて、商売をするなら税金を払えと言うのである。聞けば、正直に申告していたら儲けの半分以上は税金にとられ、いつまでたっても資金は貯まらない仕組みであった。そこで幸一は一年目の儲けを想定して税額を定め、二年目はその倍、三年目はその倍の倍ということで三年分の税額を決め、それ以外の儲けにはいっさい手出しはしないということで妥協を取り付けた。幸一の巧みな弁舌に、税務署の係官は見事に説き伏せられてしまった。
和をもって商売をしようと意気込んだ幸一だが、戦友たちと活発にやりとりしたのは数ヵ月余りで、連絡は次第に途切れていった。同じころ、京都市内で偶然再会した戦友の一人、立花清三郎が商売を手伝うようになっていた。
電車故障結婚
少しでも多く資本を貯めて商売を大きくしようとする幸一は、遊ぶことや結婚といったことは忘れていた。両親は早く嫁をもたせようと二、三手を回して写真を用意していたらしいが、「三十までは絶対に結婚しない。それまでに商売の目処を立てるから」という息子の宣言に手をこまねいていた。
幸一は彫りの深い顔立ち、戦争体験で備わった精悍な表情、加えて当時の男性としてはかなりの長身であったから、文句なしに格好が良かった。夏の盆踊り仮装大会では女装して特賞をとり、一躍若い娘たちの憧れの的となった。商売が暇なときには、町内会長の父の手伝いをして米穀通帳の判押しをすることがあった。その日に限って近所の若い娘の来訪が増えたというが、そんな女性たちの姿も仕事一途な幸一の眼中になかったらしい。
一九四六(昭和二十一)年九月十七日、幸一は二十六歳の誕生日を迎えた。復員してからほぼ三ヵ月間、一日も休まず働きづめだったので久しぶりに映画でも観に行こうかという気になった。
この日、近所で薬問屋を営む上田良吉の長女良枝も、弟と一緒に映画に行こうと市電に乗った。ところが途中、電車故障のために降ろされて、そこで幸一と出くわすことになってしまった。父親同士が飲み友達でもあり、お互いにまんざら知らない間柄でもなかったので、幸一は風邪で来られないという良枝の母親のチケットを譲ってもらい、三人で映画鑑賞をすることになった。映画は長谷川一夫の「雪之丞変化」であった。幸一はチケットのお返しに、甘党の店でぜんざいをご馳走した。
これが幸一と良枝のなれそめであった。この日のことはすぐに双方の親の知るところとなり、あっという間に結婚話にまで進展した。三十歳までは独身でいるつもりだった幸一も、結婚したほうが落ち着いて仕事ができそうだと、その気になった。なによりも、控えめな良枝の性格を気に入ったことが最大の理由であった。
知り合って三ヵ月過ぎたころ、幸一は良枝にプロポーズをした。数日後正式に、「お受けします」という返事が来た。のちに幸一が表現するところの「電車故障結婚」の成立である。
結婚にあたっては、良枝の母親から「娘は二十人も店員さんのいるような薬問屋からの縁談もありますのに」と言われた。そのころの幸一といえば、その日暮らしの風来坊のようなものである。これを聞いて「なにくそ、いまに見ておれ」と大いに発奮した。良枝も相和して、「私の選んだ人には親をびっくりさせるような仕事をさせて見返したい。この男を絶対成功させる」という気概が備わった。
一九四七(昭和二十二)年二月四日、幸一と良枝は平安神宮で挙式した。幸一は得意先の世話でモーニングを借りて急場をしのいだ。二十一歳の良枝は、角隠しに鶴の吉祥模様の本振袖という花嫁姿であった。
結婚式は、たまたま平安神宮に来ていた連合国軍のアイケルバーガー中将一行やアメリカの新聞記者団から注目の的となり、図らずも翌日の新聞に報道されることになってしまった。カメラが花嫁ばかりに向けられるので、花婿の幸一は大いに不満であった。
■第二節 個人創業期
仕入先求む
後年になって、復員した日、すなわち一九四六(昭和二十一)年六月十五日を創業記念日とした幸一であったが、なにを生涯の仕事とすべきか模索の日々が続く。この模索期間は会社を設立するまでの三年半ほど続き、この時期を幸一は「個人創業期」と定義した。信用もなく資本もなく、まさしく徒手空拳というのがふさわしいような日々であった。しかし、その行動の軌跡のなかから、生きることに、そして商売にひたむきな一人の青年の姿が浮かび上がってくる。
地元京都の零細企業が作る細々とした商品を仕入れては、京阪神あるいは地方都市を回り、装身具や化粧品の小売店に飛び込んで売り歩いた。一九四〇年代後半の中間流通は、この種の体一つで売り歩く商売人たちによっておこなわれることが多かった。いわゆる「担ぎ屋」は統制品の闇売りであるが、幸一の場合は統制品外であるから、正々堂々と商売することができた。
しかし、どの業界でも新規参入は難しいものである。装身具商としては新参者であった幸一は、行く先々で同じ名前を聞かされ、門前払いをくわされた。
「私のところは京都の青山さんと取引きしているから結構です」
同じ京都の青山商店という強敵の存在を知り、これに勝たなければ和江商事も一人前にはなれないことを痛感した。それには独自の商品を手に入れる必要性がある。幸一は思い切って『仕入案内』という業界誌に広告を出すことにした。一九四七(昭和二十二)年二月ごろのことである。
「仕入先求む 当方二十六歳の復員軍人、財無けれど精励恪勤期待を裏切らず
京都市二条通東洞院東入
和江商事
塚本幸一」
掲載料は二千円。幸一の一ヵ月分の生活費に相当する額であった。
ほとんどが自社製品を紹介する広告記事のなかにあって、幸一のものだけが異色であった。数行の小さな囲み広告ではあったが、それに目を留めた人物がただ一人いた。山梨県の山間の村で水晶加工業を営む依田喜直であった。依田は広告を見たとき「世の中にはおもしろい男がいりものだ。よし、おれが信用してやろう」と感心したという。
当時、依田は四十七歳。依田家は代々地主として村長を務めるほどの富裕な家であったが、戦後の農地解放によって多くの土地を失い、窮余の策として水晶加工業を始めたところであった。
山梨の依田から幸一のもとに一通の手紙が届いたのは、広告掲載から一ヵ月が過ぎたころであった。十枚あまりの便箋にびっしりと細かい字で書かれた内容は、水晶メーカーである依田製作所の経歴と自社製品の優秀性、廉価さを説く熱心な売り込みであった。幸一はその誠実で几帳面な人柄がうかがえる文面に感動して、すぐさま有り金三千円を送金する。
数日後、依田製作所から届いた荷物を見ると、注文より六百円分も多く入っている。三千円では少ないから、少し余分に送ってやろうという心遣いであった。依田の温かい配慮に幸一がますます張り切ったのは、言うまでもない。
必ず成すある男
幸一は届いた商品を三、四時間後には売り切ってしまうと、売上金はすべて依田のもとへ郵便局から電報為替で送金した。すると数日後にはさらに多額の商品が送られてきた。こうして一ヵ月のあいだに三十六回の取引きがくり返される。それまで月二、三万円だった売上げは一挙に十万円まで跳ね上がっていた。
一ヵ月に三十六回の取引きというのは驚きに値する。品物を送ると直ちに代金を電送してくる幸一の真面目さに依田は驚嘆し、そのうちファイトの固まりのようなこの青年に会ってみたい気になり来訪を促した。
依田の誘いに応じて幸一が山梨を訪れることにしたのは、その年の六月のことである。幸一の第一印象を、依田は次のように回想する。
「やや痩身なれど筋肉ひき締り眼光輝きて気品備わり、内に斗志を深く秘めたるあたり、戦国の武将を想わする風格の青年」「やっぱり唯者ではない。必ず成すある男」(『ワコールうらばなし』)
一目見た瞬間から、依田は幸一の将来性を見抜いていた。かたや幸一は、十二、三人もの従業員が働く依田製作所を案内されて、分不相応な相手と取引きをしているようで気がひける思いであった。
その晩は依田家に泊まることになり、食料事情の悪いころであったにもかかわらず大いに歓待を受け、幸一は感激する。夜を徹して話し合い意気投合した二人であったが、翌朝別れの挨拶をする幸一に依田はあらたまった表情で言った。
「塚本さん、貴方はもっともっと大きな仕事をされる方だ。私の所を踏み台にしなさい。そして何時でも、チャンスを見付けたら、この商売をお止めなさい。私はその日を待ってます」(『知己』)
依田製作所との取引きは和江商事が一九四九(昭和二十四)年にブラパットを見つけるまで約二年半続いたが、水晶ネックレスは創業期の和江商事を支えた商品の一つであった。依田の予言どおり、和江商事は飛躍的な発展を遂げていったが、幸一は節目となる創立記念日の式典には必ず依田を招待して、会社の成長をともに喜んでもらった。
平野商会との取引き
精励恪勤を信条として商売に励む幸一に依田は大いに共感して、固い信頼関係にもとづく活発な商取引きが成立したが、世の中すべて同じ考えを持つ者ばかりでない。幸一は水晶ネックレスのあと金属製ブローチで商売することになるが、そこで商売人としての基本を問い直されるような事態に遭遇するのである。
好調に売れていた水晶製品も、七月を過ぎると頭打ちとなった。その年の秋も深まったころ、京都の店頭に新しいアクセサリーが出回り始めた。それまで幸一が京都の仏具職人やブリキ職人に作らせていたものとは、出来映えに格段の差があった。デザインが立体的で、メッキの色もきれいである。たとえば葡萄のブローチでも、一つ一つの房が模造真珠で形づくられ、精巧なうえに小粋であった。
埼玉県浦和の平野商会の扱い商品であると知った幸一は、京都の宿泊先の旅館に平野を訪ね、初対面の相手に商品を売らせてほしいと懇願した。幸一の熱心さに負けて、平野は残りの商品をすべて譲ろうということになったが、その代金は総額一万五千円にものぼった。幸一の用意した資金は三千円しかなかったが、思い切って全部買い取ることにした。三千円を手付けとして渡し、残金は明晩渡しの約束である。
翌朝、まだ暗いうちに家を飛び出し、神戸、大阪と売り回ってみると、確かに手応えは十分である。夕方までにほとんどの商品を売りつくすと平野のいる旅館に飛び込んだ。幸一は代金を支払い、今後関西での代理店をやらせてほしいと頭を下げた。
第二回目の取引きは、いくら催促しても応じようとしない平野を強引な手段で説得して成立させたものであった。門前払いをくわせる旅館の仲居を変装でごまかして部屋に上がり込み、平野に面会するという奇抜な作戦であった。
変装までして頭を下げる幸一に、さすがの平野も半ばあきれ顔であった。
「私の負けだ。あんたの熱意には兜を脱ぐわ」
どうしても商品を扱いたいと訴える幸一の熱意に応え、平野は手持ちの商品すべてを譲った。平野が二時間かかって仕切った商品の総額は十二万円である。手持ち金は一万円しかない。ここで全商品の半分だとか、三分の二だとか言っては、男の沽券にかかわる。幸一は支払いに一週間の猶予をもらい、全部を買い取ることにした。十二万円というのは大金である。できるか一抹の不安もあったが、幸一は「やったれ」と勝負に出た。
翌日から不眠不休であらゆる得意先を駆けずり回り、六日目にすべての商品を売りさばいた。ほぼ一ヵ月の売上げにあたる金額を一週間で売ったことになる。その晩、平野を自宅に招いてすき焼きでもてなしながら、幸一は資金がないためすべて売り切って代金を回収したことを告白した。それを聞いた平野は驚嘆して、ようやく本格的な取引きが開始される運びとなった。
商売の本道
平野商会からは続々と荷物が届いた。十二月になると、すでに三十万円分入荷しているというのに、クリスマス前の二十二日にはさらに二十万円分もの商品が入ってきた。京阪神の得意先はもう満杯状態である。新規開拓するしかなく、石炭景気にわく九州を思いついた。目的地を福岡、長崎、熊本、別府に決めた。立花にも同じように山陽、四国地方を目標に回ってもらうことにした。
福岡の町でほぼ半分の商品を売り切り、宿賃を惜しんで夜行夜行で各地を回り、一週間後の十二月二十八日には完売して帰洛した。立花も同じように完売であった。二人合わせた十二月の売上げは、約六十万円に跳ね上がった。
年が明けて一九四八(昭和二十三)年一月、二月、三月と平均五、六十万の商売が続き、平野商会との取引きは完全に軌道に乗ったかのように見えた。ところが、事態は一挙に暗転する。四月に入ると、幸一は無理がたたって激しい黄疸の症状が出たので、ドクターストップをかけられた。
ちょうどそのころ、平野商会から新製品二十万円分がどさりと届いた。正月に浦和まで代金を届けに行ったときに、平野が約束した春の新製品のはずであった。ところが得意先を回った立花は、昔の売れ残りにラッカーを塗布しただけの再生品だとさんざんに叱られたという。
それまで平野から一方的に商品を押しつけられ、代理店という弱い立場に甘んじてきた幸一にも、なぜ一日で再生品とわかるような代物を送りつけてきたのか理解しがたいことであった。自分で得意先の反応を確かめないことには納得できない。幸一は家族や医者の止めるのも聞かず、南九州出張に飛び出していった。結果はどこでも同じで、評判はかんばしいものではなかった。京都に戻ると、無理矢理売りつけた京阪神の得意先からも返品が続出した。
このまま商品を抱えてしまえば、二年間苦労して積み上げた信用も資本も失い、元の木阿弥である。かといって、全商品を平野商会に返品すれば、おそらく取引きは停止となるだろう。幸一は一晩、商売の本道とは何かを真剣に考え抜いた。結局、責任はこのような再生品を送りつけてきた相手にあるという結論に達した。幸一にすれば病身に鞭打って売り歩き、やるだけのことはやったうえでの決断である。得意先に迷惑をかけないように商品はすべて回収して、平野商会に返品することを決めた。
商売の基本は、誠心誠意事に当たり、信頼関係を第一にすることである。なぜ平野があのように簡単に信頼を裏切るような行為をしたのか、幸一には不可解であった。平野商会との取引き中止は幸一の心に長らくわだかまりを残した。
それから二十年近い歳月が過ぎた一九六五(昭和四十)年、浅草橋にあるワコールの東京店に一人の男が幸一を訪ねてきた。平野であった。彼は東京店の真裏で洋傘の骨を作っていた。以前の傲岸なところは微塵もなく、訥々と語る平野の話によると、当時は小売店に卸す価格で幸一に商品を送っていたというのであった。幸一はそれを全部売り切り、ほとんど現金仕入れというくらいの早さで代金を送金してくれた。つい調子に乗って戦前の焼き直しを送るような安易な商売をしてしまい、和江商事だけでなく他の取引先の信用も失うことになってしまったという。
それを聞いた途端、すべてのわだかまりが氷解した。そのとき感じたのは、やはり人間は正道を歩み、真面目に、真剣に努力すべきだということであった。そうすれば、知らず知らずにその働きを天に貸すことになる。「働きを天に貸せ」というのが、幸一が平野商会との取引きから学びとった教訓であった。
新卒とベテランの入社
平野商会との取引き中止に踏み切った決断に旧知の間柄であった神戸の中野ボタン店の主人は大いに賛同してくれ、飾りハンカチやカットワークカラーを斡旋してくれた。幸一はようやく取扱商品に繊維品を加えることができるようになった。
ブローチの取扱いがなくなり、次の商品を探していたとき、タイミングよくヘアークリップの大流行が始まった。一個あたりの金額は小さいが利益率は二倍ほどで、おもしろいほどよく売れた。
ヘアークリップのほかに、袋物の木口(きぐち)やアクセサリーの商売も順調になってきていたので、販売員の強化が急務となってきた。父の知り合いから、高校新卒の男子を採用してくれないかとの依頼を受けたのはこのころである。
幸一は九州出張の折に小倉をたずね、面接をすることにした。学生服を着て直立不動の姿勢でお茶を運んできたのが服部清治であった。幸一はその場で採用を決め、すぐに上京を勧めた。和江商事初の新制高校卒業の店員である。
一九四八(昭和二十三)年六月、服部は京都に着いた。市電を二条烏丸で降り、二条通をまっすぐ東に行けと言われていたので、指示どおりに歩くと前方にちょっとしたビルが見える。あれが和江商事かと思ってゆくと、それは隣家の医院であった。その西隣にある間口二間の家が自分の勤め先と知ったとき、きびすを返して帰ろうと思ったが、懐には帰りの交通費が入っていなかった。
十月になると、さらに心強い助っ人が入店することになった。父粂次郎の嘉納屋商店時代に帯地商として出入りしていた柾木平吾である。水晶ネックレスが売れていたころ、なんどか仕入れに来ていたので、和江商事の商売内容もよくわかっていた。
柾木は幸一より十五歳ほど年輩であったが、京都の呉服店の古い伝統を身につけた、言うなれば正統派の商売人であった。さっそく南九州方面を担当してもらうことになったが、その無理のない商売のやり方は多くの信頼を集め、次々と新規開拓に成功していった。いつも軍隊払下げの兵隊服にリュックを背負い、現金集金用の紫縞の小袋を腹巻きにしのばせるスタイルは、柾木の飾らない人柄をよく表わしていた。
出張に出かける柾木に幸一は頭を下げた。
「あなたの真似を皆がするから、よろしく頼みます」
商売一筋に励み、常に経費の節約に努め、会社の経費といえども無駄遣いはいっさいしたことがないという柾木の態度は、社員たちの模範となるものであった。
柾木は主に販路開拓に力を発揮し、その仕事ぶりは後輩に多大な影響を与えた。独特の商売哲学と人生哲学を身につけ、親子ほど年齢の違う若手社員に、公私のけじめ、世の中の裏表、マナーなど、会社人間として、あるいは社会人としての常識を教え続けた。また得意先に対しても常に誠意ある態度で接し、絶大なる信頼を得ていた。
二十年の有給休暇
復員して一年ほどたった一九四七(昭和二十二)年八月、戦後初の八幡商業学校同窓会が開かれた。卒業以来、同期生とは九年ぶりに顔を合わせることになった。ほとんどが召集されているので、会場では「おう、おまえ生きとったか」が挨拶代わりであった。
その同窓会の席上で、幸一は川口郁雄と再会した。在学中、柔道部の猛者(もさ)であった川口は幸一にとって近寄りがたい存在であったが、そのときは逆に川口のほうが幸一の変貌ぶりに驚かされた。かつての軟派のイメージはどこにもなく、バイタリティあふれる精悍な男に変わっていたのである。
幸一も再開した川口のことが忘れられず、ぜひ和江商事の戦力となって活躍してほしいと思うようになった。無愛想であるが、商売とくにセールス面では、幸一より川口のほうに適性があったようである。
川口は太秦と桂に工場のある三菱重工業京都機器製作所に勤務していた。当時、三菱重工では戦後の合理化のために、四万人の従業員を三千人にまで減らす人員削減がおこなわれていた。幸一の熱心な誘いに対して、川口は「もし三菱をクビになったら行く」と答えていたのだが、結果は三千人の残留組に入ることになってしまった。のちに妻となる恋人の強い反対もあって、川口は和江商事入りを断念した。
しかし、幸一は諦めなかった。三菱重工や河原町の自宅まで訪ねて説得を続けた。和江商事はこれからの企業であるから、やり方次第ではどのような発展も期待できる。ぬるま湯で一生を終わるか、波乱含みでも和江商事に人生を賭けてみるか。幸一の熱心な勧誘に川口の気持ちは揺れた。確かに大企業の三菱では、出世もたかがしれている。
川口は三菱重工では労務課に勤務していたが、仕事らしい仕事はなかった。さらに当時はサマータイム制が導入されていたので、仕事が終わっても日が長く、退屈で仕方がなかったという。自ずと足は和江商事に向いていったようである。
のちに川口が「商売そのものは、三菱重工で給料計算しているよりおもしろかった」と述懐するように、根っからの商売好きに少しずつ火がつけられていった。
結局、翌一九四八(昭和二十三)年十二月、川口は年末の有給休暇を利用して、二週間だけという約束で和江商事の仕事を手伝うことにした。仕事は名古屋への出張である。川口が待たされたのは商品と片道の交通費だけである。万が一商品が売れなければ、宿泊代も帰りの交通費も自己負担という厳しいものであった。それでも川口は混雑した車内で闇屋と肩を並べながら、この商売もまんざら悪くはないなと思い始めていた。
十四日間の有給休暇はあっという間に終わった。そして年が改まっても、川口はそのまま和江商事に出勤した。服部によると、年末のころ川口はすでに店員になっていたとばかり思っていたそうだが、その存在はすっかり和江商事にとけ込んでいたのである。
結局、三菱重工への正式な退職の手続きは取らないままであったが、当時はそんなことが許されるような時代であった。のちに二十四年ほどして、三菱重工時代の友人に出会うと、川口はさんざんにあきれ顔で冷やかされた。
「おまえ、二週間の有給休暇が二十年にもなっているぞ」
財界巨頭の参謀
妹富佐子の夫、木本寛治は八幡商業で教員をしていたが、その木本から幸一は、同級生の一人中村伊一が一九四七(昭和二十二)年十二月に復員し、同じ八商で教員をしていることを耳にした。
中村は八商をトップで卒業し、横浜高等商業学校から東京商科大学、現在の一橋大学に進んだ。早くに父親を亡くし、本来ならば進学は諦めなければならないほどの苦しい家庭環境に育ったが、中村の学力を惜しんだ親戚が学費を援助してくれ、大学まで進むことができたのである。学徒出陣で中国に渡り、満州で終戦、二年間のソ連抑留生活で辛酸をなめていた。
本木の計らいで、幸一は中村に引き合わされた。場所は八幡商業の宿直室で、一九四八(昭和二十三)年秋のことである。幸一は商売への意欲を熱っぽく語った。そして、和江商事が将来大きく発展するにはどうしても経理・財務担当の人材が実用であり、そのために中村にぜひ来てほしいと頼んだ。
ある種の運命論を信じる中村には、この熱心に口説いてくる幸一の存在は強烈であった。そのころ八幡商業の教員であったが、このままでよいのか、将来についての漠然とした不安があった。しかし、和江商事の従業員数を聞けば、わずか五人だという。中村は即答することはやめて、ゆっくり考えさせてほしいと言った。そのころ中村は同じく八幡商業の同期生からも誘われていた。そちらは滋賀県下で有数のゴム靴卸商であった。
しかし、時がたつにつれて、中村の気持ちは幸一のほうに傾いていった。復員した翌年の六月、八日市で見てもらった八卦見(はっけみ)の判断結果が忘れられなかった。その占い師は言った。
「あなたにいちばん向いているのは、財界の巨頭と呼ばれる人の参謀になることです」
そのとき「財界の巨頭」というのがまさか幸一であるとは思えなかったが、幸一にいわく言い難い吸引力のようなものを感じていた。なにごとも理詰めで考えるたちの中村であったが、のちにそれを「因縁のようなものであった」と表現している。
ひとつやってみるか。半年後、中村は和江商事入店を決心した。入店に際しては、教え子の一人福永兵一郎を引き連れていった。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」。人材確保に際して幸一がいつも口にしていた言葉であるが、幸一の熱情にほだされて、当時、海のものとも山のものとも知れない和江商事に入店することになった人も少なくなかった。事業は人なり。優秀な人材の糾合こそ事業発展の重要なカギであった。幸一のもとに結集した人材は、やがてそれぞれのポジションで存分に能力を発揮して、強力な経営陣として育ってゆくのである。
ブラパット独占販売
装身具の販売は利潤は大きいのだが、次々と流行が変わりとても安定した商売にはならなかった。加えて幸一にとっては素材的に金属やガラスはどうも性に合わず、繊維品のほうがずっと馴染みやすかった。善し悪しの目利きもできるし、勘も働く。幸一は何年か商売をするうちに、繊維に郷愁のようなものを感じていた。
幸一の繊維に対する想いを再三聞かされていた中村は、一九四九(昭和二十四)年春、アメリカのシアーズ・ローバックのカタログに洋装下着の紹介が何ページもあることを知り、そこには大きな市場が存在することを幸一に教えた。七月には東京の協立商会からブラジャーの売り込みがあった。
その年の八月、京都の雑貨商大宝物産の安田武生が三崎清々館というアクセサリー店の紹介で、和江商事を訪ねてきた。安田は鞄から饅頭のようなものを取り出した。螺旋状のアルミ線に古綿をかぶせ、それを布にくるんだものである。
安田は能弁であった。洋装の女性が目立ち始めたが、日本人はバストラインが低くて、洋服の着映えがしない。そこで、男性の背広に肩パッドが入っているように、女性の胸にパッドを入れてみたらどうか。日本人女性がすべて洋装化する日も近い。そのとき洋服の下の胸のふくらみを作るために、このパッドが必需品になる。女性が必ず洋装化するという安田の話に、幸一はまさに時代の本流をつかんでいると直感した。
すでに安田は当時京都で有名な洋裁学院の藤川延子学院長に見せて、「ブラパット」という名前をもらっていた。幸一を訪ねる前に、青山商店に回ってきたことも正直に告げた。
安田の話を黙って聞いていた幸一は、突然ポンと膝を叩いて、
「よろしい、その品を全部いただきましょう」
と一声で決めた。
京阪神の得意先にあたってみると、手ごたえは十分である。そこでファッションの中心地、東京銀座でも実際の反応を確かめてみることにした。
九月五日、夜行列車にに乗り、翌朝、東京に着いた幸一はまっすぐに銀座へ向かったが、すでにライバル店の青山商店によってブラパッドが入っていることを知り、浅草・新宿をまわって、手持ちの商品をすべて売り切った。東京でもブラパッドの評判は上々である。その晩、再び夜行で京都にとんぼ帰りすると、その足で大宝物産の安田に会い、全商品を引き取ることを条件に独占契約を結ぶことにした。結局二晩続きの徹夜となったが、一刻の猶予もなかった。これでブラパッドの取扱いは和江商事一本となった。
幸一は小資本でスタートでき、大企業への成長も可能な商品こそ和江商事にふさわしいものであると考えていた。ブラパットは、まさにその可能性を秘めた商品であった。(つづく)