今回は、「トヨタ自動車75年史」の第1部・「第9節 量産量販に向けての準備」です。
第1項 販売体制の拡充
●東京トヨペット株式会社の設立
1949(昭和24)年10月、GHQ(連合国軍総司令部)による乗用車の生産制限が解除された。翌11月からは自動車販売の割当配給制も廃止され、自由販売制になった。トヨタ自工では、早速トラック・シャシーを利用したSD型乗用車シャシーの製造を開始し、1955年には本格的な乗用車としてトヨペット・クラウン、トヨペット・マスターを発売した。
1950~55年のトヨタ車の販売台数を見ると(表は略)、乗用車に関しては、548台から7055台へと約13倍もの急増を示した。販売台数に占める乗用車の比率も、1950年の6%から年々増加し、1955年には30%を超えた。
このような乗用車市場の急拡大を背景に、1953年3月14日には東京トヨペット株式会社がトヨタ自販の直営店として設立された。同社は、東京トヨタ株式会社の乗用車販売権を肩代わりし、同年4月から営業を開始した。
当時、全国の乗用車需要の約3割を占めた東京市場では、1946年10月に東京トヨタが設立されていた。同社は、古河財閥系を中心とする銀行、生命保険、鉄道、タイヤ製造企業などの出身者で経営陣が構成され、自動車販売に経験を持つ者がいなかった。したがって、当初から苦戦が予想される体制といわざるを得ず、実際、「東京に於けるトヨタ乗用車の占拠率はきわめて低く、この劣勢はおおうべくもなかった」という状況であった。販売体制のテコ入れのため、トヨタ自販の出資により東京トヨペットを設立したのは、ある意味で当然の成り行きといえた。
1953年当時、わが国の自動車市場は、乗用車の普及期を迎えようとしていた。それに対応して、本格的な乗用車RS型クラウンの開発を進める一方、大市場の東京で販売体制が不十分であったところから設立に手間がかからない直営店として東京トヨペットを設立したのである。
東京トヨペットの設立に伴い、東京トヨタの乗用車販売権は東京トヨペットへ移り、東京トヨタは一時期、乗用車を販売できなくなった。そのため、東京トヨタの経営基盤はますます弱体化し、1967年にはトヨタ自販の資本が入って直営店化された。
東京トヨペットの設立に対して、全国のトヨペット販売店は強く反対した。新たな販売店の設置は、既存の販売店にとって既得権を脅かすものである。まして、一部とはいえ販売権を取り上げられるとなれば、死活問題に直結するので、簡単に同意できることではなかった。トヨタ自販では、東京トヨペットの設立は東京市場の特殊性を考慮した例外措置であり、全国的に展開する意図がないことを説明し、さらに全国のトヨタ販売店に東京トヨペットへ資本参加(資本金の20%)してもらうことなどにより、販売店側の理解を何とか取りつけることができた。
設立時の東京トヨペットの資本金は3000万円で、会長にトヨタ自販社長の神谷正太郎、社長に同常務取締役の永井英が就任した。本社は、虎ノ門(現在の虎ノ門営業所)に置かれ、本社屋となった木造2階建ての建物は、豊田喜一郎がトヨタ自工の社長辞任後、東京での研究拠点として利用していた場所であったと伝えられている。
●複数販売店制の推進
1955(昭和30)年1月にクラウンRS型とマスターRR型を発売したことで、トヨタ車の乗用車市場でのシェアは、前年の23.5%から35.2%へと大幅に伸長した。この年を境に、それまで販売の中心を占めた大型トラックは、乗用車や小型トラックの生産台数を下回るようになり、台数的には主力の座から退いた。また、小型トラックが乗用車を上回る伸びを示すなど、わが国の自動車市場の構造は大きく変化していった。
このような市場の変化に伴い、既存の販売体制では十分な対応が望めなくなったため、複数販売店制の導入が検討された。トヨタ自販の神谷社長がその構想を明らかにしたのは、1956年1月に開かれたトヨタ自動車販売店協会の役員会の席上であり、翌2月には具体的な説明を行った。主な内容は、以下のとおりである。
- 新設店は、トヨペット・ライト・トラックSKB型(1956年7月に「トヨエース」)マスターライン・ピックアップRR16型、同ライトバンRR17型を販売する。
- 新設店は、第1次として18府県で設立する。
- 既存店による新設店への資本参加は、経営支配にならない程度なら認める。
説明を聞いたトヨタ販売店経営者からは、新設店へのSKB型、RR16型、RR17型の販売権移管は、既得権を「何かもぎとられる感じで、経営面への影響が心配だ」などの意見が表明された。既存店側としては、不満ではあるが、今後のトヨタ自販との関係も考慮する必要があり、「本日の説明について、販売店がどの辺を得心し、どの辺を泣き寝入りしたかよくご賢察願って、今後の販売店政策を進めていただきたい」という心境であった。
1956年春には第1次新設店のうち7社が発足した。第1号は、3月20日に設立された地元愛知県の名豊自動車(愛知トヨタ内)である。続いて、4月1日に横浜トヨペット、仙台トヨペット、三重トヨペットの3社、4月2日に埼玉トヨペット、4月10日には岐阜県の丸豊自動車と兵庫県のカネキ商店が加わった。
トヨタ自工では、トヨペット店の設置に備え、トヨペット・ライト・トラックSKB型の大増産計画を立てた。また、ボデーを生産するトヨタ車体でも、1955年暮れに生産設備の増強を実施した。そして、1956年1月には販売価格が大幅に引き下げられ、これを機にSKB型トラックの需要は急増していった。
SKB型の好調な販売実績に支えられ、トヨペット店の新設は順調に進展した。1956年中に37社、1957年には11社が設立され、同年6月1日に発足した島根トヨペットをもって、トヨペット店48店(東京、大阪を除く)がそろった。
なお、トヨペット店の展開に合わせて、1957年7月1日には初代「トヨペット・コロナST10型」が同店から発売された。
一方、1957年3月に新開発のD型ディーゼル・エンジンを搭載した5トン積みDA60型トラックを発売した際、販売会社としてトヨタディーゼル株式会社が発足した。1957年2月から1958年4月にかけて、札幌、宮城、東京、横浜、静岡、名古屋、大阪、神戸、福岡に9社が設立され、その後、1965年にプリンス自動車の販売店から鞍替えした埼玉、千葉の2社が加わって11社となった。
しかし、トヨタ自工のディーゼル・エンジン開発は、小型トラック向けに傾斜していったため、大型トラック市場でのトヨタ車のシェアは次第に低下していった。それに伴い、トヨタディーゼル店の経営も行き詰まり、窮余の策として大衆乗用車パブリカを併売することになった。
その結果、トヨタディーゼル店からパブリカ店(のちにカローラ店)に名称を変更する会社が続出した。最後に残った2社のうち、東京トヨタディーゼルは1980年に解散し、従業員は東京トヨタに移籍した。もう1社の名古屋トヨタディーゼルは、1989年1月1日にトヨタカローラ名都に社名変更し、1996(平成8)年4月にカローラ愛豊に吸収合併された。
このように、国内市場の拡大に対応して、販売店は急速に増加した。初代「コロナ」が発売された1957年7月時点の販売店数は、トヨタ店が49社、トヨペット店が51社、トヨタディーゼル店が9社で、合計109社に達していた。
第2項 自動車輸出とAPA特需
●自動車輸出の再開と沖縄でのトヨタ
トヨタ自工の創業期の海外進出は、国策に沿って中国大陸を中心に展開された。会社独自の方針としては、南洋(東南アジア)方面を視野に入れた車両開発を検討し、その準備も行っていたが、戦争により実現には至らなかった。
豊田喜一郎社長は、1949(昭和24)年11月の自動車技術会会報に寄稿した「自由経済下の自動車技術」と題する文章のなかで、今後生産する国産車は、「外国に輸出し得ると共に、国内の競争にも耐え得るために、品質、特徴において外国の自動車と匹敵するは勿論、むしろこれを凌駕する必要がある」と述べている。そのうえで、開発すべき自動車として、「我々東洋民族にはもっと実用的な悪道路にもたえうる経済車」という条件をあげた。喜一郎社長は、一貫して輸出先の重点をわが国の道路事情と共通したアジアに置いていた。
1949年12月1日に、「外国為替及び外国貿易管理法」および「輸出貿易管理令」が施行され、民間業者による通常の輸出が始まった。自動車については、翌1950年4月に自動車の統制価格が廃止されたのを最後に、自動車の生産、生産用資材、販売(配給割当)価格などに関する統制・制限がいっさい撤廃された。これに伴い、自動車の輸出も自由に行えるようになった。なお、自由貿易の再開に備えて、1949年4月に自動車輸出振興会が設立され、喜一郎社長が同会の会長に就任した。
再開したトヨタ車の輸出は、喜一郎社長の方針に従い、アジアに重点を置いて進められた。1950~51年の朝鮮特需を除くと、1954年までの継続的な仕向先は、返還前の沖縄と、台湾、タイ、ブラジルの各国で、年間輸出台数は300台前後であった。1955年以降は中近東市場にも進出した。
1955~61年のトヨタ車の輸出実績は……、1957年には前年の880台から4116台へと大幅に増えている。これは、同年が不況であったため、国内販売の不振を輸出で補おうとした結果である。そのなかで、ランドクルーザーが2000台近く伸びていることが注目される。ランドクルーザーは、高馬力で強靭な足まわりを備えた四輪駆動の踏破性能と多目的性が高く評価され、競合車も少なかったところから、その後も海外での需要は堅調に推移した。
1962年2月には輸出体制の強化を目的に、トヨタ自工に輸出部を、トヨタ自販に輸出本部をそれぞれ設置した。後者の輸出本部については、トヨタ自工や外部からの人材で補強を行った。さらに、翌1963年8月にはトヨタ自工、トヨタ自販の共同により「工販合同輸出会議」を設置し、輸出体制の整備を図った。
一方、沖縄では、1951年4月9日に沖縄トヨタ自動車販売株式会社(現・沖縄トヨタ自動車株式会社)が発足し、トヨタ自販と代理店契約を締結した。同社は、トヨタ自工製の大型トラックBM型やFA60型、小型トラックSB型、トヨエースなどを販売したほか、米国カイザー社製の乗用車「ヘンリーJ」、1956年からはトヨペット・クラウンを取り扱ったが、経営は思わしくなかった。
1957年6月には沖縄で小型タクシーが認可されたことに伴い、トヨペット・クラウン・デラックスRSD型を輸入し、左ハンドル仕様の国産車として初めてタクシーに用いた。大型外国車一辺倒のタクシー業界が小型車に切り替えたため、同年の沖縄トヨタの販売台数は368台と、前年の3.5倍に増加した。これを機に、同社の経営は軌道に乗った。
なお、沖縄では、1962年12月13日にトヨタカローラ沖縄株式会社、1971年4月1日にトヨタオート沖縄株式会社(現・株式会社ネッツトヨタ沖縄)が設立され、1972年5月15日の日本復帰後、1973年1月11日に株式会社トヨタレンタリース沖縄、1979年10月2日に沖縄トヨペット株式会社が設立された。
●APA特需
東南アジア向けには、いわゆるAPA(U.S.Army Procurement Agency in Japan:在日米陸軍調達本部)特需という形で、大量のトヨタ車を輸出した。APA特需とは、アメリカと東南アジア諸国とが結んだ相互防衛援助協約(MDAP:Mutual Defense Assistance Pact)に基づき、1956(昭和31)年後半から開始された日本車の大量調達をさす。
APA特需は、日本や東南アジア諸国に供与されている米国製の乗用車を、日本製の新車に切り換えるための調達であった。1957年5月には防衛庁向けトラックの入札が行われ、トヨタ自工は受注からもれた。しかし、1958~62年に実施された調達では、1/4トン積み4輪駆動トラック(ジープ型)を除き、3/4トン積み4輪駆動トラック(FQ15L型、2FQ15L型)、2.5トン積み6輪駆動トラック(DW15L型、2DW15L型)の全量5万1273台を受注した。
APA特需に関しては、トヨタ自販は受注活動に関与せず、トヨタ自工の営業部が担当した。その後、同業務の拡大に伴い、トヨタ自工では、1960年8月に特需部を設置し、1962年2月には同部を輸出部に改組した。特需の対象となった全輪駆動車は、トヨタグループ企業の協力により生産され、その余裕のある体制が受注を有利に導いたといえる。また、大量生産が実現したことで、操業率の向上と原価低減の効果がもたらされた。
2.5トン積み6輪駆動トラックについては、当初ガソリン・エンジン仕様で落札したが、米軍からの要請でディーゼル・エンジンを搭載することになり、1957年3月に発売されて間もないD型ディーゼル・エンジンの改良を推進した。米軍の厳しい検査基準によりエンジンが評価されることで、貴重な技術的経験が得られ、その成果は2D型ディーゼル・エンジンの開発に利用された。
東南アジア諸国では、APA特需による車両が数多く供給され、トヨタ車は高い信頼性を獲得できた。このことは、のちの輸出にとって大きな支えとなった。さらに、補給部品の輸送に際しての防錆、包装、梱包の規格は、米軍が戦時の兵器・部品輸送から得た経験を基に設定された非常に厳格な基準であった。この規格を達成するための体験は、のちのノックダウン輸出における部品の輸送に生かされることになる。
第3項 中南米諸国への進出
●中南米諸国向け輸出の始まり
中南米諸国では、四輪駆動車トヨタBJ型ランドクルーザーの商品性が高い評価を得た。その輸出としては、1955(昭和30)年11月にブラジル向けに32台をCKD輸出したのが最初である。
続いて、1956年秋には石油ブームに沸くベネズエラへランドクルーザー52台を輸出した。油井地帯や牧場での連絡用として四輪駆動車の真価を発揮し、購入希望者が続出したといわれる。その結果、1957年のベネズエラ向けランドクルーザーの輸出は795台にのぼり、さらに南米各地へも急速に普及していった。
ランドクルーザーが先導役を果たし、市場の開拓が進む半面、中南米諸国は、政治・経済情勢が必ずしも安定しないところがあり、輸出に支障をきたしたケースもあった。
コロンビアの場合は、1958年6月に同国の有力な自動車組立会社であるパナール社と提携し、ランドクルーザーを組立生産・販売することになった。トヨタ自販の神谷社長は、提携を支援する同国大統領と全面的な経済協力について現地で約束し、帰国の途についた。すると、その1週間後に政変が起こったのである。大統領は国外へ逃亡し、提携事業自体が消滅した。
メキシコでは、1960年8月にディストリビューターのプランタ・レオ・デ・メヒコ社と提携し、ランドクルーザー(EJ25L型)ディーゼル・トラック(DA95LH-3型、乗用車(クラウン、コロナ)のCKD生産を行うことになった。現地資本による事業であり、トヨタ自販は金融面での支援を担った。ところが、プタンタ・レオ社の経営者がメキシコ政府の政争に巻き込まれ、同社は政府に接収されてしまった。1964年3月に撤退するまでの間、同国でのCKD生産は合計3580台を数えた。
トヨタの撤退後まもなく、メキシコ政府は自動車国産化計画を打ち出した。しかし、現地に生産工場を持たない自動車メーカーは、同国の国産化に参加できなかったため、長期間にわたりメキシコでの生産は途絶えた。
●ブラジルトヨタ、トヨタ初の現地生産
ブラジルへの輸出は、1952(昭和27)年1月に同国政府の許可が下り、大型トラックFX型100台が初めてCKD輸出された。組立生産には、ブラジル・フォード社から工場の一部(20m×50m)に借用し、同年6月から生産を開始した。さらに、1954年2月には大型トラック120台をCKD輸出し、同じく組立生産を行った。
ところが、FXトラックの販売後、その補給部品が供給されず、次第にトヨタ車の評判は悪くなっていった。ブラジル政府が外貨不足対策として、自国で生産できる自動車部品の輸入を禁止し、国産品で賄う政策をとっていたからである。ブラジルの国産部品をトヨタ車の補給部品に用いるには、品質と価格に問題があった。
さらに、1956年6月にはブラジル政府が自動車国産化の政策を打ち出し、日本からのCKD輸出は不可能になった。そこで、トヨタ自工は将来のブラジル市場を確保するため、単独で国産化に参加することを検討し、ランドクルーザーの現地生産を計画した。
1957年5月10日に、トヨタ自工はブラジル政府に対して、「トヨタ・ド・ブラジル会社設立による国産化計画」の許可を申請した。ブラジル政府からの許可は同年6月28日に下り、1958年1月23日にトヨタ自工100%出資のブラジルトヨタ有限会社(Toyota do Brasil Industria e Comercio Limitada)が設立された。
1958年7月には資金の送金について日本政府から許可を受け、同年10月にエンジンを含む組立用部品800台分を輸出した。そして、同年12月24日、ブラジル市場からの撤退を決めた英国ローバー社現地法人の工場を買収し、1959年5月からランドクルーザーFJ25L型の生産を開始した。これまでのスポット的なCKD輸出とは異なり、トヨタでは初の海外における本格的なノックダウン生産となった。当初の国産化率(重量比)は60%であった。
1961年2月18日には国産化率の引き上げに対応するため、現地生産を拡充することになった。この方針のもと、ブラジルトヨタ株式会社(Toyota do Brasil S.A.,Industria e Comercio)へと会社組織を改めるとともに増資を実施し、新工場の建設に着手した。新工場の用地として、同年4月にサンパウロ近郊のサンベルナルド市に約19万㎡の土地を買収し、1962年11月12日にサンベルナルド工場を完成させた。同工場の生産能力は月産250台で、機械加工、熱処理、プレス、塗装、組立の各工程を備えた。フレームは内製であったが、ボデーはプレス、組付ともブラシンカ社に外注された。
新工場の機械設備の大部分は、トヨタ自工が現物出資として送ったものであった。そのなかには、1935年に豊田自動織機製作所自動車部試作工場に導入されたフレーム形成用700トン・クランクプレス機も含まれ、修復補強のうえブラジルへ送った。新工場の完成を機に、トランスミッションを国産化したことで、国産化率は80%に上昇した。
さらに、国産化率の引き上げを図るため、ブラジル・ベンツ社製のディーゼル・エンジン(OM-324型、3.4L、渦流室式)を購入することとした。同エンジンは、1962年12月から供給を受け、トヨタ自工製F型ガソリン・エンジンに代わってランドクルーザーに搭載された。同時に、車名を「ランドクルーザー」FJ25L型から、「バンデランテ(Bandeirante:開拓者の意)」TB25L型に変更した。ラインアップの強化にも努め、1963年7月にハードトップ・ロングTB41L型を、翌8月にはピックアップTB51L型を追加して車種を充実させた。
バンデランテの生産台数は、1962年の624台から、1963年に1510台、1964年に2242台と順調に増加し、1965年8月には生産累計5100台目のバンデランテをラインオフした。
その後、1968年2月にはディファレンシャル・キャリアを国産化し、国産化率100%を達成した。また、1969年9月にバンデランテのモデル・チェンジを行い、ランドクルーザーFJ25型系から、同FJ40型系にボデー・スタイルを切り替えた。これにより、新しくバンデランテOJ40型系が誕生した。このモデル・チェンジに伴い、ボデーの内製化を図った。
●ブラジルでの生産増強
1970(昭和45)年以降、ブラジルの自動車市場は急成長を続けた。販売総台数は、1971年に50万台を超え、1978年には100万台を突破した。それに対して、ブラジルトヨタの生産実績は、年間1000台に満たない水準へと低下していた。
1971年、トヨタ自工の大野耐一専務は、トヨタ生産方式の指導のため、業績が低迷するブラジルトヨタを訪れた。同社の実情に触れた大野専務の助言がきっかけとなり、内製化率の向上や乗用車生産の検討を目的とするトヨタ自工の調査チームが、1972年11月にブラジルトヨタへ派遣された。同チームは、既存工場の拡充、新工場用地の取得などを検討し、ブラジルトヨタの生産能力増強計画をまとめた。
この計画に基づき、1974年5月に低周波誘導炉を備えた鋳造工場、同年10月にプレス工場の増設、翌1975年4月には1600トン鍛造プレス機を備えた鍛造工場が完成した。同時に、機械工場の拡充を図り、それまで外注であった駆動系の歯車やシャフトなど、部品の内製化を進めた。これらの投資は、トヨタ自工の支援のもとに行われた。また、1973年1月にはブラジル・ベンツ製ディーゼル・エンジンがOM-324型から、OM-314型(3.8L、直噴式)に変更され、出力が増大するなど、商品力の強化が実現した。
生産能力増強計画の推進により、ブラジルトヨタの業績は1975年から上昇に転じた。生産台数の推移を見ると、早くも1976年に1000台を超え、1979年には4000台を突破する実績をあげた。収支についても、1980年には累計損失を一掃するまでに好転した。
1981年以降、ブラジルの自動車販売数は50万~70万台に落ち込んだが、ブラジルトヨタでは、1984年に老朽化した機械加工設備、プレス設備の更新を行い、1986~1988年には塗装、熱処理、機械加工の各工程を拡充するなど、投資を積極化させた。この間、1987年9月には生産累計5万台を達成し、さらにバンデランテ製造ラインの2直化を目指して設備の増強を進めた。
一方、1989(平成元)年11月にバンデランテのヘッドランプを丸型から角型にするなど、一部改良を実施したのに続き、1990年3月にはトルクを強化したOM-364型(4.0L、直噴式)にエンジンを変更するなど、商品力の強化を図った。また、同年8月にはサンベルナルド工場が2直体制に移行し、1991年のバンデランテ生産台数は過去最高の6754台を記録した。
さらに、1991年には将来の拡張に備え、サンパウロ市から北西へ100㎞ほど離れた、サンパウロ州インダイアツーバ市に155万㎡の工場用地を取得した。このインダイアツーバ工場は、1998年8月に稼働を開始し、カローラの生産にあたった。
その後、バンデランテは、1996年の排出ガス規制に対応することを目的に、1994年4月にブラジル・ベンツ製のディーゼル・エンジンOM-364型から、ダイハツ工業製のディーゼル・エンジン14B型(3.7L、直噴式)に切り替えた。しかし、これによっても、2000年の排ガス規制には対応できなかった。このため、バンデランテは、2001年11月に生産が打ち切られ、42年間にわたる歴史に幕を閉じた。なお、1999年11月に生産累計10万台を達成した。
第4項 アジア諸国への進出
●1950年代のアジア諸国、オーストラリア
アジア諸国への輸出は、1956(昭和31)年7月、日本政府の戦争賠償の一部として、ビルマ(現・ミャンマー)へランドクルーザーなど22台が輸出されたのが最初である。その後、フィリピンなどに対する賠償のための輸出が合計約2500台にのぼった。これらのトヨタ車は、市場開拓の先導役を果たしたが、アジア諸国でCKD輸出が本格化するのは、1961年以降のことである。
オーストラリアに対しては、1957年8月にランドクルーザー12台を輸出したが、同国の厳しい貿易政策により輸出は低迷した。オーストラリアへの進出は、1962年2月にトヨタ自工に輸出部が、トヨタ自販に輸出本部が設置されたのちに本格化する。オーストライアン・モーター・インダストリーズ社がティアラ(コロナの輸出名、RT20型)の組立生産を開始するのも、1963年初頭からである。
●タイ・トヨタの設立
1957年(昭和32)年6月16日、タイのバンコク市にトヨタ自販のバンコク支店が開設された。トヨタ自販では、それまでに特約店を3回代えていたが、いずれも故人商店の域を出ない弱小販売店であったことから、販売台数が伸びなかった。そこで、タイでの市場確立を目指し、自社の支店を設置したのである。三井銀行バンコク支店の協力による豊富な資金を背景に、積極的な販売活動を展開した結果、1957年の販売台数は前年比8倍強に達し、以後順調に業績は伸長した。
一方、タイ政府は工業振興のため、「産業投資奨励法」を再三にわたって改正し、1962年にはノックダウン生産事業に対して、5年間の大幅な優遇税制措置や、技術者入国ビザ認可枠の拡大などの恩典を設けた。これを受けて、トヨタ自工とトヨタ自販は、タイへのノックダウン生産事業の進出を決定し、1962年10月に両社の折半出資により、トヨタ・モーター・タイランド(Toyota Motor Thailand Co.,Ltd、タイ・トヨタ)を設立した。
1967年にはトヨタ自販のバンコク支店をタイ・トヨタに統合し、生産・販売を統一した。これらの施策により、1969年のタイ向け輸出台数は1万700台へと増加し、同国でのシェアは22%に上昇して首位に立った。
さらに、1969年8月には日野自動車工業との業務提携に基づく協力事業として、タイ日野製造におけるカローラの委託組立生産を開始した。また、同年12月にトヨタ総合センターを設置し、輸入、販売、アフターサービスの体制を充実させたほか、1970年7月には組立工場を拡充した。
その後も、日野自動車工業やトヨタ車体の協力のもと、プレス部品を中心に現地生産の拡大を図った。その一環として、1978年2月にはタイ・トヨタ100%出資のトヨタ・オート・ボデー・タイランド(Toyota Auto Body Thailand)を設立し、ハイラックス、コロナ、カローラのプレス部品の製造を開始した。
第5項 米国への進出
●米国トヨタの設立とクラウンの輸出
1957(昭和32)年8月、トヨタ自販の加藤誠之常務ら3人は、米国へのトヨタ車輸出の先遣隊として渡米し、販売会社の設立に着手した。日本から送られてきた見本車のクラウンとクラウン・デラックスの2台を受け取り、販売店へのお披露目を兼ねながら試験走行を行った。
トヨタ自工のテクニカルセンターに、一周2㎞のテストコースが完成したのは、その前年の1956年9月であり、本格的な高速耐久試験を行っていない状態で、クラウンを米国に持ち込むには無理があった。当初から危惧されていたことではあったが、高速道路を走っていると、突然エンジン音が騒々しくなって出力が低下し、米国で販売できる性能ではなかった。
このような性能であったにもかかわらず、米国進出を決断したのは、クラウンの国内での評価が高かったことや、既述した「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」の成功から、車両性能に対する過度の期待があったことは否めない。また、実際に現地で車両法規や自動車市場の実情などを調査することなしに進出したため、思わぬ苦労をする結果になった。
しかし、とにかく米国市場に進出するための足場を築くということで、トヨタ自工とトヨタ自販の意見は一致し、1957年10月31日、米国カリフォルニア州法人の米国トヨタ販売会社(Toyota Motor Sales,U.S.A.,Inc.米国トヨタ)が設立された。資本金の100万ドルは両社が折半出資し、取締役はトヨタ自工の石田退三社長、中川不器男副社長、トヨタ自販の神谷正太郎社長、加藤誠之常務、中江温常務、山本定藏取締役の6人であった。米国トヨタの社長はトヨタ自販の神谷社長が務め、副社長にトヨタ自販の小林鉱油部次長が就任した。本社はハリウッド大通り6032番地に置かれた。
米国トヨタの業務は、自動車の輸入から小売に至る諸手続を調べ、それに必要な帳票類をそろえることから始まった。そうした調査のなかで、輸入と卸売の間、卸売と小売の間で取引価格の公正を期すため、輸入、卸売、小売の会社を別々にする必要があることがわかった。そこで、米国トヨタから卸売業務を切り離すこととし、1958年2月にトヨタ・モーター・ディストリビューター社を設立した。あわせて、小売業務の習得を目的に、販売店のハリウッド・トヨタ社を設立した。
また、各州の車両法規に基づく車両の認証取得が必要であり、カリフォルニア州で車両を販売するには、カリフォルニア・ハイウェイ・パトロールの認証を得なければならなかった。同州では、ヘッドライトの照度がアメリカで普及しているシールド・ビームを基準に設定されており、これを採用していないクラウンは要件を満たしていなかった。そのため、ヘッドライトなしのクラウンを輸入し、米国でGE製ランプを装着することになった。
このような準備を経て、1958年6月にヘッドライトなしのクラウン・デラックス30台が船積みされ、本格的な対米輸出が始まった。しかし、懸念されていた性能・品質などの問題が顕在化し、高速道路走行時の出力不足、高速安定性の不備、激しい騒音と振動、異常な振動、変形による商品の破損などが発生した。これらの不具合に対しては、1960年7月に出力を増大し、高速走行性能を改善したRS22L型シリーズや、RS32L型シリーズを投入した。
●乗用車輸出の中断
米国の自動車メーカーは、増加する輸入小型車への対策として、1959(昭和34)年秋からシボレー・コルベア、フォード・ファルコン、クライスラー・バリアントなど、コンパクトカーを相次いで発売した。これにより、輸入ヨーロッパ車は大幅に減少し、アメリカ車とクラウンを併売していたほとんどの販売店が、クラウンからコンパクトカーに切り換えた。このような事態を受け、1960年12月にクラウンの対米輸出は中止された。
一方、1960年6月には新型コロナにR型エンジンを搭載したティアラ(RT20L型)の輸出を開始した。しかし、これもクラウンと同様、高速走行時の出力不足、ボデー剛性不足による振動と騒音、足まわりの強度不足、ブレーキの耐久性不足と、品質問題が発生し、米国への輸出は停滞せざるを得なかった。
米国トヨタは、1960年に資本金を200万ドルへと増資し、財務体質の強化を図ったが、同年末には累積損失が142万ドルを超え、さらにその増大が見込まれる状況であった。日本から資金的に支援するにしても、外国為替管理法の規制により、赤字補填的な増資は容易に許可されないところから、米国トヨタは厳しい経営改善が求められた。
改善策の要点は、次のとおりである。
- 当面の販売はランドクルーザーに限定し、乗用車の販売は米国市場適合車が開発されるまで一時中断する。
- ランドクルーザー月販50~60台で採算に乗る経営体質とする。
以上の基本方針に基づき、1961年に米国トヨタでは、人員削減、拠点の縮小、経費の節減に取り組んだ。人員削減については、従業員は57人から37人へと減少し、日本からの出向者も最小限にとどめた。そのほか、本社を直営販売店の建物へ移転し、経費の節減を図った。
このような経営改善の効果に加え、ランドクルーザーの販売台数が増加したため、1961年には利益を計上することができた。その結果、1962年には50万ドルの増資が許可され、資本金は250万ドルとなった。なお、ランドクルーザー中心の販売に切り替えたことにより、米国トヨタのランドクルーザーの販売台数は、1961年の249台から、1964年には2595台へと4年間で10倍以上に増加した。これらの経営改善策の推進に際しては、米国トヨタの役員を兼務するトヨタ自販の山本定藏常務や加藤誠之専務が現地で直接指揮をとった。さらに、トヨタ自工の豊田英二副社長も現地を訪れ、経営の実情をつぶさに確認するとともに、米国適合車の仕様に関する情報を自ら実体験して、その開発を促した。
その後、1964年9月には高速道路時代を迎えた日本で、3代目コロナRT40型系が発売され、好調な売れ行きをみせた。米国市場向けには、3R型エンジン(1897㏄、90HP/5000rpm)を搭載した新型コロナRT43L型が開発され、1965年4月からサンプル出荷を開始した。そして、同年末には待望のオートマチック・トランスミッション(AT)搭載車が追加され、米国市場での販売増に大きく貢献した。
ATについては、1950年に英二常務が米国フォード社の研修で学んだあと、従来のイージー・ドライブ化と対米輸出を視野に入れ、研究開発を進めていた。日本での実用化は、1959年に商用車マスターラインへ搭載されたのが最初である。米国の輸入車市場でも、コロナが先鞭をつけることになった。コロナのAT車比率は、1965年には12%であったが、翌年以降は50%以上を占めた。
準備不足のままに設立され、困難な経営を強いられてきた米国トヨタも雌伏8年、ついに米国適合車である新型コロナを得て、浮揚のチャンスをつかんだ。販売店数は、1964年末の200店から、1965年に384店、1966年には606店へと急速に増加し、販売体制を再構築する時期が到来していた。
第6項 生産能力の増強、月産1万台を目指して
●目標は月産1万台
1951(昭和26)年に始まった「設備近代化5ヵ年計画」では、現有設備の更新と合理化、R型エンジンおよび本格的乗用車クラウンの生産設備新設を重点として、総額46億円の投資を行った。14億円の輸入機械をはじめ、自動化された機械設備が多数導入されたことで、本社工場は目標の月産能力3000台の生産設備が整い、1956年10月には5074台と早くも5000台を超える実績をあげた。
1956年には旺盛な自動車需要を背景に、将来のさらなる需要増に備えて、6月に月産1万台を目標とする生産設備増強計画を策定した。この計画は1958年10月までの約2年半を対象とし、機械設備の専用化・自動化、工程の連続化・ライン化などにねらいを置いた。
●鋳造工程
鋳物工場では、1955(昭和30)年にシリンダーブロック鋳造用のモールド・コンベア・ラインを導入した。これにより、砂で鋳型を造る「鋳型造型」、鋳型に溶けた鋳鉄を注ぐ「注湯」、鋳型の枠を解体して砂の鋳型から鋳物製品を取り出す「枠ばらし」などの各作業が連続化され、1本のラインとして管理できるようになった。
続いて、鋳鉄を熔解する7トン・キューポラが、1957年11月に第1特殊鋳物工場へ、同年12月に可鍛鋳物工場へ、1958年7月に普通鋳物工場へ各1基増設された。1958年1月には月産能力600トンのトンネル式連続焼鈍炉が稼働を開始したほか、上述のモールド・コンベア・ラインを延長して、サンド・スリンガー(鋳物砂を叩き込んで鋳型を造る造型機)を増設した。また、鋳物製品に付着した鋳物砂を除去するためのショット・ブラストを導入し、鋳造の後処理工程の能力増強を図った。
新鋳造技術としては、1954年に珪砂をフェノール樹脂と混合焼成して鋳型を造るシェル・モールド法を導入した。1957年には同製法による自社製シェル・マシンを開発し、トランスミッション・ケースの中子の製作に用いた。
●鍛造行程
鍛造工場の設備については、能率が劣るハンマー鍛造機から、鍛造ロール、鍛造プレス機やアプセッター(据え込み鍛造機)による型鍛造に転換して、生産能力の増強を実現した。
1957(昭和32)年6月、米国のアジャックス社製2000トン・プレス機を導入し、リング・ギアの製造をハンマー鍛造から型鍛造に切り替えた。また、同年中に米国のナショナル社製鍛造ロール機2台、アジャックス社製の6インチと4インチのアプセッターなどを設置し、1958年末までに11台の鍛造機械を導入した。
従来のハンマー鍛造では、大まかな形状にする「荒地」、必要な寸法形状に型で打って仕上げる「仕上げ」、はみ出した余肉を除去して最終的な外形に型で抜き取る「バリ抜き」などの工程に、それぞれ別個のハンマー鍛造機が必要であった。これに対して、型鍛造では複数の鍛造型を1台の鍛造プレス機に装着し、複数の工程を処理できるところから、作業能率が大幅に向上するとともに、鍛造機械の台数も少なくて済むようになった。また型鍛造では、2個分の形状を備えた鍛造型を用い、1個の素材から同時に2個の製品を加工することも可能なので、生産性と製品精度の向上がもたらされた。
鍛造行程の高速化に伴い、素材を準備する前工程のスピードアップも図られた。1954年2月には鋼材を冷間で所定寸法に切断する米国バッファロー社製の950トン・ビレット・シャーを導入した。これにより、切断作業の能率が工数にして約10倍に高まり、さらに正確な寸法で切断できるため、材料のムダが減少し、大幅な材料節減を実現した。
同じく鍛造行程の高速化への対応として、素材を速く加熱することが必要になり、1956年に炉床回転炉やハイスピード加熱炉(トンネル炉)を導入した。これらの加熱炉は、急速加熱と搬送装置による自動送り焼きが可能であり、加熱能力が従来の炉に比べて30%ほど高まった。
●機械加工・組付工程
機械工場では、1956(昭和31)年6月、F型エンジン・シリンダーブロック加工用のトランスファーマシンを第1機械工場に導入した。その後、第1機械工場に関しては、1958年4月にエンジン組付工場を改築し、R型およびF型ガソリン・エンジン、D型ディーゼル・エンジンの組付・試験を行う設備を設けた。これにより、エンジンの組付から試験までコンベアで自動的に搬送されるようになった。
1956年9月には第4機械工場(3600坪、1万1900㎡)が完成し、第2機械工場で行っていた歯車の機械加工と、第3機械工場で行っていた足まわり関係の組付を移設した。ついで、1958年2月に第4機械工場の北側に熱処理工場を増設し、歯車の浸炭焼入れのための連続ガス浸炭炉を導入した。同炉の採用によって、全工程が自動化され、生産性の向上、品質の安定、原価低減が図られた。
また、第3機械工場では、1958年5月にステアリング・ギアボックス加工用のトランスファーマシンを設置した。このトランスファーマシンは7工程で構成され、加工物の取り付け・取りはずし以外は、すべて自動的に行うことができた。
●プレス工程
プレス工場でのライン化としては、1957(昭和32)年に6台の油圧プレス機を増設した際、ベルトコンベアによる搬送で各種の機械設備を連絡し、プレス成形の流れ作業を実現した。その結果、プレス部品の製作時間が短縮され、生産能力が増大するとともに、従来2ヵ月分必要であったプレス部品のストックが1ヵ月分に減少した。また、同年3~7月に油圧式プレス機4台、機械式プレス機3台の増設を行った。これにあわせて、プレス機へ鋼板を挿入するローラー・フィードや、プレス機から成形パネルを取り出すアイアン・ハンドなどを導入し、プレス成形作業の能率向上を図った。
1957年2月にはプレス型工場を新たに設けた。生産車種の増加に伴い、プレス型の種類が増加する一方、車両のモデル・チェンジに際して迅速な型製作が求められたことに対応した措置であった。高性能の倣い型彫盤、高精度プレーナーや精密中ぐり盤など、高度な型製作設備を導入し、型製作や型修理の効率化に努めた。
以上のように、月産1万台に向けて各生産分野で能力増強を推し進めた結果、元町工場完成直前の1959年6月には月産9080台を記録した。
第7項 トヨタ・テクニカルセンターの設置
●創業期の技術部門施設
1938(昭和13)年11月に完成した挙母工場には、本社事務所の北側(現在の事務2号館周辺)に技術部門の施設が配置され、南側から設計室、化学実験室、自動車実験室などの建物が設けられていた。工務室や航研室(航空機研究室)を含めた技術部門全施設の合計面積は1196坪(3947㎡)で、終戦後、航研室を試作工場に変更した以外は、挙母工場創業期の施設を引き続き利用していた。
1952年にクラウンの開発が始まった当時、トヨタ自工では、大型トラックBX型、小型トラックSG型、小型乗用車SF型、四輪駆動車BJ型などのシャシーを生産し、さらに自動車の普及とともに車種は増加することが予想された。また、1951年開発の大型トラックBX型から完成車販売方式を採用し、開発中のRS型クラウンについては、ボデーも自社で設計・製造することにしたため、車両開発・設計工数はいっそう増加し、技術部の拡充は喫緊の課題となっていた。
●テクニカルセンターの開設
1953(昭和28)年11月、挙母工場の東側に技術部門の新たな研究開発施設として、テクニカルセンター(技術本館)の建設が始まった。当時、トヨタ自工の経営基盤はまだ脆弱であり、設備投資には慎重な姿勢をとらざるを得なかった。このような制約から、将来3階建てに増築することを考慮しつつ、テクニカルセンターは必要最小限の2階建て、延べ1487坪(4807㎡)の規模で建設された。
テクニカルセンターは、1954年10月に完成したので、その前月に生産が始まったトヨペット・クラウンRS型は、創業以来の研究開発施設を利用して開発された最後の車両となった。1957年にアメリカへ輸出されたクラウンは、高速道路に適合できず、その輸出は一時中断されたが、アメリカ再上陸を期してテクニカルセンターで鍛え直された。テクニカルセンターの前途は、自動車先進国アメリカへつながる道でもあった。
完成時のテクニカルセンターは、設計室、デザイン室、図書室、青写真室、化学実験室、物理実験室、自動車実験室からなり、創業期の技術部門施設と類似の構成をとった。設備としては、最先端の試験用装置、実験・分析機器などを多数取り入れた。その後、テクニカルセンターの建物は、1963年10月に3階建てに増築された。
技術部門の施設については、技術の進歩とともに、拡充・強化・更新を継続的に進めてきた。そのなかでテクニカルセンターは、建設後50年目の3003(平成15)年12月竣工した新「技術本部」にその役割を引き継いだ。
●テストコースの完成
テクニカルセンターの建設後、1955(昭和30)年11月に試作工場(240坪、792㎡)が竣工したのに続き、1956年9月にはテストコースが完成した。テストコースは、技術本館東側の敷地約10万坪(33万㎡)を利用して開設され、時速100㎞で走行できる1周約2㎞の周回路と、全長200mの波状悪路を備えた。翌1957年には旋回走行試験用のスキッドパッド、振動騒音試験用の石畳路(ベルジャン路)、ぐり石路を設け、さらに1959年には特殊波状路、捩り路、急坂路を追加し、より広範な車両性能試験が行えるようになった。
1966年11月には静岡県駿東郡裾野町の広大な敷地内に、自動車性能試験場(のちに東富士研究所)を建設した。1周3.7㎞の高速周回路と、1.3㎞の水平直線路を備え、高速耐久性や高速時の操縦性、制動性、振動、騒音などの試験を行った。
その後、北海道にも車両の試験施設を設け、1984年10月から士別試験場の運用を開始した。同地の冬はマイナス20℃を下回ることがあるため、まず寒冷地走行試験用の第2周回路、第3周回路、登坂路が完成し、次いで1987年に時速250㎞の走行が可能な1周10㎞の高速周回路を開設した。
また、1993年4月には米国のアリゾナ州ウイットマンに、TEMA-TTC(Toyota Motor Engineering & Manufacturing North America,Inc. Toyota Technical Center)のアリゾナ試験場が完成した。1周10マイル(16㎞)の周回路を備える同試験場では、気温40℃を超える灼熱のなか、時速250㎞での連続走行試験を実施している。
1956年に完成した一周2㎞、時速100㎞走行周回路を原点とするトヨタの車両試験場は、自動車の高速化・国際化に対応して、進化していったのである。
以上で、トヨタ自動車が創業期に重なる敗戦直後の混乱期をどう生き抜いて成長を遂げたかを、「トヨタ自動車75年史」で、4回にわたって見てきました。