戦後日本の経済的復興を支えた自動車業界の雄・トヨタ自動車の敗戦後の歩みを、「トヨタ自動車75年史」の「第1部 自動車事業への挑戦」から、「第6節 戦後の事業整理と労働争議」を見ていく。
第1項 新規事業の模索
●工場生産の再開
1945(昭和20)年8月14日、トヨタ自工の挙母工場は空襲を受け、工場の約4分の1が破壊された。そして翌15日、爆撃による被害の復旧工事を行っているさなかに、終戦の玉音放送があった。
続く8月16日には、赤井久義副社長が集まった幹部を前に、「トラックはこれから日本を復興する際にも重要な道具である。トヨタはそれをつくって供給する責任がある。だからそのつもりで再出発しよう」との所信を力強く表明した。これに応えて、幹部は再出発を決意し、8月17日から工場生産が再開された。その際、資材を節約した戦時規格を廃止し、標準規格のKC型トラックを生産することとした。
勤労動員などで9500人余りに増えていた従業員は、動員された人たちが終戦により去ったことで、7400人程度になった。その後も自発的に退社する者が多く、10月末には3700人にまで減少した。
豊田喜一郎社長は、自動車の生産が禁止される場合を想定し、従業員の生活を守るために新規事業を構想していた。その考え方の基本となったのは衣食住である。日常生活に欠かせない衣食住にかかわる事業まで禁止することはないだろうとの見通しから、それらに関連する種々の調査・研究事項が指示された。
●トヨタ研究所
1945(昭和20)年10月には新規事業の研究を目的に、トヨタ研究所(所長:豊田佐助、次長:知久健夫)が元の第二寄宿舎(のち清和寮、現在の新本館付近)に設置された。占領軍の政策によって、自動車事業の継続が危うくなった場合、方向転換できるようにすると同時に、従業員の生活安定の一助とするため、自動車以外の研究、特に衣食住に関係する事項を中心に研究を進めた。具体的には、合成甘味料のサッカリンやズルチンの試作、菊芋からの果糖やシロップの試作、薬草栽培、薬品や石鹸の試作、ドジョウの人工養殖などの生物・化学的な研究や、積層乾電池、洋食器、高級玩具の試作など種々の試みがなされた。
その後、自動車事業の継続が可能になったことに伴い、トヨタ研究所の活動も自動車に関連した研究に重点が移り、歯車、騒音測定法、仕上面検査器、高周波乾燥法、電解研磨、薄型極板蓄電池(小型大容量蓄電池)など、物理・化学分野の多様な研究が行われた。例えば、電解研磨の研究では、機械的な切断または切削と電解研磨とを併用した「金属を切断又は研磨する方法」を発明し、特許を取得した。
トヨタ研究所は、自動車製造の本格化とともに、1950年にトヨタ自工本体の研究部門に吸収された。
●繊維関係事業
トヨタ自工では、刈谷南工場(当時の電装品工場、旧・豊田紡織刈谷工場)の遊休施設(旧紡績工場)の活用を図るため、1945(昭和20)年10月に紡織部を設け、残存紡織機の復元と工場設備の復旧に着手した。
1946年3月には紡機3万5700錘、織機611台の規模で、紡織工場の再開が認められ、豊田自動織機製作所の協力のもとに紡織機の復元を進めた。その結果、同年6月17日から復元織機40台で製織業を開始し、10月には復元された紡機1万3860錘、織機384台を用いて紡織業を再開した。
さらに、綿紡績設備復元の増加計画が認められ、1950年3月ごろには紡機4万4216錘、織機635台へと拡大された。このような状況から、紡織部を分離独立することになり、同年5月15日に民成紡績株式会社を設立した。
また、繊維関係事業では、戦後「愛知工業」と社名変更した東海飛行機が平和産業に転換するに際し、「ミシンは平和産業で、人類がいる以上、衣類が必要だから、これは非常にいい」ということで、豊田喜一郎社長からミシンの開発を指示された。このミシンは「トヨタミシン」として販売され、補給用自動車部品の製造とともに、愛知工業の再出発時における中心的な事業となった。
●住宅事業
豊田喜一郎社長は、太平洋戦争の空襲により、200万戸以上の住宅が消失したところから、戦後の日本では住宅建設が重要な課題になると考えていた。加えて、戦時中の乱伐で木材の不足が懸念されたため、工業化工法によるコンクリート建築を住宅建設に応用したプレコン住宅の開発を考えた。プレコンとは、プレキャスト・コンクリート(Precast Concrete)の略で、あらかじめ工場で製造した鉄筋コンクリート製の部材を現場で組み立て、建物を造る工法である。
トヨタ自工では、1946(昭和21)年3月に平山ガラス工場をプレトン工場に転用し、鉄筋コンクリート部材の研究を開始した。そして、その実用化に成功すると、同工場は分離独立され、1950年6月7日にユタカプレコン株式会社が設立された。同社の資本金は2400万円で、社長には豊田佐吉が就任した。なお、プレコン住宅の技術開発により、同社は1954年5月に発明協会から「実施賞」を受賞した。その後、ユタカプレコンは豊田コンクリート株式会社、豊田総建株式会社と改称し、現在はトヨタT&S建設株式会社となっている。喜一郎の発意でスタートしたコンクリート建築の構想は、プレコン事業として実現し、さらにプレハブ住宅のトヨタ・ホーム事業へと展開していった。
第2項 会社再建
●会社再建の方策
1945(昭和20)年9月25日にトラックの製造が認可され、トヨタ自工は12月8日に民需転換の許可を得た。
そのようなさなかの1945年12月10日、赤井久義副社長が交通事故で死去した。戦時中、軍の監督下に置かれた会社運営を、豊田喜一郎社長に代わって担当してきた赤井副社長の急逝は、会社にとって大きな痛手であった。
会社再建の陣頭指揮をとることになった喜一郎社長は、次のように自らの覚悟を語った。
「果たしてやり通せるかどうかは解りません、今となっては事の成否は別問題として、倒れて後止むの覚悟を以て邁進努力し、起死回生の境地を切り拓かねばなりません」
そして、実施すべき方策4点を提示した。
- 酷使され、劣化した機械・設備を修復・更新するため、「臨時復興局」を設け、工場設備の復旧を総合的に推進する。
- 部品製造の方針を転換し、独自の実力を備えた専門部品工場を育成・確立する。
- 戦時中に停滞した車両の改良・改造を実施し、設計変更を図るとともに、補修用旧部品の円滑な供給体制を確立する。
- 統制経済下の自動車配給・整備会社を変更し、ユーザーの自動車に対する希望や申し入れ、意見などが改良に十分反映できる販売体制を確立する。
それぞれの具体的な取り組みを述べていく。
●工場設備の復旧
1945(昭和20)年8月14日の空襲で損壊した工場の修復が進むにつれて、各地に疎開していた機械設備も挙母工場に戻され、徐々に生産体制の復旧準備が整った。
1946年4月には「臨時復興局」が発足し、豊田喜一郎社長自らが局長に就任して復興の指揮にあたった。機械設備の修復とあわせて、将来のための設備拡充も実施され、計画どおり1年間で工場復旧が完了した。1947年3月には本格的に生産が再開され、臨時復興局は解散された。
●専門部品工場の育成・確立
戦後、技術力を備えた軍需工場の民需転換が図られ、多くの企業が自動車部品製造事業に参入した。トヨタ自工の関連会社では、後述のように航空機用エンジンを製造する計画であった東海飛行機が愛知工業に社名変更し、自動車部品の製造を行った。
こうした企業を専門部品メーカーとして育成・確立するため、戦時中に発足した協豊会の組織を利用し、その拡大・再編を図った。協豊会への加盟会社の増加に伴い、1946(昭和21)7月に東京協豊会が、1947年1月には関西協豊会が発足し、従来の協豊会は東海協豊会に改称した。なお、東京協豊会は1957年4月に関東協豊会と名称を改めた。
また、部品メーカー以外の協力企業も、協豊会と同様の協力会を結成することになった。1962年4月に型、ゲージ、治具などを製作する企業の協豊会が設立され、同年11月には土木、建築、工場設備などの企業により協豊会が結成された。その後、1983年4月には精豊会と栄豊会が統合し、新生「栄豊会」が発足した。
●車両の設計変更と修理用旧部品の供給体制確立
戦時中は改良・改善に手がまわらなかったため、戦後早速、1945(昭和20)年11月に新型トラックの設計にとりかかった。
1946年4月には試作に着手し、1947年3月からBM型トラックとしてとして生産を開始した。設計変更とはいうものの、1942年3月に開発した4トン積みトラックKB型を手直しした程度であり、大幅な変更はできなかった。(4トン積みBM型トラックの仕様は省略)これは、1951年7月まで2万6347台を生産した。
設計変更後の補修用旧部品の円滑な供給については、航空機用エンジンの製造から業務を転換した愛知工業(旧・東海飛行機)が担うことになった。
●販売体制の確立
1945(昭和20)年11月、自動車協議会が発足し、日本自動車配給(日配)は事実上解散した。日配傘下の地配は、1946年7月ごろまで存続し、各自動車メーカーから送られてくる製品を引き受けて販売していた。
トヨタ自工では、1946年から販売組織の再建に取り組んだ。戦前のトヨタ系販売会社は、地方自動車配給(地配)の設立により解散していたので、改めて販売会社網を構築していかなければならなかった。その第一歩として、同年5月18日に全国の地配代表者を再建中の挙母工場へ招き、見学会と豊田喜一郎社長の「自動車工業の現状とトヨタ自動車の進路」と題する講演を行った。
こうして、既存の地配を引き継いだもの、あるいは新規に販売会社を設立したものなど、さまざまな経過をたどり、都道府県ごとにトヨタ系販売会社が発足した。なお、1946年11月26日にトヨタ自動車販売店組合(トヨタ自動車販売店協会の前身)が会員会社46社によって設立された。
第3項 民需返還と戦後改革への対応
1945(昭和20)年9月25日、GHQ(連合国軍総司令部)は「製造工業操業に関する覚書」を発令した。これにより、乗用車の製造は禁じられたものの、トラックの製造が認められ自動車メーカーとして操業できることになった。
トヨタ自工では、軍需工場に指定された挙母工場、刈谷南工場、刈谷北工場、愛知工場(1947年2月に中川工場に改称)の民需転換許可申請を1945年10月10日に占領軍へ提出し、同年12月8日に米陸軍第6軍軍政局から民需転換の許可を受けた。さらに、自動車用電装品工場であった刈谷南工場については、」漁船用エンジン電装品、小型モーター、ラジオのほか、電気ストーブや電気コンロ、電気アイロンなどの電熱器、紡織部の綿糸・綿布の製造が追加許可された。
これら4工場のうち、愛知工場は1946年1月に賠償保全工場に指定され、航空機製造用工作機械を良好な状態に保全する義務を負った。同年5月には愛知工場の指定は解除されたが、代わって挙母工場と刈谷北・南の各工場が賠償保全工場に指定された。その後、トヨタ自工の陳情により、挙母工場は1946年8月に、刈谷南工場は1948年3月に、刈谷北工場は同年10月に指定解除となった。賠償保全工場に指定されていた期間は、工場を自由に利用することができなかったため、会社再建計画の進行に影響を及ぼした。
一方、GHQは経済民主化を実行に移すため、1945年11月6日に「持株会社の解体に関する覚書」を発令し、財閥解体に着手した。その前提として、同月24日に財閥本社とその傘下企業の通常業務執行以外の資産移動を広範に制限する「制限会社令」が公布された。
トヨタ自工は、持株会社の指定を避けるため、同年11月から12月にかけて、関係会社の役員兼務を少なくしたり、社名を変更したりと、事前の予防策を講じた。その結果、トヨタ自工自体の解体は免れたものの、1946年4月27日に三井財閥系会社(東洋綿花)の株式保有率が高かったところから、制限会社に指定された。
また、1947年9月26日には豊田関係会社の株式を保有していた豊田産業が持株会社に指定され、解体されることになった。同社の解散・清算処理に先立ち、1948年7月1日に商事部門を分離独立し、日新通商株式会社を設立した。なお、豊田産業が清算を完了したのは、1951年6月20日である。
財閥解体と並行して独占禁止政策が進められ、1947年4月には「独占禁止法」が公布された。同年12月18日に制定された「過度経済力集中排除法」は、既存の独占を解体することを目的としたもので、トヨタ自工は翌1948年2月8日に持株会社整理委員会から、同法の対象会社に指定された。これに伴い、会社分割や工場・株式処分などの再編成計画を同委員会に提出することになったが、その後、GHQの日本経済に対する占領政策が非軍事化・民主化から、再建・安定化・自立化に変更されたことを受け、1949年1月21日には指定が解除された。
第4項 企業再建整備に伴う新会社3社への分離独立
1946(昭和21)年10月19日、「戦時補償特別措置法」と「企業再建整備法」が公布された。前者は、戦時中に政府が支払いを約束した戦時補償の打ち切り(支払額に対して100%の戦時補償特別税を課す)を決めた法律で、後者は、それによって財務内容が悪化する企業の救済措置を定めた法律である。救済処置の柱は、旧会社から営業あるいは資産を引き継いだ第二会社を設立し、旧会社は解散手続に専念するという方法であった。
トヨタ自工も他の企業と同様、戦時補償が打ち切られたため、再建整備計画の検討を進めなければならなかった。しかし、既述のように、制限会社、過度経済力集中会社、賠償保全工場などに指定され、種々の制約が課されていたことから、本格的な再建整備計画の立案は、1949年1月21日の過度経済力集中会社の指定解除後にずれ込んだ。
再建整備計画の策定に際しては、現状維持を基本とし、できるだけ早期に経営の自立化が達成されるよう、「企業再建整備法」が認める最小限の範囲内での再編を目指すことになった。その結果、トヨタ自工本体を存続会社として残し、名古屋市に所在する中川工場(旧・愛知工場)の一部、および刈谷町の電装工場と紡織工場の計3工場の事業を第二会社として分離独立させる案が立てられた。
当時の各工場の状況をみると、名古屋市中川区の中川工場は、その一部で琺瑯(ホウロウ)鉄器を製造していた。刈谷町の電装工場は、元は刈谷北工場と呼ばれた工場で、1948年10月に刈谷南工場から電装品製造部門が移転すると同時に、ラジエーター製造部門が挙母工場から移転し、両部門を合わせて電装工場に改称された。また、紡織工場は刈谷南工場に所在し、1946年10月に紡織部の工場となっていた。
このような工場の現状から、電装工場を分離独立して日本電装株式会社を、紡織工場が所在する刈谷南工場を分離独立して民成紡織株式会社を、中川工場の琺瑯鉄器製造部門を分離独立して愛知琺瑯株式会社を第二会社として設立することになった。これら第二会社の設立を含む整備計画認可申請書は、1949年4月30日に大蔵・商工両大臣あてに提出され、同年11月15日付で認可を受けた。
この再建整備計画に基づき、1949年12月16日にトヨタ自工の現物出資により、資本金1500万円の日本電装株式会社が設立された。同社は、のちに株式会社デンソーと改称し、トヨタグループ企業の中核を担っている。
同じ1949年12月16日には愛知琺瑯株式会社が設立された。トヨタ自工が現物出資し、資本金は400万円であった。同社は、1951年9月に中川工場から移転したのち、業績不振により、同年11月27日付で解散した。トヨタ自工の資本は清算されたが、同社幹部が事業を引き継いで株式会社日新琺瑯製作所を設立し、自動車プレス部品の製造などを兼営した。
紡織部が分離独立した民成紡織株式会社は、1950年5月15日に設立された。その後、同社は、1967年8月に豊田紡織株式会社と改称し、自動車部品製造部門の比率を拡大させていった。2004(平成16)年10月にはトヨタ紡織株式会社と社名を変更した。
第5項 米軍用車修理事業と小型車開発
占領政策の一つとして、米軍用車の修理作業が自動車会社に発注された。米軍が発行する修理作業発注書を“Procurement Demand(PD)”と称したところから、トヨタ自工では、これを「PD作業」と呼んだ。
1947(昭和22)年4月、米第5空軍から乗用車の修理作業発注書を受領し、挙母工場で作業を開始した。作業工程をみておくと、修理車両は第3機械工場内に設けられた解体場で、エンジン、フレーム、ボデーに分離され、パーツごとに修理したうえで、塗装、メッキを施し、組立工場で組み立てられた。また、刈谷北工場では、同年6月に同じく米第5空軍から、ジープ、トラックの修理を受注し、1年間ほど作業を行った。
挙母工場では、1948年7月と1949年10月にも修理作業を受注した。しかし、同月には乗用車の生産が解禁され、トヨタ自工でも乗用車の製造を開始したため、米軍用車の修理作業は1950年3月で打ち切った。それまでに約300台を修理し、大部分はクライスラー社の乗用車プリムスであった。
終戦直後、占領政策により、乗用車の生産は禁じられていたが、研究開発は自由であった。トヨタ自工では、1945年10月中旬から小型車用エンジンの設計を開始し、1946年2月に出図を完了した。ただちに試作に取りかかり、同年11月にS型エンジン試作第1号が完成し、1947年4月に発売のSB型トラックに搭載された。
S型エンジンの各部構造は、英国フォード社のベビー・フォードを、主要諸元および性能については、ドイツのアドラー社のアドラー「トランプ・ジュニア」を参考にした。……S型エンジンは、トヨタ車のなかで唯一の側弁(サイドバルブ、SV)式エンジンである。トヨタ車では、最初のA型エンジンから、1945年までに開発されたエンジンには、すべて頭上弁(オバー・ヘッド・バルブ、OHV)式を採用していた。
ただし、日産自動車のエンジンとの部品共通化を図るため、6気筒サイドバルブ・エンジンの開発を行う計画もあった。その設計を指示した1941年9月10日付の命令書によると、サイドバルブ・エンジンを「製作容易」とする半面、「能率の優秀なるものを作ること」と燃焼効率の向上が指示されていた。このサイドバルブ・エンジンは、1943年にL型エンジン(6気筒、3790㏄)として設計が完了したが、試作されることはなかった。
S型エンジン開発当時の設計担当者は、サイドバルブ式を採用した理由として、「より以上に簡易さと堅実さとを要望された為」と述べている。自動車製造用の資材は配給制により供給不足であり、また現有設備を利用しての製造であるため、構造が簡易で、部品点数が少ないSV式を採用したのは、当時の情勢に適合した当然の選択といえよう。
なお、S型エンジンを搭載した車両については、第8節第1項のS型エンジン搭載の小型車開発(このコーナーの次々回)で後述する。
第6項 労働争議と喜一郎社長の辞任
●ドッジ不況と自動車生産・販売の自由化
第2次世界大戦後、新たな国際秩序が形成されるとともに、東西両陣営の対立が鮮明になった。このような国際情勢の変化に伴い、GHQ(連合国軍総司令部)の経済政策も日本の民主化から安定化・自立化へと転換した。1948(昭和23)年12月には「経済安定9原則」の実施が日本政府に指令され、これに沿った経済安定化政策を指導するため、1949年2月1日にデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが公使兼GHQ財政顧問として来日した。
ドッジ公使は、「ドッジ・ライン」と呼ばれる一連の経済安定化政策を進めた。その基本は、通貨供給量を減らし、インフレを克服することにあった。具体的な施策としては、総需要を抑制するための超均衡予算の編成があげられる。1949年度予算はドッジ公使の指導により、それまでの赤字予算から、一転して黒字に転換する超均衡予算となった。
このような急激なインフレ抑制策は、物価の急速な安定をもたらしたが、その一方で通貨供給量の減少により、産業界は深刻な資金不足に陥って失業や倒産が相次ぎ、いわゆる「ゴッジ不況」がおこった。自動車業界では、1949年4月以降、普通トラックの需要が鈍化したため、配給統制下の割当車両を辞退する販売店も現れた。同年7~8月には販売店の引き取り辞退から、トヨタ自工の在庫台数が一時400台を上回った。
ドッジ・ラインの経済安定化施策の一つとして、1949年4月23日には1ドル360円の単一為替レートが実施された。市場経済の機能回復を目指した政策であり、あわせて補助金の廃止、各種の制限や統制の撤廃を行った。
1949年8月25日には石炭の配給統制が撤廃され、翌9月に製鉄用原料炭に支給されていた補助金が廃止された。これに伴い、同月には鉄鋼の統制価格が32~37%程度値上げされたが、自動車の公定価格は据え置かれたままという事態が生じた。当時の自動車工業の統制を確認しておくと、生産用資材は公定価格による割当配給制、販売は配給申請に基づく公定価格による割当配給制であった。このためトヨタ自工では、必死の原価低減努力を傾けたものの、資材と製品の公定価格差を埋めることは、難しく、毎月約2200万円の赤字が続くことが予想された。
そのような状況のなかで、1949年10月25日にGHQは「自動車の生産販売についての制限の全面的解除に関する覚書」を発令した。これにより、自動車の生産・販売は原則自由になったが、生産用資材の供給については通商産業省による割当配給制が残り、資材や自動車の価格は統制されたままであった。しかも、資材の統制価格はその後順次引き上げられたのに対し、自動車の統制価格は1950年4月まで据え置かれたため、自動車事業の採算はきわめて厳しい状態が続いた。
こうした業績の悪化は、トヨタ自工ばかりでなく、日産自動車、いすゞ自動車も同様であった。1949年10月には1000人を超す人員整理が発表されたことに端を発し、激しい労働争議が両社で起こった。
●経営危機の発生
1949(昭和24)年10月の自由販売への移行により、自動車市場は買い手市場に変わり、統制下の売り手市場に慣れた自動車販売業界は混乱状態となった。その結果、月賦手形による分割払いが増加し、月賦の条件も次第に悪くなるなど、販売条件は急速に悪化していった。トヨタの販売店では、自由販売になると同時に月賦販売を開始した。普通トラックの場合、1949年11、12月の月賦販売の比率は、それぞれ85%、87%であった。小型トラックの月賦販売比率は、同年11月の47%から12月には61%へと急上昇し、しかも平均月賦期間が長期化する傾向を示していた。
これらのことは、不渡り手形の大量発生につながった。そして、その穴埋めをトヨタ自工が負担することになったため、深刻な経営危機を招いた。
自動車販売代金の回収は、割当配給が適用されていた1949年9月末時点でも、3億5000万円の出荷額に対して2億円程度と、6割を下回っていた。このような代金回収の停滞と、統制価格体系のひずみに起因する原価の増大とにより、トヨタ自工の経営は急速に悪化したのである。
労働組合も協力した懸命な合理化努力にもかかわらず、鉄鋼値上げ分を吸収できず、1949年11月には3465万円の営業損失となった。損失の拡大はその後も続き、翌12月には1億9876万円へと急増した。そして、同年末には12月度賃金の一部支払い、協力工場への仕入代金支払い、車両販売手形の買い戻し、借入金返済などのため、不足資金2億円を借り入れなければならない事態に陥った。
1949年12月23日、トヨタ自工とトヨタ自工労働組合(全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会)は、この危機を乗り越えるため、互いに協力することを約した覚書を締結した。その骨子は、原価低減を目的とする合理化の具体案を労使協力して推進すること、会社側は危機克服の手段として人員整理を絶対に行わないこと、その代償として労働組合側は賃金ベースの1割引き下げを受け入れること、などであった。
既述のとおり、豊田喜一郎社長は、1930年の昭和恐慌の際、豊田自動織機製作所で心ならずも雇用問題を経験し、そのような事態を二度と起こさないことを信条としていた。自動車事業への進出は、事業の多角化による雇用問題の再発防止策でもあった。したがって、今回の経営危機に際しても、人員整理は絶対に避ける覚悟を固めており、覚書にその旨を掲げることは当然であったといえる。
この覚書締結を踏まえて、日本銀行の斡旋により24行からなる協調融資団が成立し、トヨタ自工の再建計画策定を条件に、年末決済資金として1億8820万円の融資が実現した。
●トヨタ自動車販売の設立
1950(昭和25)年正月早々、トヨタ自工の再建計画に関する日本銀行との折衝が始まった。自動車販売代金の回収停滞が経営悪化の大きな原因であったところから、販売資金と製造資金を峻別できる体制の確立が再建計画策定の基本方針となった。具体的には、販売会社の設立、月賦販売制度の確立、販売秩序の維持と市場動向に即した自動車の生産と販売、必要資金4億円の融資、などが取り決められた。
販売会社の設立構想は、販売担当の神谷正太郎常務が戦前から抱いていた構想といわれ、1950年2月5日に経営協議会の席上で明らかにされた。もともとトヨタ自工では、月賦販売制度を支えるための金融機能を果たす会社として、トヨタ金融株式会社が1936年10月に設立されていた。しかし、戦時中の自動車配給統制により、月賦販売資金の融資が不要になったので、同社は業務内容を変えて豊田産業株式会社と改称した。
戦後まもなく、豊田産業は自動車金融を復活させた。当時、掛売りの場合、豊田産業を経由して各販売店へ売り渡され、代金は手形で決済された。その際、販売店が銀行から融資を受けられないときには、豊田産業が販売店に融資する制度も設けていた。
この業務は、豊田産業の自動車金融課が担当したが、1947年9月には同社が持株会社に指定されて解散したため、自動車金融課は分離独立され、大豊産業株式会社が設立された。しかし、大豊産業は資本金も少なく、また金融機関からの信用力も乏しかったところから、十分に機能しなかった。このため、1948年11月に自動車金融の業務はトヨタ自工に移管されたが、トヨタ自工自体が資金不足で困窮を余儀なくされるという状況であった。
豊田喜一郎社長は、自動車金融会社を設立する必要性について、1950年2月28日開催の経営協議会の席上、次のように述べている。
「自由経済時代に移行しつつある今日、統制経済時代に育成され自由経済時代の経験の殆どない自動車工業は、今後外国車との競争が激しくなると思われるが、果たして成り立ってゆくかどうかという懸念が、業者間殊に金融業者間に強い。然し、私はそうは考えない。米国でさえも自動車は月賦販売であるので、私はその月賦資金さえあれば、この工業は成り立ってゆくものと確信している。そこで我々は関係方面に月賦資金調達の話を進めた結果、それに伴って販売会社の独立ということになったが、種々の問題があって、思うようにゆかない。
その主な理由は
- 金融界のトヨタの経営に対する不信用
- 自動車産業の前途の不安
- 月賦金融にならず滞貨金融になると考えられていること
等である。即ちトヨタに対する不信用は、技術が経営に先行していること(逆に言えば現在では金融あっての経営であり技術である)ということと、トヨタに融資してもその使途が不明確であるということにある。
更に金融筋は、以上の点を是正するため、トヨタの経営陣に人を送りたいと云う意向もあり、これらのことについて去る2月18日に金融業者との懇談会を行った。更に我々としては、第一に金融筋への信用回復すること、第二に技術の先行を是正して、経営をスッキリした形にしたいと思うので、既に経営陣を対外的にも対内的にも強化し、更に販売会社の設立を一日も早くと努力しているのである」
喜一郎社長は、販売会社を設立して月賦販売制度を確立すれば、代金回収問題は解決されると考えていたのである。
銀行や、労働組合の理解を得たのち、販売金融体制の確立と販売力の強化を目的に、トヨタ自工の販売部門を分離独立し、1950年4月3日にトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)を設立した。社長には神谷正太郎が就任し、本社はトヨタ自工名古屋事務所内旧販売部が所在した名古屋市中村区笹島1丁目221に置かれた。
当時、トヨタ自工は制限会社に指定されていたため、トヨタ自販へ出資することはできなかった。そこで、同社の資本金8000万円(160万株)は、トヨタ自販の役員および課長以上の幹部に就任が予定される神谷正太郎(社長)、大西四郎(常務)、花崎鹿之助(取締役)、九里検一郎(監査役)、加藤誠之(月賦販売部長)ら18人が出資する形をとった。
なお、トヨタ自工は1951年4月11日に制限会社の指定を解除され、トヨタ自販の「第6期(1952年10月~1953年3月)営業報告書」に初めて大株主として記載されている。トヨタ自工の所有株式数は90万株で、株式総数400万株の22.5%を占めた。
●人員整理をめぐる労働争議
1950(昭和25)年4月にトヨタ自販が設立されたものの、事態は好転するどころか、ますます悪化していった。同年1月には鉄鋼の統制価格が前年9月に続き、30%程度引き上げられた。非鉄金属についても、1949年9月に鉛、亜鉛、銅などの価格統制が廃止され、さらに1950年1月にはアルミの統制価格が撤廃され、市場価格は大幅に上昇した。
このような原材料価格の高騰に対して、既述のとおり、自動車の統制価格は同年4月まで据え置かれた。そのためトヨタ自工では、経営合理化策を強力に推進したにもかかわらず、1949年11月16日~1950年3月31日の4ヵ月半(「企業再建整備法」による変則的な決算期)の決算は7652万円の損失となった。トヨタ自工の労働組合は、会社の業績がいっこうに回復しない状況から、人員整理は必至と判断し、同年3月中に準闘争態勢を確立した。以後、労使交渉は長期にわたる争議へと激化していった。
トヨタ自工の労働組合は、1946年1月19日にトヨタ自動車コロモ労働組合の名称で結成され、同年4月7日には第1回経営協議会を開催した。労使で構成する協議機関としての経営協議会では、主要な労働条件をはじめ、生産計画、経営組織などについて意見交換が行われ、1946年7月25日には労働協約が締結された。その後、1948年3月に全国組織の産業別単一組合である全日本自動車産業労働組合(全自動車)が、94分会・約4万人の組合員をもって結成され、トヨタ自動車コロモ労働組合は全日本自動車産業労働組合東海支部トヨタコロモ分会となった。
一方、1949年12月に発足した日本電装(現・デンソー)では、トヨタ自工よりもひと足さきに、人員整理をめぐって労働争議が起こった。日本電装は、設立から4ヵ月後の1950年3月31日、473名の人員整理を含む会社再建案を発表したのである。当時の日本電装の労働組合は、トヨタ自工の労働組合と同じ全日本自動車産業労働組合(全自動車)東海支部に属し、その日本電装分会と称していた。
トヨタ自工の労働組合は、争議行為に入った日本電装分会を支援するため、4月7日に争議行為通知書を提示し、4月9日から争議行為に入ることを会社側に通告してきた。そして、労働組合側は会社再建策の提出を再三にわたり要求し、会社側は早急にそれを提示することになった。
その結果、1950年4月22日開催の第8回団体交渉で、会社側は以下のような会社再建案を提示した。
- 会社は人件費の削減をせざるをえない。芝浦・蒲田工場を別にして、本社在籍人員中から1600名(病院、生協、保険組合を除く)の希望退職者を募集する。
- 残留者については10%の賃下げを行う。
- 希望退職者には、退職手当金規程第1号表の支給額に加えて、基準賃金1ヵ月分および独身者3000円、世帯者5000円を支給する。
- 芝浦・蒲田工場は閉鎖したいが、独立採算可能の見通しあるものについては考慮したい。
- 保険組合、生活協同組合、病院は分離または独立させる。
- 給与制度の改革ならびに強力な配置転換を行う。
- 再建案の協議は4月24日から3日間とする。3日後の措置については、3日間中に協議する。
この人員整理を柱とする会社再建案に対して、労働組合側は不満を表明し、4月24日から労使間で具体案を協議することになった。しかし交渉は難航し、覚書が締結される6月10日まで、さらに1ヵ月半も争議が続いた。
……(協議事項は略)…
●豊田喜一郎社長の辞任
1950(昭和25)年5月27日の第21回団体交渉では、労働組合側から議題として、「社長・副社長・西村常務辞任」に関する件が提案された。労使間で会社再建案を討議中の時期に、こうした議題が取り上げられたのは、2日前の5月25日、豊田喜一郎がトヨタ自動車販売店協会の役員集会で、労働争議の責任を負って辞任することを表明したからであった。会社側は、喜一郎社長が辞任する意向であること、後任の社長には豊田自動織機製作所の石田退三社長が就任することを説明した。
一方、2ヵ月近くに及ぶ労働争議で生産は停滞し、経営の悪化はいっそう深刻の度を加えた。会社再建案の実行は一刻の猶予も許されない状況となり、会社側は6月4日の第25回団体交渉で、「早期解決に関する件」を労働組合側に文書で申し入れるなど、人員整理による会社再建案の受け入れを求めた。団体交渉と並行して進められた希望退職者の募集は、1600名の削減目標に対して、6月6日には約1700名にのぼっていた。
6月8日の第29回団体交渉では、徹夜の討議を行った結果、労働組合は9日早朝に会社再建案の受け入れを決めた。翌10日に労使間で締結・調印された覚書の概要は、次のとおりである。
- 1.人員整理
- 労働組合は、希望退職者の退職を認める。
会社は、労働組合の意見を参考にして、退職者のなかから160名程度の復職を認める。
会社が将来人員を採用する場合には、今回の退職者を優先的に取り扱う。
会社および労働組合は、退職者の就職斡旋に努力する。 - 2.賃金の引下げ
- 労働組合は、残留者の賃下げ(6月16日から1割引き下げ)を認める。
- 3.人事の刷新
- 会社は思い切った職制の刷新を行う。この場合、労働組合の意見を参考にする。
労働組合との交渉妥結に伴い、会社再建案に盛り込まれた東京の芝浦工場と蒲田工場の閉鎖も確定し、両工場の解雇者378名を含む2146名が退職することになった。残留者は5994名(販売部門の350名を含む)であった。
こうして、1950年4月11日に始まった労働争議は、2ヵ月を経た6月10日に終結した。それに先立って、喜一郎社長、隈部一雄副社長、西村小八郎常務の3人は、6月5日に労働争議の責めを負って辞任した。さらに、7月18日に開催された臨時株主総会で全役員がいったん辞任し、新役員を選任したうえで、豊田自動織機製作所の石田退三が兼任のまま新社長に就任した。また、専務には新たに帝国銀行(現・三井住友銀行)大阪事務所長の中川不器男が選任された。
●芝浦・蒲田工場の閉鎖
東京の芝浦工場と蒲田工場は、争議中の1950年(昭和25)5月から独立採算制となり、閉鎖に向けての準備が始まった。
芝浦工場は、1936年5月に豊田自動織機製作所自動車部の芝浦研究所として発足し、1945年3月の東京大空襲で施設の90%を焼失した。戦後、工場の復旧が成ってからは、自動車の再生・修理を行った。1950年6月に芝浦工場が閉鎖されると、その要員を引き継いで東京芝浦自動車工業株式会社(社長:長谷川信治元芝浦工場長)、および日本ボディー株式会社(代表:内藤子生)の2社が設立された。両社は、旧芝浦工場の設備を賃貸し、自動車の再生・修理・ボデー架装などにあたった。
しかし、1953年には両社とも事業不振のために解散され、その設備と要員は、1954年6月に設立されたトヨペット整備株式会社に引き継がれた。同社は、1964年に株式会社トヨペットサービスセンターに社名を変更し、さらに1990(平成2)年にはトヨタテクノクラフト株式会社と改称した。現在は、自動車の整備・修理、特殊車の架装・改造、受託車両の開発・試作・改造などを行っている。
蒲田工場は、芝浦工場が戦災に遭ったため、戦後その代わりとして、日本内燃機から借用した工場である。日本内燃機は、トヨタ自工の取締役であった寺田甚吉が社長を務めていた会社で、その在任中には豊田喜一郎も同社の取締役に就任していた。蒲田工場では、1947年2月から占領軍払い下げ車両(GMC武器運搬車)の改造・整備作業を開始した。
このように、蒲田工場は自動車の再生作業を目的にスタートしたが、再生すべき自動車の台数自体が限られていたところから、事業は長続きしなかった。事業の転換に向けて、小型トラックのボデー試作などを試みていたさなか、ドッジ・ラインによる深刻な不況に襲われ、トヨタ自工の再建策の一環として、閉鎖のやむなきに至ったのである。
蒲田工場の設備は日本内燃機に返却され、従業員は工場のない状態で、新たな事業に取り組まなければならなかった。再出発した事業の一つであるセントラル自動車では、ボデー架装事業に進出し、その後トヨタ自工の新車用ボデーの製造・組立を担う会社となった。
(ここ以降は、「第7節 設備近代化」につづく)
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー