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「清水建設百七十年」その4

COLUMN「清水建設百七十年」その4

VOL.50
小川 真理生さん

ここでは、「清水建設百七十年」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第50回「清水建設百七十年」その4

article

 ここでは、「清水建設百七十年」の最後の紹介として、「第四章 第一次建設ブーム下の発展(昭和二五~二八年)」を見ていきます。

 

一 借入金返済のための安定計画
 昭和二四年の不況時に「わが社の危機突破対策」を実施して窮状打開に努めたことは先に述べたが、その結果、二五年三月期は三二億円の工事を入手し、半期三〇億円の入手目標を達成した。主な入手工事としては丸善本社・千代田興業事務所・北海道電気通信局庁舎・富国ビル改修・雙葉学園復興工事・大東紡織三島工場増築・日本発送電江別発電所(後の北海道電力)増設工事などがあり、いずれも当時の大工事であった。
 しかし、工事入手面では一応目標を達成したものの、金融難は少しも改善されなかった。完成工事高も二四年九月期の二六億円台から二五年三月期は三三億円へ約二七%増加しており、引き続き業界第一位の工事量を維持することができたが、工事量の大幅な増加は一面、運転資金所要量を増加させる要因であったし、金詰まりのために工事立替金の回収は悪く、工事入手量増加のための努力が工事立替金を増大させている面もないではなかった。そのうえ、管理部門の経費は著増するという状態であったので、これをそのまま放置するわけにはいかなかった。
 現金収入面からみると、二四年九月期の工事勘定は実収入金二一億〇四九五万円、実支出金二一億四四〇一万円で差し引き三九〇六万円の支出超過、つづく二五年三月期は実収入金二四億二〇六九万円、実支出金二四億九五三四万円、差し引き七四六五万円の支出超過で、借入金は二四年三月期末の三億二六三三万円から二五年三月期末には六億六一一九万円に倍増していた。
 そこで、四月の役員会では二五年九月期の経営方針として(1)工事入手量をさらに三割増加すること、(2)経費を二割節減すること、(3)手持ち資材を流動化し、投資株券および不要資産を処分して流動資金の増加を図り、借入金の二割返済を期すること、(4)工事の平均利益率を一%向上させること、の四項目を決定したが、その後、六月一三日の役員会で改めて一連の安定計画を決定し実行を期することにした。その内容は、半期の工事入手目標を四〇億円とし、予算制を確立して経費を二割節減し、少なくとも一億五〇〇〇万円を借入金の返済に当てること、そのために新たに実行委員を任命して計画の実行に当たらせるというものであった。
 また、計画の実行主体は本社管理部門(委員長安念常務)、本社現業部門(同黒岩常務)および名古屋・大阪など八支店(同各支店長)の一〇主体とし、それぞれに委員長・副委員長・委員を任命し、各実行主体ごとに責任をもって計画を遂行することにしたのである。
 ところが、この計画実施直後に朝鮮戦争が勃発し、その後間もなく特需景気を迎えることになり、その後の情勢は一変した。

二 経営近代化の布石
 朝鮮戦争が勃発する直前の二五年六月、戦後はじめての建設産業人海外視察団が渡米することとなり、当社常務吉川清一がその一員となったが、他社幹部の許可が延びて一行がそろわず同月一七日、吉川常務は単独で羽田を出発した。当社としては昭和一二年技師長海野浩太郎の外遊以来、戦後初めての海外視察である。
 視察の目的は、日本とアメリカとでは根本的に相異する面が多いとはいえ高度の経営組織を持つ進歩したアメリカ建設業の実態を学び、今後の経営近代化に役立たせることと、あわせてこの一〇年間の建設・施工技術の遅れを取りもどす方策を検討することにあった。当時はまだデフレ下で産業界は不況を脱し切れず、当社は安定計画を実施して経費の二割節減を行なうという状態であったが、戦中戦後の空白はできるだけ早く埋めなければならぬと考えたからであり、さらに適当な時期に技術者を派遣する方針であった。
 視察団の研究課題としては、(1)総合請負業者の機構と経営方式、(2)総合請負業者の建設工事の機会化、(3)建設新資材の研究、(4)建設工事の新施工法、(5)建設工事に関する諸法令、(6)建設工事の労働事情、(7)下請け業者の組織と活動、(8)工場建築の研究、などが準備された。
 吉川常務は出発後約二ヵ月半にわたってシアトル、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルスの各都市で各種の工事現場を視察し、また、ウエルズファーゴー銀行、ファーストナショナルシティバンクオブシカゴおよびナショナルシティバンクオブニューヨークなどを介し有名会社一七社余を訪ね、各々の企業についてその近代化された経営組織の研究および現場などを見学したのち、九月一二日帰国した。このアメリカ視察旅行を通じて、吉川常務が何よりも強く感じたことは、「米国民の根底を流れている協同(coordination)精神の強さであり、また率先(initiative)遂行の精神が各自の生活安定をはかる基幹であるとされている点にあり、この精神によって企業の組織は円滑に運営され、新技術は進歩発達し、高能率・高速度の生産をきたしたものとみられたこと」であった。
 次いで二六年四月、設計部長橋本文夫がローマで開かれている世界連邦建設同盟総会に出席することになったので、この機会に新しい設計様式を研究するために欧米を視察させることにした。橋本部長は各都市の多くの建築を視察し六月帰国した。
 その後、二八年三月には副社長清水正雄・専務富永長治に工務部統計課長佐治徳三を同行させ、欧米を視察させた。三名は三月二八日に出発して、まずサンフランシスコ、ロサンゼルス周辺のダム工事現場や火力発電所、アパート建築などを視察し、シカゴ、クリーブランド、ニューヨーク、フィラデルフィヤ、ワシントンの各地でアメリカ建設業の実態を見学し、次いでロンドン、パリを経てドイツ各地の戦後の復興状況を視察し、イタリアではローマ、フローレンス、ミラノなどの各地で新建築の状態を視察し、最後にスイスの各地を回って六月末、帰国した。
 この間、本社からの指示により、特にクリーブランドでは、今日ひろく使用されているプレパクトコンクリートの技術導入についてプレパクト・コンクリート社と下打ち合わせを行なった。

三 沖縄基地拡張工事
 昭和二五年三月期以降の施工工事のなかで、かなり大きな比重を占めるようになったのがアメリカ軍沖縄基地拡張工事で、その後の朝鮮特需と合わせて相当の規模の工事量となった。
 日本の建設業者が沖縄工事に参加を許されることになったのは二四年一〇月であるが、この時期に日本業者の参加を認めるようになったのは、二四年夏、アメリカの大規模な軍事基地拡張工事が具体化し、沖縄基地工事が対日経済援助の一環として取り上げられることになったからで、その後、現地調査のため当社も技術者二名を沖縄に派遣し、応札の準備を進めた。
 工事の入札は翌二五年三月に開始された。資材は米軍支給、所要の建設機械は貸与、前渡金はなしという条件で、資材については二四年末、すでに約二五〇〇万ドルの入札が発表されていた。これも対日経済援助の一環としてである。
 第一次の入札工事は嘉手納地区の砕石生産とブロックおよびパイプの製造並びに生コンクリートの配給工事であった。この工事はアメリカのモリソンが落札したが、第二次の那覇港倉庫一〇棟新築工事は当社が入手した。金額は八四〇〇万円で大きな工事ではなかったが、最初の日本業者として、四月一八日工事契約に調印し、四月二七日現地乗り込みを完了した。
 沖縄基地拡張工事は、朝鮮戦争によってその後急テンポで推進されるようになり、二五年夏から二六年末にかけて大量の工事が発注された。この間、当社は二五年六月に牧港火力発電所新築工事、二五年一〇月に瑞慶覧兵舎一一棟新築工事七億八三〇〇万円を入手し、二六年九月に牧港および那覇地区の洗濯工場・倉庫・兵舎など新築工事、モトブおよび牧港の砕石設備・砕石生産輸送工事を入手した。洗濯工場・兵舎等新築工事は二九億三三〇〇万円、砕石工事は一九億三七〇〇万円の大工事で、前者は二八年一二月、後者は二九年三月に完了した。
 当社の工事入手量はその後の産業界の活況を背景として急増したが、沖縄工事の最盛期に当たる二六年九月期には総工事入手量は一四五億円にのぼり、沖縄工事はそのうち五二億円、三四%に達していた。
 沖縄工事の入手と同時に、二五年四月に本社直轄の沖縄出張所を設置し、八月には本社内に沖縄東京事務所を設置して沖縄関係の勘定その他はすべて同事務所を通すことにしたが、二六年九月に大量の工事を入手したので、それまでは出張所であったのを一〇月から営業所に昇格した。
 もっとも、沖縄工事は当初業者間の入札競争が激しかったのと、朝鮮戦争勃発後、諸物価、賃金が高騰したため採算割れに終わる工事もあった。牧港火力発電所新築工事はその例である。この工事は東京芝浦電気、日本機械貿易と当社が三社共同で入手したもので、当社の金額は二億三六〇〇万円、竣工は二七年一二月であったが、結局、原価増のため赤字工事となった。
 沖縄工事はその後朝鮮休戦協定が成立した二八年末の工事竣工をもって一段落したが、沖縄営業所を廃止したのは三三年一〇月である。なお、沖縄工事については当初、外国業者とのジョイント・ベンチャー(J・V)へ参加を求められたが、この形式については慎重検討の段階にあったので参加を辞退し、単独施工を続けた。

四 愛清会の発足
 当社は昭和四八年で創業一七〇年を迎える。大正四年、合資会社清水組に改組してからでも五〇年をこえるが、社歴が永いだけに会社と苦労を共にし人生のほとんどを「清水」で送った人達の数は非常に多い。これらの人達は過去にそれぞれ幹部として職責を果たし、永年勤続ののち会社を円満に退社した人達であるから、会社を離れてからも会社に愛着を持ち、昔の同僚と思い出話をしてみたいと思うこともしばしばである。
 このように常に「清水」を愛する一部の人達から、社長を中心としてお互いに懇親をはかる機会が欲しいという申し入れがあり、これが動機となって二五年一〇月一四日、愛清会が結成された。この話は二四年末ごろに始まったものであるが、ちょうどそのころ会社側でも同様の案が出ていたので早速立案に取りかかり、会の名称、内規などを定めて発会の運びとなったものである。
 発会式には会員二六名が集まり、小笹副社長の経過報告の後、清水社長のあいさつがあり、吉川常務のアメリカ視察談を中心に歓談が続いた。
 現在は、隔月本社で例会を開いているが、会員八〇名を越えるようになり年々懇親の度を加えている。

五 研究部門の強化と新技術の開発
 研究部門の強化

 昭和一九年当時、当社は設計部に研究課を置いていたが、終戦直後の二一年二月、社内に独立した組織として研究室を新設した。そのころの研究室は委員会制度で運営され、一般建築技術の研究や材料試験などを担当していたが、その後、研究業務の重要性が高まるにつれて、二四年五月に名称を研究部と改め組織を強化した。
 次いで、二五年春ごろからビル建築その他本格的な工事が増加してきたので、これに対処するため二七年二月一日、本社地下室に小規模ながら試験室を完成した。この試験室の完成により、その後は耐圧試験、抗折試験、合理的調合比の研究、軽量コンクリート骨材の研究、その他コンクリートに関する限り一応の試験が可能となり、研究の成果も高まってきた。

 プレパクト工法の技術導入
 昭和二八年八月二〇日、当社は西松建設とともにアメリカのプレパクト・コンクリート社およびピーターソン・シャープ・エンジニヤリングコーポレーションの両社と、プレパクト・コンクリート工法の実施に関する技術導入契約に調印した。この契約は同年一二月一五日、外資審議会の認可を得て正式に成立し、翌二九年一月、当社は施工法修得のため土木部から社員を渡米させるとともに、同年四月から約三年間プレパクト・コンクリート社から日本へ技術者をよんでプレパクト工法の技術指導を受けた。
 プレパクトコンクリートの特長は、収縮が皆無で付着が強いこと、使用するモルタルは浸透力が強くどんなすみずみへも浸透すること、水と親和性がなく水中でも完全なコンクリートができること、の三点にある。この特性はプレパクト社の特許品であるイントルージョンエイドを使用することその他によって生ずるもので、主として土木工事に利用されるが、なかでも水中コンクリート工事や補修工事、その他特殊工事に画期的なもので、トンネルの巻き立て、ダムの仮締め切り工事・一般水中工事・悪い地盤の基礎工事・土木建築を通じての補修補強工事など、従来は困難とされた工事も可能になるなど、利用範囲の広いものである。
 水中コンクリート工事としては二九年四月、農林省の新潟市栗の木排水機場閘門補修工事をはじめとし、続いて運輸省第二港湾建設局山下埠頭棚式岸壁工事や神奈川県湘南港護岸工事などの重要構造物がつぎつぎに施工されるようになった。
 また二九年八月、日本セメント埼玉工場建設工事で、プレパクトモルタルの特性を生かした無振動無騒音のプレパクト杭工法によりはじめて基礎杭を施工した。
 プレパクト工法の施工に関する業務は、その性質上、土木部に属するものであるが、初めての技術導入であることと、特許権実施料支払いの関係上、その経理を明確に区分するため、経理規定を改正して会計単位としての土木部を土木部門と改め、特にプレパクト部門を新設してこれを一会計単位として処理することにした。

 技術系社員の研修
 なお、建設会社の生命である施工技術の向上については、戦後絶えずその必要を強調し、戦中戦後の立ち遅れを取りもどすことに努めてきたが、本格的な大工事が増加するにつれてさらにその必要度が高まり、二六年一月から工務部主催の建築施工座談会を開き、技術系社員の研修を開始することになった。施工技術の向上策としては、それ以前に「現場主任必携」を作成して社員に配布していたが、より効果的な教育方針として、社内の永年の経験者を中心とする座談会形式をとり、教育を行なうことにしたものである。
 事務系社員の研修については、その後二七年三月から事務研究会が開催された。

六 ビルブームの象徴・新丸ノ内ビル
 二五~二六年のビルラッシュ

 沖縄基地工事の開始と前後して、東京都内で二五年春ごろから目だつようになったのが本格的なビル工事の増加である。当社が二四年一〇月に着工した日本橋の丸善本社新築工事はその一つで、これがその後に起こったビルラッシュのいわばはしりであった。
 戦後の二五年春ごろのビル建築は、そのほとんどが貸ビルであったが、これは戦災と進駐軍による接収のため大都市の事務所用ビルの不足が激しかったためで、その後、朝鮮特需で産業界が活況を呈するようになり各種のビル・店舗建築が急増した。この二五年後半から二六年末にかけての約一年半がいわゆるビルブーム時代で、その背景としては、(1)ビルの潜在需要が膨大であったこと、(2)それまでは企業にも余裕がなかったが、特需景気で企業に余力ができたこと、(3)生産の増加に伴いセメント・鋼材など主要建設資材の統制がすべて廃止され、建築制限が大幅に緩和されたこと、などを挙げることができる。
 当社は二五年八月に着工したブリヂストンビルを始めとして、この時期に多くのビル・店舗工事を施工した。そのうちの主なものを挙げると丸善本社第二期・ブリヂストンビル・日本相互銀行本社・名古屋ビル・朝日物産ビル・三共菊秀ビル・滋賀ビル・新丸ノ内ビル・福武ビル・住友銀行名古屋駅前支店・日本銀行秋田支店・同釧路支店・兵庫相互銀行本社などがあり、これらは当時の金額でいずれも一億円を越える工事であった。
 この年五月二四日に建築基準法および建築士法が公布され、臨時建築制限規則その他一連の法令が廃止されたが、この措置によって、それまで存続していた建築の量的規制が撤廃され現在の質的規制に移行したことは、この時期の建設行政の大きな変化であった。

 東洋一の新丸ビル
 二五、二六年に当社が施工したビル・店舗建築の中でも、特に、新丸ノ内ビルはその規模においてまさに当時のビルブームを象徴する工事であった。
 新丸ノ内ビルは基礎工事は戦前すでに出来上がっていて、戦争のためその後の工事が中断されていたもので、二六年三月、三菱地所から特命を受けて当社が施工に当たり、一年九ヵ月後の二七年一一月に竣工した。その大きさは地下一部二階、地上八階、延べ二万〇一〇五坪で旧丸ビルよりさらに約二〇〇〇坪大きく、当時、東洋一の大ビルとして世間の話題をあつめたものである。このビルはただ規模が大きいだけでなく、この工事に日本で初めてバッチャー式ミキシングプラント(これは当時の東日本重工業が当社との共同研究により製作した)を使用したこと、これまでにかつてなかったほど直営工事が多かったこと、などの点が特徴であった。
 また前川国男建築設計事務所の設計で二五年一〇月に着工し二七年七月に竣工した日本相互銀行本社は、基礎工事に木田式深礎工法を採用し、当時の困難な諸条件のなかで建築で初めて全溶接鉄骨構造としたこと、営業の性質上、内部の柱を極度に少なくしたこと、カーテンウォール構造とし、三階以上には軽量コンクリートや軽量ブロックを使用し、アルミニュームや軽合金を用いるなど、当時としては最新の技術を採用した建物で、高層建築物の工法に新しい話題を提供したものである。ただ、この工事は朝鮮戦争による諸物価値上がり直前に落札したので、収支面ではかなり苦しい工事であった。
 ビル軽量化の例としては二六年一月に着工した三共菊秀ビルに軽合金支柱を使用しており、また二七年は軽量コンクリートの使用が普及した年である。

 日本テレビ東京放送局
 二七年七月に日本で初めてのテレビ局予備免許が交付され、日本テレビ放送網株式会社は同年一〇月二八日に設立されたが、会社設立と同時に東京放送局の建設を急ぐことになり、当社がその設計・施工を下命された。
 施設はスタジオ、送信機室、事務室、鉄塔アンテナなどに分かれており、日本では初めての本格的な工事であった。鉄塔は地上一三二mの高さで、その上にさらに二二mのアンテナを取り付ける作業など、その困難は一通りのものではなかった。着工後わずか一〇ヵ月後の二八年八月に全工事を完成し、八月二八日には民放初のテレビ放送が開始された。
 その後、同社は順調な成績を挙げ、これが刺激となって次々に各地で民間テレビ局の開局が進められ、やがて大衆娯楽としてラジオに代わるテレビ時代を迎えることになったわけである。
 当社は、その後三〇年四月上旬から五月下旬まで設計部員をテレビ施設視察のため米国に派遣しさらに研究を重ね、日本テレビに次いで三〇年以降に大阪テレビ放送・読売テレビ放送・日本教育テレビなどの主要工事を施工している。

七 工事入手量、倍増
 沖縄基地拡張工事とこれに続く朝鮮特需、あるいは設備制限撤廃に伴う繊維工業の設備拡張、特需景気に伴うビル・店舗建築の急増と産業界の設備拡張、などの好材料を背景として、二五年後半から当社の工事入手量は大幅に増加した。
 これを決算期別にみると、二五年三月期の工事入手量は三二億円台であったが、同年九月期は六〇億円に倍増し、その後、沖縄工事が最盛期を迎えた二六年九月期には総工事入手量はさらに倍増して一四五億円に達した。二五年三月期に比べると四・五倍の工事量である。期末手持ち工事高も六三億円から二三四億円に著増した。一四五億円の入手工事の内訳は官庁工事七億円、民間工事七三億円、沖縄工事五三億円、朝鮮特需一二億円で、沖縄工事と特需が総工事入手量の四五%に達しているが、国内工事も約八〇億円にのぼっており、半期の工事入手目標を四〇億円においた一年前に比べると著しい情勢の変化といわなければならない。
 完成工事高も、二五年三月期の三三億円から二六年三月期には四二億円、また二七年三月期には七一億円に増加し、二六年度の年度間完成工事高は初めて一〇〇億円を突破し、一二四億円となった。

 本支店ごとの経理体系の改正
 もっとも、工事入手量は増加したものの、その反面、朝鮮戦争に伴う諸物価値上がりのた、どの工事も採算的には楽観を許されぬ面が多かった。特に二六年春の建設資材の値上がりは激しかった。
 そこで、工事入手量の増加に気をゆるめることなく、これを足がかりとしてこの機に企業内容の充実を期するため、二六年四月以降、第二次安定計画ともいうべき経理体系の改正を行ない、各会計単位ごとの利益責任体制をとることにした。この体制はいわゆる独立採算制(事業部制)とも異なるが、本社、各支店ともそれぞれ使用する固定資産と稼動資金についての費用と責任を持ち、さらに本社管理部門の費用を紙上配付して各本支店部門の仮定純利益計算を行なわせ、経営の指針とした。
 このため、本社は現業部門と管理部門を分離して常務黒岩正夫が現業、同谷井陽之助が現業土木・機械部、同鈴木一幸が営業を担当するとともに、名古屋支店長常務吉川清一が関西に駐在して六支店を担当することになり、さらに各支店の陣容を更新するため本支店間の大異動、人事交流を行なった。これによって気分を一新し、本社および全支店が同じ歩調で総力を挙げて経営に当たる態勢を整えるためであった。

 朝鮮特需
 沖縄基地工事に続くこの時期の特色のある工事として、いわゆる朝鮮特需の組み立て兵舎その他の製作・梱包工事と、二六年春に開始された川崎製鉄千葉製鉄所建設工事がある。
 米軍用の組み立て兵舎その他の製作・梱包工事は二四年一二月ごろから始まり、当初は発注量も微々たるものであったが、朝鮮戦争の勃発後間もなく、同業者に先がけて当社は大量の契約を入手し、二五年八月一〇日、第一回契約分(四億四二〇〇万円)の製作に着手した。
 これは、情勢の急変に伴う大量の軍需要に対して、米国内での製作は単価が高く、早急な量産も困難であり、そのうえ現地への輸送に船腹と時日を要するため、これを日本の建設業者に肩替わりさせることになったためである。
 第一回契約分の引き渡し期日は九月、一一月で相当の緊急工事であった。作業は当初は東京鋼材東雲工場の一部を借用して行なったが、のち二六年九月、千葉県柏町の日本建材工場内の柏作業所に移転した。
 この特需工事は二六年九月期には一二億五二〇〇万円、二七年三月期には一〇億三二〇〇万円(総工事入手量の一三・三%)となり、最終工事は二七年七月に終わったが、いろいろと特色のある工事で、木工業の生産管理面あるいは技術面で得るところが少なくなかった。

 川崎製鉄千葉製鉄所建設工事
 川崎製鉄の千葉製鉄所建設計画は、二五年一一月一五日、同社の西山社長が東京で発表して鉄鋼業界に波紋を巻き起こした計画であり、通産省がこの計画を正式に承認したのは二七年二月であるが、製鉄所の臨海埋め立て工事が開始されたのは二六年春であった。計画の概要は、五〇〇トン高炉二基をベースとする近代的銑鋼一貫製鉄所を二六~三一年の六ヵ年計画計画で完成しようというもので、総工費は二七三億円、第一期一一四億円にのぼり、銑鋼一貫の大型製鉄所としては戦後初めての計画であった。
 当社は二六年春の埋め立て工事開始と同時に下命を受け、二六年三月に土木工事、同一一月に護岸工事を施工し、二七年二月以降は高炉および熱風炉基礎、火力発電所・同海水導入施設水路、貯炭場施設、製鋼工場新築、二八年にはオアーベッティング施設基礎、均熱・分塊工場新築など主要工事の施工に当たった。
 第一号高炉は二八年六月一七日に完成し、火入れが行なわれたのが、着工以来、建設資金の調達をめぐって広く産業界の話題となった計画であるだけに感慨深いものであった。

八 安全委員会制度の確立(略)

九 職安法施行規則の改正と兼喜会の復活(略)

一〇 関連会社の設立
 エテルナ工業株式会社

 国内に豊富に存続する火山砂利を原料として軽量骨材を生産し、これを軽量コンクリートあるいはモルタルとして使用する研究は昭和二五年ごろから東大浜田博士の指導によって始められ、その実用性が確かめられたので、二六年四月、エテルナ工業株式会社を設立した。エテルナというのは無尽蔵を意味する原語であり、原石としては浅間山産軽石を使用した。
 設立当初の資本金は四五〇万円、当社出資三一五万円で、工場は長野県軽井沢に設置した。初代社長には当社常務谷井陽之助が就任したが、二七年一〇月、東日本建設保証会社に転出したので、代わって当社専務富永長治が社長に就任した。会社発足後この時期にエテルナを使用した主な工事としては日本相互銀行(現在の太陽銀行)本社・同大森支店、新丸ノ内ビル、御木本真珠店、西武百貨店などがある。
 なお、これより先福島県産出の蛭石(バーミキュライト)の耐熱吸音の特性に着眼し二四年一一月、日本蛭石工業株式会社を買い取り、焼成設備を設け、左官材として各種の工事に使用した。資本金は一〇〇万円、当社から取締役に小西衛、監査役に富永長治が就任した。

 東京コンクリート株式会社
 次いで二七年七月、当社は日本セメント、小田急電鉄との三社共同出資で、生コンクリートの製造・運搬および各種コンクリート製品の製造販売並にコンクリート打ち工事請負を目的とする東京コンクリート株式会社を設立した。
 その当時、都会地の工事現場では、大工事が増加するにつれコンクリート混練設備や砂利・セメント倉庫などを設置するうえでいろいろと場所的制約が多くなり、作業効率を高めるためには、どうしても生コンクリートを他の場所で混練して工事現場に運び込むことが必要であった。
 この問題を解決するために設立したのが東京コンクリートであるが、事業計画は当時の磐城コンクリート工業が二四年末に初めて生コンクリートの製造・運搬を開始した直後から、三社共同で検討を進めてきたものであった。
 会社設立当初の概要は次のとおりである。

設立年月日
昭和二七年七月二四日
資 本 金
二〇〇〇万円
出資比率
清水建設一〇〇〇万円、小田急電鉄五〇〇万円、日本セメント五〇〇万円
常勤役員
代表取締役社長 黒岩正夫(清水建設)、取締役営業部長 吉岡辰司(同)
取締役工場長 加藤文治(日本セメント)
非常勤役員
取締役 小松喜一(小田急電鉄)、沢勝蔵(同)、久良知丑二郎(清水建設)
江上忠治(日本セメント)
監査役 田中繁良(日本セメント)、山本利三郎(小田急電鉄)
工場
小田急線東北沢
設備
バッチャー式ミキシングプラント(生産能力月産七〇〇〇㎥)
トラックミキサー 九台
従業員
一九名

 その後いわゆる生コンメーカーが続出するようになったのは、トラックミキサーが商品化されたのと、大口需要先として営団地下鉄丸ノ内線工事や都営地下鉄新線工事が出現し、事業としての将来性が開けてきたためである。

 用地部の設置と丸喜不動産
 昭和二八年二月、本社現業部門に用地部を設け得意先関係の不動産の売買・仲介業務を行なったが、近い将来に予測される土地不足や地価高騰という事態に対処するため、翌年二月、用地部を解消して丸喜不動産株式会社を設立した。

資 本 金
四〇〇〇万円
役   員
代表取締役  鈴木一郎
取 締 役  吉川清一
木村 芳
監 査 役  安念育英

 なお、三〇年四月の同社株主総会で社長清水康雄が同社の代表取締役社長に就任した。

一一 資産再評価と四倍増資
 戦後のインフレ高進の結果として企業資本の食いつぶしが問題となり、これを防止するための措置として昭和二五年四月二五日、資産再評価法が公布された。
 当社は種々検討のうえ、同年四月一日を実施日として建物、機械類の再評価を行ない、再評価積立金一億六六五六万円と再評価納税引当金七九三万円を計上した。もちろん、この措置によって固定資産の適正な減価償却が可能となり、起業経理の合理化が促進されるわけであるが、当時はまだ収益力が低く、そのうえ不安定な時期であったので、一般的に十分な評価替えは行なわれなかった。
 そこで、二六年四月に資産再評価法が改正されて第二次再評価の道が開かれ、その後二八年八月に第三次再評価が行なわれることになったが、二六年の第二次再評価では資産再評価法の改正とともに、「再評価積立金の資本組入れに関する法律」が公布され、同年七月一日から再評価積立金の資本組み入れと、これに伴う株式の無償交付が認められることになった。
 この措置を契機としてその後、多くの企業が増資するようになったが、当社としても社会的信用を維持し、運転資金の増加をはかる必要上、また二八年一一月に迎える創業一五〇年を記念して株主に報いる意味もあり、二七年六月の取締役会で有償、無償の四倍増資を行なう方針を決め、同年八月八日の取締役会で一対一割当の有償倍額増資を決議し、同年一二月一日払い込みで資本金を一億四〇〇〇万円とした。これより先、二六年七月の改正商法の施工に伴い、授権基本制を採用し、同年一一月の定時株主総会で会社の発行する株式の総数を五六〇万株とした。
 次に、二八年一月の臨時株主総会の決議により、再評価積立金一億四〇〇〇万円の資本組み入れと、これに伴う新株式二八〇万株を発行し、株主に一対一の割合で無償交付を行ない、同日をもって資本金を倍額の二億八〇〇〇万円としたのである。
 その後、当社は二六年の第二次再評価は行なわなかったが、二八年八月の第三次再評価では十分に評価替えを行ない、二九年三月期に六億七〇三〇万円の再評価積立金を計上した。その結果、年間の減価償却額は三億円を越えるようになり、資本の蓄積もようやく軌道に乗ることになった。
 なお、二六年七月、証券取引法に基づく「財務書類の監査証明に関する規則」および「同取扱通達」によって資本金一億円以上の会社は公認会計士による外部監査が強制されることになり、当社は二七年下期決算(二七年一〇月一日以降)からその適用を受けることになった。

一二 役員の異動(略)

一三 創業一五〇年記念式典、挙行
 昭和二八年は初代清水喜助が文化元年、江戸神田鍛冶町で大工業開業してから、ちょうど一五〇年に当たるので、会社創立記念日の一一月一一日を中心にして盛大に記念事業を行なった。一月三一日生、一五〇年記念の倍額無償増資を実施してから後の各行事を示すと次のとおりである。

二八・三・二〇
物故社員慰霊塔建立地鎮祭(東京巣鴨本妙寺)
  一〇・一一
初代包喜翁碑へ報告祭(富山県上新川郡大沢野町)
  一一・一〇
清水宗家墓前祭(東京谷中墓地)
  一一・一一
記念式典・記念祝宴・永年取引職方表彰式・永年勤続社員表彰式(以上本社)
社史「清水建設百五十年」発刊
  一一・一二
慰霊塔除幕式・物故社員慰霊祭(巣鴨本妙寺)
得意先招待宴(東京会館)
  一一・一五
大運動会・園遊会(豊島園)
  一一・二七
同業者・建設関係団体・関係官庁招待宴(帝国ホテル)

 記念式典を前にして、一〇月一一日の報告祭には同族・役員代表が大沢野町小羽に参集し、今日の清水建設の状況を報告し感謝を捧げ社運の発展を祈った。
 一一月一〇日は東京谷中墓地の清水宗家墓前祭に清水同族、役員、理事・部長・行事委員・在京支店長、愛清会代表、兼喜会代表が参列し、また一一日の記念式典には清水同族、各委員、支店長・旧五等以上の社員・被表彰社員のほか愛清会全員、関連会社代表、兼喜会理事以上・同被表彰者・同支部代表が出席して盛大に挙行された。恒例の得意先招待宴は戦中戦後にわたって久しく中絶していたので、この機会に永年の愛顧に感謝の意を表するため行なわれたものである。
 なお、各支店、沖縄営業所においてもそれぞれ式典を挙行し、大阪・名古屋両支店にあっては幹部出席のうえ得意先招待宴を開いた。

 以上で、社史「清水建設百七〇年」で、占領期に大手建設会社は、どう生き抜いてきたかの一端を見てきた。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー