HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-46 Vol.46 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-46
- VOL.46
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-46
若松監督が亡くなった2012年という年は、わたしにとって大切なものはいつかは失われる運命であることをこれでもかと思い知らされる年となった。若松監督が交通事故死したこともそうだが、わたしにとって、これ以上ないというべき大切な母親を失いかけているのだ。
若松監督が交通事故死したのは2012年10月。その直前の9月のことである。わたしはフランスのブルゴーニュ地方にある中世の面影を残すオータンという町を訪れていた。日本人のフレスコ画家が中世のお城を購入してそこに壁画を描いているテレビ番組をわたしは数年前に製作していた。番組はフジテレビの深夜番組「NONFIX」で放送され、好評であった。そのとき以来、オータンを訪れるのは2度目のこと。フジテレビ系列の地方局でその後も、何度も番組は再放送されたらしく、それを見たある石材会社の社長が自費でこつこつと壁画を描いているその画家を支援したいので、現地に視察旅行に行きたい、その行程を記録に残したいので、わたしにその模様を撮影してくれないかという依頼が舞い込むのである。渡航費その他を出してくれるということで、わたしも番組でやったあと、壁画の進捗状況が気になっていたこともあってフランス行きを快諾していた。そのフランス在住のフレスコ画家が高橋久男さんである。
余談ではあるが、不思議な符号に驚いているので告白するのだが、わたしのことを認めてくれて、わたしを導いてくれる人間が決まって昭和11年(1936年)生まれなのだ。若松監督も昭和11年生まれ。そして、この高橋久男さんも昭和11年。なんと、あの『悪魔の飽食』の下里正樹氏も。ここ何年か、わたしが一緒に仕事をして、わたしなりに充実した仕事ができた相手がことごとく昭和11年生まれであったことをわたしは単なる偶然だとは思えないでいる。
……話は脱線したが、その2度目のフランス訪問から帰国した直後のこと。海外に行くので切っていた携帯電話に実家の兄から何度も着信が入っていたのである。6歳離れた兄とは普段、電話で話すことはほとんどなく、変な胸騒ぎがした。なんと、実家の母親が脳梗塞で緊急入院したとのこと。幸い命に別状はないとのことだが、意識が混濁していて記憶喪失状態が続いているのだと。昭和4年生まれの母は当時83歳。父親を比較的早くに亡くしている自分にとって、これ以上ないというほど母親の存在は大きかった。その母親もいつかは存在しないときが来るのだという寂寞とした心細さ。
実はこの年、帝銀の武彦さんのお母さんが亡くなっている。わたしの母と同じ昭和4年生まれである。わたしと同じ、いや、それ以上の喪失感を武彦さんは味わっていたはずだ。しかし、なぜか、その頃には武彦さんとも関係が疎遠になっていて、母親を失った武彦さんの心の空白を他人のわたしが埋めてあげることなど思いもしていなかった。もしかしたら、武彦さんはわれわれが想像できないほど苦しんでいたのかもしれない。わたしには当時他人を思いやる余裕などなかった。わたしの母のこと。仕事のこと。自分のことで精一杯であった。
武彦さんと最後に会ったのはいつだったのか。電話で何か話したっけ。思い出せない。そして、彼は孤独のうちに逝ってしまうのである。……
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など