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「清水建設百七十年」その1

COLUMN「清水建設百七十年」その1

VOL.47
小川 真理生さん

ここでは、「清水建設百七十年」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第47回「清水建設百七十年」その1

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 今回から、敗戦後の焼跡から日本が復興するうえで、大きな役割を果たした建設会社の動向の一端を知るために、「清水建設百七十年」の「第五編 終戦から現在まで(昭和二〇~四七年)」を見ていきたい。
 まず「第一章 戦後の混乱と収拾(昭和二〇年)」から。

 

一 終戦直後の経営方策
 終戦

 昭和二〇年八月十五日、太平洋戦争はわが国の敗戦によって終わりを告げた。
 それから一五日後の八月三〇日には、厚木飛行場に連合軍最高司令官マッカーサー元帥が到着し、九月二日、ミズーリ艦上で降伏文書の調印が終わると同時に、連合国最高司令官は日本政府に対し陸海軍の解体と軍需工業の停止を命令した。
 当時、当社は軍関係工事を初め航空・造船・燃料関係会社工事を主として施工し、多くの社員は地方に分散していたが、これらの各現場では終戦と同時に工事を中止したところが多かった。
 本社業務は終戦直後の八月五日、総務・人事・秘書・経理など一部を東京都内各所に分散疎開させた。激しい空襲のため、京橋付近の被害は惨たんたるものであったが、幸い室町本社は戦災を免れたので、これら採用業務は終戦と同時に本社に復帰することになり、八月一八日から業務を再開した。政府・軍当局は、終戦とともに軍需品未払い代金、契約解除に伴う損失補償、戦争保険金などの支払いを急いだ。このため、当社経理部でも請求書類の作成に追われる状態がしばらく続いた。
 当時の内地ℋは、極度の食糧難に加えて交通事情は悪く、社員の生活は容易でなかったが、それよりも気づかわれたのは外地勤務社員とその家族の安否であった。とくい、当社は終戦当時七四〇名にのぼる外地勤務社員、その他未復員社員を擁し、その数は家族・工員を合わせると二〇〇〇人近い数にのぼっていたからであるが、当時はその動静を知るすべはなかった。

 米軍進駐と施設の接収
 聯合国軍総司令部(GHQ)は、九月一二日以降、連合軍の使用する施設として第一生命ビル・明治生命・農林省庁舎・東京海上ビル・帝国ホテルなどの接収・使用を決定するとともに、これら施設の改修を大手建設業者に命じた。
 当社は、戦前に当社が施行した第一生命ビル・農林中央金庫・聖路加病院・軍人会館・日比谷公会堂その他の改修工事を命ぜられ、社業の前途にやや希望が持てるようになったが、しかし、この段階では進駐軍関係工事がその後の建設ブームをもたらすとは予想されなかった。

 戦後初の役員会、開催
 進駐軍接収施設の改修工事が始められたのと前後して、九月一九日、当社は東京本社において戦後初の役員会を開き、戦後の経営諸方策について協議した結果、次の各事項を決定した。

一、戦後経営に関する件

  1. 今後の工事入手は資材・労務・食糧難などの関係もあるが、積極方針で全国の工事を大小にかかわらず入手する。
  2. 進駐軍工事が多くなると思われるので、通訳のできる者を採用する。
  3. 復員者、外地からの帰還者、工事減少により生ずる余剰人員の処理策として関連事業、食糧工業への進出を至急研究する。
二、人事に関する件

  1. 余剰人員対策として定年該当者および勤務不良者を整理する。
  2. 海外からの復帰者については、本社から人を派して連絡事務所を設置するとともに、これらの社員を収容するため住宅を建築する。

 以上の役員会決定により、その後、砧集合社員住宅の建設、通信建設工業・丸喜産業など関連会社の設立、仙台出張所の支店昇格、北海道雄武農場・愛知県三好農場および鳥取県大山農場の開設が実現した。また、二〇年一一月には関連会社転出者などを含め約一五〇名の人員を整理した。
 社長清水康雄が終戦後第一に考えたことは、今後日本はどうして生きて行くか、三五〇〇名の社員をかかえて、清水組はいかにして戦後の大嵐を乗り切るかということであった。激烈な戦争で国力を消耗した現状では、工事量は従来の何分の一かに減少すると思わねばならなかった。そこで、各地に支店・営業所・出張所を設置して地方の小工事も入手に努め、関連事業に進出して社員を吸収し、あるいは未開拓地を開墾して社員を移住させ、食糧の増産を図るという方策を立てたものである。
 当日の役員会の出席者は、社長清水康雄、副社長清水正雄、専務小笹徳蔵・小林義一、常務飯高達夫・富永長治、取締役鈴木一幸・谷井陽之助・矢田茂・栗原栄次、監査役八木憲一・太田稔・中村貫之であった。

 

二 引き揚げ、復員社員の受け入れ
 外地帰還社員の収容

 二〇年一〇月、本社に外地帰還社員援護係を設置して、当時引き揚げ者の上陸が多かった九州支店内に連絡事務所を設け、外地帰還社員の収容に万全を期した。
 二一年三月現在の当社社員総数は二九四七名(本社二〇九寧、支店一九三〇名、未帰還・未復員名)うち外地からの引き揚げ社員数はすでに一九九名になっていたが、なお外地残留社員数は五三七名、その家族六八四名、工務員その他を加えると合計一三七〇名にのぼっていた。しかし、二二年三月には外地残留社員数も一五名を残すのみとなり間もなく援護委員会は解散した。
 判明したところによると、外地勤務社員およびその家族の終戦後の苦労は一通りでなかったが、なかで最も悲惨であったのは終戦直前の八月一二日、牡丹江営業所長木村堅治が、社員応召後の留守家族一同に対して内地引き揚げの不可能なことを説き、一九名全員が毒を飲んで自決したことであった。

 砧集合住宅の建設
 引き揚げ・復員社員および被災社員の住宅対策については、終戦後いち早く世田谷区砧ゴルフ場跡に適地を物色していたので、折衝の結果、約一万坪近い土地を購入することになり、早速、社宅の建築に着手した。
 当時は、建築資材の入手は容易でなく、そのうえインフレの進行で工事費は当初予算の数倍になるなどで、苦労が多かったが、約一年後の二一年一〇月、木造平屋建住宅八八戸、その他延べ約一六〇〇坪の大規模な集合住宅を完成し、住宅難に悩む一部社員を収容することができた。もちろん現在の社宅とは比べものにならぬ粗末な建物であったが、入居者の喜びは大きかった。

 雄武・三好・大山農場の開設
 一方、引き揚げ・復員者の吸収と合わせて戦後の深刻な食糧難に対処するため、北海道雄武村の未開拓地に理想的文化農村を建設する案がまとまり、二〇年一二月、社員とその縁故者、および兼喜会会員を対象に入植者の募集を開始したが、希望者は意外に少なかった。
 第一次計画は開拓面積約一五〇〇町歩、入植戸数一二五戸で、二一年三月、現地に雄武農場事務所を開設し、農場の経営は、入植社員と会社の共同出資組合(清興社)を設立して当たることとした。
 また、二〇年暮には愛知県西加茂郡三好村の住友金属八千代農園二一町歩を購入して三好農園を開設し、耕作に当たったほか、二一年四月には帰農志願社員受け入れのため、鳥取県大山山麓に酪畜農業を主体とする大山厚生農場を開設したが、大山農場は間もなく経営不振のため閉鎖のやむなきに至った。
 その後、農地制度の改革により、開拓事業は国営事業として推進されることになったため、清興社雄武農場を解散して、二二年一月、北海道支店に緊急開拓代行部を新設し、北海道庁の緊急開拓代行機関となって国の開拓事業を受注・施工することになり、雄武農場が計画した一五〇〇町歩の開拓工事はそのまま北海道支店が受注した。

 

三 関連会社の設立と財閥解体
 通信建設工業の設立

 関連事業への進出による余剰人員対策としてまず実現したのは通信建設工業の設立である。
 二〇年一一月、GHQの指示により政府は鉄道・通信事業の復旧を急ぐことになったが、通信施設の建設については資本金一〇〇〇万円の会社を設立して、当社が経営の主力になってはとの勧めがあり、二一年二月一一日、通信関係施設の建設を目的とする通信建設工業株式会社を設立、社長には日本電信電話工事社長山本広、専務に逓信院から山田守を迎え、当社からは常務飯高達夫が同社専務、東京支店次長渡辺俊蔵と鈴木金太郎が常務に転出したほか、専務小笹徳蔵が同社取締役に、また検査部長原田耕治が常任監査役に就任、そのほか国際電気通信専務津田竜二が監査役に就任した。
 会社発足とともに四十数名の社員が当社を退社して新会社に転出したのであったが、その後独禁法施行などの理由により工事は減少し業績が低下したので、二三年一一月末をもって一応の整理に入り、残工事は当社が引き継ぎ、二四年一二月に解散した。

 丸喜産業・第一設備工業・兼喜産業・関東建築工業・新清土木
 通信建設工業の設立に次いで二一年八月二日、復興建築資材・土建労務者用品・家庭用品の製造販売(同年一二月、保険代理店業務を追加)を目的とする資本金一五万円の丸喜産業株式会社を設立し、高村黋一(同社専務に就任)ら十数名を出向させた。
 また、二二年三月には総合設備会社として資本金一八万円をもって第一設備工業を設立したほか、二一~二二年の間に関西に丸喜産業と同じ目的をもった兼喜産業、規格住宅の建築を主目的とする関東建築工業、北支支店土木在勤者を主力とする新清土木などの新会社を相次いで設立した。
 これらの関連会社はいずれも戦後の過剰人員対策として計画されたものであるが、一面にはGHQの財閥解体に対処する保身術としてとられたものでもあった。
 終戦直後、GHQが財閥解体を指令した当初は、財閥解体もそれほど深刻には受け取られなかったが、二〇年一二月一一日、GHQが四大財閥を含む大持株会社とその傘下にある関連会社の資産の凍結を指令したことにより、財閥解体の対象が予想外に広範囲に及ぶものと考えざるを得なくなり、当社にも解体の及ぶことを懸念したからである。
 その後二三年二月、当社は過度経済力集中排除法の指定を受けたが、再度にわたって該当しない旨の説明書その他所要書類を持株会社整理員会に提出した結果、同年五月に指定を取り消された。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー