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「蛇の目ミシン工業 創業五十年史」その3

COLUMN「蛇の目ミシン工業 創業五十年史」その4

VOL.46
小川 真理生さん

ここでは、「蛇の目ミシン工業」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第46回「蛇の目ミシン工業 創業五十年史」その4

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 今回は、「蛇の目ミシン工業 創業五十年史」の「5 『蛇の目ミシン株式会社』と社名変更」の節を見ていく。

 

谷村清衛の社長就任
 昭和二十三年(一九四八)七月、谷村清衛が戦後五代目の社長に就任した。すでに山下の社長退任から五カ月を経ており、会社は三好英之の女婿である小林英十郎専務らによって経営されていたが、実権は依然として三好の手中にあった。
 谷村清衛はこの三好と同郷で、戦前から三好の政治活動のバックとなっていた。当時、谷村は板橋区志村で鋳造所を自営し、埼玉銀行筋に顔がきくところから、三好に請われて何回となく融資の斡旋を行ない、帝国ミシンと深い関係をもつようになった。前社長山下のときに帝国ミシンの金融機関が、沖電気関係の安田銀行から埼玉銀行に代わったのはこうした事情による。
 その頃谷村は、七十三歳の老齢だったが、事業欲は人一倍旺盛であった。難局打開の適任者として、金融筋から推されて社長に就任したのである。
 谷村の出馬によって経営陣の総入替えが行なわれた。三好系の小林英十郎らの辞任と前後して瀧山立夫、渡邊治三、清水十四造、小島豊治が取締役に就任した。このほか埼玉銀行関係から、山崎嘉七(当時、埼玉銀行頭取)と小谷野傳蔵(当時、埼玉銀行取締役)が非常勤役員に加わり谷村の後楯となった。
 二十三年度は、国内のミシン生産が一段と飛躍して、年産二〇万台を突破した年である。そのなかにあって、帝国ミシンはミシン製造再開時の倍に近い五六〇人の従業員をかかえていたにもかかわらず、生産は足踏み状態で、月産一二〇〇台前後にとどまっていた。これというのも、ミシン製造の鍵とされた生産・工程管理がずさんを極め、製品の精度、量産化に対する計画性が何一つ立っていなかった。「……あまりにひどい。常識的なことすら行なわれていない。自分のやっていることがはたしてこれでよいのか」と、入社間もない技術者たちを嘆かせたのもその頃であって、工場全体が惰眠を貪っていた。
 こうした悪循環を断ちきるべく、谷村はまず“月産三五〇〇台”を目標として、工員を七〇〇名に増員、賃金ベースをこれまでの八〇〇〇円から一挙に一万二三〇〇円に増額、労働時間を七時間に短縮等の打開策を発表して、労資協調の実をあげようとした。折からの民間貿易の再開(二十三年八月)で、帝国ミシンにも思いがけず大量の輸出引合いが舞い込むようになり、谷村の右の増産計画、および賃金の大幅引上げなどはこれを当てこんだものであった。この結果、同年下期の生産高は微増にとどまったが、翌二十四年度上期は一万六六五二台、下期には一万五九六五台の実績をあげ、谷村社長の出足はまずまず好調にみえた。

 なお、会社は二十四年一月十一日に「制限会社」の指定を解除された。これを機会に、谷村は社名を「蛇の目ミシン株式会社」と改めた。昭和十年来の商標名〈蛇の目ミシン〉を社名にとり入れた最初である。

戦後のミシン輸出
 当時、わが国の戦後復興資材のほとんどは、GHQの占領政策によって海外から輸入されていた。商工省の外局であった貿易庁では、これらの“見返り物資”として“ミシン”をとりあげ、はじめて完成ミシン八〇〇台の輸出を帝国ミシン(二五〇台)、三菱電機(二五〇台)、日本ミシン製造(二〇〇台)、福助足袋(一〇〇台)に割り当てた。はからずもこれが、戦後のミシン輸出のトップを切ることになったのである。
 正式には、戦後のミシン輸出は昭和二十二年八月に「貿易公団」の発足とともに再開された。しかしそれも政府管理の条件つきの貿易であったため、個々のメーカーが直接バイヤーと契約を結ぶことは許されず、もっぱら「ミシン製造会」を通じて取引が行なわれた。当時、完成品メーカーとしてGHQに登録していた会社は、帝国ミシン、日本ミシン製造(ブラザー)、三菱電機、福助足袋、愛知工業、リズムミシン、パインミシン、朝日ミシンの八社である。またミシン部品も輸出の対象になり、部品メーカーからは帝国ミシン、小野製作所、産興精機、錦織工業、中島製作所、田中亀七工場、土谷金属等が登録していた。
 それから一年後の二十三年八月に、民間貿易の正式許可が下りた。これによってバイヤーとの直接取引が自由となり、煩わしい輸出手続も緩和されて、暫定的であったが、ミシンは“一ドル四一五円”という仮の為替レートが定められた。
 またこの時期は、前に述べた機種、部品の“規格統一”と国産ミシンの“新名称制定”が一応の完成をみたときであって、業界はこぞって輸出再開の吉報に湧き立った。事実、これを契機としてミシンの輸出は、わが国の戦後再開された機械輸出に先鞭をつけ、国際商品として、通産省所管の機械産業の中でも一、二位を争うまでに大飛躍をとげたのである。
 日本経済新聞社版『日本産業百年史』(有沢広巳監修、昭和四十一年刊行)は、ミシンの輸出がわが国の産業復興に画期的な役割を演じたものとして、つぎのように述べている。


 ……戦後から昭和二十年代には、軽機械の輸出は軍需産業から平和産業化への転換のシンボルであるとともに、貿易の面でもわが国の希望を象徴するものだった。
 その先端を切ったのは、なんといっても家庭用ミシンであって、それがシンガーの本拠であるアメリカ市場へ二十四年頃から出始め順調に伸びていった。このことは加工貿易立国を旗印としながら、繊維・雑貨輸出の経験しかなかったわが国の産業にとって、“高度の加工品である機械も輸出できるのだ”という力づけになった効果は高く評価されるべきだろう。

“ドッジ・ライン”と景気後退
 輸出の再開は久しく業績不振にあえいでいた蛇の目ミシンによって、まさに干天の慈雨にもひとしかった。二十四年上期の生産台数一万六六五二台のうち、輸出関係は六六六五台という販売実績をあげて、わずかではあったがはじめて黒字を計上した。輸出重点の生産拡張が図に当たったかたちになったが、しかし輸出の好況に喜んだのも束の間であって、ここにきて日本の産業・経済界を一変させる事態が発生した。
 二十四年二月、ジョセフ・M・ドッジが公使兼GHQ財政金融顧問の肩書で来日し、「経済安定九原則」――いわゆる“ドッジ・ライン”と称される経済安定策を強行した。この金融引締め政策とデフレの重圧によって、国内は一時に不況に陥り、なかでも産業界の金詰りは深刻以上のものとなった。実施直後の二十四年二月から一カ年間に企業の倒産、整理件数は一万一〇〇〇件を超え、失業者は五〇万人に及ぶという恐慌状態がつづいたのである。
 輸出依存度が高く、表面上は活況を呈していたミシン業界であったが、九原則の主要項目である「外国貿易および外国為替管理の強化」によって“単一為替レート”が正式に設定され、これまでの仮レート一ドル四一五円から、一ドル三六〇円になった。つづいて“フロアプライス”(最低価格。HA-1の特級品五〇ドル、普通品四五ドル)が撤廃され、利潤の低下に加えて価格競争はますます激しくなる一方となった。さらには海外市況の悪化を反映して、輸出が急減するという最悪の事態まで重なってきたのである。
 蛇の目ミシンもまたこの例外でなかった。谷村の強引な積極策も時勢には勝てず、滞貨在庫品の山をかかえて、最初の破綻に見舞われるようになった。

 これ以後、「6 倒産」につづき、「第三章 受難期 帝国ミシン後期」は終わる。その後の「第四章 再建期 蛇の目産業時代(1950年~)」「第五章 飛躍期 蛇の目ミシン工業時代(1954年~)」は、この占領期の蛇の目ミシン株式会社の社史のながれからは省略する。

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー