HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-41 Vol.41 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-41
- VOL.41
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-41
2010年のことである。わたしの親しい映画監督・若松孝二監督が映画『キャタピラー』で一躍、〝時の人〟となる。もともと、全共闘世代を中心にカルト的な人気を誇っていた伝説の監督として、世代は違うけれど、わたしも名前だけは知っていた。レンタル・ビデオ店の時代になって、やっと、映画『胎児が密漁する時』『犯された白衣』などをVHSテープで借りて見るが、わたしの中では、アラブの日本赤軍との関係性に特に魅かれる何かを感じていた。
その若松監督と2007年の年末に知り合い、翌年には、テレビ番組の取材で一緒に中東レバノンのベイルートに行き、あのテルアビルのロッド空港乱射事件の実行犯・岡本公三に会い、また、北朝鮮にも一緒に行って、よど号ハイジャック事件のメンバーたちにも邂逅している。わたしが小型のビデオ・カメラを回したのは、この若松監督と北朝鮮に行ったときが最初であった。あの有名な平壌の順安国際空港の金日成の巨大な肖像写真を撮影する自分の手が震えていた。それは特に撮影が禁止されていたわけでもなく、憧れの未知の国に漸く入れたことの高揚感、興奮がそうさせたものでもなく、単にビデオ・カメラの操作に馴れていなかったというのが真相なのかもしれない。
しかし、これがいいきっかけとなって、その直後から、同じカメラで、あの俳優の萩原健一氏を1年以上に渡って密着。2009年に放送したフジテレビ『ザ・ノンフィクション』での「ショーケンという孤独」がわたしのテレビ作家としての代表作となるわけだから。……今では、いっぱしのカメラマン気取りでいるのだから慣れとは恐ろしいものだ。
実は、この萩原健一氏を取材する橋渡しをしてくれたのが、なんと、帝銀の平沢武彦氏であったのだ。ただ、このあたりに関する詳しいことはある事情もあって、ここでお話することはできない。
若松監督はピンク映画時代、政治と暴力をピンク映画の性描写に取り入れ、あの時代の空気を鮮烈に描いたことで高い評価を得ていて、本人がその表現を喜ぶかは別にして、当時は、〝ピンク映画界の黒沢明〟とまで称されていた。そんな若松監督と知り合い、密着取材をしていたのだが、実は、監督の映画にはまったくと言っていいほど係わってはいない。
映画『実録・連合赤軍―あさま山荘への道程(みち)―』が2008年にベルリン映画祭に出品されたとき、なんと、わたしはテレビ番組の撮影で同行していて、映画祭のあと、ベルリンからフランクフルト経由で一緒にベイルートに入っている。しかし、そもそも若松監督はわたしが監督の映画の撮影現場に参加することは快く思っていないようであった。映画のスタッフからもわたしは明らかに疎まれていた。わたしが密着していた2008年から2010年、2011年あたりは、若松監督が2012年10月に交通事故で亡くなることを知った今になって思うと、わたしがその瞬間、瞬間に関われたことは奇跡としか言いようがない。
こうやって監督と行動を伴にした思い出は、昨年、『若松孝二と赤軍 レッド・アーミー』というタイトルで、わたしが初めて出した本となった。それだけでも幸せなことなのに、わたしは強欲にも若松監督と若松監督が聖域としてテレビとは一線を画していた若松映画の世界の住人になろうとしたのである。それが七三一部隊をテーマにした映画であった。
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など