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「上野駅100年史」

COLUMN「上野駅100年史」その1

VOL.38
小川 真理生さん

ここでは、「上野駅」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第38回「上野駅100年史」その1

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 今回は、戦後直後の混乱期といえば、上野駅周辺に屯する戦災孤児や浮浪児がよく話題になるので、「上野駅100年史」を見ていきたい。それによれば、「6.混乱期の鉄道」のパートで、以下のように記録している。

太平洋戦争の開戦で軍需輸送始まる
 ついに昭和16年12月8日、日本は米英に対して戦争を布告、太平洋戦争の幕開けとなってしまった。軍需物資や兵員の輸送が強度に増えて、戦時体制の鉄道は列車の発着は極度に減ってしまった。3人掛けが提唱され、上野駅には「決戦下に休みなし」とか「1人でも旅行を見合わせ、増産に励みましょう」というポスターが掲示された。ニュース映画が強制上映され、戦時高揚の内容が上映になる。終わると最後に「鉄道は武器だ!!」とアピールさせる。もう鉄道利用も命がけの時代になった。乗れるか乗れないかは体力にかかわるようになってきた。上野駅の改札広場(コンコース)には大勢の乗客が並ばされる。改札が始まると、大きな荷物を持って汽車ホームまで一生懸命、われ先に走り出すのである。乗れても空席に座れなければ、通路に紙を敷いて、目的地までペタリと座らなければならず、すっかり疲れる旅になってしまったのである。
 昭和17年2月28日、軍需物資、兵器の無賃輸送が開始された。10月10日、鉄道大臣八田嘉明はラジオ放送で輸送の非常体制を訴えた。輸送難のために「鉄道は武器だ!」「不要の旅行は敵だ」と強調して、これがポスターや、拡声器(スピーカー)でも訴えたのである。この日から午前と午後の区別をやめて、24時間制の時刻に読み方も改めた。客車はこの年73両を製造して、あとの増備は中止になった。12月10日、全国にある私鉄の中から12社を国有にした。富士身延鉄道(身延線)、南武鉄道(南武線)、青梅鉄道(青梅線)などである。

鉄道収入の12%軍事費として国庫へ
 日中戦争から太平洋戦争に至る戦時体制の中で鉄道は武器の一部とか、戦略などといわれながら、軍に協力をしてきた。そればかりか軍事費の増加に対して、鉄道特別会計から臨時軍事費特別会計を昭和13年以降、繰入金として国庫へ納め、これが太平洋戦争の激化とともに増額されていた。ついには運賃収入の12%も納めるようになって、鉄道は戦時体制の中で、輸送に苦労した。昭和17年度から18年にかけては、鉄道債を発行して借金をしながら、一方では軍事費を納入するという、二重の協力を強いられていたのである。これは、国民が不自由を忍びながら税を納め、その一方で鉄道利用すると、再び負担を課せられていたわけである。
 こうして鉄道は財政が悪化しながらも、戦争遂行という“目的”のために、理屈抜きの経営が行なわれていたのである。そして戦時買収線となった私鉄の国有買収も、鉄道の経営を困難とさせていたし、施設の改良や、車両の新設、改良まで手の届かぬ状態になっていた。

上野駅に「鉄道防衛団」できる
 戦局はガダルカナル島を撤退しながら”転進”と装うなど、早くも敗色の道を歩んでいた。昭和18年2月15日、戦時輸送強化のために、全国列車の大削減が実施された。8月、鉄道省に「鉄道防衛本部」が置かれると、上野駅にも鉄道防衛団が組織された。
 男性の少なくなったために、女子職員も採用されて駅務につき始めた。乗車券は前日に申告のうえで発売するようになった。荷物も並んでから発送し、それから列車に乗る手順になった。すでに駅弁もホームでは売らず、客車の窓口だけで売るようになり、鉄道は往年の楽しい旅ができぬ、ただ運ばれるだけの形態になっていた。それでも上野駅の中央広間には、東宝地方へ向かう人々が、連日連夜、長時間にわたって長い列をつくり、列車の発車を待っていた。
 昭和19年7月、サイパン島が米軍に陥落して日本空襲に王手をかけたころ、省線電車に女車掌が登場して、発車の合図をするようになった。そして、ついにサイパン島を発進した米軍の爆撃機が襲来して、鉄道を攻撃するために、機関車、客車、電車が狙い撃ちされ、また破壊された駅も多い。機銃掃射も東北線で72回、常磐線で71回も被害を受けている。

学童疎開輸送始まる
 学童疎開も始まり、工場疎開も始まった。比較的に食糧のある東北への疎開が多く、これがために上野駅は大混雑の連続であった。約760万人が都会を離れたが、疎開のできない人は食糧の買出しのために、上野を発って目的地の定まらない旅に出て、東北の農家を回って食糧を探し求めた。
 人手不足になった上野駅では、昭和20年3月11日から、一時預りの業務の一部を鉄道弘済会に移管するようになった。乗車券発売の一部についても東亜交通公社に移管させた。東亜交通公社は、昭和9年にジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協会)という、しゃれた社名だったが、戦時体制になるにしたがい、横文字の社名ではおかしいと、東亜旅行社と改め、さらに昭和17年から東亜交通公社になっていた(戦後は日本交通公社となる)。
 こうして努力を積み重ねる日々であったが、8月15日、終戦を迎えて日本は敗北した。鉄道もおびただしい損傷を受けて、矢折れ、力つき果てていた。疎開もできぬ上野駅員こそ”最前線“の職場で疲労困憊していた。

上野駅に進駐軍のRTOできる
 空襲によって焼かれた駅が多く、木造バラックの急造駅舎の中で機能を果たしていた。上野駅舎は幸い戦災から免れて、戦前からの偉容を現わしていた。しかし発着する列車の大半は、板で窓を覆っているか、窓ガラスがないか、座席のカバーがはぎ取られているか、椅子のない電車であるとか、荒廃した列車や電車ばかりだった。空襲による損傷車両が多く、車輪が回りさえすれば上々だったのである。軍需輸送から平時輸送に切り替えられると、D51形やD52形の貨物用機関車が旅客用に使われて、これらの機関車の牽引する列車が上野駅の汽車ホームに轟音を響かせて発着した。
 終戦によって買出し、行商で、やはり鉄道利用は多かった。昭和20年9月、戦争で勝者となった連合軍の進駐により、上野駅にも「鉄道輸送事務所」略してRTOが開設された。進駐軍を優先的に輸送するための機関である。RTOは、損傷の少ない良好車両を専用車として接収し、日本人が3倍も4倍も、ぎゅうぎゅう埋めに押し込められている電車や列車をしり目に、ゆっくり、のんびりの旅を満喫していた。負けることを知らなかった日本人が、初めて味わう敗北の屈辱であった。
 上野駅中央改札前の広間(ロビー)には、夜になっても大勢の人があふれんばかりだった。家を失い帰るところのない人、翌朝の列車がとれ次第に列車を待つ人、みな、着のみ着のままの姿だった。夜行の最終列車がホームを離れると、この人々は、床に新聞紙などを敷いて座り、そのまま身を横にして眠りについた。構内の裸電球が人々の寝顔を照らしていた。 

復員輸送始まる
 すでに国内の連隊は武装解除して、応召兵は各自ばらばらに帰省していた。残るは外地に足どめをされた一般人と兵隊である。船のやり繰りがついて復員と、一般の引揚げが始まると、上野駅では昭和20年12月10日から復員列車を運転させた。長期にかけて外地へ渡った人々がいっせいに帰還するのであるから、復員列車は兵士を鈴なりに乗せて、毎日のように臨時で運転された。国破れて山河あり、荒廃の国土に山河だけが昔のままに残っていた。
 戦後、天皇は”人間宣言“をなさり、伊勢神宮と桃山御陵をご参拝になられて終戦のご報告をされた。これが戦後、初のお召列車の運転となる。
 昭和21年5月19日、宮城(皇居)前の広場には20万人にも及ぶ労組員が食糧メーデーを繰り広げていた。その一部の代表は坂下門から宮内庁へ押しかけて「3度の飯を食べられず、空腹のため仕事を休む勤労者の数は、日ごとに増加し、日本のすべての生産は破滅の危機に瀕しております……」という上奏文を、宮内庁の総務課長と文書課長に手渡して引き揚げた。民衆の生活は、これほど悲惨であった。

天皇の東北行幸始まる
 6月から千葉、静岡を行幸された天皇は、10月に愛知、岐阜、11月には常磐線で茨城県下を行幸された。翌22年の初夏には近畿地方を行幸され、夏には東北6県を行幸された。
 沿線には大勢の民衆が日の丸の小旗を持って歓迎した。天皇は、東北の農家に米の増産を頼みたいお気持ちであったに違いない。天皇の行幸に接した人々は日本のために、復興への意欲を奮い立たせたのである。天皇が民衆と接することが、日本を復興させることに、より効果を高めた。
 かつて明治天皇が東北行幸のおりには鳳輦(ほうれん)に乗御(じょうぎょ)されての旅であったが、今上天皇の東北行幸は鉄道を利用し、お召列車による旅であった。ぴかぴかに磨きあげた蒸気機関車にお召列車、菊の御紋章の尊厳さを拝して、神のごとき天皇にひれ伏した人は多い。天皇が復興を促したとすれば、鉄道もまた復興を促したことに役立ったことになる。お召列車も蒸気機関車に牽引されて石炭を焚いて走っていた。

電化一番乗りの上越線
 その中で上越線だけが電化されていた。石炭不足をカバーするために、信濃川発電所から送電される電気を利用して列車を動かして、復興に必要な食糧や物資を輸送する効果を考えて、これを連合軍総司令部を説いて着工にこぎつけたのである。そして昭和22年10月から電化運転が開始されるようになって、これが上野駅に電気機関車が発着した最初である。数多く発着する蒸気列車に混じって、電気機関車の細い汽笛が上野駅の構内に響き渡ったのである。
 22年12月29日、「朝日新聞」の広告欄に「配炭不足のために、正月早々、旅客列車をさらに削減することになっています。お気の毒ですが、今から帰省されても、予定のときに帰宅することはとてもできません。この際旅行はお控えください。運輸省」という小さな広告が掲載されている。米ばかりでなく、鉄道を動かす石炭も欠乏していたのである。輸送力は逼迫しており、100㎞以上の遠距離旅行の場合は、乗車券に対して旅行票制度を実施した。

「買出し列車」が上野駅を出る
 こうして鉄道利用が制限される中で、一般民衆は食糧の買出しを求めて、主に東北地方へ出かけたために、どの列車も、屋根の上、デッキ、機関車の炭水車にまで、鈴なりの人が乗車して混み合った。料金を出しても、このありさまで、鉄道だけが乗り物のときだけに、乗れるまでは、いつまでも上野駅前に列を出して待っていたのである。この混雑状況は戦時中よりも悪化していた。それは車両の荒廃と石炭不足による大幅な列車削減のためであった。多くの人が買出しに行くので、この列車のことを、いつの間にか“買出し列車”と呼ぶようになった。
 買出しは、東北各地の農村地帯を回って行なわれた。物資欠乏時代なので現金は通用せず、東京方面から行く人は、東京にあっても東北にない品をそろえて持参した。これを農村で米や野菜類と物々交換して、やっとの思いで、また汽車に乗り上野へ戻ってくるのである。ところが途中の列車内や、停車駅に、臨検と称して警察が統制品の米を押収してしまうのである。見つからぬように水筒や胴巻の中に工夫して隠すなど、その苦労は並大抵のものではなかった。これほどにまで長い時間をかけて買出しをしなければ、食べる物がなかったのであるから、買出し列車の存在も大きかった。
 そのころ、機関車や客車の横っ腹に「食糧輸送はわれらが頑張る」というスローガンがペンキで大きく書き込まれてあった。鉄道は生活にとけこんでいた時代である。その中でも鉄道は資材の優先割当てを受けて、復興への努力を重ねていた。防衛総本部が「復興運輸本部」と変わって、急速な復旧活動を初めていたからである。

 

 ここで、「6.混乱期の鉄道」の項目は終わる。次回は、「7.公共企業体『日本国有鉄道』発足」を紹介する。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー