HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-33 Vol.33 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-33
- VOL.33
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-33
映画監督の熊井啓氏とは、結局、一度もお会いする機会はなかった。しかし、「帝銀事件とは何だったのか」を語り継ぐのに、この映画監督を抜きには語れない。
亡くなったのは2007年5月23日。享年76歳。わたしはそのとき、調べてみると、日本から6000キロも南に行ったパプア・ニューギニアにいた。あの戦艦大和の幻のフィルムを探す旅を続けていた。それは、〝呉七特〟という海軍の陸戦隊に所属するある兵士の証言に基づいて行われた。その兵士が東部ニューギニア戦線に従軍する過程で、トラック諸島で撮影した戦艦大和のネガ・フィルムを終戦とともにソロモン諸島のブーゲンビル島に隠して来たというのだ。戦後になって、その兵士はブーゲンビル島を再訪し、自分が隠したフィルムを探すが結局、見つからなかった。その模様は当時、毎日放送が全国ネットでやっていたドキュメンタリー番組『地球発19時』で放映された。確か、司会の中村敦夫がその旅に同行していた。1980年代の半ば頃のことだ。
その兵士は早川貢(みつぎ)というお名前で、戦後は、故郷の三重県尾鷲(おわせ)市で写真館を経営していたが、このときはすでに鬼籍に入っていた。しかし、亡くなる直前まで、その戦艦大和の自分が撮影したフィルムをなんとしても見つけたいと、その戦艦大和の写真は自分の最高傑作であり、生きた証である、とまで写真家仲間に話していた。
その遺志を受け継いだ写真家仲間の一人が、現在も練馬区上石神井で写真館を営む小川登朗(のりあき)さん。わたしが小川さんと出会ったのは、終戦60年目の2005年のこと。その年、わたしは自分の企画が決まって、よみうりテレビの終戦記念特別番組を担当していた。太平洋戦争中に戦場で、日本軍の兵士が見た〝日本〟というテーマで、ミャンマーのヒマラヤ桜や北千島のアライト富士、そして、パプア・ニューギニアの蛍の木などを取材していた。番組の放映後に次のテーマとして、俎上に上がっていたのが、この戦艦大和の知られざるエピソードであった。
その年、2005年の12月。わたしは、練馬の小川さんの写真館を訪問。この企画を、当時、わたしがやっていたTBS『報道特集』でやりたい旨、話し、了解を得ていた。しかし、当時、ブーゲンビル島では反政府ゲリラがしょうけつしていて、取材は1年延期されて、わたしが小川さん、TBSの岡野ディレクターとブーゲンビル島を訪問したのが2007年5月17日。6月2日に帰国しているので、なんと、この間に熊井啓監督が亡くなっていることになる。
そして、この旅を終えて、次のTBS『報道特集』の企画として、決まったのが帝銀事件であった。もし、監督が生きていれば当然、わたしの番組にも出演依頼をしてもおかしくはなかったが、本当に残念でならない。従って、わたしは監督になぜ、帝銀事件を映画にしようと思ったのか、そして、そこにどんな苦労があったのかを聞く機会はもう二度と訪れない。
しかし、監督は帝銀事件に関して、いくつかの貴重な証言を文章にして残してくれている。それが1987年にキネマ旬報社から出版された監督のエッセイ集『映画と毒薬』である。いろんな雑誌や新聞に監督が書いたものを集めたもので、映画『帝銀事件・死刑囚』の製作秘話が語られている。
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など