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COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その7
- VOL.35
- 小川 真理生さん
ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第35回「日本郵船株式会社百年史」その7
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「日本郵船株式会社百年史」も、今回で終わる。最後に「第8章 終戦後の企業再建」の「第5節 経営の諸側面」から、占領期の経営の諸問題を見てゆこう。
1.経営組織
定款
昭和20年(1945)8月の終戦以降、27年4月の講和条約発効までの期間に、日本郵船は2回にわたって定款改正を行なった。
24年5月の改正は、戦後経済改革の一環として行われたもので、独占禁止法の規定に従って事業目的中の「関係事業に対する投資」を削除し、さらに同年11月の改正で株式譲渡の制限、取締役・監査役の株式所有の要件に関する条項も削除した。
26年11月の改正は、商法改正(25年5月公布、26年7月施行)に対応する部分を中心としたもので、改正商法の規定に従って条項を改廃したほかに、条項の整理、配列替えを行ない、文体も現代風に改めた大改正であった。授権資本制を採用して、発行株式総数を7600万株とし、株主の新株引受権を明記したうえで、公募発行、関係者引受権も規定し、株式取扱いに関する規定は定款から切り離して別に株式取扱規則を設けた。また、事業目的を具体的に列挙して「倉庫業」を独立の項目とし、支店所在地も都市名を列挙して定款に規定した。取締役については代表取締役制がとり入れられ、取締役会議事録の保存も明文化した。この26年改正定款が、日本郵船の現行定款の骨子となっている。
株主
日本郵船の昭和20年(1945)10月26日現在の株主総数は1万9191名であり、発行済株式総数212万5000株で株主1人当たり平均株数は110.7株であった。その後、占領政策の一環として財閥解体、独占禁止措置がとられ、証券民主化も進められた結果、3回の増資を経た後の27年3月31日現在では、株主総数は4万3045名となり、発行済株式総数は1900万株で、株主1人当たり平均株数は441.4株となった。
27年3月31日現在の所有者別および所有数別の株主構成は、表(省略)のとおりである。
経営者
終戦時の昭和20年(1945)8月15日現在の経営陣は次のとおりであった。
- 取締役社長
- 寺井久信
- 取締役副社長
- 柳瀬省吾
- 常務取締役
- 市原章則、和田二郎、後藤忠治
- 取締役
- 寺田甚吉、三橋信三、生駒實、山田朝彦、淺尾新甫、三井高陽
- 監査役
- 天野利三郎、渡部信
翌21年3月に淺尾新甫が常務取締役に、同年5月に市原常務取締役が同年1月辞任した柳瀬副社長のあとを継ぎ副社長に就任、また同月生駒實が常務取締役に就任した。
その後、公職追放令等により経営陣の異動が頻繁に行なわれ、寺井社長は21年11月15日に辞任し、市原副社長が社長に就任した。しかし、市原社長も同年12月10日に辞任の余儀なきにいたり、同月20日に淺尾常務取締役が社長に就任した。
淺尾社長は終戦直後の厳しい占領下において企業の再建に取り組み、日本郵船の存続と再建に尽力した。経営還元後は定期航路の復活と戦隊の拡充に力を注ぎ、日本海運界における指導会社としての日本郵船の地位の確立と発展に大きな功績をあげた。
なお、22年1月副社長に生駒常務取締役が就任し、27年11月まで在任した。21年以降27年までの常務取締役在任者は、山本修、重盛米治郎、原太郎、梁瀬聖、横山渉、雨宮謙次、兒玉忠康であった。
本店機構
昭和20年(1945)8月15日現在の本店機構は、社長室、総務部、事業部、経理部、管理部、木造船部の1室5部であった。
21年6月1日に業務執行規則を改正し、社長室、庶務部、営業部、海務部、工務部、経理部、調度部、事業部の1室7部として自営再開に備える体制を整えた。同年7月1日には、制限会社関係事務処理のために渉外部を新設し1室8部としたが、24年4月1日には、事業部と渉外部を廃止し1室6部とした。
本店所在地は、東京都千代田区であったが、郵船ビルディングが接収されたので、本店仮事務所は、20年9月に中央区日本橋兜町1丁目7番地所在の南洋海運所有ビル(その後、日本郵船が取得した郵船兜町ビルディング)に移った。24年8月10日には、同年7月14日に合併契約を締結した織田興業所有の織田ビルディング(中央区茅場町1丁目12番地、郵船茅場町ビルディングと改称)に本店仮事務所を移転した。
地方機構
終戦後、外地店舗は事実上閉鎖されていたので、昭和22年(1947)6月1日に台北、パラオ、釜山、上海、香港、マニラ、サイゴン、シンガポール、ラングーンの各支店を正式に廃止した。外航再開とともに、26年から27年にかけてカラチ、ニューヨーク、ロンドン、シアトル、カルカッタ、バンコク、サンフランシスコに在勤員を設置した。
戦後しばらくは、内航運営が中心となると予想されたので、国内機構の充実がはかられた。20年8月15日現在で、日本郵船は、横浜、大阪、神戸、小樽、名古屋、若松、門司の7支店を開設していたが、21年6月には、東京、函館、新潟に出張所を開設し、翌22年6月1日にはそれぞれ支店に昇格させた。25年9月には室蘭出張所(24年3月開設)を支店に昇格させ、日本郵船の国内支店は11店となった。また、21年7月福岡、22年2月舞鶴、7月高松、23年1月松山、5月室蘭、同5月今治、11月伏木、24年2月釧路(同年6月出張所開設)、25年1月釜石に、それぞれ在勤員を駐在させた。
外航再開後、国内機構は漸次整理され、26年12月に函館、新潟2支店を廃止し、支店は9店となった。
2.財務と業績
資金調達
日本郵船の使用総資本(資産または負債・資本)は、昭和20年(1945)9月30日現在で5億3740万円であったが、27年3月31日現在では121億6781万円に増大した。戦後インフレーションによる名目的膨張も含まれているが、大きな戦争被害を被った状態から、外航定期航路を再開するまでに回復した企業活動の姿を反映している。
この間、資本金は3回にわたって増資された。戦後第1回(通算第5回)の増資は24年4月8日に行なわれ、資本金は1億625万円から2億5000万円に増加した。24年4月1日から定期用船制度への切替えが行なわれ、運転資金約4600万円を調達する必要があったこと、新造の舞子丸の運航採算改善のため建造資金借入金4545万円を返納すること、閉鎖機関(産業設備営団の債権を継承)、日本興業銀行、三菱信託銀行に対する債務5252万円を返済して資本構成を是正することなどの目的で増資が行なわれた。再建整備計画提出前であり、集中排除法、制限会社令、会社整理応急措置法による認可を得て増資が行なわれた。増資方法は、287万5000株のうち、212万5000株は24年1月25日現在の株主に1対1の割合で割り当て、25万株は役員、従業員、縁故者に割り当て、残り50万株は公募発行とした。
戦後第2回(通算第6回)の増資は民営還元に備え、本店事務所整備のため、本店仮事務所用のビル所有者、織田興業株式会社(資本金300万円)を合併した結果であり、24年11月29日、資本金は2億5300万円となった。
25年3月27日には、戦標船改造資金、借入金返済に充当するために、戦後第3回(通算第7回)の増資が行なわれ、資本金は9億5000万円、発行済株式1900万株となった。
使用総資本に対する資本金の割合は、20年9月30日現在で19.77%であったが、24年5月31日現在では25.01%となり、25年3月31日現在では42.85%まで上昇したが、27年3月31日現在では7.81%に減少した。25年4月以降本格的な自営体制に入り、所有資金が急増した結果、資本金比率は急減したわけで、資金調達は借入金等に依存する割合が大きくなった。
26年には、1月25日と4月25日の2度に分けて戦後第1回の社債発行を行なった。船舶建造・改造資金調達のために、第一回物上担保付社債い号3億円、同ろ号2億円を、年利率8.5%、発行価額98円50銭(100円につき)、1年据置き、5年間で償還の条件で発行した。
また、戦後インフレーションの結果、固定資金の過小評価、過小償却が生じていた不合理を是正するため、資産再評価法(25年4月25日公布)に基づいて、25年4月1日現在で第1次資産再評価を実施した。資産再評価の結果は表(省略)のとおりおであり、再評価差額9億7787万円は再評価積立金に計上された。
27年3月31日現在で日本郵船の使用総資本構成は、自己資本18.90%、負債81.10%(うち固定負債50.63%、流動負債30.47%)となり、外部資金への依存度が著しく大きい姿を呈している。固定負債で大きいのは、計画造船のための融資である。長期借入金のうち、政府融資は約60.3%、旧復興金融金庫分を含む日本開発銀行融資は約6.0%、日本興業銀行融資は約10.2%、市中銀行では、日本勧業銀行融資約8.6%、千代田銀行(のち三菱銀行)融資約5.9%で、他は多くの都市銀行、地方銀行よりの融資である。短期借入金では千代田銀行の割合が大きく約38.7%を占め、日本興業銀行が9.8%、日本勧業銀行が7.6%となっている。
経常収支
船舶運営会による船舶の一元的運航が行なわれていた期間には、日本郵船の経営収入の中心は、船舶運営会から支払われる船舶使用料、用船料(貸船料)であった。……民営還元直前の昭和24年(1949)10月~25年3月の半年度で、貸船料は経営収入の80.6%を占めていた。この間、23年3月からは舞子丸による大阪・高浜線の経営、24年8月からは用船による小型鋼船の不定期運航を開始して、運賃収入を獲得したほか、倉庫の運営、外国海運会社の代理店引受け、他船主の定期用船事務の代理引受けなどを行なって、収入の増加に努めた。
一方、経営支出面では、24年4月からの裸用船方式から定期用船方式への切替えとともに、船舶経費(船費・運航費)支出が増大し、また小型鋼船運航開始とともに用船の借船料支出が始まった。
経営収支は、24年6月~同年9月の決算期までは、船舶減価引除金、船舶大修繕積立金、建物減価引除金をある程度控除しても利益を計上することができたが、ドッジ・ラインのもとで定期用船料の削減が行なわれた25年3月期には、大幅な損失を計上せざるをえなかった。
25年4月以降は大型鋼船の民営還元が実現し、本格的な海運経営が再開された。帰還輸送船、米軍使用船を除いた船舶の自営が再開され、収入の中止は運賃収入となった。支出面では、戦前とは異なって用船依存度が大きくなったことを反映して、借船料支出が比重を高めた。
民営還元直後の25年9月期には、外航船腹過剰による競争、ドッジ不況による内航荷動き減少のため、係船補助金収入を含めても収入は大幅な赤字となり、減価引除金等の計上も不能な状態となった。しかし、25年6月の朝鮮動乱の影響で海運市況が活況を呈するとともに収支も好転し、26年9月期からは減価引除金を控除してなお利益を計上しうるにいたった。占領下で船隊再建と航路回復が制約されていたために、海外の海運会社のように、朝鮮動乱ブームで一挙に蓄積を進めることはできなかったものの、民営還元後に危惧されていた経営悪化の事態は、ひとまず回避することができたのであった。
日本郵船は26年9月期に、戦後最初の株主配当(年15%)を実施した。次期の27年3月期にも同率の配当を実施した。自営再開後初の好成果を配分したわけであるが、この復配が一時の喜びに終わらざるをえなかったことは、次章にみるとおりであった。
3.労務
従業員の推移
日本郵船の従業員数は、表(省略)のように推移した。昭和21年(1946)3月末現在で、陸員1561名、海員9884名、合計1万1445名で、とくに海員は船舶運営会より復社および割当入社したので、数が多くなった。縮小した船腹に対して従業員過剰である事実は如何ともしがたく、整理を余儀なくされた結果、26年3月末現在では、陸員829名、海員2656名、合計3485名の規模となり、以後、若干ながら増員傾向に転じた。
就業規則
昭和23年(1948)10月には、日本郵船従業員組合と協議のうえ、新たな社員就業規則を実施に移した。22年4月公布の労働基準法に基づき、従来の勤労条件に関する諸規則、通達、慣行等を再検討して制定した社員就業規則であった。従来の入社誓約書を廃止して、新たに労働契約書を設け、身元保証書の内容も改定した。
社員就業規則の実施とともに業務執行規則の改正も行ない、陸上従業員についての社員と属員の区別を廃止し、陸上従業員はすべて社員とした(嘱託・臨時雇は従来どおりとした)。
船員についても、24年10月以降、属員の名称を廃止して社員とし、25年12月には船員就業規則を制定した。
海員養成
昭和25年(1950)6月には、横浜山王山に投炭訓練所を開設した。機関部普通船員に投炭・燃料等に関する基本的教育を施して燃料費の節減をはかることが目的であった。
翌26年8月からは、工術実習と電気講習も開始した。また、海上社員を海務学院(東京越中島)、海技専門学院(兵庫県芦屋市)に学生として派遣し、再教育も実施した。
なお、横浜山王山には、26年5月に油炭効率研究所を再開した。石炭、重油、潤滑油、缶用水等の品質の調査研究を行なう業界唯一の機関であり、一般の試験依頼にも応じた。
給与
給与体系は、陸上従業員については、インフレーションに対応して物価手当を加味した仮本給(本給を算定基準とする)と職務手当、勤務手当、家族手当、勤続手当、住宅手当等の諸手当で構成され、海上従業員については、本給と家族手当、勤務手当、航路手当、機関部員手当、焚火および運炭手当、船匠道具手当、欠員手当、執職手当、艤装員手当等の諸手当で構成されていた。平均給与月額(臨時手当は除く)は、……昭和24年(1949)から27年にかけても大幅に上昇している。
日本郵船の退職手当金制度は、戦時補償打切り措置がとられるなどの戦後の異常時には維持が困難となり、21年8月10日で社員恩給規則とともに一時打切りとなった。その後、加給金、特別加給金、特別給与金等の制度を設けたが、海上社員に関しては、25年10月に、日本船主協会と全日本海員組合との間に退職金に関する暫定協定が成立した。陸上社員に対しては、26年5月に暫定的退職金内規を制定し、25年10月にさかのぼって実施し、27年1月にはその改正を行なった。
社員福祉施設
戦後の住宅難の時期には、住宅、寮の確保が緊急の課題となり、また民営還元に際しても、船舶運営会派遣社員受入れのため、居住施設の充実がはかられた。昭和30年(1955)9月末現在の陸上社員の住宅施設は、社宅142戸、社員寮29軒、収容社員数は251名であり、転勤対象社員586名に対して約43%の収容率となっていた。海上社員の船員寮は11棟、収容定員は230名であった。
26年5月には、財団法人日本郵船会社船舶属員保護会の寄付行為を改正して財団法人日本郵船海上社員保護会と改めた。同会は普通船員の福利厚生のため、年功手当金支給、神戸市の布引病院、神戸郵船ビル診療所の運営維持を行なった。
25年1月には二引会が設立され、社員倶楽部等を利用した文化厚生活動を行なった。また同年4月には郵船海上社員会も設立され、同様な活動を行なった。
21年6月には、産業組合法に基づいて、本店内に有限責任日本郵船購買利用組合を設立、23年7月の生活協同組合法施行とともに組織を変更し、25年7月からは日本郵船生活協同組合となって、社員の必要物資購入の便をはかった。
労働組合
海上社員は、昭和20年(1945)10月に結成された全国組織である全日本海員組合に加入していたが、22年2月には陸上社員によって日本郵船従業員組合が結成された。その後、陸上社員の組合は、25年5月に日本郵船労働組合に改組された。22年9月に日本郵船従業員組合と締結した労働協約に基づいて、同年10月から毎月1回の経営協議会が開催されたが、25年5月の組合改組後はこれを廃止した。
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー