HOME > コラム > コラム社史より 「日本郵船株式会社百年史」その6 Vol.34 小川 真理生さん
COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その6
- VOL.34
- 小川 真理生さん
ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第34回「日本郵船株式会社百年史」その6
article
今回は、「日本郵船百年史」の第8章・終戦時の企業再建、の「第4節 航路の復活」で、日本郵船の航路の復活がどのようになされていったのかを見ていこう。
1.営業の推移
民営還元以前
第2次世界大戦後も、船舶運営会による一元的船舶運航がつづけられ、海運会社としての営業活動はきわめて限られていた。昭和21年(1946)夏には、曳船永代丸(94総トン)で横浜・三崎間毎日2往復の旅客輸送を試みたが、成績は不良でほどなく休止した。23年3月30日からは新造客船舞子丸によって大阪・高浜線を開設し、25年3月までの2年間に204回の航海を行ない、船客13万7870名、貨物1万1911トンを輸送した。
24年4月1日から、国家使用船は、帰還輸送船を除いて、船舶運営会による定期用船制に切り替えられた。日本郵船は、定期用船となった30隻、10万3068総トンの補給・修繕・配乗業務を行なうことになった。定期用船は各船の稼働率が収入に大きく影響するので、補給・配乗等の業務の効率的な遂行が要請された。日本郵船の所有船の稼働率は、24年の各月、最高98.5%、最低92.9%ときわめて高い水準を維持した。
このほか、国内各地所有の店舗機構を活用して、国内汽船会社、外国汽船会社の代理店を受託した。
民営還元以後
昭和24年(1949)8月から800総トン未満の小型鋼船が民営還元された。日本郵船は、24年9月から小型鋼船を用船した国内航路の運航を開始し、25年3月までに、貨物11万8119トン(運航受託船による2万2888トンを含む)を輸送した。
25年4月から800総トン以上の鋼船が民営還元され、本格的な海運活動が再開された。日本郵船は、前述の大阪・高浜線のほかに、釧路・東京線、小樽・阪神線、小樽・裏日本線を開設した。外航配船には各航海ごとにGHQ民間輸送局の許可を必要としたが、民営還元直後から積極的な外航復活に取り組んだ。
民営還元後、講和条約発効にいたる時期の航海量と荷客輸送量は、表(省略)のとおりである。内航が停滞気味であるのに比べて、外航は急速に回復に向かった。外航貨物は、民営還元直後の25年4月から9月の6カ月間に比べて、3期後の26年10月から27年3月の6カ月間には4倍強に拡大している。運賃収入では、25年度後期には内航貨物運賃収入が外航貨物運賃収入を上回っていたが、26年度前期には外航収入が内航収入を追い越し、外航運航が業務の基軸になった。船客輸送は大部分が国内線で、25年10月以降許可された外航船の船客引受けは27年3月までに129名であった。
積載貨物の種類を26年4月から9月の6カ月間について例示すると、表(省略)のとおりである。外航貨物では米・麦類がもっとも多く、積載トン数でも運賃収入でも主要貨物の位置を占めている。鉄鉱、マンガン、燐などの鉱石類の割合も大きい。戦前と比較して生糸の比重が小さいのが大きな特徴である。内航貨物では、石炭・コークスが最大貨物であり、運賃収入では鉄鋼が、積載量では石灰石がこれについでいる。
外航再開とともに外国向け郵便物の航送も復活し、26年11月29日付で郵政省郵務局長と運送委託契約を締結し、同年4月1日にさかのぼって実施した。航送区間は、定期航路の拡充にともなって拡張された。
外国汽船会社の代理店業務も継続・拡大した。日本郵船が代理店を引き受けた主要な外国汽船会社は、United States Lines Co.,Pacific Far East Line Inc.,招商局、大韓海運会社、Pacific Micronesian Line Inc.などである。
2.外航の再開
不定期航路
民営還元直後に運航が可能だった外航船は、不定期船のみであった。昭和25年(1950)4月のタイ米積取り配船を自営第1船に、5月27日に氷川丸が鉄鉱石積取りのためマレー向けに横浜を出港したのをはじめ、タイ米、朝鮮米、ビルマ米、フィリピン鉄鉱石、マレー鉄鉱石、カルカッタ石炭・鉱石など積取りの不定期船が運航された。同年9月27日出帆の遠州丸(6880総トン)はコーシチャン積み、コーチン揚げでインド政府米5906トンを輸送したが、これが戦後日本船による三国間輸送の嚆矢であった。また同年9月には、氷川丸、永禄丸(6854総トン)、永曆丸(用船、6809総トン)3隻を、はじめて北米太平洋岸に配船して、ガリオア(占領地救済資金)物資を積み取った。その後も引き続き同方面に配船したが、同年12月には、バンクーバー積みで戦後最初の民間輸入であるカナダ小麦の輸送を引き受けた。同じく12月には、協和丸(用船、5381総トン)を北米大西洋岸に第1船として配船し、往航にフィリピンの砂糖、復航にフロリダの燐鉱石を積み取った。
昭和26年9月には、GHQの許可ならびに欧州極東同盟の了解を得て、永禄丸と延慶丸(6848総トン)をヨーロッパに配船した。永禄丸は、横須賀と横浜でハンブルク揚げ亜麻仁種子7826トンを積み取り、9月20日横浜を出帆、10月24日にスエズ運河を通過したが、これは戦後最初の日本船の通過であり、15年6月以来11年目のことであった。復航は北米経由で帰港した。延慶丸は、9月24日にハンブルク揚げ燕麦6063トンを積み取って小樽を出帆、シンガポール、コロンボ、アデン、ポートサイドに寄港、11月19日ハンブルクに入港、復航は、トレヴィエーハ(スペイン地中海岸)で日本揚げ塩を満載した。26年12月1日に日本(欧州)復航同盟(日本より欧州向け)への復帰が承認され、同盟加入後の第1船として、広畑で鋼材8140トンを積み取った用船協和丸が、27年2月5日にゴーテボルク(スウェーデン)に向けて出航し、復航ではトレヴィエーハで日本揚げ塩を満載した。
こうして不定期航路から外航が再開され、講和条約発効までに表(省略)のような配船が行なわれた。
定期航路
定期航路の再開は日本郵船の悲願であり、民営還元後、昭和25年(1950)10月までに、第1次計画として、バンコク、韓国、グァム、台湾、インド・パキスタン、カルカッタ、ニューヨーク、フィリピン、シアトルの9定期航路の開設を、商船管理委員会を経てGHQに申請した。26年1月30日には、GHQから、まず、バンコック航路の開設が許可された。そして、同年4月にインド・パキスタン航路、6月にニューヨーク航路、7月にシアトル航路、9月にカルカッタ航路、翌27年2月に欧州航路の開設が許可された。
こうして、27年4月の講和条約発効までに、上記の6航路のうち、欧州航路以外の5線の定期航路の運航が再開されたのである。
バンコク定期航路
昭和25年(1950)4月10日に、使用船3隻による月1回のバンコク定期航路開設許可をGHQ民間輸送局に申請した。GHQは航路開設申請企業が多かったために、申請各社間で調整を行なうことを指示した。協議の結果、日本郵船は三井船舶と、大阪商船は関西汽船と、川崎汽船は飯野海運と提携することとし、新生社を3社に限定し、日本郵船は三井船舶名義をもって修正申請書を26年1月12日に提出した。GHQは同月30日には各グループごとに共同運航を行ない、配船数は各グループを通じて月2航海とする条件で、定期航路開設を許可した。
26年4月9日、日本郵船の外航定期航路再開第1船として、第二満鉄丸(用船、3685総トン)が東京を出帆した。横浜、名古屋、大阪、神戸、門司を経由、5月3日にバンコクに入港した。復航は、5月14日バンコクを出帆、コーシチャンに寄港、5月24日日本に帰った。往航各地積荷は雑貨3153トン、運賃収入は2248万円、復航積荷はバンコク、コーシチャン積み徳山揚げの塩4372トン、運賃収入は1396万円であった。
26年6月以降は、6社合計配船数を月3隻に増加することが許可され、7月から日本郵船は2ヵ月に1回の配船を行なうことになった。
26年4月から12月までの積荷実績は4隻の配船で、往航7745トン、復航1万8129トン、合計2万5874トンであった。往航は雑貨、セメント、鋼材、復航は米、塩が主要貨物であった。
バンコク航路では、日本船配船を機に外国船8社とともに、26年3月に日タイ運賃同盟が組織された。日本郵船は航路許可申請の際の経緯で、はじめは準会員としてこれに参加した。
また、27年2月から、バンコクに在勤員を設置して、地盤の開拓に努めた。
インド・パキスタン定期航路
昭和25年(1950)8月18日、日本郵船は使用船3隻による月1回のインド・パキスタン定期航路開設をGHQに申請した。しかし、申請者が多く、GHQの意向で各社間協議が行なわれ、日本郵船・三井船舶、大阪商船・新日本汽船・山下汽船、国際海運(日産汽船・東邦海運・飯野海運・三菱海運4社の運航代理店)の3グループによる月3回の定期航路として、GHQに再申請した。昭和26年4月18日に、3グループおのおの共同運航として3グループ月2回の定期航路の開設が許可された。関係9社は協議を行ない、(1)日本郵船が日本船各社代表幹事となること、(2)配船は、日本郵船グループ、大阪商船グループ、国際海運グループの順とし、原則として毎月上半および下半に配船すること、(3)この機会に、日本、イギリス、アメリカ各国船主を含める運賃協定の結成に努め、それまでは、ブリティッシュ・インディア社の運賃率を適用することなどを決定した。また、GHQ覚書によれば当航路の貨物輸送には個別的に特別許可を要するとなっていたので、GHQに対して、積荷と中間港(香港、マニラ、シンガポールその他海峡地諸港、コロンボ等)の入出港に関する包括的許可を要請することも申し合わせた。
日本郵船は、26年4月27日付で三井船舶と共同運航契約を締結し、5月24日に春光丸(用船、4454総トン)を当航路第1船として、東京から出帆させた。往航は、横浜、清水、名古屋、大阪、神戸、門司に寄港、シンガポール、マドラスを経由して、6月27日ボンベイ、7月2日カラチに入港した。復航は、7月10日カラチ出帆、ボンベイ、コーチンに寄港、シンガポールを経由して、8月11日に大阪に帰着した。往航の積荷は雑貨5803トン、運賃収入3577万円、復航は鉱石3000トン、運賃収入1987万円であった。その後、積荷は順調に増加し、第3船春光丸は、26年12月に戦後日本船として最初のパキスタン棉花1万4348俵を積み取った。
26年5月から12月までに3隻を配船し、往航1万4783トン、復航1万5034トン、合計2万9817トンの貨物を輸送した。なお、航路開設とともにカラチに在勤員を設置し、地盤開拓に努めた。
ニューヨーク定期航路
日本郵船は、昭和25年(1950)10月27日に、使用船5隻による月1回のニューヨーク定期航路の開設をGHQに申請した。その後、日本船各社間で協議の結果、日本郵船、大阪商船(新日本汽船と共同運航)、三井船舶、国際海運(日産汽船・東邦海運・飯野海運・三菱海運4社の運航代理店)による月4回の定期航路開設をGHQに再申請した。
一方、日本郵船はニューヨークおよびシアトル両定期航路の再開に備えて、25年12月に、(1)日本大西洋同盟、(2)日本太平洋同盟、(3)ニューヨーク極東同盟、(4)太平洋西航同盟(南部地区・北部地区)、(5)フィリピン同盟(大西洋岸ガルフグループ、太平洋岸グループ、サイゴンチャイナ日本グループ)の各運賃同盟に対して、GHQの許可を条件として再加入の申入れをした。そして、氷川丸その他の外航船を、逐次、大西洋岸揚げフィリピン砂糖、鉱石等の積取りの不定期航路に配船し、GHQの許可があり次第ただちにそれを定期船に切り替える態勢を整えていた。
26年6月12日付のGHQ覚書は、前記4社による月4回の定期航路開設を許可した。運賃同盟への再加入申請も、同年6月中にはすべて承認された。引受け荷物の関係でシアトル航路開始まで正式加入を延期した太平洋西航同盟を除いた各運賃同盟に、日本郵船は再加入した。なお、日本太平洋同盟の下部組織だった日本フィリピン運賃協定が、26年7月17日に発展的に解消して、日本フィリピン運賃同盟を結成したので、日本郵船もこれに参加した。
第1船平安丸(6848総トン)は、広畑で鋼材3935トン、神戸、大坂、名古屋、清水、横浜で雑貨3727トンを積み取り、26年7月20日横浜を出帆、サンフランシスコ、ロサンゼルス、クリストバルを経て、8月20日ニューヨークに入港した。16年の航路休止以来満10年目のことであった。ボルチモア、ニューポートニューズに回航後、平安丸は9月11日にニューヨークを出帆、ガスベストン、ヒューストン、クリストバル、ロサンゼルスを経由し、10月26日に横浜に帰着した。復航積荷は石炭5128トン、雑貨2576トン、合計7704トン、運賃収入は7267万円で、往航運賃8157万円と合わせて、1億5424万円の好成績をあげた。
第2船からは、往航はフィリピンに回航して砂糖、鉱石等のベースカーゴを積み取り、復航はタンパの燐鉱石をベースカーゴとした。26年7月から12月までの配船6隻の積荷実績は、往航がフィリピン積みベースカーゴ7500トン、日本積み雑貨2万3867トン、合計3万1367トン、復航がベースカーゴ3万3834トン、雑貨1万2154トン、合計4万5988トンで、往復航合計で7万7355トンを輸送した。
定期航路開設と同時に26年8月、ニューヨークに在勤員を設置した。
カルカッタ定期航路
日本郵船は、昭和25年(1950)10月27日付で、GHQに使用船3隻による月1回のカルカッタ定期航路の再開許可を申請した。GHQは、26年9月7日付で日本郵船と大阪商船に各月1回の配船を許可したが、寄港地はラングーン、チッタゴン、カルカッタ3港に限定された。日本郵船はカルカッタ定期航路再開について、ブリティッシュ・インディア社とインドチャイナ社の了解を得ていたが、チッタゴン寄港については両社から日本船年間6回に制限するよう申し出があった。日本側で協議の結果、チッタゴン寄港は日本郵船4回、大阪商船2回とすることとした。
第1船備後丸(4643総トン)は、26年10月20日に東京を出帆、横浜、名古屋、大坂、神戸、門司を経由し、ラングーン、チッタゴンに寄港、12月3日にカルカッタに入港した。復航は、12月22日カルカッタを出帆、ヴィザガパタムで石炭を積み取り、翌27年1月29日室蘭に帰航した。往航積荷は雑貨4470トン、運賃収入2905万円、復航積荷は石炭5504トン、運賃収入は2323万円であった。
26年10月から12月の間に3隻を配船、往航1万1055トン、復航2万5528トン、合計3万6583トンを輸送した。復航積荷は石炭、鉱石が主であったが、代理店の態勢を整備し、27年3月にはカルカッタに駐在員も着任して、屑鉄その他雑貨の集荷にも努めた。
シアトル定期航路
日本郵船は、昭和25年(1950)10月27日付で、シアトル定期航路の再開許可をGHQに申請した。当航路の開拓者である日本郵船に対するシアトル市の支持を背景に、26年7月31日には申請どおり使用船3隻による月1回の定期航海が許可された。しかし、船舶の不足と荷況の不振のために再開はやや遅れ、第1船平洋丸(6851総トン)は9月30日神戸を出帆、フィリピンに回航、木材、コプラ3828トンを積み取り、神戸、名古屋、清水、横浜における鋼材、雑貨等1585トンと合計で5413トンを積み取って、10月30日横浜を出帆した。同船は、サンフランシスコ、ポートランド、バンクーバーを経て11月23日シアトルに入港、同月25日シアトルを出帆、タコマ、バンクーバー、ダンカンベイを経て12月26日横浜に帰航した。復航積荷は鉄鉱石4920トン、小麦3288トン、雑貨621トン、合計8829トンであった。運賃収入は往航4053万円、復航4393万円、合計8446万円であった。
26年10月から12月の間に3隻を配船し、往航1万5287トン(うちフィリピン積みベースカーゴ6195トン)、復航2万4795トン(うちベースカーゴ2万2850トン)、合計4万82トンを輸送した。第2船阿蘇丸(7576総トン)は、神戸、清水で、カナダ揚げ生蜜柑38万3000箱(約4800トン)を積み取って好成績をあげた。
26年10月15日には、加入を延期していた太平洋西航同盟に正式に再加入した。また、同年末にはシアトル在勤員を設置した。
韓国定期航路
日本郵船は、昭和25年(1950)5月13日、使用船2隻による月10回の阪神・釜山間定期航路開設許可をGHQに申請した。26年7月には、これを東京・仁川線1隻年14航海、大阪・仁川線1隻年15航海に変更して再申請した。同年9月に許可されたが、申請者は17社に達したために輪番制で配船することとなった。
第1船は、よりひめ丸(用船、532総トン)で、10月24日に名古屋を出帆、阪神、門司経由釜山に向かった。なお、27年12月には、関係各社間に「韓水会」が組織され、配船の調整、運賃率の維持がはかられた。日本郵船は韓水会の第1回幹事長に選出された。
外航船客輸送
昭和25年(1950)10月4日にGHQは、国際船級を有する外航適格船は12名を限度として船客引受けを許可する旨を発表した。日本郵船は、10月18日横浜出帆シアトル向けの氷川丸に2名の船客を引き受けた。これは日本船による戦後最初の外航船客輸送であった。
不定期船運航しか行なえない時期には、船客の引受けは往航に限られたが、定期航路開設後は復航船客も引き受ける態勢を整えた。26年8月には、太平洋船客同盟に再加入を申し込み、翌27年4月1日に準会員として加入した。
26年度前期に15名、26年度後期に32名、27年度前期に82名、合計129名の船客を、いずれも北米航路で引き受けた。
3.国内航路の運営
定期船
戦後の内航定期航路の最初の航路として、昭和23年(1948)3月30日、大坂・高浜線が開始された。新造の小型優秀客船舞子丸(1036総トン、船客定員332名、載貨重量279LT、航海速力13ノット)を使用し、東京船舶と協定して同社の同型新造船明石丸とともに、神戸・今治・高浜(まもなく起点を大阪に変更)間毎週3回の定期航路を予定したが、当初は、燃料油割当量が不十分なために、休航せざるをえないことが多かった。25年ごろから燃料油不足も解消して、(表:舞子丸運航実績)のような定期運航が維持された。
民営還元後は、25年7月21日付で運輸大臣から釧路・東京線の免許を受けて、雲仙丸(3140総トン)を使用して、釧路・東京間月3回の定期航路を行なった。同年8月8日には小樽・阪神線の免許を受けて、千歳丸(2668総トン)を使用して、小樽、函館、東京、横浜、名古屋(往航のみ)、大阪、神戸間に、22日1回の定期配船を開始したが、26年9月限りで当線は廃止した。このほか、小樽・裏日本線も開設したが、25年6月21日以降中止した。
不定期船
昭和24年(1949)8月に800総トン未満の小型鋼船の民営還元が行なわれたときから、内航不定期船の運航が開始された。同年7月17日に日本郵船は栗林商船との提携協定を締結し、小型鋼船運航再開に備えた。協定の内容は、(1)栗林商船(三陸汽船を含む)所有船13隻、2万重量トンを国家使用解除とともに定期用船する、(2)栗林商船は各地集荷機関の全力をあげて協力する、(3)協定期間はさしあたり3年間とする、というものであった。
24年9月から、日本郵船は栗林商船からの用船5隻、新日本海運からの運航受託船1隻で、内航不定期運航を開始した。北海道・東北・日本海沿岸諸港間、九州・瀬戸内海諸港間に配船し、9月中に石炭、肥料、鉱石、銑鉄、セメント等1万2244トンを輸送した。
その後、協同商船、日本近海汽船、鏑木汽船、日産近海機船等の所属船を用船あるいは受託運航した。24年10月から25年3月までの6カ月間に、表(省略)のような諸雑貨、合計10万5875トン(うち運航受託分2万2888トン)を輸送し、運賃収入約4825万円、運航手数料約41万円を得た。
25年4月から800総トン以上の大型船の民営還元が行なわれたが、内航における船腹過剰に対応する措置が必要であった。政府は内航船に対して、1カ月以上係船する場合には係船補助金を支給する政策をとった。日本船主協会は船主間にグループを結成し、各グループごとに過剰船腹を算出して係船する計画を立てた。そして、日本郵船、大阪商船、三井船舶、三菱海運、川崎汽船、大同海運、日産汽船、新日本汽船、日鉄汽船、飯野海運の10社を中心に10グループを結成しようとした。日本郵船グループには、日本郵船のほかに23社、87隻、22万重量トンが参加するはずであった。ところが、公正取引委員会から、グループ結成は独占禁止法・事業者団体法に抵触する旨の注意があったので、グループ案は中止し、海上運送法第28条の規定に基づいて、運賃同盟を結成することとした。25年4月27日に、北海道炭運賃同盟(議長、日本郵船淺尾新甫社長)、九州山口炭運賃同盟(議長、大阪商船伊藤武雄社長)、北海道木材運賃同盟(議長、三井船舶一井保造社長)が創立総会を開き、5月1日から3運賃同盟が発足した。
日本郵船は25年4月から内航船47隻を使用して本格的な国内航路経営を開始したが、ドッジ不況下で積荷が乏しく、14隻を係船しなければならなかった。その後も市況は低迷し、表(省略)のように7月まで係船は増加したが、朝鮮動乱勃発(6月25日)の影響で漸次荷動きは活発となり、稼働船は増加した。
26年夏ごろからは、再び内航荷動きは不活発となり、市況不振はながびき、……内航貨物積取量は漸減した。
これで、航路がどう復活を遂げたかについては、終わる。次回は最後で、日本郵船の占領期の経営の諸問題について、見てゆく。
-
プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー