HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-31 Vol.31 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-31
- VOL.31
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-31
中央線を阿佐ヶ谷駅で降りる。南口に出ると、矩形に区切られた広場があって、少しの緑が都会の喧騒を一瞬、忘れさせてくれる。それを見て、左に行くと、延々と長いアーケードの有名な商店街。
しかし、そちらには行かず、南口交番を見ながら右方向に広場の角に沿って歩いて行くと、鄙びたホコリだらけの安っぽい飲み屋街。そこを突っ切ると、これまた大都会の大きな駅のすぐ近くとは思えないような戦前からあったような古い住宅街が狭い道の両側に広がっている。
以前はそこに道に沿って、どぶ川が流れていたのだと誰かに聞いたことがある。ある時期、わたしはその道を歩いて、頻繁にそのお宅に通っていた。近所に住む人達に便利なお店が、理髪店とか中華の店とかが並んでいる。
そして、昔ながらのいかにも下町風の八百屋さん。そのまん前に平沢死刑囚の養子になった平沢武彦さんの自宅はある。狭い敷地にきゅうくつに建てられた二階家。地震でもあれば、一番に崩れてしまいそうなぼろ家、陋屋。
聞くと、本当に戦前から使われていて、当時としてはモダンな建物だったのだとか。そう言われて見ると、玄関のドアなどは当時としてはハイカラな田舎にはないような近代的な造りの、取っ手の付いたドアである。その前に立つと、そこには「平沢貞通氏を救う会」の看板が掲げられていて、その隣にやや小さめの表札が二つ並んでいる。現在の当主の名前「平沢武彦」。そこに並んでもう一つ、武彦さんの実の父親の「森川哲郎」の名前がある。この森川哲郎氏の存在なくして、帝銀事件を語ることは最早できない。それほどの人物である。
1924年・大正13年、旧・満州のハルピンで生まれ、戦後、帰国して新聞記者から作家になっている。新聞記者の時代に、この世紀の未解決事件に興味を持ち、調べて行く過程で、平沢死刑囚の冤罪を確信し、その無実を晴らすための支援活動を始めている。「平沢貞通氏を救う会」も氏が中心となって結成して、自らが初代事務局長を務めている。
平沢は昭和30年・1955年に最高裁で死刑が確定してからも永く、小菅に収監されていた。それが昭和37年・1962年。急遽、仙台の宮城刑務所仙台拘置支所に移されることになった。
当時、小菅には死刑台がなく、仙台行きはイコール、刑の執行を意味していた。その危機感から、なんとか死刑執行を阻止する活動を森川哲郎氏が始めた。その折に結成したのが、この「平沢貞通氏を救う会」であった。著名な文化人、政治家に働きかけて会に所属してもらい、その人達の影響力で法務局に働きかけて、死刑執行を阻止しようとしたのである。果たして、その努力が功を奏したのか。
ご存知のように死刑の執行は、時の法務大臣が執行を許可する判を押さない限りできないが、このあと、何人もの法務大臣が代わったが、そのなかの誰一人、不思議なことに判を押したものはいなかった。単にそれは、〝救う会〟の活動が奏功しただけでなく、多くの関係者にとっても、この帝銀事件は平沢を犯人に決めてしまうことに納得のいかないものがあったということではあるのであろう。・・・
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など