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「日本郵船株式会社百年史」その5

COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その5

VOL.33
小川 真理生さん

ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第33回「日本郵船株式会社百年史」その5

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 今回は、「日本郵船百年史」から、「船舶の再建」がどう進められたかを見てゆこう。第8章第3節の「船舶の再建」から引用する。

 

1.船腹の推移
終戦時の船腹
 日本郵船が終戦時に所有していた船腹は37隻、15万5469総トンで、表(省略)のとおりであった。在来船7隻のうち、大型船は氷川丸(1万1622総トン)のみであり、他は雲仙丸(3140総トン)を除くと3000総トン未満の小型船であった。しかも、明治38年(1905)建造の花咲丸はじめ5隻は、船齢25年以上の老朽船であった。戦標船30隻のうち、油槽船2隻を除いて、6000総トン以上のものは13隻にすぎず、1000総トン未満のE型が11隻含まれている。戦争によって、日本郵船は船隊に壊滅的な被害を被り、量的にもきわめて貧弱な残存船腹で、戦後再建のスタート台にのぼったのである。

定期用船切替え時の船腹
 昭和24年(1949)4月1日の定期用船切替え時の所有船腹は39隻、14万5224総トンで、その内容は表(省略)のとおりであった。船舶運営会への裸用船時代に、続行船5隻、2万9322総トン(うち3隻は船舶公団との共有船)と新造小型客船および小型貨客・貨物船5隻、1万19総トンが所有船に加わった。一方この間に、油槽船3隻が(続行船1隻を含む)とA型戦標船1隻を売却したほか、江ノ島丸など4隻、1万5604総トンが触雷で失われた。

民営還元後の船腹
 昭和24年(1949)8月から、800総トン未満の小型鋼船が民営還元された。
 日本郵船は800総トン未満の所有船をもっていなかったが、自営体制復活の第一歩として、栗林商船、新日本海運、協同商船、日本近海汽船、鏑木汽船、日産近海機船等の所属船を、用船または受託運航した。24年10月から25年3月までの間に使用した船腹は、用船9隻、運航受託船3隻であった。
 25年4月から800総トン以上の鋼船の民営還元が実施された。帰還輸送船榮豊丸と韓国において米軍使用中の伊香保丸の2隻を除いて、所有船35隻が国家使用を解かれて返還された。民営還元後、講和条約発効までの時期の使用船は表(省略)のとおりである。戦前期に比べて用船の割合が大きいことは、戦争被害と連合国の非軍事化政策によって所有船の再建が思うにまかせなかった苦悩を反映している。
 所有船腹は、表(省略)のように推移した。25年9月末から26年3月末にかけての船舶減少は、海難1隻(881総トン)と売却10隻によるものである。売却には、低性能船舶買入法による3隻、6434総トン(売却価格4765万円)が含まれている。当初は同法によって9隻、2万3810総トンを解撤のために売却する予定のところ、朝鮮動乱によって船舶需要が逼迫、船価が上昇したため予定を変更し、5隻は関係海運会社に改造工事完了後の用船を条件に売却することとした(売却解撤予定の1隻は海難沈没)。
 26年9月末から27年3月末にかけての船腹増加は、主として計画造船による新鋭船竣工によるものである。第5次から第7次までの計画造船による新造船8隻のうち、27年3月末までに6隻が竣工した。
 結局、25年3月末以降、新造船6隻、中古買船1隻が加わり、売却船12隻、海難船1隻が減じて、保有船腹は、27年3月末に31隻、14万1057総トンとなった。総トン数は微増したにとどまったが、老朽船は減少して新鋭船が増加し、船型は大型化し、また大型戦標船の改造も行なわれ、船隊の質は見違えるほど向上した。

2.新船の建造と用船
続行船
 産業設備営団が発注した戦標船で、終戦時に建造中であったものうち、日本郵船に割り当てられていた分は10隻、5万3912総トンであった。このうち3隻は他社に割当を譲り、2隻は建造打切りとなり、残り5隻、2万9322総トンが続行船として建造された。
 このうち、洞南丸、擇捉丸、洞北丸の3隻は、船舶公団との共有船として建造された。多度津丸は油槽船で、竣工後、22年8月に日本水産に譲渡された。

小型客船の建造
 終戦後、鉄道輸送力の減退などもあって、国内航路の旅客輸送需要は、月間約90万人と推定されたのに対して、既存の小型客船の輸送力は月間約22万人で、大幅な供給不足となった。政府は、GHQに要請して小型客船76隻、7万3000総トン建造の内諾を得て、昭和21年(1946)7月に、まず55隻を建造することとして海運各社に割り当てた。日本郵船も、海運活動は当分の間は主として国内航路に限定されるものと予測して、小型客船10隻、1万3300総トン(予定建造費1億6640万円)の割当を受けた。
 22年1月に第1次分として28隻、3万5000総トンの建造が正式許可され、日本郵船も5隻を建造することとなった。ところが、内航貨物船腹が逼迫したため、小型客船建造計画は第1次分で打切りとなり、第1次分についても中途で貨物船に設計変更となる船がでた。
 日本郵船の5隻は、全額復興金融金庫からの融資で建造された。舞子丸は予定どおり小型客船として竣工したが、室蘭丸と釧路丸は貨物船に変更され、小樽丸と函館丸は工程の関係から客室設備を残した小型貨客船となった。
 舞子丸は自営船として大阪・高浜航路に就航したが、他の4隻は船舶運営会使用船として小樽・日本海沿岸航路その他に就航した。

計画造船
 計画造船は昭和22年(1947)から開始されたが、5000総トン、速力12ノット未満の船しか許可されなかった第4次までは、日本郵船は建造しなかった。外航船建造が認められるにいたった第5次計画造船以降は、毎回応募して……、第7次までに8隻、5万9283総トンの建造を行なった。
 各船とも、見返資金特別会計から契約船価(第5次船)あるいは乗出船価(第6次船、契約船価に雑費を除く乗出費用を加えた額)等の50%の融資を受け、残りを自己調達(市中借入)資金を賄って建造した。見返資金の融資条件は、期間15年、年利率7.5%、貸付後3年据置後半年賦均等償還であった。
 第6次船赤城丸からの6隻は、戦前のA型船に相当する船で、Aで始まるローマ字船名を付されていた。新旧A型船の性能を比較すると表(省略)のとおりで、性能は新A型船が旧A型船の性能をやや上回っていた。また、外航貨客船が氷川丸のみとなったので、平安丸と平洋丸は6名、赤城丸からは9名の船客設備を備えた。
 船体構造では、溶接工法が採用され、溶接使用率は第5次船で52%、第6次船以降は85%以上となった。艤装面では、第7次後期船秋田丸から艙内湿度調節器を採用した。航海中大気温度の変化による艙内湿度の変化を調整し、発汗による輸送貨物の損傷を防止する装置である。第7次前期船有馬丸からは、艙口蓋の開閉時間を短縮して荷役能率の向上をはかり、また荒天時艙口よりの浸水による積荷の濡損を防ぐために鋼製艙口蓋を装備した。レーダーが装備されたり、無線電信装置が改良されたことも戦後新造船の特徴である。
 なお、第7次後期船粟田丸は、20年4月に撃沈された緑十字船阿波丸の代船として割り当てられた船である。

船舶の改造
 戦標船の改造による船室改善もはかられた。初期には、改E型船のうち焼玉機関を装備したものの主機換装が船舶運営会によって行なわれ、昭和22年(1947)に伊豆丸、伊賀丸、伊良部丸の3隻にレシプロ機関が取り付けられた。また、外航配船に備えて、船舶運営会は、延長丸、永禄丸、擇捉丸などA型戦標船に予備炭庫の新設工事を施した。
 外航再開時に日本郵船で国際船級をもつものはきわめて少なかった。政府の管理貿易体制下での輸出入貨物輸送であり、SCAJAP管理下の就航なので、必ずしも国際船級は必要でなかった。しかし、民間貿易が再開され、24年12月29日からCIF建て輸出、FOB建て輸入が許可されるようになると、国際船級取得が必要となった。
 日本郵船が終戦時に所有していた航洋船37隻は、元ロイド船級をもつもの1隻(氷川丸)、N・K船級船4隻、f符号付N・K船級船27隻、無船級船5隻であった。N・K船級とは、帝国海事協会(昭和21年4月に日本海事協会と改称)の認定船級である。大正8年(1919)」7月にイギリスのB・C協会(The British Corporation Register of Shipping & Aircraft)、アメリカのA・B協会(American Bureau of Shipping)、イタリアのR・I協会(Registro Italiano Navale)との間に四国船級協会連盟が結成されて以来、N・K入級船は僅少の料金で他の3協会に入級可能となった。また、大正15年9月には、ロンドン保険協会(I.L.U.)は、海上保険関係においてN・K船級は国内船級にすぎなくなった。昭和17年9月から船舶検査は海軍艦政本部が一元的に実施することとなり、帝国海事協会は独自の検査下に建造された船舶にはN・K船級、それ以外の戦時特例によって建造された船舶にはfの特別符号を付したN・K船級をみとめることとした。戦後、日本海事協会がロンドン保険協会の船級条項に復活したのは28年であり、それまでは国際船級取得のためには、外国船級協会に入級する必要があった。
 24年に、運輸省は日本船主協会からの提案に基づいて、アメリカのA・B船級を取得するためにA型戦標船を改造する計画を立て、所要資金の70%を見返資金特別会計から融資することとして希望船主を募った。この計画は、24年10月にGHQの許可を得て実施された。日本郵船は、永徳丸、永禄丸、延慶丸の3隻を改造してA・B船級を取得した。改造の主な点は、主機関を船尾から中央部に移し、船橋楼を新設し、二重底を設け、また外板補強等によって船体強度を増加することなどであった。
 その後、フランスのB・V(Bureau Véritas)船級が比較的簡単に、改造費も少なく取得できることになったので、26年に全額自己資金で擇捉丸を、見返資金特別会計から改造費の30%の融資を受けて英彦丸、延長丸をそれぞれ改造し、B・Vに入級した。この改造は、主機関はそのままとし、二重底の新設、外板補強等に重点をおいたものであった。
 これらの改造実施項目は、表(省略)のとおりである。なお、関係海運会社に売却後用船したA型戦標船5隻も、B・V入級工事を26年中に完了した。

用船
 自社船のみでは航路の運営維持は困難であり、不足分を関係会社からの用船で補った。自社船舶を急速に充実させうるほど財務基盤は強固でなかったことに加えて、計画造船の割当が平等主義原則に沿って行なわれ、1社当たりの枠が各次2隻程度におさえられたことも、用船への依存を不可欠とした。
 日本郵船は、正福汽船、山本汽船、岡田商船、日本汽船、新日本海運、協立汽船、日本商船、八馬汽船、東京船舶、共栄タンカー等の関係会社と提携し、計画造船による新船建造にあたっては資金の借入れその他について協力し、竣工後、日本郵船が用船して各航路に配船する方策をとった。この方策によって長期用船した新造船は、28年3月末現在で14隻、8万2764総トンにのぼった。
 また、前記関係会社ならびに林兼海運、共同船舶、東京郵船、北星海運と提携し、日本郵船所有の戦標船を譲渡して改造の後に用船したり、各社購入船を用船する方策もとった。これによって長期用船した外航船は、28年3月末現在で12隻、7万5486総トンにのぼった。
 このほか、栗林商船、近海郵船、東京郵船、日之出汽船、太洋海運産業、丸栄汽船、日の丸汽船、反田商会、鏑木汽船等から、内航用小型船を用船した。

 

 ここで、「船舶」の再建状況については終わり、次回は「航路」の復活がどうなされていったかについて述べた部分を「日本郵船百年史」から紹介しよう。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー