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「日本郵船株式会社百年史」その1

COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その4

VOL.32
小川 真理生さん

ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第32回「日本郵船株式会社百年史」その4

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 今回は、占領期における日本郵船が「企業再建整備」をどう行ったかについて、「日本郵船百年史」の第8章「終戦後の企業再建」第2節「再建期の経営方針」の2項目「企業再建整備」をたどることで見ていこう。

 

特別経理会社
 戦時補償打切り措置の結果として企業再建整備が必要となったところに、経済的非軍事化政策の影響が及んで、日本郵船の存続すら危惧される事態が発生し、その対応に膨大なエネルギーが費やされたが、結局、日本郵船の社名も含めて存続することができた戦後の激動の過程を、ここで振り返ってみよう。
 戦時補償打切りや在外資産の喪失等によって特別損失が発生した日本郵船は、全社経理応急措置法に基づく特別経理会社として、企業再建整備法による当別損失の処理を行なうこととなった。特別経理会社は、債権者と経営者を代表する特別管理人を選任し、その合意を得て昭和21年(1946)8月10日現在の資産を新勘定(事業の承継と産業の回復振興に必要な分)と旧勘定(その他の資産)に分離し、その後の資産処分を特別管理人の監督下に行なう建前となっていた。
 21年9月に、特別管理人として債権者側から産業設備営団(第1位債権者)代表者山本昌造(同営団理事)、日本興業銀行(第2位債権者)代表者辻村正一(同行理事)、経営者側から日本郵船副社長市原章則、同取締役山本嵃が選任された。その後、産業設備営団が閉鎖機関となったために、22年2月12日からは閉鎖機関保管人委員会代表者鈴木祥枝(同委員長)が、ついで同年5月1日からは閉鎖機関整理委員会代表者小林正一郎(同委員長)が第1位債権者代表となった。また経営者側も市原社長が辞任し、21年12月20日から淺尾新甫社長がかわって特別管理人となった。
 21年9月12日に第1回特別管理人会が開かれ、新旧勘定区分方針が検討された。興業銀行代表は、補償打切り約3億円に対して積立金が約4億5000万円あり、資産評価替えを行なわなくとも損失を塡補できるから、日本郵船は特別経理会社になる必要がないのではないかと発言した。これに対して日本郵船代表は、まさにそのとおりであるが、会社経理応急措置法の規定する措置を活用して企業再建に有利な途を選びたいと答え了承された。同年10月15日の第2回特別管理人会では、新旧勘定区分案が検討されたが、地所建物の分属をめぐって債権者代表と日本郵船代表とが対立した。日本郵船側は国内の地所建物は新勘定に、国外の地所建物は旧勘定に分属させることを希望したのに対して、債権者側は郵船ビルなどを旧勘定におくことを強く主張した。債権保全を第1とする債権者側の意向を受けて、日本郵船側は原案を修正し、22年2月13日の第3回特別管理人会で、表(省略)のような新旧勘定明細表の承認を得た。郵船ビルは旧勘定所属となった。船舶で旧勘定に分属されたのは、船価支払い未済であり、かつ賠償対象となる可能性のある船(鶴岡丸、戸畑丸)、座礁中で救助作業・修理を要し、かつ賠償対象船の可能性がある船(延曆丸、永曆丸)、米軍徴用中の船(伊香保丸)、海難船(伊豫丸)であった。
 新勘定船に属する収入金のうちから1ヵ月0.4%の利率で利息を旧勘定に繰り入れることとなった。

改組計画案(2社案)
 特別経理会社は再建整備計画を立案し、主務大臣の認可を受け、新旧勘定を合併し、整備計画完了後、特別経理会社指定を解除されることとなっていた。日本郵船は、昭和21年(1946)10月に会社再建整備委員会を設置して、整備計画の検討を開始した。
 21年10月11日の午前10時半から開催された会社再建整備委員会第1回会合では、委員長(市原副社長)が、
「本件ハ会社ノ運命ヲ決スル極メテ重大ナルモノナルヲ以テ吾等ハ心魂ヲ傾注シテ之ニ当ルヲ要ス」と任務の重要性を強調し、整備計画の基本方針として、次のような方向を提示した。

「曩ニ吾社制限会社指定ノ際探求スル所ニ依レバ『マ司令部』ニ於テハ郵船ハ好マシカラヌ存在トノ見解ヲ有シ居ル模様ナリシヲ以テ遺憾乍ラ吾社ハ解消スルモノトシ之ヲ以テ制限会社指定解除ヲ期シ其他マ司令部意向、株主、従業員等ノ利益ヲモ考慮シ
(イ) 船舶及ビ付随ノ財産ヲ主トシタル縮小規模ノ船舶会社ヲ新設スルコト
(ロ) 土地建物ヲ中心トシ観光事業ヲ付随シタル不動産会社ヲ新設スルコト
(ハ) 斯クシテ残ル郵船会社ハ解散ノコト
ニ立案セルガ這回(こたび)モ此ノ線ニ副ウテ立案ノ事ト致シ度」

 状況の厳しさをふまえた2社分離案が最初の構想であった。しかし、再建整備計画の立案は急速に進んだわけではなかった。一方では、GHQの企業再建整備一般に対する方針が不明確であり、関連法規の整備が進まなかったという事情があり、また他方では、財界追放の波のなかで、寺井久信社長が退任し、さらに後任の市原社長も1ヵ月に満たずに辞任の余儀なきにいたるという首脳陣の大きな変動が生じたという事情があったためである。
 22年春にはGHQからの内示で、再建整備計画の認可基準は、会社を解散して第二会社を設立すること、適正規模としての保有船舶は全日本船腹の10%、運航船腹は全日本運航船腹の15%をそれぞれ超えないことなどであることが明らかになった。
 第2回の会社再建整備委員会は、翌22年4月18日に開催され、淺尾社長を委員長としてその下に再建整備調査室を設け、改めて整備計画の基本方針の検討が行なわれた。日本郵船解散にあたって、第二会社を海運1社とするか、海運1社・観光(ホテルないし土地建物)1社の2社とするかが最大の問題点であり、2社設立の場合の会社資産の分離方法も問題とされた。この年4月14日に独占禁止法が公布され、再建整備計画案は独占禁止法と抵触しないよう立案されなければならなくなった。
 第2回会社再建整備委員会で、淺尾社長は、「船会社自体ガ観光事業特ニ娯楽事業ヲ営ムコトハ、多角的経営トシテ独占禁止法ニ抵触スル危険性濃厚ナルモノアリト思ハル」と発言し、1社案の採用の困難を指摘した。対日占領政策の一環であった財閥解体・独占禁止政策が、次第に具体化され対象範囲が拡大されるとともに、企業再建整備措置は独占禁止政策の一部という性質を帯びてきたのである。
 GHQ彌や海運総局との接触がはかられ、非公式な意向の打診が行なわれた後に、22年5月1日の第4回会社再建整備委員会では2社設立案が採択された。そして、GHQが全制限会社に対して整備計画の骨子の提出を求める気配が察知されたので、急遽、6月2日に、”Outline of Plan for Reorganization of Nippon Yusen Kaisha”(日本郵船株式会社改組計画大綱、22年5月31日付)をGHQ経済科学局ハントラスト・カルテル課財閥係に提出した。その骨子は、日本文テキストによると次のとおりであった。

 

日本郵船株式会社改組計画大綱
一 旧態ノ脱皮

  1. 株式会社的性格ノ払拭
    総価額約二億円ニ及ンダ弊社ノ全持株ハ持株会社整理委員会ノ指図ニ従ヒ現ニ同委員会ヘノ移管ヲ完了シタ。従ツテ子会社ハ完全ニ分離セラレ曾テ資本金ノ約二倍ニ及ンダ持株会社トシテノ実体ハ役職員兼任ノ面ヲモ併セテ玆ニ完全ナル解消ヲ見タ。
  2. 追放関係
    追放該当者及ソノ惧アルモノハ総テ退任シタ。

二 日本郵船株式会社解体ノ方針

  1. 日本郵船株式会社ハ之ヲ解体シ第二会社トシテ左ノ二会社ヲ設立スル
     a.海運業ヲ主体トスル会社(仮称A会社)
     b.観光事業ヲ主体トスル土地建物会社(仮称B会社)
  2. (略)
  3. (略)
  4. (略)
  5. 第二会社株式ノ配分

    1. 株式ノ配分ハ総テ持株会社整理委員会ノ指示ニ基イテ之ヲナスモノデアルガ我等ノ希望ハ従業員約二五%、旧株主約五〇%、公開約二五%(旧債権者等ノ縁故者ヲ優先サセル)ノ割合トシ一人ノ所有株数ハ一〇〇〇株(五〇、〇〇〇円)ヲ限度トシテ経営ノ民主化ヲ図リタイ。
    2. (略)
  6. 従業員ハ完全雇傭ヲ建前トシソノ希望ヲ斟酌シAB両社並ニ旧会社ニ夫々配置スル。
  7. (略)

三 新会社ノ構想
A会社

  1. 事業目的
     a.海運業及之ニ関連シ必要ナル港運業、倉庫業、代理業、仲立業
     b.前号ニ掲ゲル事業ニ付帯スル事業
  2. 資本金額
    四五、〇〇〇千円 一株五〇円 全額払込済九〇〇千株
  3. 資産内容(船舶30隻、小蒸気船、倉庫等不動産ほか―詳細略)
  4. 社名
    従来ノ社名ハ廃止シ全然新シイ社名ヲ採用スル。(以下略)

B会社

  1. 事業目的
     a.不動産ノ所有、貸借、売買及ビ管理
     b.ホテル其他ノ観光並ニ旅行ニ関係スル事業
     c.前各号ニ関係スル事業
  2. 資本金額
    一〇、〇〇〇千円 一株五〇円 全額払込済二〇〇千株
  3. 資産内容(丸ノ内郵船ビルほか建物、土地―詳細略)
  4. 社名
    社名ノ選定ニ関シテハA会社ニ同ジク従業員ヨリ募集決定スル。
  5. B会社設立ノ理由
    過去ニ於ケル船客業務ノ経験ヲ生カシ且又郵船ビル始メ縮小セル規模ノA会社トシテ最早必要不可欠トセザル建物ヲ利用シ、ホテル及観光事業ノ経営ヲ其主要事業目的トシタ。併セテ清算中ノ旧会社及ビA会社タル船会社ニ吸収シ得ザル従業員ヲ収容シテ完全雇傭ノ実現ヲ企図シタ。我々ハB会社ノ設立ガ必ズヤ国際親善ニ明朗ナル役割ヲ果スデアラウコトヲ信ズル。

 

 海運会社と観光不動産会社の2社設立計画は、日本郵船の残存資産を効率的に保持し、従業員の雇用機会を確保しながら、経済民主化の要請に応える苦心の企業計画であった。
 会社再建整備委員会は、新会社の社名を社内で公募し、22年7月中旬までに、A会社社名として日本汽船株式会社Nippon Kisen Kabushiki Kaisha―N.K.K.(Japan Steamship Company Ltd.)、B会社社名として日本観光興業株式会社Nippon Kanko Kogyo Kabushiki Kaisha(Japan Tourist & Real Estates Co.――J.T.R.E.)を採ることに決定し、GHQに報告した。社名は、ローマ字頭字がNYKとなるものは許されないこととなっていたほか、日本汽船は日本郵船の社旗とファンネルマークを使用することは許されず、新会社の社旗とファンネルマークは、青藍(Cerulean blue)の地色に深紅色(Crimson lake)の2種類とする予定となっていた。

改組計画案(1社案)
 この改組計画大綱に対して、GHQ反トラスト・カルテル課財閥係は、昭和22年(1947)7月26日に、口頭で次のような厳しい指示を行なった。(1)30隻の船舶を運航するA会社の設立は承認するが、その倉庫保有は船腹に見合う最小限度にとどめ、必要以上の倉庫は売却すること、(2)観光事業経営のB会社の設立は承認できない、B会社所属予定の資産は全部処分すること。GHQの係官フォーレイ(M.E.Foley)は、B会社設立不許可の際には失職者が生ずるという日本郵船側の指摘に対しては、日本経済に失職者吸収の余地があると答え、B会社所属予定の郵船ビル売却はA会社の事務所喪失をもたらすとの抗議に対しても、郵船会社は郵船ビルを全面的に使用していたのではないとの理由で売却を強く求めた。A会社に30隻、12万総トンの船舶保有を許すのが最大限に寛大な措置であると暗に示す空気であったと伝えられる。
 淺尾社長は、直接にGHQ反トラスト・カルテル課長ウェルシュ(E.C.Welsh)と会食したが、ウェルシュ課長は、海運会社は海運業に専念すべしとの原則を掲げて観光不動産業B社の設立は認めない旨を強調した。改組計画の大幅な変更は避けられなくなった。
 会社再建整備委員会を中心に改組計画の修正案が作成され、22年8月16日GHQに次のような趣旨の修正計画が提出された。

 

  1. A会社(日本汽船)の内容
    1. 資本金 5500万円(資産処分後にA会社に出資しうる流動資産金額が未確定であるために暫定的に資本金を仮定)
    2. 船舶30隻(12万1783総トン)に建造中の続行船2隻、小型貨客船5隻(1万4864総トン)を追加、小蒸気船31隻(1030総トン)
    3. 不動産 土地―2万6910坪、建物―1万79坪(倉庫1907坪を含む)
  2. B会社は設立せず、B会社所属予定資産は、一部をA会社所属とするほか売却処分する。郵船ビルは、旧勘定所属として、売却処分する。

 

 B会社設立を中止し、A会社の倉庫を当初計画の約5分の1に削減し、郵船ビルも処分するという厳しい改組計画であった。GHQからは、22年9月にこの修正計画を原則的に承認する旨の通知があった。
 改組計画の基本線についてGHQの承認が得られたので、再建整備計画の作成に着手した日本郵船は、22年12月16日、26日の2日にわたって特別管理人会を開いて、債務弁済計画案の検討を行なった。興業銀行代表から改組計画が船会社1社建てとなったので、第二会社を設立せずに、単純な新旧勘定併合を申請してはどうかとの意見が出されたが、日本郵船側は、「運輸省方面ノ打診ニ依リ調査セル結果ニ従ヘバ、我社ノ解体ハ必ズシモ持株会社乃至集中排除法ニ依ル指定会社タルノ性格ニ由来スルモノニハ非ザルモ、海運界ニ於テ占メタル一種戦犯的ナル地位ニ基キテ、大阪商船、三井船舶、三菱汽船、川崎汽船、山下汽船ト共ニ其ノ解体ハ必至ト見ラレアル」と会社解散、第二会社設立が不可避である事情を説明した。22年7月に三井物産と三菱商事が徹底的な解体を指示された事例が、日本側に強烈な衝撃となり、きわめて慎重な対応を各社がとっていた時期であったから、日本郵船の改組計画が資産処分の条件付であれ、GHQに承認されたことは事業の存続が認められた点で喜ぶべき成果であり、それ以上を求めることはGHQの心証を悪くするとの配慮が働いていたようである。
 これと関連して日本郵船側は、第二会社の株式を旧会社株主に割り当てる際に、その一部は無償にしたいとの提案を行なった。しかし、債権者側は一般論からして無償譲渡は債権者侵害であり、日本郵船が資産超過で実質的な債権者侵害にならないとしても、それが前例となって他の事例に悪い影響を及ぼすとして強くこれに反対した。株主擁護のための無償譲渡案は、結局、債権者側の反対で原案から削除され、第二会社株式は全額有償で旧会社株主に割り当てることとなった。

集排法による再編成計画案
 昭和22年(1947)12月18日の過度経済力集中排除法公布は、企業再建整備に新しい局面をもたらした。同法による指定企業は、再建整備計画の提出前に、持株会社整理委員会による再編成計画の審査を受けねばならず、その再編成計画の内容については厳しい経済力排除の施策が要求された。日本郵船の場合には、すでにGHQとの折衝のなかで、第二会社設立、郵船ビル・倉庫等処分の厳しい改組計画を覚悟していたから、再編成計画の内容がさらに厳しくなることは危惧されなかったが、再建整備の遅延、制限会社指定解除の遅延が予想される点が懸念された。
 しかし、日本郵船は集中排除法に関しては、アメリカ本国の反対がある点など、その実施が先行き緩和されるかもしれぬとの見通しをもっていた。23年1月12日の第19回会社再建整備委員会ではこの見通しに基づき、日本郵船が指定予定会社であることを前提に、「先ズ再編成計画ヨリモ整備計画ニ重点ヲ置キツツ事務ヲ進ムルコトトシ、若シ将来同法関係ニ於テ有利ナル条件発生セル場合ニハ、其レニ応ジテ整備計画ニ適宜ノ変更ヲ加ヘ行ク」との方針を決めた。
 23年2月8日に、予期したとおり日本郵船は、過度経済力集中排除法による指定会社とされ、再編成計画の作成に入ったが、占領政策の微妙な変化によって一度は否定された郵船ビル中心の第二会社(建物会社)設立構想が復活されるかもしれぬとの期待のうえに、GHQ反トラスト・カルテル課財閥係のシャイアー(H.H.Scheier)と折衝した。2月24日にはシャイアーの態度は否定的であったが、3月4日には建物会社設立を消極的ながら肯定する態度を示した。そこで、日本郵船は、急遽、第二会社2社設立の再編成計画を作成し、3月8日に持株会社整理委員会に提出した。2社案の主な内容は次のとおりである。

 

1. 海運会社(日本汽船株式会社)

  • 【資本金】 7000万円
  • 【船 舶】 航洋船30隻12万1783総トン。他に建造中の小型船5隻9000総トン。
          小蒸気船31隻1030総トン
  • 【土 地】 3万9067坪
  • 【建 物】 1万1476坪

2. 建物会社(京浜建物株式会社)

  • 【資本金】 600万円
  • 【土 地】 3455坪
  • 【建 物】 1万540坪(郵船ビル、横浜支店ビル)

 

 23年3月下旬にドレーパー陸軍次官とジョンストン使節団が来日し、占領政策の変化がいっそう強く感じられるにいたったので、日本郵船は海運会社(日本汽船)に出資する倉庫を増加させる新方針を決めた。そして、4月8日と12日に提出した「再編成の基準」、「再編成計画の要綱」には、売却予定であった倉庫のうち2996坪をその付属建物および土地(2614坪)とともに海運会社(日本汽船)に出資することにした。これは、日本郵船の所有倉庫の半分を第二会社に出資して温存する計画であった。
 23年5月に集中排除審査委員会が来日してから、集中排除政策は大幅な緩和の方向に向かい、9月には「4原則」が発表された。そして、12月17日に、日本郵政は集中排除法による指定を解除された。ここに、日本郵政は集中排除法に束縛されることなく、再建整備計画を立てることができるようになったのである。

再建整備計画
 集中排除法の指定取消し後1ヵ月以内に再建整備計画を提出する規定となっていたので、日本郵船は新しい状況下に計画の検討を行なった。ここで問題となったのは、日本郵船を存続させるか、あるいは新たに第二会社を設立するかであった。すでに、昭和23年(1948)9月以降、集中排除政策の転換が明確となったので、郵船ビル等の所有・経営を建物会社として海運会社から分離することは不必要になったと判断されていたから、郵船ビルも所有する海運会社1社として、旧会社のまま存続か、第二会社を新設するかが検討されたのである。
 第二会社設立の最大の利点は、特別損失をひとまず棚上げできることであったが、日本郵船の場合には、23年11月には、特別損失が零となる見通しが確実になっていた。22年6月末に約7878万円であった日本郵船の特別損失は、旧勘定所属資産(船舶)を売却予定価額で再評価することで、23年4月には約6660万円に縮小していた。そして、23年11月には、最初零と計算していた東亜海運清算分配金が、その全額(4108万円)支払われることが判明したので、特別損失は大幅に減少し、翌24年1月に予定された増資の手取金の一部で旧債務を弁済し、特別損失を零とすることが容易になったのである。
 23年12月30日の第33回会社再建整備委員会では、設立経費が節約できることから会社存続のほうが有利であり、制限会社令の緩和改正で第二会社設立による制限会社規制からの離脱の必要性が薄らいだために、第二会社設立の利点は、存外債務の請求を阻却しうるであろう点に限られてきたことが確認された。そして、24年1月28日の第34回会社再建整備委員会では、存外債務の取扱いについて政府は、第二会社にも債務負担を負わせる案または政府が存外債務を補償する案のいずれをとるものとの情報が報告され、さらに日本郵船の存外債務は係争中の事件の解決が最悪の場合を想定しても約605万円にとどまると推定された結果、第二会社設立は、存外債務の面でも根拠が薄いと判定され、会社存続の方針が決定された。そして、存続の場合の会社の商号は、運輸省海運総局との事前折衝で了解を得られたので、変更することなく日本郵船そのままと決定し、本店所在地も、接収中ではあるが郵船ビル(千代田区)とした。
 24年2月26日に、日本郵船は特別管理人会の承認を得た再建整備計画(24年1月17日付)を日本銀行経由大蔵大臣および運輸大臣に提出した。24年3月10日に再建整備委員会幹事会を通過した日本郵船の再建整備計画は、大蔵省、持株会社整理委員会を経てGHQに提出され、同年5月31日に正式に認可された。日本郵船は24年5月31日に新旧勘定を併合し、6月1日にその登記を完了した。新旧勘定併合日の貸借対照表は表(略)のとおりである。地所建物の内容は、土地5万3469坪、建物1万4279坪(建坪)であり、22年8月の改組計画(1社案)で予定された土地建物の大幅な処分案と比べて、日本郵船の国内資産は部分的な処分にとどめることができたわけである。結局、GHQの意向による再編成計画案に沿い、かつ日本郵船の財務上の必要から行なわれた国内資産処分は、旧勘定の船舶6隻、2万8113総トン、処分金額5150万円、新勘定の土地7777坪、建物3201坪、処分金額796万1860円で、23年3月から9月の間に実施された。
 再建整備計画の実行は、24年6月9日に完了し、同日、日本郵船は特別経理会社でなくなった。特別管理人も同日解任となり、社内の会社再建整備委員会と再建整備調査室も6月10日に解消した。

制限会社・持株会社指定の解除
 企業再建整備計画を正式認可された日本郵船は、昭和24年(1948)6月2日付の大蔵省告示によって同年5月17日にさかのぼって制限会社の指定を解除された。日本郵船の関係会社も、国内会社21社のうち解散した2社以外の19社は制限会社指定を解除された。なお、国外会社は8社のうち5社が接収され、2社が解散し第二会社を設立、1社が整理のうえ存続した。
 持株会社の指定は、持株会社整理委員会に譲渡した株式の処分が遅延したためにながびいて、ようやく26年3月20日に解除された。日本郵船保有株式の処分状況は表(略)のとおりであり、このほか興業債券150万円のうち61万円が処分され、残りが返還された。株式および債券の処分代金4570万円、配当金等104万円、合計4674万円から手数料その他諸経費733万円を控除した残額3941万円が、日本郵船が持株会社整理委員会に譲渡した株式・債権の対価として交付された。
 こうして、実質的には24年6月から、形式的には26年3月から、日本郵船は、占領政策に発する戦後の企業活動に関する諸規制から解放されたのである。

 

 ここまでで、日本郵船の「企業再建整備」の経緯については、終わり、次回は「船舶の再建」がどうなされたかを見ていくことにしたい。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー