HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-29 Vol.29 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-29
- VOL.29
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-29
わたしが立教大学に入学したのが1975年・昭和50年の4月のこと。その年の秋に大学の学園祭が行われた。立教の池袋キャンパスには有名なレンガ造りの本館(モリス館)があるが、前夜祭の夜に、そこに巨大なスクリーンがかけられ、ある映画が上映された。アメリカの学生運動をテーマにした映画『いちご白書』であった。
東京の、しかも有名な大学に入ったことの高揚感が最高潮に達していたのを記憶する。しかし、この、その名も「立教祭」は、この年が最後になってしまったのである。大学の学園祭は、学内のサークルの集合体である文化団体連合会(文連)が主催しているが、この頃には文連が過激派の中核派に完全にのっとられた状態で、大学当局が翌年からは、その中核派の文連が主催する学園祭に予算を出さないと決定。事実上、立教祭が開催できなくなってしまったのである。別組織が主催する形で、学園祭は行われたが「立教祭」という名前が使えず、「セント・ポールズ・フェスティバル」と、なんとも味気ない名前に変わって、今日まで続けられている。
われわれの「平沢貞通氏を救う会」になにかと協力をして下さっている部落解放同盟の安田聡さんだが、聞くと、彼は東京大学の出身であるが、わたしがいた時期の立教のキャンパスに頻繁に通っていたという。立教にも当時、共産同・赤軍派のメンバーがいたらしいが、さきほどの学園祭の話でもお分かりの通り学内は中核派に圧倒されていて、なんとか、それを打破して、赤軍派の支援をしようと、安田さんらシンパがしばしば立教の池袋キャンパスに足を運んでいたそうなのだ。
当初、立教大学で帝銀の弁護団会議が行われていた頃、道々、そんな昔話を安田氏から聞いたことがあった。その安田氏とは、再審請求人の平沢武彦氏をともに支援する仲間として、しばしば顔を合わせていた。うつ病を発症していた武彦氏は、何かのきっかけで突如として言葉で激しく相手を攻撃する。わたしに対しても、わたしが少しでも傲慢な態度を見せたり、不遜な発言をすると異常と思えるほどに怒りを爆発させた。
これは鮮明に記憶しているが、部落解放同盟がまだ、六本木にあった時代に会議室を借りて、平沢画伯の絵を写真撮影したときがあった。それが終わって、武彦氏、安田氏、そして、わたしの三人で六本木の居酒屋で飲んだことがあった。そのとき、何かの拍子で、わたしに向けて、武彦氏が怒りを爆発させたことがあった。
平沢画伯が戦時中、軍命で絵を描いていたことから、さも平沢画伯が怪しいみたいなことを、わたしが担当したTBSの番組で表現したことに対する怒りであった。これに関しては、わたしの本意ではなく、担当したディレクターの意図的な演出であることをこれまでも何度も説明して納得してもらっていたはずなのだが、そのときは、居酒屋のテーブル越しに激しく面罵された。
その模様を冷静に客観的に安田氏は横にいて、見ていた。しかし、その怒りはわたしに対してというより、いまの行き詰った再審請求のこと、そして、自分自身の疲弊した生活のことなどへのどこにも持って行き場のない怒りであることを、武彦氏自身も、また、永く支援している安田氏もわかっていて、ただ、その場が収まるのを安田氏も待つしかないといった態(てい)であった。
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など