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「日本郵船株式会社百年史」その1

COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その3

VOL.31
小川 真理生さん

ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第31回「日本郵船株式会社百年史」その3

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 今回は、日本郵船の占領期における経営方針を、「日本郵船百年史」の「第2節 再建期の経営方針」で見てゆこう。

 

1.経営方針
戦後への対応
 昭和20年(1945)8月15日、長い戦争の時代が終わり平和がよみがえったとき、日本郵船は戦争の傷痕深い惨憺たる姿を呈していた。残された船腹は、わずかに37隻、15万5469総トン。最盛期の16年9月末の133隻、86万5944総トンに比べて、総トン数は5分の1以下に縮小し、創業12年後の明治30年(1897)ごろの水準に後退してしまった。淺間丸以下の優秀高速船隊のうち沈没を免れたのは氷川丸ただ1隻、残存船隊の主力は6900総トンクラスの戦標船という質的にも劣悪な状態であった。船舶以外の資産に関しても、海外航路開拓とともに蓄積してきた在外資産はことごとく喪失し、日本国内の倉庫・事務所等も戦災を被ったものが多かった。
 戦後の時代への展望も定かでない昭和20年9月5日、日本郵船横浜支店は進駐してきた占領軍に接収され、さらに9月7日には丸ノ内郵船ビルディングの接収も決定、翌8日から慌ただしく事務所移転を行ない、同月15日に引渡しを完了した。中央区日本橋兜町1丁目7番地所在の南洋海運所有の建物が、本店仮事務所となった。
 寺井久信社長のもとで戦後再建への途が検討されたが、連合軍の対日占領政策の枠内では外航復帰の早期実現は困難であり、とりあえず内航に海運活動は限定されるであろうことが予測された。そして、戦時機構である船舶運営会による一元的船舶管理体制の解体、海運自衛の復活はほどなく実現されるとの見通しのもとに、準備を進めることとした。しかし、20年10月に日本商船管理局(SCAJAP)が設けられ、11月には船舶運営会が商船管理委員会(CMMC)としてSCAJAPの下部組織となり、翌21年1月にはGHQからSCAJAPの業務完了までCMMCはその機能を存続すべきこと、CMMCは政府の完全支配下におき、そのう役員は出身民間会社との関係を絶つべきことが指示されるにいたった。日本郵船副社長柳瀬省吾が新しい機構となった船舶運営会の理事長に21年1月15日に就任し、同月21日、日本郵船の役員を辞任した。船舶運営会による国家使用船の一元的運航は、当分の間、存続する情勢となったのである。
 日本郵船は、所有船を自主運運航することはできず、船舶運営会から低率な公定使用料を受け取る船主にすぎない状態におかれつづけた。他方では、戦時中に応召あるいは徴用された多数の社員が復員し、外地勤務社員が帰還してきた。就業機会と事業収入の増加を図るために、残存設備を活用した経営多角化も試みることとなった。後に社長となった淺尾新甫と兒玉忠康は当時事業部長として、郵船ビルディング地下室の印刷工場の施設を利用して大洋印刷産業株式会社(21年4月27日設立登記)を設立したり、神戸市蟹川の洗濯工場を利用して日本クリーニング株式会社(21年6月10日創立)を設立したほか、泰平水産会社や赤石木材工業会社に出資するなど奔走した。しかし、全社員の雇用維持は不可能な状況で、一部社員の減員も実施せざるをえなかった、
 21年4月に小型客船、6月および7月に機帆船の国家使用が解除され、それぞれSCAJAP管理下に海運企業の自営が認められるにいたった。21年夏の曳船を利用した横浜・三崎間の旅客輸送の試みは不成績に終わったが、同年7月の小型客船建造計画には積極的に参加することとした。日本郵船には、小樽・京浜間、小樽・新潟間に配船予定の2000総トン小型客船4隻をはじめ、10隻、1万3300総トンの建造が認められた。内航再開に備えて、21年6月には東京、函館、新潟に出張所を開設した。創業初期の国内航路中心の時期と同様な範囲に企業活動が制限されるとすれば、北海道、日本海沿岸諸港に地盤を確保することが不可欠との判断に基づく布石であった。しかし、戦後の経済的混乱は深刻で、政府の小型客船建造計画は容易に実現にはいたらず、いたずらに時が過ぎるうちに、日本郵船をめぐる状況は一段と厳しくなっていった。

再建への苦悩
 昭和20年(1945)9月末には、日本郵船は20年度後期の決算期を迎え、年6分の株主配当を予定したが、政府が戦争保険金、政府補償金、在外資産等を有する会社に対して決算延期または無配の暫定措置をとるよう指示したために、とりあえず決算を延期した。21年4月に会社配当等禁止制限令が公布され、特定の条件を満たさない限り配当は禁止されたので、日本郵船は5月の株主総会で、20年度後期は無配とする承認を得た。企業活動は、財務面でも制限されたのである。
 さらに、21年6月4日付で、日本郵船は制限会社に指定された。財閥解体政策の予備的措置として制定された制限会社令(20年11月24日公布)が21年3月16日の改正によって強化され、指定制限会社は、事業全部の譲渡または解散のみならず、資本金・定款の変更、利益配当、社債募集、動産・不動産・有価証券等の売却等による権利移転から、資金の借入れ、預金の払戻しにいたるまで、すべて大蔵大臣の許認可を必要とするという厳しい制約のもとにおかれるにいたった。日本郵船は、同時に制限会社に指定された関係会社・組合30企業とともに、財閥解体政策の網のなかに取り込まれ、企業活動の自由を失ったのである。
 21年6月4日付で日本郵船の従属会社・関係会社・組合として制限会社に指定された企業は下記のとおりである。

 郵船近海機船、日本近海汽船、共栄タンカー、岡田商船、正福汽船、山本汽船、日東海運、大阪海運、昭和運送、函館海運、広島海運、小樽港運作業、中国汽船、東九州造船、海潟造船、紀州造船、雲仙造船、徳島工業、日本合板船、関東食品工業、東京港船舶食糧品(以上国内関係)、南洋海運、東亜海運、朝鮮郵船、日支運輸、日東運輸、高雄港湾産業、高雄交通、台湾産業(以上国外関係)、港運出資組合

 制限会社として凍結された状態となった日本郵船の資産内容は、帳簿上はまだそれほど悪くはなかった。戦時喪失船に対する戦時保険金もしくは政府補償金は未収分を含めて約3億円で、戦後の船隊再建資金として予定されていたし、国債・株式等有価証券も約2億円を保有し、21年8月10日現在の資産総額は約6億3000万円となっていた。ところが、21年8月11日には戦時補償打切り方針が発表され、10月19日公布の戦時補償特別措置法によって戦時補償特別税が課せられることになった。日本郵船は、日本興業銀行の別段預金または特殊預金として所有していた戦時保険金、政府補償金の既収分とそれらの未収分および、使用船料、陸上戦時保険金、建物疎開補償金、御用船戦傷工事費、御用船残炭水代など、合計3億4627万円に対して、戦時補償特別税3億4617万円を納入しなければならなかった。戦後再建資金を一挙に失い、財務状態は極度に悪化するにいたった。
 戦時補償打切りにともなって、日本郵船は、会社経理応急措置法(21年8月15日公布)による特別経理会社となり、21年8月10日をもって事業年度を打ち切って損益計算を行ない、事業継続に必要な資産を新勘定に、その他の資産を旧勘定に属させる措置をとったうえで、企業再建整備法(21年10月19日公布)によって、特別損失の処理を行なうこととなった。
 財務基盤が大きく揺らぐ危機のなかで、経営陣にも非軍事化を目的とした占領政策の影響が及んできた。21年2月の公職追放令による公職追放措置(第1次)は、やがて財界人にまで対象を広げるにいたり、その一環として、寺井久信社長が該当者に指定されたため、21年11月15日に辞任を余儀なくされた。後任には副社長市原章則が就任したが、GHQの財界追放方針によって公職追放令が拡大改正される気運が濃厚となり、日本郵船の役員も指定されることが明らかになったので、公職追放令改正(22年1月)による第2次公職追放に先立って、21年12月10日に市原社長は退任することとなった。こうして、日本郵船再建の舵取りは、常務取締役から昇格した淺尾新甫社長に託されることとなった。
 21年12月20日に就任した淺尾社長は、新たな問題に直面した。同年12月7日に日本郵船は持株会社に指定されたのである。財閥解体政策の一環として、持株会社整理委員会令(21年4月20日公布)に基づいて、日本郵船は、国債、在外会社株式、未払込株式、出資証券等を除くすべての株式、その他の証券類を処分することとなった。22年1月から24年10月までの間に、日本郵船は、所有していた国内会社株式68社426万2440株(払込金額1億7637万円)のうち、65社424万1390株(払込金額1億7609万円)と興業債券150万円を持株会社整理委員会に管理證券として譲渡し、同委員会の処分に委ねた。戦後再建の財務的手段と目されていた有価証券の大部分が持株会社整理委員会勘定として、当分の間凍結されることとなり、財務基盤はいっそう悪化した。
 また、戦後の民主化の波のなかで活発となった労働運動への対応も、淺尾社長の直面した課題であった。すでに、20年10月に全海員を網羅した産業別単一組合である全日本海員組合が結成され、日本郵船の船員はそれに加盟していたが、22年2月には、日本郵船の陸上従業員が日本郵船従業員組合を結成した。淺尾社長は、22年4月に「社員諸君に告ぐ」との諭達を発し、「不幸にして祖国敗戦の結果、62年営々として築き上げた社礎は揺ぎ我社は今や生死の関頭に立っていろ。我等は我社の光輝ある歴史と伝統を死滅させてはならない。(中略)軽佻な時流に影響されず、飽く迄中正の態度を持し、社中一致協力社礎再建の為めに奮励されんことを切望して已まない」(4月12日「社報」)と、全社員に協力を呼びかけた。そして、22年10月からは、労働協約(同年9月締結)に基づいて、毎月1回経営協議会を開催し、労使協調して企業再建に取り組む体制を整えた。
 この間にも事態は急進し、22年春ごろから企業再建整備法による再建整備計画に経済力集中排除政策の影響が及びはじめ、単なる特別損失処理計画以上のものが、GHQから要求されるにいたった。すでに、21年秋ごろから危惧されていた日本郵船の存続そのものが困難となる事態がいよいよ切迫した現実となり、事業分離、社名変更の改組計画が立案された。さらに、23年2月8日には、過度経済力集中排除法(22年12月18日公布)による指定も受けた。GHQの占領政策の展開のなかで、日本郵船は嵐にまきこまれたような激動を経験したが、この詳細は頁を改めて本節2項「企業再建整備」で述べることとする。

自営再開への準備
 占領政策の嵐も、昭和23年(1948)夏ごろには鎮静に向かった。非軍事化から経済再建へと占領政策の基調が転換され、経済力集中排除政策も緩和されて、日本郵船は、社名もそのままに存続しうることが確定し、24年5月31日には再建整備計画の正式認可を受けた。23年秋以降、事実上、集排政策から解放された日本郵船の企業努力は、自営再開の準備に向けられたのである。
 23年3月には、変更された小型客船建造計画による舞子丸(1036総トン)が竣工し、神戸・今治・高浜間(まもなく起点を大阪に変更)に戦後最初の内航定期航路を開設し、ささやかながら自営への一歩を踏み出した日本郵船は、翌24年4月に予定された定期用船制度への切替え、さらにその後に予定される民営還元に対応する態勢づくりに本格的に取り組んだ。
 23年8月1日に設置された新会社設立準備委員会は、日本郵船は解散し、第二会社として日本汽船、京浜建物2社を設立するという再編成計画の具体化のための活動を開始したが、客観情勢の転換とともに、民営還元に対応する経営方針を策定する委員会として機能するにいたった。新会社設立準備委員会は、「当分沿岸及近海ノ『トランパー』的運営ニ重点ヲ置クガ将来遠洋ヲ含ム外国定期航路及『トランパー』業務ニモ進出ヲ企図スル」との運営基本方針を決め(23年8月25日「日本汽船会社機構等決定の前提条件に関する件」)、さらに、資産上の強靭性の喪失、優秀船隊の壊滅、人的要素の変化(人材の喪失、海運業経営経験の不足、船員の企業からの分離)など、戦前の日本郵船とは大いに異なった戦後状況を考慮したうえで、次のような5項目の業務運営の根本方針を作成した(23年11月19日「日本汽船業務運営方針並に刷新要領」)。

(一)企業性を徹底的に昻揚すること
 郵船は以前より所謂国策的会社として其企業性は屢々犠牲に供され、それが一種の社風とすらなり来ったが、特に戦争前後よりの海運の企業性の否定は一層其の傾向を助長した。新会社は、此の束縛より解放されると共に他面徹底的に企業性を昂揚しなければ其の存立すら困難なるべきことを銘記せねばならぬ。
 此の為具体的に左の方針を実施する。

  1. 営業面に於て最も徹底した採算第一主義を採用する。
  2. 直接営業担当部課のみならず其他の各部課、現地各店、本船に至るまで会社の業務運営を凡そ企業本位に集中統一する。
  3. (略)

(二)人事運営の刷新強化並に海陸の一体化を図ること
 日汽は郵船に於ける如く「組織」乃至「機構」に依存するよりも「能力」乃至「運用」に依存する処が甚だ大である。
 此のため左の二点の具体化を強力に推進する。

  1. 戦時以来数次の人員整理並に住宅関係等の為適正を欠きつつある各部店の人的構成を刷新する。
  2. 戦時中より会社と分離せられていた船員と陸員との融合を図り海陸の一体化を速に完成する。

(三)積極的、建設的なるべきこと
 郵船の保守的事勿れ主義を一擲して日汽に於ては凡て「新建設」を目標としなければならぬ。此の為に、

  1. 旧慣、前例に固執せず清新な構想を以て事務処理に当る。
  2. 営業面に於ては採算第一主義と共に将来の業務伸張を期し船隊の整備拡充と遠洋進出並に定期航路再建を図る。
  3. (略)

(四)能率的、機動的なるべきこと
 日汽は郵船の全世界に誇る大定期船網に反し、差当り国内の不定期船を主たる業務とするので其の運営には遥かに能率的並に機動性が要求せられる。(中略)

(五)労資関係の調整を図るべきこと
 海陸従業員を企業の重要な一環と認め、民主的な労資関係の樹立を図る。

 日本郵船の歴史的伝統を継承するのみでは戦後の厳しい状況に対応することはできないとの危機意識があふれる、新しい運営方針の提起であった。新会社設立準備委員会は、24年3月1日に業務刷新委員会に改組され、ひきつづいて新運営方針の具体策立案に努めた。
 24年3月17,18日には、定期用船方式への切替えを目前に、戦後初の支店長会議が開催された。淺尾社長は、経営方針の理念として前掲の5項目を提示し、定期用船方式への切替え後は月間約800万円の収支赤字が発生するとの見通しから、採算第一主義の徹底を強調した。会議では、船舶運営会からの船員復帰をひかえて、人事運営をめぐる問題も重点的に検討された。とくに、海陸一体化の緊要性が力説され、また、海陸員の再訓練の必要性も強調された。
 24年4月1日、定期用船切替えの日には、淺尾社長は示達を発して、再建郵船運営上の基本方針として前掲5項目を全社員に示した。定期用船切替えにともなって運転資金の必要量が大きくなったので、これに備えて日本郵船は、24年1月に臨時株主総会を開催して資本金を2億5000万円(当時資本金1億625万円)に増資する承認を得、3月15日に払込み、4月8日に登記を完了した。
 24年5月17日に日本郵船は制限会社の指定を解除され、さらに同月31日には新旧勘定を併合して企業再建整備を完了し、6月9日に特別経理会社指定も解除された。すでに前年23年12月17日には過度経済力集中排除法による指定も解除されており、持株会社指定は未解除(持株会社整理委員会に譲渡した証券の売却等処分が遅延したため解除日は26年3月20日となった)であったが、日本郵船はほぼ完全に企業活動の自由を回復し、定期用船切替え、そして民営還元にのぞむことができたのである。

航権回復の努力
 昭和24年(1949)3月の支店長会議で予想されたとおり、民営還元は2段階に分けて急速に進められた。それと同時に、予想されたよりも早く、日本船の外航就航も許可される状況となった。日本郵船が本格的な企業活動を展開する時期が、ようやく到来したのである。
 24年8月からの小型鋼船(800総トン未満)の民営還元に際し、すでに栗林商船等よりの用船を使用して内航運航を開始した日本郵船は、25年4月からの大型船の民営還元後、定期航路を含む国内航路を当面の活動基盤としながら、外航進出への機会を積極的に求めた。経営方針の基本線は、25年4月1日に淺尾社長が、「今や我々は従来の国営形態を離れ、国内的にも国際的にも、自由競争、優勝劣敗の舞台に置かれるに至ったのである。だが現在我国経済は漸くデフレ基調下の整理過程に直面して居り、海運界の大勢も今俄かに好転を期し難い状態にある。斯様な情勢下にあっては好むと好まざるとに拘らず、合理的な企業のみが耐え残り、不健全な企業は整理される。我々の歩まんとする苦難の道は実に秋霜烈日たるものあることを覚悟しなければならない」と全社員に覚悟を促し、企業性の徹底、海陸従業員の一体化、積極的建設的な業務運営、能率的機動的な事務処理、労使間の融和と企業の民主化の5項目の経営方針を再確認した。
 この経営方針を基礎としながら、第1に実現すべき課題は戦隊の充実であった。まず、自社船の充実が新船の建造と戦標船の改造の2方向から進められた。すでに戦後20年から23年にかけて戦標船の続行船5隻を船腹に加え、また23年には小型客船建造計画によって小型客船1隻と小型貨客船、貨物船4隻を新造していたが、計画造船の初期には、日本郵船は新船建造を見送っていた。集中排除政策の波にもまれていたためと、第4次計画造船までは、船型が5000総トン以下、速力12ノット以内に制限されていたためである。しかし、船型制限が緩和された第5次計画造船(24年度)以降は、毎回2隻の割当を受けて、第7次後期計画造船(26年度)までに8隻の新鋭船を建造した。また、25年には3隻のA型戦標船の改造を行なってA・B(American Bureau of Shipping)船級を取得し、26年にも3隻のA型戦標船改造を実施してフランスのB・V(Bureau Veritas)船級を取得した。
 新船建造、戦標船改造のために、25年3月には資本金を9億5000万円(24年11月に織田ビルディング所有者の織田興業を合併して資本金は2億5300万円となっていた)に増資し、26年には1月と4月の2回に分けて社債5億円を発行した。しかし、戦争と占領政策によって戦前からの蓄積を喪失して脆弱化した財務能力をもってしては、計画造船以外で新船を建造することは困難であったし、計画造船は総花的平等主義で1社当たり割当枠が各回2隻に限られていたから、自社船隊の再建は思うにまかせなかった。
 この状況では、戦前のような自社船中心主義をとることは不可能であり、船隊充実のためには用船への依存が不可欠となった。戦前から用船による不定期航路経営を得意としてきた海運企業の場合とは異なって、日本郵船は、船主との関係が必ずしも広くはなかったために、用船の確保には一段の苦心を要した。関係会社とは、その所有船を用船するばかりでなく、その新船建造にあたって資金の借入れその他について協力し、竣工のうえは日本郵船が用船するという提携関係を保った。また、日本郵船所有のA型戦標船を、船級取得改造工事完了後は用船することを条件に、5隻を関係会社に譲渡した。
 船隊の充実を進めると同時に、外航復活へ積極的な努力を払った。当初は、不定期船の配船のみが許可されたにとどまったが、やがて定期航路開設の可能性が感知されたので、日本郵船は25年4月から10月までに、第1次計画としてニューヨーク航路など9定期航路の開設を商船管理委員会を通じてGHQに申請した。そして、26年1月にバンコク航路が許可されたのをはじめとして、同年4月にインド・パキスタン航路、6月にニューヨーク航路、7月にシアトル航路、9月にカルカッタ航路、27年2月に欧州航路が、それぞれ許可された。
 航権回復の努力は、27年4月の講和条約発効時に、ニューヨーク航路など外航定期航路5線の運航を再開するまでの成果をあげたのである。

 

 ここまで、占領期における日本郵船の経営方針について見てきた。同社の「企業再建整備」がどうだったについては次回見ていく。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー