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「日本郵船株式会社百年史」その1

COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その2

VOL.30
小川 真理生さん

ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第30回「日本郵船株式会社百年史」その2

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 つづいて、今回は「日本郵船株式会社百年史」の第8章の第1節「2、日本海運の再建」を見ていきたい。

 

2.日本海運の再建
戦後の世界海運
 第2次世界大戦は、世界海運の姿を大きく変化させた。まず、大戦直前の昭和14年(1939)6月現在の国別船舶保有量と、大戦後の23年6月現在のそれとを比較すると、各国海運力の浮沈の激しさが読み取れる(表省略)。戦いに破れた日本、ドイツ、イタリアの3国の保有量の減少は当然であるが、とくに戦前世界第5位の海運国であったドイツ(西ドイツ)は、残存船舶を賠償として連合国に引き渡したために、壊滅的ともいえる衰退を示した。世界第3位であった日本も、賠償船引渡しは免れたものの世界船腹(総トン数)における構成比は、14年の8.2%から23年には1.3%と大幅に低下し、イタリアを下回る船腹量に減少した。戦勝国の側では、戦時の標準型船の大量建造の結果、アメリカがイギリスを抜いて世界第1位の船腹保有国となり、しかも、23年の世界船腹の3分の1を占めるという圧倒的な地位に立つにいたった。
 また、世界の海上貨物の動きも変化した。戦争で疲弊した諸国とは対照的に戦時中に生産力を拡大させたアメリカは、戦後の世界経済の再建過程において、巨大な基軸国としての役割を果たしたから、海上貨物の流れもまたアメリカを中心とする形となった。アジアでは、大きな市場であった中国が内戦と革命によって資本主義世界から切り離されたために、貨物の流れは大きく変わった。海上貨物の内容も、産業技術の変化に対応して、石油、鉄鉱石、原料用石炭の比重が増大し、繊維原料の比重は低下した。一方、タンカーの重要性が高まり、専用船が登場する条件が熟しはじめてきた。
 海運市況は、戦争終了後もおおむね堅調を示し、第1次大戦後のような市況暴落は生じなかった。アメリカの対外経済援助による復興物資の輸送需要が大きかったこと、アメリカが政府所有リバティー型船など戦時標準型船を予備船隊として係船したので船腹過剰の圧力が軽減されたこと、各国の戦時運賃統制が戦後もしばらくつづけられたことなどが、海運市況を支えた要因であった。それでも、22年後半期から市況は軟調となり、23年には、ヨーロッパ諸国の国際収支悪化による購買力低下、アメリカの対外援助物資に対するアメリカ船50%積取り適用、ポンド切下げ予想による貿易取引の手控えなど悪条件が加わり、24年9月のポンド等各国通貨の平価切下げ後も世界不況の様相がつづき、海運市況は低迷した。そこに25年6月に朝鮮動乱が勃発し、海上輸送は活発となった。26年にかけて市況は高騰し、いわゆる朝鮮動乱ブームが訪れた。しかし、26年7月に休戦会談が開始された後、27年にはブームは急速に沈静し、海運界は再び不況期を迎えた。

船隊再建と海運政策
 世界海運のこのような動向のなかで、日本海運は、占領政策の枠に規制されながら再建への途を歩んだ。船舶保有量は、表(省略)のように、昭和27年(1952)6月までに278万総トンの水準に回復した。戦時補償打切り措置で大打撃を被った海運企業の船隊再建には、海運政策の支援が不可欠であった。
 終戦時に建造中であった戦標船等122隻について、GHQは、21年4月以降、続行船として建造を許可し、また、7月には日本政府の要請した小型客船建造に内諾を与えた。しかし、戦後の混乱状態のつづくなかで、資材の欠乏、工員の不足に加えて、インフレーションによって急膨張する建造資金の調達がボトルネックとなった。政府は、22年1月に復興金融金庫を設立し、復金債発行によって調達した資金を重要産業の復興のために融資する体制をつくり、海運業もその対象とした。ここに船舶融資の途が開かれ、続行船と小型客船(中途で一部は貨物船に変更)の建造が促進された。続行船は、はじめ産業設備営団が取り扱ったが、同営団が閉鎖機関に指定されたので、政府は22年5月に船舶公団を設立し、続行船建造を継続することとした。建造費の半分を船舶公団が負担し、船舶を海運企業と船舶公団の共有する形で続行船を完成させ、公団持分は漸次船主に売り渡すという方式が採用された。
 内航輸送需要が逼迫するなかで貨物船新造の要請が高まり、一方、占領政策の基調変化のきざしもあらわれはじめたのを背景に、政府は新造船計画を立案してGHQの許可を得ることに成功した。船舶公団が建造費の70%(最大限度)まで負担した共有船を、復興金融金庫融資で建造する方式の計画造船が、22年8月から開始された。政府が計画建造量(船型、隻数)を発表し、建造希望者を公募し、そのなかから適格船主を選定し、さらに適格船主の入札によって自己調達資金額の多い順に新造船主を決定した。23年10月の第4次計画造船までで、……91隻、18万6429総トンが新造された。
 24年2月にジョゼフ・ドッジ公使が経済安定9原則の具体化の任務を帯びて来日しドッジ・ラインが実施されるなかで、復興金融金庫の活動は停止され、船舶公団も新規事業を停止し、計画造船は方式を変更することとなった。船舶公団との共有制は廃止され、24年4月に設置された対日援助見返資金特別会計からの財政資金の融資によって契約船価の50%(最大限度)までを借り入れ、残りを市中金融機関の協調融資等で調達して建造する方式となった。また、既述のとおり、GHQによる船型規制も解除される方向に向かったので、24年の第5次計画造船からはいよいよ外航就航船の建造が開始された。新方式の計画造船によって、24年から26年までに、貨物船112隻、油槽船13隻が建造され、結局、被占領期の計画造船建造量は、貨物船203隻、91万4800総トン、油槽船13隻、16万3000総トン、合計216隻、107万7800総トンとなった。この時期には、沈船引揚げと中古船輸入による船腹増加があり、国家資金に依存しない自己資金建造船も若干はあったが、船腹増加の中心は計画造船によるものであった。

民営還元と外航復活
 戦後も国家使用船の運航を行なった船舶運営会は、内航貨物、輸出入貨物の輸送をはじめ、アメリカからの貸与船を主として使用した帰還輸送も担当した。帰還輸送は、初期の旧陸海軍船舶によるものも含めて、昭和25年(1950)までに、約625万人(うち船舶運営会輸送約411万人)に及ぶ大事業であった。また、外国人の送還輸送も24年9月までに126万人(うち船舶運営会輸送約54万人)に及んだ。
 内航貨物輸送は、22年に入って船腹不足を感じさせる活況を呈したが、24年のドッジ・ライン実施以降、海上輸送量減退と新造船就航によって船腹過剰状態となった。不況下、民営還元延期を要望する声も聞かれるなかで、25年4月に8年にわたる海運の国家管理は終わりを告げ、民営還元が実施されたのである(800総トン未満の小型鋼船は24年8月に民営還元されていた)。
 政府は民営還元に際して、内航船に関しては、ひとまず係船補助金を支給する形で過剰船腹対策を実施した。そして、25年8月には低性能船舶買入法を制定して、戦標船や老齢船の買入れ・解撤による過剰船腹処理を実施しようとした。25年9月末の締切りまでに、売却申込みは、154隻、27万7000総トン(42万6000重量トン)に達した。ところが、25年6月に勃発した朝鮮動乱によって海運ブームが訪れたため、船腹は一転して不足状態となり、契約解除等が続出して、低性能船解撤は、政府案の215隻、40万総トン(60万重量トン)に対し、約3分の1の99隻、21万重量トンに縮小してしまった。また、大型船、中型船の国際船級取得のための大改造がさかんに行なわれ、外航船腹の拡張を助けた。国際船級保有船は、民営還元時には23隻、12万9000総トンにすぎなかったが、27年3月末には291隻、173万8000総トンに達した。
 ところで、日本船舶の外航運航は終戦直後は、帰還輸送を除いて厳しく制限されていた。20年10月1日に朝鮮向け石炭2000トンを積んで出航した貨物船が、戦後外航第1船であったが、その後23年夏ごろまでは、日本船の航行区域は、朝鮮、台湾、中国、樺太の近海区域に限定され、海洋区域に出ることは許されなかった。積荷となる輸出品は石炭、ピッチ、坑木、枕木等、輸入品は塩、燐鉱石、食品等が多く、船舶はアメリカから貸与されたC1型貨物船(3800総トン、速力12ノット)がしばしば利用された。
 23年8月5日には、遠洋航海第1船として、中東重油積取りの橋立丸(日東水産所属の捕鯨母船)が横浜を出帆した。世界的なタンカー船腹不足のなかで、日本が保有する外航油槽船7隻すべてを用いたペルシャ湾・日本間のシャトル・サービスが許可されたのである。つづいて、インド炭積取り第1船が23年12月に、タイ米積取り第1船が24年3月に、ビルマ米積取り第1船氷川丸(1万1622総トン)が24年9月に、それぞれ出航した。こうして、東洋各地との不定期貨物航路が再開されたが、運航は各船ごとにSCAJAPの許可を必要とした。また、日本籍船は港内停泊中のみ日章旗を掲揚し、航海中は国際信号旗“EASY”の変形旗を掲げ、アメリカ籍の日本人配乗船は、停泊、航海中とも国際信号旗“OPTION”の変形旗を掲げることと定められた。
 不定期船復活とともに、それまで日本の輸出入物資を輸送していた外国船との競合関係が生じたが、GHQは日本船の外航配船にあたっては、外国船の定期航路の寄港地揚げ雑貨の積取りは原則として許可せず、大口貨物についてはそのつど考慮する、また運賃は外国船と同率にするとの方針をとった。
 外航再開とともに、海運同盟への加入を合法化するために独占禁止法と事業者団体法の除外例を設ける特別立法が必要となり、24年6月1日に海上運送法が公布された。海上運送法は、定期航路開設を運輸大臣の免許制としたうえで、アメリカ商船法と同理念で、海運同盟についてはオープン・コンファレンスの立場をとった。
 民営還元後、25年8月には不定期船のアメリカほかアルゼンチン、インド、パキスタン等の諸港への包括的入出港許可が与えられ、さらにパナマ運河、スエズ運河の通航も許可され、日本船の行動範囲は拡大した。日本船の三国間輸送も、25年9月から許可された。こうして定期航路再開の条件が次第に整えられてきたので、航路開設申請がさかんとなり、25年11月10日現在で、延べ43社が13航路の開設を政府に申請するにいたった。そして、GHQは、25年11月27日に大阪商船の南米東岸定期航路の開設を許可し、日本の遠洋定期航路が再開された。その後、バンコク航路(26年1月30日開設許可)、インド・パキスタン航路(26年4月18日開設許可)、ニューヨーク航路(26年6月12日開設許可)、シアトル航路(26年7月31日開設許可)、ラングーン・カルカッタ航路(26年9月7日開設許可)、韓国航路(26年9月18日開設許可)、欧州航路(27年2月28日開設許可)と、定期航路が再開された。こうして講和条約発効までに、遠洋7線、近海2線(25年8月28日開設許可の沖縄航路を含む)の外航定期航路の開設が許可されたのである。
 外航復帰が、占領下でありながら、急速に可能となった要因の一つは、朝鮮動乱による海運ブームで国際的な船腹不足状態が生じたことであった。海運諸国の対日圧力が多少なりと減少したことが、日本海運に幸いしたのである。とはいえ、外航船保有がなお少なかった日本海運は、朝鮮動乱のブームを十分に活用しえたわけではなく、むしろブーム期の高船価船発注がブーム沈静後の不況期に重荷となる面があったのである。ともあれ、財務基盤に大きな弱点をかかえながら、日本海運は世界海運界に復帰することとなった。

戦後の労働問題
 船員は、昭和17年(1942)3月公布の戦時海運管理令、20年1月公布の船員動員令によって徴用され、船員業務は国家管理下におかれて船舶運営会により一元的に運営されたが、この状態が終戦後もつづいた。10月5日には、全日本海員組合が結成され、GHQの労働運動解放政策のもたらした高揚した雰囲気のなかで、船舶運営会を交渉相手とした活発な組合活動を展開したが、事実上は運輸省を交渉相手とせざるを得なかった場合が多かった。21年2月には船員中央労働委員会が設置され、労働争議の調整などを行なう体制が整えられた。
 22年4月1日に戦時立法であった船員動員令は失効となり、船員の身分が変化した際には、日本海運協会、船舶運営会、全日本海員組合の3者間で協定が結ばれ(22年3月31日)、船舶運営会は船員をひきつづき雇用すること、労働条件を変更しないこと、船舶運営会解散の場合は日本海運協会が全船員を受け入れることなどが合意された。この後、日本海運協会は解散することとなり、22年6月に日本船主協会が設立されてその後を継承した。
 22年9月には新船員法が公布され、1日8時間1週56時間制の労働時間、有給休暇、医師乗込み、定員などの基本的労働条件が保障された。
 24年4月から定期用船方式への切替えが行なわれ、船舶運営会所属の船員約4万人のうち、アメリカ船運航などの船員を残して約3万人が海運企業に移管された。船員は各海運企業と雇用契約を結ぶことになったが、全日本海員組合はそのまま存続し、日本にまれな産業別単一組合として、日本船主協会と団体交渉を行なうこととなった。日本船主協会は、各船主の委任によって労務事項を統一的に処理する権限を、設立当初から定款に規定していた。
 25年4月、民営還元実施の直後には、かねて日本船主協会と全日本海員組合との間で交渉中であった労働協約が、合意をみて調印された。協約は本文139条からなる膨大なもので、他産業に類をみない内容をもっていた。26年6月には職種別最低賃金制が、船員中央労働委員会の調停案に従って協定された。
 こうして、戦後の海運労働問題は、全日本海員組合という産業別単一組合と、船舶運営会、日本船主協会との統一交渉という他産業ではみられない方式によって処理されたのである。この間、21年9月と23年11月の2回にわたって停船ストライキが行なわれたが、定期用船方式切替え以後、講和条約発効にいたる期間には、大規模な争議行為の発生は回避された。

 

 今回は、ここまでである。他の業界とは違って、日本の海運業界が世界の海運界にどのように復帰したかを理解できただろうと思う。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー