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「日本郵船株式会社百年史」その1

COLUMN「日本郵船株式会社百年史」その1

VOL.29
小川 真理生さん

ここでは、「日本郵船株式会社百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第29回「日本郵船株式会社百年史」その1

article

 今回から、海運の雄・日本郵船株式会社の百年史を紐解いていく。その1として、「第8章 終戦後の企業再建」の「第1節 占領政策と日本海運」を引用しよう。

 

1.占領政策の枠
終戦と日本海運
 昭和20年(1945)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、翌15日の終戦の詔勅が発せられ、太平洋戦争は終結した。日本は、連合国の占領下におかれ、27年4月28日の講和条約発効の日まで主権は著しく制限された。戦争に動員され、多くの海員を犠牲にし、多くの船舶を失って大きな損害を被った日本海運は、再建への途を厳しい制約のなかで歩むことになった。
 占領軍が日本側から収集した資料によれば、20年9月1日現在で、日本政府管理下にあった100億トン以上の鋼製商船は、表(保有船879隻、147万8678総トンで、詳細略)のようであった。なお、船舶運営会の調査による終戦時のわが国の保有船腹は、表(省略)のとおりとなっている。
 これら残存船腹のうちには多数の就航不能船が含まれており、しかもそのほとんどは戦時中に粗製された戦時標準型船であったので、日本商船隊は壊滅したといっても過言ではない。
 一方、海運に対する需要面では、まず緊急なものとして、海外残留の旧軍人・民間人の引揚げ輸送が発生し、また、鉄道・自動車等陸上輸送力の減退にともなって、国内貨物の内航海運による輸送需要(海送転移)は大きくなっていた。さらに、日本経済の再建をはかるために必要な輸出入物資の輸送を担当するには、残存船腹では不足することは明白であり、日本海運の再建は、日本経済復興のための重要条件の一つであった。
 しかし、連合国の対日占領政策は、日本海運再建に厳しい枠をはめた。対日占領政策の基本線は日本の非軍事化であり、直接的な軍事力を解体させるばかりでなく、日本の政治、社会、経済、文化等の全分野にわたって、戦争遂行に関係した要因を排除する措置がとられた。しかし、占領初期の厳しい非軍事化政策は、東西両陣営間の冷戦が顕在化するとともに次第に緩和され、アメリカの関心は、西側陣営の一員としての日本の政治的安定と経済的自立に向けられた。このような占領政策の転換のなかで、日本の海運はさまざまな面から影響を受けた。船腹は潜在的軍事力とみなされて規制されたのはもちろん、海運企業も戦時補償打切り措置と財閥解体政策でたたかれ、海運経営者は公職追放措置で世代交替が進められた。海運の経営形態もしばらく国営状態がつづき、外航配船は厳しく制約され、また海運政策の選択の幅も狭められた。占領政策の転換とともに規制は緩められたとはいえ、日本商船隊の復活に対する海運諸国の警戒の目は厳しく、講和条約発効の日にいたるまで、日本海運には占領政策の枠がはめられていた。

占領初期の商船隊規制政策
 日本の商船保有の規制は、アメリカにおいて対日占領政策の検討が開始された当初から問題とされていた。たとえば、昭和18年(1943)7月の国務省文書「戦後日本の経済的考察」(Japanese Post-War Economic Considerations)のなかでは、降伏後の日本に許容すべき経済構造が検討され、海運業禁止の当否が問題とされている。この文書は、海運業禁止は日本の国際収支バランスの大幅な悪化を招くから好ましくないと結論しているが、アメリカ国内に海運規制の世論が存在したことは明らかである。太平洋戦争末期の20年春ごろまでの対日占領政策の検討のなかでは、全体として規制の緩い寛大な政策路線が主流となり、海運業規制も問題として取り上げられはしても、規制不要論が強かった。
 20年6月から、やがて「降伏後における米国の初期の対日政策」(U.S. Initial Post-Surrender Policy for Japan)として決定される政策文書の検討が開始されると、対日政策の基調は寛大な政策路線から強硬な政策路線へと変化し、日本経済の非軍事化計画は広範な内容のものとなっていった。日本敗戦後の8月31日に国務・陸軍・海軍3省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee、略称SWNCC)で決定され、9月6日にトルーマン大統領の裁決を受け9月22日発表された「降伏後における米国の初期の対日方針」では、非軍事化政策の一環として海運業規制が、「非軍事化目的の達成に必要なる範囲に日本国商船を制限すること」と明記されたのである。
 商船隊の規制政策は、二つの方向で具体化された。第1の方向は、賠償である。対日賠償問題を担当したエドウィン・ポーレーは、日本の産業設備を賠償として東アジア諸国に移転させることによって、日本の経済的非軍事化と東アジア諸国の経済成長の助走をはかるという基本方針のもとに、賠償案を作成した。20年12月18日にトルーマン大統領に提出した「日本からの賠償――即時実施計画」、いわゆるポーレー中間報告では、主要20造船所の全設備の撤去(賠償取立て)が提案された。その後、21年4月に国務省に提出され11月16日発表されたポーレー最終報告では、年間15万総トンの船舶建造能力を超える全造船施設にまで撤去対象が広げられ、さらに5000総トン以上の船舶114隻、86万9000総トンも賠償対象とされたうえに、日本に許容される海運力として、鋼船150万総トン以下、船型5000総トン以下、速力12ノット以下、航路は国内と近海という限界を設けることまで提案された。
 第2の方向は、産業的戦争能力削減政策と呼ばれたものである。21年5月からSWNCCに付議された「日本の産業的戦争能力の削減」(Reduction of Japanese Industrial War Potential)というタイトルをもつ政策文書(SWNCC302系列文書)は、占領期間中に日本の戦争能力を削減するためにとるべき措置を検討している。そこでは、兵器製造用機械・設備の破壊のほかに、第1次戦争産業、第2次戦争産業、戦争支持産業の生産能力の削減と規制が必要であるとされ、その具体的措置のなかに、5000総トン以上の商船建造設備のすべてを賠償撤去し、占領期間中はその再建を禁止すること、平和時需要を超える商船を賠償にあてることが提案されていた。このSWNCC302文書は、21年8月のSWNCC会合で採択され、アメリカ案として極東委員会に提案された。
 このように、ポーレー報告とSWNCC302文書の二つの方向から追求された商船隊の規制案は、ほぼ同等の内容で、きわめて厳しい政策路線に沿ったものであった。

商船隊規制政策の変化
 ポーレー中間報告はアメリカ案として極東委員会に提出され、それを土台として極東委員会中間賠償計画が昭和21年(1946)5月から12月までに逐次決定された。商船隊規制に関しては、年間15万総トンを超える船舶建造設備と300万総トンの商船隊の修理維持に必要な分を超える修理設備の全部を賠償撤去すると決定された。ただし、これは、日本商船隊を300万総トンまで許容することを意味するのではないと明記されていた。中間賠償計画の大枠が決定されたところまでで、極東委員会の賠償問題の審議は停滞してしまった。日本の在満工業設備をめぐってソ連とアメリカの主張が対立し、連合国内の賠償配分比率の決定が暗礁に乗り上げてしまったのである。
 すでに、連合国総司令部(General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、略称GHQ)は、約1年の占領経験のなかで、中間賠償計画を最終的賠償規模として確定し、その枠内で日本の生産回復を促進することが望ましいと判断しており、21年12月にマッカサー元帥の名でその旨を本国政府に要望した。アメリカ陸軍省は、22年1月にクリフォード・ストライクを団長とする対日賠償特別調査団を日本に派遣した。ストライク団長は、2月にいわゆる第1次ストライク報告を提出したが、そこでは工業生産の許容水準を引き上げることが勧告され、その一例として商船隊の復活を可能とするように造船能力の制限を再検討することが提案されていた。
 陸軍省は、賠償計画の再検討と産業的戦争能力削減政策の修正とを政府に提案した。SWNCC302文書については、規制緩和の修正案を提出し、海運に関しては、3000排水トン以上、18ノット以上の船の建造を禁止し、保有量を300万総トンに制限するという考え方を示した。これらの陸軍省提案は、アメリカ政府内で合意を得るにはいたらなかったが、アメリカの対日占領政策の流れを大きく変える作用を及ぼした。
 22年3月のトルーマン大統領の反共演説(トルーマン・ドクトリン)、5月の対ギリシャ・トルコ援助法の成立、6月のマーシャル・プランの公表と、冷戦体制が形成されるなかで、アジアにおける日本の役割の見直しが必要となり、対日占領政策の立脚点が大きく変化した。
 陸軍省は、再びストライクを団長とする調査団を日本に派遣し、22年8月から約半年、賠償問題の調査にあたらせた。23年2月26日付で陸軍省に提出され3月9日に発表された報告書(第2次ストライク報告)は、A,Bの2部に分かれていた。A部は、22年4月にアメリカが極東委員会に提起した賠償案(中間賠償計画を修正して最終賠償計画とした案)に沿って撤去対象を個別に評価した報告で、海運関係では、15ノット以上6000総トン以上の船舶合計6万総トン、年間15万総トンを超える建造設備等が撤去対象として評価されていた。B部は、ストライク調査団独自の賠償案で、昭和5~9年の生活水準を28年までに回復させ、日本経済の自立化を達成するという観点から、賠償規模の大幅な縮小を勧告したものであった。そこでは、現有商船は賠償の対象とせず、400万総トンまで商船隊保有を許容すること、年間40万総トンまでの新船建造設備を認め、それを超える部分(約38.5万総トン新造設備)を賠償撤去することが提案されていた。
 さらに、23年3月には、ウィリアム・ドレーパー陸軍次官が、ケミカル・バンク・アンド・トラスト社会長のバーシー・ジョンストンを団長とする第一級の実業家使節団をともなって来日した。ジョンストンらは、翌4月26日に「日本と朝鮮の経済的地位と見通しに関する報告:その改善に要する方策」と題した報告書(ジョンストン報告)を陸軍省に提出、5月に発表されたが、賠償に関しては第2次ストライク報告のB部をいっそう緩和した内容の勧告を行った。そこでは、商船隊保有の制限を撤廃し、造船設備の撤去は年間16万2000総トン建造分にとどめることが提案されていた。

商船隊規制の撤廃
 第2次ストライク報告、ジョンストン報告は、極東委員会諸国の反発をひき起こし、アメリカ政府内でも国務省が難色を示したので、ただちにアメリカの新政策として採用されたわけではなかった。昭和23年(1948)10月に国家安全保障会議(National Security Council、略称NSC)で決定されて大統領が承認した「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2文書)は、日本経済の復興と安定を最重要視し、戦後諸改革の実施をこれ以上強制しないという方針を打ち出し、占領政策の転換を決定づけたものであった。NSC13/2文書は、賠償については未決定としていたが、日本経済の安定のための諸政策、つまり12月に経済安定9原則としてマッカーサー最高司令官に指令された諸政策の実施のためには、賠償計画の大幅緩和が必要となったことは明らかであった。そして、24年5月には賠償方針を記したNSC13/3文書が採択され、極東委員会でアメリカ代表フランク・マッコイが、中間賠償の取立て中止声明を発表した。先に極東委員会の賠償審議が停滞した後、アメリカは22年4月に極東委員会中間賠償計画の30%相当分を前渡金として関係諸国が取り立てる方針をマッカーサーに指令し、撤去作業が実施されていたが、この前渡金の線で賠償を打ち切るというのがアメリカの新しい方針であった。
 産業的戦争能力削減政策についても見直しが進められ、24年10月には、国防省中心に、海運・造船を含めて日本の平和産業には何ら規制も加えず、民間航空機の製造も一部許容するという方針が立案された。先のSWNCC302文書は極東委員会で24年10月まで有効との期限つきで正式採択されていたが、この期限後は新しい決定はなされず、産業的戦争能力削減政策もアメリカ政府のレベルでは放棄されたといってよかろう。こうして、賠償計画と戦争能力削減政策の二つの方向から追求された日本の商船保有の規制政策は、24年で事実上終焉したのである。
 このようなアメリカ政府の日本商船隊規制政策の変遷のなかで、政策実施を担当したGHQも、新造船管理方針を変化させた。占領初期の厳しい規制政策時代には、続行船(終戦時に建造中であった戦標船等)と小型貨客船の新造しか認めなかったが、第1次ストライク報告が提出され、政策基調に変化がみえはじめた22年には、後に述べる計画造船の採用を認めた。第1次計画造船(22年9月、12月GHQ許可)では2000総トン型までであったが、第2次計画造船(23年6月許可)からは5000総トン未満、速力12ノット未満の船舶の新造が認められた。24年度の第5次計画造船では、それまでの船型等の規制が緩和されることとなり、8000総トン級2隻を含む6000総トン以上の外航用大型貨物船と1万2000総トン(1万8000重量トン)級の油槽船の建造が許可され、25年度の第6次計画造船からは、船型・速力に関する制限は廃止されたのである。

海運企業の編成替え
 商船隊規制を含んだ産業的戦争能力削減政策と賠償政策は、経済的非軍事化政策の主要な柱であったが、これと並んで第3の主柱となったのが、財閥解体・集中排除政策であった。財閥解体も対日占領政策立案の初期から課題とされ、「降伏後における米国の初期の対日方針」のなかでは、「日本の商工業の大部分を支配してきた産業的・金融的大コンビネーションの解体」が指令されていた。GHQは占領後ただちに財閥解体の具体化に着手し、三井・三菱・住友・安田4財閥の解体計画を作成して本国政府の承認を求めた。これに対して国務省は、4財閥本社の解体にとどまらず、より広範に企業間の結合を解体する方向を指示した。そして、昭和20年(1945)11月6日に覚書「持株会社解体の件」(SCAPIN244)が出され、日本政府に4財閥解体のほかに、企業間の株式保有・重役兼任関係の廃絶、独占禁止法の制定などが指令された。ここで、海運企業も、財閥解体政策の対象となったのである。
 20年11月24日に財閥解体の準備措置として、、会社の解散の制限等に関する勅令(制限会社令)が公布され、資本金500万円以上の会社と大蔵大臣の指定する会社は制限会社となり、事業譲渡・解散、資本金変更、配当、社債発行、資産処分等は大蔵大臣の許可を要するものとされた。海運関連企業としては、日本郵船、三菱汽船をはじめ、大阪商船、三井船舶、山下汽船、栗林商船、東洋汽船、日本製鉄の9社とその従属会社、関係会社が制限会社に指定された。さらに21年4月20日に、持株会社整理員会令が公布され、持株会社に指定された会社は、持株会社整理委員会を通じて、所有する証券等を処分すること等が強制された。日本郵船をはじめ、大阪商船、山下汽船、三井船舶、新日本汽船の5社が、持株会社に指定され、証券の処分、兼任重役制の廃止を実行した。
 海運企業は、財閥系企業の場合には、財閥本社との資本的人的関係が切断され、またそれ自身の傘下にあった子会社との関係も断たれ、それぞれ単一の企業として編成替えされたのである。しかし、非軍事化政策の影響は、これにとどまらなかった。戦時補償の打切りが実施されたのである。GHQは、20年11月に、インフレーション抑制と「戦争はもうからないことをしめす」ために戦時利得の没収を日本政府に指示した。この一環としての戦時補償の打切りについては、日本政府は強く抵抗したが、結局21年10月19日に、戦時補償特別措置法を公布して、戦時補償特別税徴収の形で補償打切りを実施せざるをえなくなった。海運会社は、喪失船の戦時保険金や政府補償金を日本興業銀行の別段預金、特殊預金(代船建造船価支払い以外には払戻し不要)として所有していたが、その金額が戦時補償特別税として徴収された。その他御用船料等を含めて、海運企業は、85社合計で24億4972万円(『日本海運戦後助成史』による)にのぼる戦時補償の打切りという大打撃を被ったのである。戦時補償打切り措置は、海運企業から戦後の船隊再建に充当すべき資金を剥奪すると同時に、企業間格差を著しく縮小させる結果をもたらした。
 打撃を受けた各企業は、会社整理応急措置法(21年8月15日公布)による特別経理会社となり、企業再建整備法(21年10月19日公布)によって特別損失を整理し、企業再建を行うこととなった。ところが、事態はさらに進み、企業再建整備に経済力集中排除政策の影響が及びはじめた。
 21年1月に来日したコーウィン・エドワーズを団長とする日本財閥に関する調査団は、3月に報告書(エドワーズ報告)を提出し広範な経済力集中排除政策を勧告した。国務省は、エドワーズ報告書を基礎に、22年4月までに「日本の過度経済力集中に関する米国の政策」(Statement of U.S. Policy with Respect to Excessive Concentration of Economic Power in Japan, SWNCC 302/ 2文書)を作成し、5月に極東委員会に提案した。これがFEC230文書で、財閥解体政策をさらに徹底させて、大企業そのものを厳しく独占体と認定して企業分割・事業分割による経済力集中排除をはかろうとする政策提起であった。
 22年春ごろから、GHQは、企業が再建整備計画を立てる際に、新しい集中排除政策の線に沿うよう非公式な指導を始めた。そして、22年7月には経済力集中排除法の制定を日本政府に内示した。政府はそれを拒みきれず、10月に衆議院に法案を提出、曲折のすえ12月18日に過度経済力集中排除法が公布された。23年2月8日には、日本郵船、大阪商船、山下汽船、三井船舶、大洋興業、明治海運、東洋海運、日本海運、新日本汽船の海運9社も、集中排除法の指定を受けた。すでに集中排除政策に沿った再建整備計画を検討中であった各企業は、改めて集中排除法による再編成計画を持株会社整理委員会に提出し、その審査を経た後に企業再建整備法上の再建整備計画を提出することになった。
 しかし、集中排除法は、その制定過程でアメリカ政府の反対を押し切ってGHQが立法を強行したという経緯があり、対日占領政策の再検討が行われはじめた時期にあたって、厳格に実施される可能性は当初から乏しかった。そして、23年5月にはロイ・キャンベルを委員長とする集中排除審査委員会が来日して、集中排除法の適用緩和を進め、はじめ325社にのぼった対象企業を最終的には18社に縮小した。海運9社も23年12月に指定を取り消された。
 倉庫・土地など海運関係不動産の別会社化や処分など、いっそう深刻な再編成を覚悟した海運企業も、結局そこまでにはいたらず、企業間の資本的人的結合関係を解体したところまでの再編成を実施したにとどまった。とはいえ、集中排除政策は、海運企業に無用の重荷を負わせ、再建整備を大幅に遅延させたのである。

船舶運航の管理
 船舶保有の規制と並んで船舶の運航も占領軍は厳しく規制した。昭和20年(1945)8月24日午後6時以降、100総トン以上のすべての日本船舶は、現に航行中の航海のほかは移動が禁止された。青森・函館間、宇野・高松間の鉄道連絡船のみは白十字標識を付した就航が許されたが、他は各港湾に釘付けとなった。そして、9月2日の降伏文書調印後、9月3日に発せられたGHQ一般命令第2号によって、100総トン以上の日本船舶は、連合国最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers, 略称SCAP)の管理下におかれ、アメリカ太平洋艦隊(後の極東艦隊)最高司令官の指揮監督に服することとなった。はじめは、連合国最高司令官艦隊連絡部(Fleet Liaison Office for SCAP,略称FLEETLOSCAP)が日本船舶の運行管理にあたったが、10月10日には日本商船管理局(Naval Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine, 略称SCAJAP)が新設されて、日本艦船の運航、処分、改造、修繕などいっさいを管理することとなった。
 占領軍の管理下に日本船舶の航行は再開されたが、日本側の運航管理体制は錯雑していた。敗戦直後に海運総監部と船舶司令部が廃止され、運輸省海運総局と船舶運営会が運航事務を管理することとなったが、旧陸海軍の発言権も残り配船計画の策定は利害対立がからんでしばしば難航する有様であった。このため、GHQは、11月9日の覚書SCAPIN256で、日本商船の一括管理を行う商船管理委員会( Civilian Merchant Marine Committee, 略称CMMC)の設置を指令した。日本政府は船舶運営会をCMMCとして機能させることを提案し、GHQは11月23日にこれを承認、戦時海運監理令(17年3月公布)による船舶運営会がSCAJAPのもとではCMMCと称され、日本側の一元的運航管理者となった。
 100総トン以上の日本船舶にはSCAJAP番号がつけられ、SCAJAPの管理下に運航されることになった。当初は、進駐軍物資、輸出入物資に関してはGHQが、国内物資に関しては日本側が輸送計画を立てていたが、22年5月にGHQに民間輸送局(Civil Transportation Section, 略称CTS)が新設されてからは、国内物資を含めてすべての海上輸送物資について、CTSが総合的輸送計画を立て、SCAJAPが配船を担当する体制となった。
 ところで、船舶運営会は、戦時海運管理令によって国家使用船となった民間所有船を政府から貸し下げられ一元的運航を行う海運国家管理機関であったから、占領政策の本筋からすれば、戦時動員機関としてただちに解体されるべき性格のものであった。それを存続させCMMCとして利用したことについては、GHQ編集の『日本占領民政史』は、「国家管理の継続は、複雑な状況に対処する唯一の現実的方法であり、それは民営移行にともなう多くの問題について検討する時間的余裕を与えてくれた」と記述している(GHQ/SCAP、History of Nonmilitary Actvities of the Occupation of Japan.,Vol XVII Water Transportation, p.14)。海運が、賠償、産業的戦争能力削減、財閥解体・集中排除などの占領政策と深く関係する一方、海上輸送需要は著しく膨張しているという状況が、GHQに船舶運営会の存続を選ばせたのであろう。こうして、しばらくは海運国家管理がつづき、海運企業は、所有船舶を裸用船に出して貸船料(使用料)を受け取る船主という立場におかれていた。
 海運国家管理が望ましいと思ってはいなかったGHQは、21年5月ごろから民営還元の検討を開始し、22年には段階的な統制撤廃(phased decontrol)の計画を作成した。しかし、再開された中国内戦における国民政府軍の劣勢というアジア情勢、集中排除政策の不確定な動向などから、ただちに実施には移されなかった。
 占領政策の基調変化が明らかになった後の23年9月2日に、GHQは、覚書SCAPIN1931 で、裸用船方式を定期用船方式に切り替えることを指示した。これによって、24年4月1日から、船舶の補給・修理、船員の配乗の事務は船主に返還された。つづいて、24年8月5日の覚書SCAPIN1931/1によって、800総トン未満の鋼船が民営に切り替えられることになり、161隻、7万4054総トンの船舶が、8月27日以降順次船主に返還され民営還元への第一歩が踏み出された(なお、小型客船は21年4月、機帆船は同年6月からそれぞれ民営に移行していた)。また、24年10月以降は、国内物資の海上輸送がCTSの輸送計画から外されて自由化された。
 そして、25年4月1日からは、3月4日の覚書SCAPIN2086に基づいて、800総トン以上の鋼船の民営還元が実施された。船舶運営会による定期用船制度は廃止され、601隻、138万5310総トンの船舶が船主に返還されて、内航外航とも海運企業自身の手で運航される自営体制が復活したのである。船舶運営会は、5月1日から名称を商船管理委員会(CMMC)と改め、帰還輸送、貸与アメリカ船の運航、外航配船の管理などにあたることになった。その後、商船管理委員会は27年3月末に解散し、貸与船の運航のために米船運航株式会社(資本金5000万円)が設立され、4月1日から開業した。
 こうして海運国家管理体制は解体されたが、もちろん日本船舶は、なおSCAJAPの管理下におかれていた。内航運航はおおむね日本側の自由に委ねられたが、外航運航については、各航海ごとあるいは各航路ごとにGHQの許可を得なければならなかった。講和条約成立前の段階では、日本船はなお敵性国船と扱われる可能性があったから、安全のためにはSCAJAPの管理下にある船として運航されることは必要であったし、入港許可など外交的折衝もGHQに委ねるしかなかった。GHQは、関係海運諸国の意向を配慮しながら、後に述べるように、日本船の外航運航を徐々に許可していったが、外航復帰には多くの制約がつけられ、講和条約の発効の日にいたるまで海運業は活動の自由を束縛されたのである。

 

 今回はここまで。海運業界が、いかに占領期を乗り切っていったか、想像できるだろう。次回は、日本海運の再建の苦労話に思いをいたそう。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー