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COLUMN「東京海上八十年史」より
- VOL.27
- 小川 真理生さん
ここでは、「東京海上八十年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第27回「東京海上八十年史」より
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東京駅の丸の内中央口を出て、行幸通りを皇居に向かって歩くと、お濠沿いの日比谷通りにぶつかる。その「和田倉門」信号の手前左が郵船ビル、手前右が東京海上ビルであるが、その後者の建物に印された占領期について、「東京海上八十年史」であとづけてみよう。
その「第3章 終戦と占領政策」にはこう記録されている。
第1節 毎上ビルの接収と本店の移転
昭和20年(1945)8月15日の終戦とともに、日本本土の主要地点には相ついで連合軍が進駐したため、東京都心のビルディングは次々に接収され、海上ビル新旧館も9月10日に米軍に接収された。この結果海上ビルは当初中央終戦連絡事務局、のちには特別調達庁との賃貸契約によって管理されたが、当社は維持管理員として20余名の当社社員を新旧両館にそれぞれ派遣した。そして新館はFar Eastern Air Forcesの本部に、旧館は占領軍のHeadquarters & Service Groupの“Old Kaijo Hotel”として婦人宿舎にあてられた。この接収は10年余に及び、旧館は昭和31年(1956)1月に、新館は同年7月に至ってようやく解除されたが、この間当社は業務上多くの支障を受けた。
海上ビルの立退命令は3日以内という短い期限付きのものであったため、とりあえず千代田区丸の内2丁目の八重洲ビルに移転したが、同ビルも間もなく接収されることとなった。そこで同年10月、さらに本店事務所を大田区入新井5丁目345番地所在の鉄骨鉄筋コンクリート造5階建の建物(延約9900平方メートル)に移した。このような再度のあわただしい移転による混乱のため、当社の貴重な資料が一部紛失したことはまことに遺憾であった。
当時この建物の所有者は株式会社鶴屋(資本金210000円、全額払込済)であったが、戦前は白木屋がその全株式を所有し、これを大森白木屋と称し百貨店を経営していた。その後日本光学工業が全株を譲受け、戦時中は同社が使用していた。当社は昭和20年11月、日本光学工業から鶴屋の株式全部を譲受け、この建物を大森東海ビルディングと名付けてここに本店機構を集中した。しかし当時は交通事情がきわめて悪かったため、本店営業機構のうち火災保険関係については丸之内営業所を、海上保険関係については駐在員を八重洲ビル内に残して営業上の連絡に当たらせた。さらに同年12月、八重洲ビルも接収されたため、これら営業連絡所もやむなく大森に集結することとなった。その後21年7月、千代田区丸の内3丁目8番地三菱仲六号館別館1棟を借用して丸の内分室を開設し、営業各部、損害査定および経理の一部を移して、戦後再建の一拠点とした。なお火災部門についてはその際東京支店(22年8月、火災東京営業部と改称)として独立の機構が設けられた。
一方当社は21年5月、大森東海ビルディングの所有者である前記鶴屋の社名を東海興業株式会社と改称して、このビルの運営などに当たった(注:当社は社員を同社に出向させて、種々の業務を行なうこととし、まず伊豆方面で製塩業を初め、また喫茶店「プルミエ」も経営した)。しかし、同年11月、証券保有制限令により当社は同社全歩式の処分を要することとなったため、東海ビルの建物、敷地の帳簿価額とほぼ同額である東海興業に対する貸付金を相殺して、大森東海ビルディングを当社名義に変更することとした。しかしこの措置をとるには資金調整法と制限会社令の許可を要し、かつ帳簿上の取得価額が時価に比し、いちじるしく低廉であったため、この許可を得ることはきわめて困難であったが、23年1月、ようやく大蔵省の認可を受けて名義変更を完了することができた。そして東海興業の株式は同社の従業員に譲渡するとともに、その経営は当社の手を離れた。
第2節 財閥解体と制限会社の指定
1 公職追放
総司令部の初期対日政策はあらゆる方面にわたって徹底的に行なわれたが、経済面については強硬な措置がとられた。その施策の一つは戦時中の活動に対して「好ましからざる人物」を排除することで、これに該当するとみられるものを重要な地位から退職させ、また新たにこれに就任することも禁止するという一連の公職追放政策であった。
これよりさき、当社においては20年(1945)3月に退任した鈴木取締役会長に代わり、21年3月に至って取締役社長亀山俊蔵が会長に、常務取締役谷井一作が社長に就任し、戦後経営の難局に対処することとなった。また亀山会長は同年4月、日本損害保険協会の復活に当たり、同会々長にも就任した。
その後同年5月20日、まず取締役岩崎恒弥が後述のような財閥家族の関係会社成員に対する政府の措置に従い役員を退任した。さらに総司令部が公職追放に関する該当者覚書の範囲を拡大したのに従い、同年11月21日、政府が公表した「政治的および経済的重要地位に対する追放覚書適用の件」によって、当社役員の地位が公職の取扱を受け、戦時中当社の取締役会長、取締役社長、常務取締役、常任監査役であった者が公職から追放されることとなった。これにより当社の現職役員で追放該当者と予想される取締役鈴木祥枝、取締役会長亀山俊蔵、取締役社長谷井一作、常務取締役塩谷友厚、取締役和田収蔵の5名は同年12月31日に、監査役堀内泰吉は12月14日にそれぞれ退任した(注;公職に関する就職の禁止、退職等に関する勅令は22年1月4日施行された)。また該当者ではないが取締役八巻連三も12月31日をもって退任した。このように一時に多数の役員を失ったことは、当社の経営上まことに遺憾であった。この追放により22年1月6日、常務取締役田中徳次郎が社長に就任し、当社の役員陣は一変した。また田中社長は23年5月、日本損害保険協会が任意団体から社団法人に改組されるに伴い、同協会の会長にも就任した。
これらの該当者はいずれも旧3社時代から永年会社の発展に献身的な努力を払い、またわが国損害保険業界に残した功績がまことに大きかったことは今さらいうまでもない。その後公職追放令により退任を余儀なくされた上記6名は25年10月13日、岩崎恒弥は26年6月20日、幸いにしてそれぞれ追放を解除された。つぎにこれら退職役員の経歴の概要を掲げておこう。
亀山俊蔵は明治41年(1910)三菱合資会社に入社後、同社の保険課勤務となった。その後大正8年(1919)、三菱海上が設立されるとともに同社に転じ、昭和4年(1929)10月、旧東京海上常務取締役に、また同7年7月、三菱海上常務取締役にも選任された。昭和14年(1939)7月、各務会長の逝去に伴う職制変更により、三菱海上取締役社長に就任し、同時に明治火災取締役を兼任した。同19年3月、3社合併とともに当社取締役社長に、さらに前記のとおり同21年3月、取締役会長に就任し、同時に新たに設立された日本損害保険協会初代会長に推された。
八巻連三は明治40年(1907)、三菱合資会社に入社、その後昭和4年(1929)4月、旧東京海上取締役に、同年10月、常務取締役に選任され、また同10年4月には明治火災常務取締役にも就任した。さらに同14年7月、各務会長の逝去に伴い明治火災取締役社長に就任し、同時に三菱海上取締役を兼任した。昭和19年3月、3社合併に当たり当社取締役に選任された。
谷井一作は明治44年(1911)、三菱合資会社に入社、その後大正8年(1919)、三菱海上が設立されるに当たり同社勤務となったが、昭和10年(1935)2月に至り旧東京海上に転じた。そして同12年4月、同社取締役に、また同14年7月、常務取締役に選任され、同時に明治火災監査役にも就任した。昭和19年3月、3社合併に当たり当社常務取締役に、さらに前記のとおり同21年3月、取締役社長に就任した。
塩谷友厚は大正6年(1917)、三菱合資会社に入社、同8年に三菱海上が設立されるとともに同社勤務となり、昭和10年(1935)4月、旧東京海上に転じた。昭和19年3月、3社合併により当社常任監査役に就任し、その後昭和21年3月、常務取締役に選任された。
(以下、省略)
2 財閥解体
つぎに総司令部の初期対日経済政策は、日本経済の中核として産業金融の主要部分を支配してきた大結合体を破壊するといういわゆる財閥解体政策であった。総司令部は昭和20年(1945)11月、三井、三菱、住友、安田の4大財閥の解体を指令し、さらに浅野、古河、日産、大倉、野村、中島などの財閥解体を指令した。その解体措置の大要は ①財閥の本拠である持株会社はその所有するいっさいの証券およびすべての商社、法人、その他の企業に対して有するいっさいの所有権、管理、利権の証ひょうなどを持株会社整理委員会に移管し、これによって解体すること ②各持株会社の移管財産に対する支払は10年間換価譲渡を禁じられた政府公債をもって行なわれること ③財閥家族も所有有価証券を処分するほか、成員はその事業に占める現職から引退すること ④財閥家族の同族および財閥会社の役員であった者はその財閥系統会社への役員就任を10年間禁止すること ⑤各財閥は翼下会社に対する指令権または管理権の行使を停止することなどであった。
そして総司令部はこれらの施策については、直接命令の形をとらず、日本政府に指示して、その諸機関に実行させる方法をとった。このため政府は21年8月、持株会社整理委員会を設け、これら財閥の所有する株式を引取り、その株式を公開市場において処分し、または財閥の使用人に直接分配所有させる措置を講じた。そこで政府はその実施に着手したが、これは実行困難であるのみでなく、このような巨大な株式を受けいれる市場はわが国には存在しなかった。その後財閥解体の実施は米国占領政策の微妙な変化もあってしだいに弱められた。すなわち当初財閥の支配会社として解散を予想されていた会社は解体を免れ、結局財閥本社のみ解体されることとなった。したがって現業部門を有する準持株会社は原則として存続を許され、株式のみを処分したが、このうち三井物産と三菱商事は特別に解散させられた。また財閥の最有力機構であった銀行は除外され、たんに銀行がもっていた財閥の名称のみを削られるにとどまった。これは銀行の多くの預金者が財閥以外の大衆であったことがその大きな理由の一つであった。
三菱本社はこの財閥解体指令もあって、昭和20年11月1日、株主総会において解散の決議を行なうとともに、岩崎小弥太社長以下役員全員が退任した。なお当時岩崎社長は病気のため入院中であったが、ついに同年12月2日、逝去した。同社長は大正5年(1916)、三菱の最高経営者として三菱合資社長に就任後、同6~9年、相ついで分系会社を独立させて三菱造船、三菱商事、三菱鉱業、三菱製鉄などの取締役会長に就任した。さらに昭和12年、三菱合資を改組して株式会社三菱社(昭和18年に三菱本社と改称)を設立し、引続き社長の要職にあった。その間大正8年、三菱海上創立後昭和8年まで取締役会長または取締役としてその育成と進展に努力し、また昭和4年以来旧東京海上の取締役に引続き在任した。昭和19年3月、3社合併による新会社設立に当たり取締役に就任したが、20年11月、財閥解体の占領政策に対処して辞任した。
3 独占禁止法
財閥解体は上述のように占領軍が予期した成果をあげることができなかったため、政府は昭和22年7月、「私的独占の禁止および公正取引の確保に関する法律」(独禁法)を施行することとなった。独禁法は私的経済統制を排除して公正取引を促進しようとする恒久的立法で、これを実現するための基本的な規制として、①私的独占の禁止、②不当な取引制限の禁止、③不公正な競争方法の禁止の三つに重点をおいた。また補完的規定により持株会社の設立、株式および社債の保有、役員の兼任、合併および営業の譲渡などのいわゆる企業合同についても、きわめて厳格な制限を行なうこととした。さらに不当な取引制限を補完的に予防する規定として、①共同行為の画一的な禁止、②統制団体の設立禁止が決められたほか、23年7月には事業者団体法が制定され、事業者団体に許される活動範囲と禁止行為が明示された。そして独禁法の実施機関としては総理大臣の所管に属する公正取引委員会が設けられ、同法実施のためきわめて強力な行政権限が与えられた。
独禁法は原則としてすべての企業に適用されたが、運輸、電気、ガス、保険事業のように公共的な性格が強く、かつ政府の直接監督下にある産業に対しては同法の適用除外が認められた。したがって損害保険事業については保険業法第11条の規定が削除され、統制協定の廃止と料率統制の禁止が行なわれたが、これに代わって23年7月、損害保険料率算出団体法が制定され、同年11月、公正妥当な料率算出機関として損害保険料率算定会が発足した。このように独禁法の施行は保険業法の改正、事業者団体としての料率算定会の設立、これにつづく保険募集取締法の制定などの素因となった。また事業者団体法に違反するものとして、損害保険会社15社が株式総数の69%を保有する東亜火災海上再保険会社についてはその株式処分が行なわれた。一方損害保険会社においては金融機関の株式保有、役員兼任に関する制限規定が適用され、当社は旧3社以来の関係会社または提携会社の持株全部を処分することとなった。
その後独禁法はわが国経済の復興が軌道に乗り、資本の充実が必要となったため、証券保有制限令の緩和を中心として24年6月に改正され、さらに経済民主化法規の再検討により、逐次改訂が行なわれた。この結果損害保険会社の事業会社に対する株式の保有は発行済株式の10%まで認められるようになった。
4 制限会社の指定
昭和20年12月、総司令部は財閥解体指令についで財閥関係会社の経済活動を制限する目的で、制限会社規制に関する覚書を日本政府に通告した。これに関する総司令部の覚書は ①手持現金および将来の入金は直ちに銀行に預入れるものとし、通常業務遂行上必要な金額以上は凍結する ②土地、建物、有価証券などいっさいの資本的財産の処分を禁止する ③株式または持分の発行、増加、減少などを禁止する ④債券を発行しまたは通常業務遂行上必要な金額以上の借入金は禁止する ⑤配当を禁止する ⑥役員給与を昭和20年6月の額に固定し、定期的俸給以外の給与は認めないというきびしい内容のものであった。制限会社の禁止事項については、いちおう許可申請の途は開かれていたものの、許可基準が厳重であったため、当面必要な会社の復興に対しても応急的な措置しか行ない得なかった。
これにより当社は21年3月、制限会社の指定を受けたため、後述のように株式の処分などを行なったが、25年10月に至って指定を解除された。
5 集中排除法
昭和22年12月、前述の独占禁止法の施策をさらに前進させるため、過度経済力集中排除法が施行され、戦時中に合併しその規模が強大化した企業の分割が行なわれることとなった。この結果23年2月、第1次に鉱工業部門257社、第2次にサービス部門(陸運、商事、百貨店、倉庫など)68社が相ついで指定され、また第3次には金融部門(銀行、保険など)が指定の対象に予定された。これにより損害保険会社においても同法の適用をめぐって種々論議され、当社も一時は旧3社への分割復帰あるいは保険種目別または地域別などの分割構想をいちおう検討した。しかし当時早くも米ソ間の情勢は悪化の兆候があり、わが国経済を再建するためには企業を細分する政策は避けねばならないとする米本国筋の意向が強く反映して、指定された企業についても適当な弾力性をもった処理が行なわれることとなった。
これにより指定会社は大部分指定を解除され、その適用を受けた企業は電力10社を除いてはわずか18社にすぎず、このうち7社はたんなる保有株式の処分、あるいはそれに加えての特権または所有工場の一部の処分を指定されたのみで、現実に企業の分割を命じられたのは11社にすぎなかった。このうち三菱系会社としては、三菱重工業(東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業)、三菱鉱業(太平工業、三菱鉱業)、三菱製鋼(東京鋼材、長崎製鋼)、三菱化成工業(日本化成工業、旭硝子、新光レイヨン)の4社は企業の再建整備法による手続で、それぞれ解散または存続のまま分割して第二会社を設立した。
また金融機関については集中排除法による指定はすべて解除され、損害保険会社も当社をはじめ全面的にその指定を免れたが、銀行、信託各社は金融機関再建整備法により商号の変更を織込んで再建整備を実施した。三菱系会社のうちでは三菱信託が朝日信託銀行、三菱銀行が千代田銀行と改称した。一方集中排除法施行前に解散した三菱本社(陽和不動産、関東不動産-28年三菱地所に吸収合併)、三菱商事(光和実業)も企業再建整備法により第二会社を設立した。
さらに財閥再建防止のため、23年1月には財閥同族支配力排除法が施行され、財閥の同族および財閥会社役員であった者に対し、10年間その財閥系統会社への役員就任が禁止された。しかしこの法律は26年12月に廃止された。
6 証券保有制限令による持株の処分
当社は既述のように制限会社の指定を受け、不動産、有価証券などの譲渡または取得について、個々に大蔵大臣の許可を受けねばならぬこととなったため、資産の自主的な運用は事実上不可能となり、戦後経済の収拾に関し施行された諸法令に基づき、ひたすら資産の整理に終始する状態であった。
昭和21年(1946)11月25日、証券保有制限令が公布され、同一資本系統に属する会社の株式または従属会社(資本金の1/ 10以上の金額に当たる株式を保有する会社)の株式の保有は禁止され、持株会社整理委員会の認可を受けてこれらの株式を処分せねばならなかった。さらに企業再建整備法に規定する第二会社の株式の取得さえ禁止された。この結果当社は優良株式の多くを処分せざるをえなくなり、再建整備を完了した昭和23年(1948)3月末の株式総数2,700,760株、帳簿価額126,214,129円のうち、証券保有制限令により処分を要するものは下記(省略――三菱本社、三菱商事、三菱重工業、三菱銀行、三菱地所など22社分)のとおりであった。
なお証券保有制限令のほかに「連合国財産返還等に関する政令」および「連合国財産である株式の回復に関する政令」により元連合国人所有の株式で返還を要するものとして21,340株(名目価額8円)があった。これら処分を要する株式、解散会社の株式および返還を要する株式を合計すると、その総数は2,057,065株(帳簿価額96,217,654円)となり、この数字は所有総株比で76.17%(総額比76.23%)を占めていた。
以下、第3節「インフレーションの進行」が続き、「占領軍の初期における管理政策の基調はわが国の戦争遂行能力の破壊と民主化の推進」とにおかれ、「インフレーションの悪性化を阻止する強力な支柱は存在しなかった」として、「インフレーションの進行」について論じている。それらの点は省略して、ここで「東京海上八十年史」の紹介は終わりにしたい。
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー