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電通

COLUMN「電通」その3

VOL.21
小川 真理生さん

ここでは、「電通」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第21回 「電通」その3

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 今回は「電通一〇〇年史」の「第三編 飛躍の軌跡」の第五章を見てゆく。

第五章 民放時代の開幕と新聞界の自由競争の復活
●朝鮮動乱と日本経済
 戦争で壊滅的打撃を受けた経済基盤の再建は容易でなく、その上衰えを見せぬ悪性インフレの高進する中で、敗戦後の日本経済は依然混迷の中であえぎ続けていた。この日本経済に転機をもたらしたのがドッジ・プランと呼ばれた米国の対日緊急経済復興政策であった。一九四九年(昭和24)二月、来日したドッジ公使(デトロイト銀行頭取)は、呻吟を続ける日本経済に荒療治を加えた。それは四九年度予算の超均衡予算化と金融引き締めの実施であった。
 これによって経済再建のガンであったさしものインフレも一転して収束し始めた。しかし、反面、ドッジ・プランのデフレ効果は深刻で、企業倒産や失業が急増し、“ドッジ旋風”と呼ばれた安定恐慌現象が全国に拡大した。
 これを一挙に覆したのが、朝鮮動乱とそれによる特需であった。
 五〇年六月二十五日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍が突如朝鮮半島の北緯三八度線を突破して韓国に南下したことに端を発した朝鮮動乱は、これに国連軍と中国軍が加わることで冷戦を背景とした米ソの代理戦争的様相を呈しながら、五三年七月板門店で休戦協定が調印されるまで約三年間続いた。
 この朝鮮動乱は、日本経済に対しては、思いがけないカンフル注射の役割を果たした。国連軍の緊急調達のための特需が日本に大量に発注され、特需ブームが巻き起こった。五〇年から五五年までの、広義の特需収入は、累計で三五・六㌦に達したとされるが、これを、敗戦後占領期間中の米国の対日援助額の累計一九・六億㌦と比べてみれば、朝鮮動乱特需がいかに大きかったかが分かる(有沢広巳監修『昭和経済史』日本経済新聞社、一九七六)。
 在庫は一掃され、生産は急上昇し、鉱工業生産指数は五〇年十月に戦前水準を突破し、実質国民総生産も五一年度に戦前水準を回復し、かくて戦後の経済復興は一挙に達成された。
 この過程で、五一年九月サンフランシスコで対日講和条約が調印されて五十二年四月二十八日から発動し、日本は、約七年間に及んだ占領から離脱し、ようやく独立した。

●民放ラジオの開局
 その朝鮮動乱の勃発と同じ月の一九五〇年(昭和25)六月一日に、既述のように、戦後の新しい放送体制を構築し、商業放送すなわち民間放送に道を開いた画期的な放送法(五月二日公布)が施行された。民間放送熱は一段と高まり、申請社数は周波数割当計画も何も決まっていないうちから、五〇年九月現在で七十二社、うち東京だけで二十八社に達していた。当時は無論まだラジオ時代であった。
 電通では、吉田が、これも既述したような事情から東京放送(民衆放送を改称)の開局準備を進めていた。吉田は東京放送を電通自らが主体的に経営することを考えていたのではなく、行きがかり上、しかし商業放送に電通の新しい未来があるとの確信から情熱を込めて、東京放送の立ち上げを推進した。
 ところで、五〇年夏ごろ、郵政省は、周波数事情から、東京地区の申請社中の朝日、毎日、読売の新聞社系三社の申請につき、一本化工作を働き掛けたが不調に終わった(前掲『民間放送史』)。吉田はかねてから、民間放送の財源である当時の日本の総広告費の規模から考えて、採算的には当分は一地区一社でやむを得ないとの考えを持っていたこともあって、この機をとらえて、新聞社系三社と東京放送の四社の一本化に乗り出し、財界の大立物原安三郎日本化薬社長を説得してまとめ役に引き出し、精力的にその具体化を進めた。十一月三十日には、四社から五人ずつの新社設立のための二十人委員会、および四社から一人ずつに原を加えたトップレベルの五人委員会を発足させた。五人委員会は、新社の初代社長に足立正元王子製紙社長を内定した。
 翌十二月一日、電波監理委員会が富安謙次委員長談話の形で、「東京には、さしあたり性格を異にするもの二局、他の地方は一地区一局ずつ免許する」という置局方針を初めて明らかにした。これは吉田の東京四社一本化構想と裏面で連動した動きであった。東京二局のうち一局は吉田の推進する四社統合の新社になることは確実となった。新社設立はこれによってさらに加速され、新社発起人(三十五人)に吉田が加わり、準備委員(十二人)に電通から金沢覚太郎、砂原宣雄、吉田稔が加わった。
 新社名は株式会社ラジオ東京、資本金一億五〇〇〇万円。五一年一月十日あらためて免許申請が行われ、五月十日には、株式会社ラジオ東京の創立総会が虎ノ門化学工業会館で開かれた。吉田は取締役に名を連ねた。
 東京のもう一局の有力候補としては、文化、宗教、教育およびその他の専門局のジャンルから文化放送協会(当初名称セントポール放送協会)、新国民放送協会などが申請していた。
 大阪地区でも、新聞社系の申請一本化工作が進められた。しかし、大阪では新聞社相互の対抗意識が強く、先発の毎日系の新日本放送と後発の朝日系の朝日放送が互いに一歩も譲らず難航した。吉田も西下して説得に力を貸したが、結局一本化は成らなかった。
 五一年四月二十一日、電波監理委員会は、東京地区はラジオ東京と文化放送、大阪地区は新日本放送と朝日放送、名古屋地区は中部日本放送など全国十四地区十六社に予備免許を交付した。大阪地区については結局、一地区一局の当初原則が崩され二局免許となった。七月二十日、これらの民放各社は、日本民間放送連盟(民放連)を組織した。このころから、日本では商業放送を民間放送(略称・民放)と呼ぶ呼称が定着した(『民間放送三十年史』日本民間放送連盟、一九八一)。
 九月一日、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送が開局し、歴史的な民間放送の時代がいよいよ開幕した。それは、同時に、日本の広告界に放送広告という新しい媒体広告の登場を告げた画期的な出来事であった。ラジオ東京の開局は、その年の十二月二十四日、クリスマス・イブの午後七時であった。
 民放ラジオ局の開局は、五一年六社六局、五二年十八社十九局、五三年三十二社四十一局と年を追って増え、他方、ラジオ広告費も、五一年三億円、五二年二二億円、五三年には四五億円と急上昇を遂げ、民放ラジオ時代、そして新しい放送広告の時代が確実に始まったことがだれの眼にも明らかとなった。

●民放テレビの開局
 戦後の広告界に、民放ラジオの登場以上に大きな変革と発展の契機をもたらしたものは、言うまでもなく民放テレビの登場であった。初の民放テレビ局日本テレビが開局したのは民放ラジオ登場から二年後の、一九五三年(昭和28)八月二十八日であった。
 ところで、先に、敗戦直後にラジオ民間放送熱が高まった際に、吉田秀雄電通常務取締役(当時)が中心になって設立し、四五年十二月一日に免許申請を行った民衆放送株式会社(後に東京放送)は、当初から民放ラジオだけでなく民放テレビをも将来計画のうちに持っていた。すなわち、同社の設立趣意書案には、ラジオ放送事業の記述に続けて、「近い機会に於ては『テレビジョン』『超短波』(注・FM)の放送をも実施し、耳目双方より叙上の目的を一層徹底せしめることを期す」(前掲『民間放送史』)とあり、敗戦直後のこの時期に民放テレビが視野に収められていたことは特筆すべき事実である。
 民放ラジオが登場した後、民放テレビの早期実現を加速したのは正力松太郎(読売新聞社社主)であった。
 五一年九月四日、日本工業倶楽部で発表された正力の民放テレビ構想は、資本金一〇億円の「日本テレヴィ放送(仮称)」を設立し、まず東京に、次いで大阪、名古屋にテレビ局を開設し、米国からの技術援助を得てマイクロウエーブ・ネットワークでこれらの局を結び放送を実施するというもので、NHKはもとより、開局したばかりの民放ラジオ関係者の間に大きな衝撃が走った。
 正力松太郎は、先の構想に基づいて、まず日本テレビ放送網株式会社を設立し、十月二日、いち早くテレビ放送局の免許申請を電波監理委員会に提出した。NHKも巻き返しに出て十月二十七日テレビ放送局免許申請を行い、翌五二年に入ると、ラジオ東京、中部日本放送などの民放ラジオ局も、兼営によるテレビ放送局の免許申請を行った。かくして、テレビ免許獲得へ向け激しいデッドヒートが演じられることになった。電波監理委員会は、同委員会が吉田茂内閣の行政機構簡素化の名目のもとに廃止になることが決まっていた最後の日、五二年七月三十一日の午後十二時ギリギリの時間に、日本テレビにだけ予備免許を与え、NHKとラジオ東京テレビは留保、ほかは拒否、ないし検討未了という決定を下して解散してしまった。
 その後、電波監理委員会の権限を継承した郵政省が、十二月二十六日にNHKに、翌五三年一月十六日にラジオ東京テレビに、それぞれテレビ予備免許を交付した。
 テレビの本放送は、結局NHKが先行し、五三年二月一日に開局して初のテレビ放送を開始した。その約半年後の八月二十八日、日本テレビが初の民放テレビ局として開局した。やや遅れて五五年四月一日、二番目の民放テレビ局ラジオ東京テレビが開局した。こうして民放テレビ時代の幕が華々しく上がった。

●民放時代の開幕と電通
 民放の始動期から、放送法の制定を経ていよいよ民放ラジオのスタートが本決まりとなり、そして開局にこぎ着けるまで、電通は民放時代開幕の強力な推進役を務めた。その先頭に立ったのは吉田であった。地方で民放ラジオ局の開局準備が進められる過程で、免許申請の手続きから、番組編成、番組制作技術、営業のノウハウに至るまで、吉田は支援を惜しまなかった。頼まれれば、出資協力もしたし、請われれば優秀な社員を手放して送り出した。自ら取締役、相談役などを引き受けて協力した社も少なくなかった。吉田が日本の民放事業開始の功労者といわれるのは、ある意味で当然であった。
 同時に、民放ラジオがたまたま朝鮮動乱による特需ブームで日本経済が上昇に転じたさなかに開局し、当初の危惧をはねのけて、一気に採算ベースに乗り、予想を上回るスピード成長を遂げたのは、率直にいって極めて幸運であったといえよう。
 民放ラジオ登場の二年後には早くも民放テレビが登場し、民放時代は一挙に民放テレビ時代に突入した。
 敗戦直後の一九四五年(昭和20)末に、民放ラジオ局「民衆放送」の設立申請の時点で、既に将来の民放テレビをも射程に入れていたほどの慧眼の吉田社長も、前述の正力の民放テレビ構想が公表された際には、テレビはまだ時期尚早で、民放ラジオの育成強化が先だと考えていたという(森崎実『忘れ得ぬ広告人―吉田秀雄の足跡』誠文堂新光社、一九六六)。
 しかし、吉田の変わり身は素早かった。日本テレビに予備免許が下りた翌月の五二年八月に、本社ラジオ局にテレビ部を、大阪支社にテレビ課をそれぞれ新設し、テレビ広告放送の開始に備えて準備を始動させている。十月には、大阪支社のテレビ課をテレビ部に引き上げ(大阪支社は十二月にラジオ局新設)、翌五三年二月には、本社および大阪支社のラジオ局をラジオテレビ局に改め、名古屋、九州、北海道の各支社のラジオ支配人をラジオテレビ支配人と改称している。
 この年一月には、木原通雄本社ラジオ局次長をアメリカに派遣し、アメリカの商業テレビの実状を視察させた。他方、社内で社員向けに民放テレビ教育を進めるとともに、広告主に対して、「テレビ・シリーズ」と題するテレビ広告放送に関する解説資料を作成配布している。そして民放テレビが開局した翌年の五四年七月には、広告電通賞にテレビ部門を追加開設している。
 ところで、日本テレビが開局した五三年八月時点のテレビ受信契約世帯数は、わずか三千に過ぎなかった。民放ラジオが、先行していたNHKのラジオ受信機が相当程度普及していた時に登場したのと違って、民放テレビはテレビ受像機の普及が微々たる時に登場し、広告効果をとても期待できないところから、採算的には厳しい条件の下でスタートした。しかし、日本テレビは、街頭テレビを通して大衆の関心を強く引き付けることに成功し、開局当初から予想を裏切る営業成績を上げ、開局七カ月目の五四年三月には早くも黒字に転じている(『大衆とともに25年<沿革史>』日本テレビ放送網、一九七八)。
 これには電通の協力も大きくあずかっていた。「日本テレビの五三年八月開局日の放送番組と、スポンサー、取り扱い広告代理業、放送料金等を示した記録」(省略)によれば、電通扱いの提供番組、スポットが大部分を占めていたことが分かる。
 その状況は大阪でも同様で、当時の日本テレビ大阪支社長佐野英夫は次のように語っている。


 TV(大阪テレビ、五六年十二月開局)ができるまで、大阪の広告代理店はテレビに関しておそろしく不熱心でしたね。ただ、例外は電通でした。その頃、毎朝、担当者が二人、局にやってきて打合せをやってましたからね。局の方も営業担当は二人だけで、合計四人のメンバーが手分けしてスポンサー獲得に動きまわりました。このため、以後の日本テレビの扱いは全部電通になっちゃいました。(渋谷重光『語りつぐ昭和広告証言史』宣伝会議、一九七八)

 テレビは、五五年以降の高度成長期に、全国における置局の進展と相まって爆発的に普及し、その過程で民放テレビも驚異的な発展を遂げるが、それは同時に電通の飛躍の決定的な契機となった。

●復活した新聞界の自由競争と新聞広告
 民放時代の開幕によって、民放ラジオ、そして民放テレビという新しい広告媒体の登場が広告界に旋風を巻き起こした一九五〇年代には、それと並行して、在来型の主力広告媒体である新聞にも大きな異変が生じた。新聞界における販売自由競争の復活がそれである。
 新聞界は、敗戦後も、極端に厳しい用紙不足から、戦時中に引き続いて、新聞用紙の割当統制制度のもとで、窮状を忍んできた。
 しかし、新聞用紙の生産は、一九四九年(昭和24)春ごろから、石炭、原木、パルプ事情等が好転して、ようやく上昇に転じた。また、統制外のセンカ紙と称された再生紙を巻取紙に加工して、通常の新聞巻取紙の代わりに利用することが可能となったため、四九年十一月から、センカ紙を利用して印刷した夕刊が次々に登場した。こうして、新聞用紙事情は急速に緩和され、五一年五月一日から、用紙配給割当および新聞販売価格(購読料)統制が全面的に撤廃されることになった。これによって、戦時中の三八年の新聞用紙供給制限の開始以来、実に十三年ぶりに新聞界に自由競争時代が復活した。
 日刊新聞の発行部数は、表(省略――発行部数1950年2万6848部から55年3万3952部へ)のように、統制が撤廃された五一年以降、急上昇を遂げた。新聞広告もまた、これを契機に新しい段階に突入した。五一年の統制撤廃時に四~六㌻だった新聞ページ数は、五三年夏ごろには、主要各紙は早くも朝刊八、夕刊四の十二㌻体制をとるに至っている。これは広告スペースの急増を意味した。その結果、広告スぺースの量の増大とその速度に、広告集稿が追い付けず、スペース供給過多の状況が一時的ながら出現したほどであった。(新聞広告スペース増大を示す表は省略)
 しかし、この時期は、折からの朝鮮動乱特需による景気の活況化による強い広告需要があり、この前後の新聞広告費の伸びは、五〇年一二〇億円、五一年一八〇億円(対前年比五〇%増)、五二年二七〇億円(同五〇%増)、五三年三二〇億円(同一八・五%増)という大幅な増加が記録されている(『電通広告年鑑』より)。

●新聞広告逓減料率制の提唱
 新聞用紙統制の撤廃による新聞界の自由競争の復活は、前述のような増ページに伴う新聞広告スペースの供給過多をもたらし、新聞広告市場は、売り手市場から買い手市場に転じたが、この過程で、広告取引や広告料金体系にも動揺が生じ、値引きや、戦前的な“持ち単価”制の復活など、電通がかねてから目指してきた近代的で合理的な広告取引に逆行する動きや、不良広告が目立ち始めた。
 この当時は、新聞広告料金については、戦後の料金自由化後も、用紙統制が引き続き実施されていたこともあって、各新聞社とも、基本的には単一料率制を原則としていた。しかし、統制撤廃後の新聞広告スペースの供給増大の過程では、単一料率制では大口の広告集稿は困難で、いきおい裏での値引きが広がり、新聞広告取引の乱脈化が懸念をもって指摘され始めた。
 これを憂慮した吉田社長は、「電通報―新聞・ラジオ・広告」の一九五二年(昭和27)一月一日号で、「逓減料率の提唱」と題する提言を掲げ、単一料率制でなく、「広告掲載量に従って割引率を増加するという逓減料率を公定し、それによって、現に行われつつある秘密取引の値引きを一掃することが目下の急務である」と力説した。
 逓減料率制は、一定の割引率に従って、大口契約広告料率を段階的に割り引くことを制度化し、広告取引の透明化を図るものである。この方法はアメリカの商業ラジオ広告の世界で早くから取り入れられていたもので、これを新聞広告にも適用すべきだというのが、吉田の提案であった。吉田の提案は、新聞広告関係者の間で大きな注目と支持を集めた。ただ、その実現には、なお、発行部数の公表など技術的な条件の克服が必要であった。それが可能となった六〇年ごろから、同年二月、朝日新聞社が初めて逓減料率制を採用した新聞広告料金改定を実施したのを皮切りに、新聞各社に広がっていった。

●新聞発行部数公開制度の推進
 新聞用紙の統制撤廃による販売自由化の復活に伴って加速されたものに、発行部数公開制度の確立への動きがあった。
 発行部数公開制度を求める声は、戦前から既に特に広告主団体等によって、広告料金設定の合理化要求として上がっていた。戦後発行部数公開制度問題が表面化したきっかけは、新聞広告料金の自由化に伴って、一九四七年(昭和22)十月、日本新聞協会広告専門部会が、発行部数公表による新聞広告料金算定基準の合理化に関する要望書を理事会に提出したことに始まる。
 しかし、その後は戦後インフレの高進が続く中で、一方で用紙割当統制によって販売部数拡張を抑制されている新聞は、いきおい広告料金の値上げによる収入増によって経営安定策を図るほかなく、しかもその値上げを繰り返すことに忙しく、発行部数公開制度を自ら推進する余裕はなかった。この問題の具体化に向けて積極的なリーダーシップをとったのは、ほかならぬ電通であった。
 五〇年四月、日本広告会は、電通の主張を入れて、新聞・雑誌発行部数公開問題を調査研究する広告調査委員会を内部に設置した。日本広告会は同委員会の結論を踏まえて、同年八月、日本新聞協会に対し、同協会の会員新聞社の発行部数内示(広告主の要請があれば個別に示す)の実施を申し入れた。翌五一年五月、用紙統制撤廃による新聞販売競争、すなわち販売拡張競争が復活するや、発行部数公開制度の確立を求める声は、広告界に一段と高まった。
 電通はこの過程で、発行部数公開制度確立論を終始積極的にリードした。中でも、五二年二月、元朝日新聞社業務局長で当時電通顧問の新田宇一郎を司会者として、朝日新聞社・永井大三、読売新聞社・務臺光雄、毎日新聞社・羽生能太郎の全国紙三社の営業局長、それに東京大学新聞研究所所長の千葉雄次郎教授、日本広告会事務局長・長澤千代造を加えて電通が開催した、発行部数公査機関の設置をテーマとした座談会(「電通週報―新聞・ラジオ・広告」一九五二年二月二十九日号、三月七日号)は、後の日本ABC協会(ABCはAudit Bureau of Circulation新聞発行部数監査協会の略)設立の直接の契機となったものとして、その歴史的意義が高く評価されている。また、電通は、広告主間、あるいは広告主と媒体社間の懇談会等を積極的に設定するなど、あらゆる機会をとらえて発行部数公開制度の具体化を推進した。
 その結果、五二年十月二十八日、ようやくABC懇談会(専務理事・新田宇一郎)の発足にこぎ着けた。ABC懇談会は、五三年四月、同会の会員新聞社二十八社からの報告部数に基づく第一回の発行部数報告書を会員各社に配布し、具体的活動を開始した。しかし、全国紙三社は、相互の強い対抗意識から、当初の間は加入をためらい、牽制し合っていた。そうした中で、中部日本新聞社と、五四年三月に入会した読売新聞社が、自社報告部数に対する希望公査を申し入れたことによって局面が大きく打開された。ABC懇談会は二社に公査を実施し、七月に第一回新聞発行部数認証報告を会員各社に配布した。
 雑誌界でも、やや遅れて同様の発行部数公開制度確立の動きが始まった。
 こうして、発行部数公開制度確立の動きが着実な前進を開始するに及んで、五五年三月二十九日、ABC懇談会は日本ABC協会と改称(五八年十二月に社団法人に改組)され、発行部数公開制度の本格化に向けてさらに大きく踏み出すことになった。新聞・雑誌広告取引の合理化の動きはようやく確実なものとなった。

●社勢の拡大と増資
 電通は、上述した通り、朝鮮動乱特需ブームによる日本経済の活況化の過程における民放ラジオ、テレビの発足による放送広告の登場、新聞用紙統制撤廃による新聞広告スペースの増大といった、一九五〇年代前半に生起した広告環境、広告構造の革命的な激変に、積極的・主体的に挑戦した。その結果、社勢は一九五〇年(昭和25)以降急速な拡大基調に入った。(この時期の取扱高の推移を対前年比および四九年を一〇〇とした指数で示した表は省略するが、概括すれば)毎月の月間取扱高も、五一年十二月に五億六〇〇〇万円、五三年七月には一〇億円台に、さらに五五年十二月に一五億円台に乗せている。
 この間、資本金の大幅な増資が行われている。五一年十二月には株主総会における定款改正で株式一株の額面が五〇円から五〇〇円に変更され、その結果株式総数は二万四〇〇〇株となった。次いで、五三年十一月の株主総会で再評価積立金八二〇〇余万円のうち三六〇〇万円の資本金組み入れが決議された。これにより資本金はそれまでの一二〇〇万円から四八〇〇万円となり、増資分七万二〇〇〇株は一対三の割合で現株主に無償交付された。この時の増資は、自己資本の過少性を是正し、それによって、急速に拡大する扱い高に対応できるよう財務体質を強化するためであった。なお、電通の決算期は、五一年までは十二月~五月、六月~十一月であったが、五二年以後は四月~九月、十月~三月に改められた。

●保全経済会問題と中山太陽堂問題
 一九五〇年代前半の朝鮮動乱特需ブーム、民放時代の展開、新聞界の自由競争の復活等の過程で、日本の広告界もようやく本格的な立ち直りを見せ始めた。例えば、一九五五年(昭和30)の総広告費は朝鮮動乱前の四九年のそれの五・八倍に伸びていた。同じ期間の国民所得の伸びは二・四四倍、広告活動の展開がいかに活発であったかが分かる。
 しかし、問題がなかったわけではなかった。放送広告の登場、新聞広告スペースの増大等で、広告市場が買い手市場に転じたこの過程で、不良広告主が少なからず発生した。その典型が保全経済会問題であった。
 保全経済会は戦後のあだ花的新興金融業者で、毎日、読売、産経などの有力紙に広告を出し、また文化放送など全国十二民放ラジオ局を結ぶ大相撲中継番組のスポンサーにもなっていた大広告主であったが、五三年十月、株式の暴落と貸付金の焦げ付きから倒産した。そして、広告にうたわれた高配当のメッセージを信用して、なけなしの退職金やヘソクリを同会に出資した多数の善良な庶民が被害に遭った。電通は当初は同会に不信を抱き広告扱いを拒否していた。しかし、後に方針を変えて扱った。電通の実害は小さかった。けれども、広告代理業としての倫理的判断を誤った点で、この失敗は電通と吉田にとって痛い頂門の一針であった(前掲『忘れ得ぬ広告人―吉田秀雄の足跡』)。
 第二は、いわゆる「二十九年不況」下で発生した中山太陽堂問題であった。
 朝鮮動乱の特需景気は、輸入の急増から国際収支の悪化を招き、他方インフレ懸念も生まれて、日銀は五三年秋から金融引き締め政策に転じた。その結果、五四年(昭和29)の日本経済は、「二十九年不況」と称される景気後退を招いた。このため、広告主の中には、資金繰りに窮して倒産する企業も少なくなかった。電通もその影響を受けて、五四年前半だけで約五千万円の貸し倒れによる不良債権が生じた(昭和二十九年六月度電通定例取締役会議事録)。
 そこへ中山太陽堂問題が発生した。五月二十九日、化粧品メーカーの大手中の大手、中山太陽堂が、電通大阪支社に、広告料金支払債務約八千万円(受取手形約四千万円、生残約四千万円)の六カ月棚上げと、その後一年間の分割払いを申し入れてきた。これは、増資したばかりの電通の資本金の約一・七倍、月間取扱高一一億円の約七・三%、月間手数料収入の約五〇%に相当した。不況下で特に運転資金のやり繰りに頭を悩ましていた当時の電通にとって、これは息が止まってしまいかねない重大問題であった。
 電通と中山太陽堂の取引はラジオ広告が主で、債権としては銀行を除いて電通が最大であった。電通は可能な限り穏便な形の解決を求めて交渉を進めたが、その矢先、中山太陽堂側の公言に反し、資産の大半が既に国税滞納による差し押さえを受けていたり、金融機関からの融資の担保に入っていることが分かり、その上、六月十五日に手形不渡りが表面化し、内整理に入ったことが判明した。電通は、中山太陽堂側の不誠実な態度を前に、法的に債権確保策を講じるほかはないとの結論に達し、七月一日大阪地裁に中山太陽堂の破産申請を行った。
 当時、広告主の広告料支払いは、全部もしくは大部分が手形決済で、それもサイトは、“台風手形”(二百十日=七カ月)、“お産手形”(十カ月)等の異称が示すように非常に長期で、結局、間に立つ広告代理業が割を食い、資金繰りに泣かされた。四九年のドッジ不況下と五四年の「二十九年不況」下では特に厳しかった。
 このような広告取引における広告代理業の劣弱な地位は、その底に長年の広告代理業に対する蔑視観やある種の偏見があった。中山太陽堂の場合にも、同社の総買掛代金約二億円の八割までが広告料金であったとされ(昭和二十九年七月度電通定例取締役会議事録)そこに同社の広告観が表れていた。電通が中山太陽堂に対し強硬措置をとったのは、債権確保のための自衛手段の行使ということと同時に、広告主、媒体、広告代理業の対等な関係の確認を迫る強い意思の表れでもあった。
 五四年十月、中山太陽堂と債権者会議の協議が曲折の末妥結した。電通については債権額(最終的には約七千万円)の三八・四%を今後二年間に分割支払いを受け、残額については当面凍結して再建の推移を見て支払計画を協議するというものであった。同月電通は先の破産申請を取り下げた。
 電通は、この年の夏期賞与を、副部長以上に対して繰り延べ支払いとしたほか、各種経費の切り詰めを図って、ようやくこの戦後最大の危機を乗り切った。中山太陽堂の債権回収が終了したのは、十二年後の六六年末のことであった。

●組織の整備拡充
 社勢の拡大とともに、組織の整備も進んだ。一九五〇年代前半で目立つのはやはり民放時代の展開に対応した放送広告関連部局の整備である。
 すなわち、前にも述べたように一九五〇年(昭和25)一月、本社にPR部とともにラジオ広告部が設置され、同年七月には大阪・名古屋両支社にもラジオ広告部が設置され、民放ラジオの本格的登場とともに五一年七月、本社、大阪支社にラジオ局を独立新設、翌五二年七月に民放テレビ予備免許第一号が日本テレビに交付されるとその直後に、本社のラジオ局(大阪はラジオ支配人)にテレビ部を設置、さらに五三年二月には、東京・大阪のラジオ局をラジオテレビ局と改称した。
 地方支局の拡充も進んだ。五〇年一月千葉支局、五二年三月に仙台支局、五三年四月に長崎支局を新設、六月浜松分室を支局に昇格させ、岡山支局、鹿児島支局をそれぞれ新設した。
 また社員数も、(一九四九年一〇八〇人から五五年二二六五人へと)年々増加している。
 この時期には、系列会社の設立も目立つ。五〇年八月、株式会社電通印刷所(現・株式会社電通テック)が、五二年四月には株式会社大阪電通印刷所(現・株式会社電通テック大阪支社)および株式会社大阪電通案内広告社(現・株式会社アド電通大阪)が、また同十月に株式会社電通案内広告社(現・株式会社アド電通東京)がそれぞれ設立されている。

●二代目社長光永眞三の死去
 一九五三年(昭和28)十一月七日、元社長で相談役の光永眞三が、熱海市の自宅で病気のため死去した。享年七十七歳。光永眞三は、創業者光永星郎の弟で、一八七七年(明治10)生まれ。一九〇三年兄星郎の経営する電通の前身・日本広告株式会社に入社した。爾来、営業部門で活躍して兄を助け、四十年十二月兄の退任の後を受けて二代目社長に就任し、戦時下の困難な時期の電通を主宰した。しかし、病気のため四五年七月社長を退任して顧問となった。四六年、公職追放令に該当してそれも辞し、五一年追放解除後、再び復帰して相談役に就任していた。
 電通は、光永眞三の長年の功績に報いるため、十一月十八日、吉田社長を葬儀委員長に、東京・築地本願寺で社葬を執り行った。

 ここで社史電通の占領期編は終わりにしたい。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー