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電通

COLUMN「電通」その2

VOL.20
小川 真理生さん

ここでは、「電通」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第20回 「電通」その2

article

 今回は「電通一〇〇年史」の「第三編 飛躍の軌跡」の第一章から第四章までである。

第一章 吉田時代の開幕
●吉田秀雄、第四代社長に就任
 一九四七年(昭和22)六月二十一日、上田碩三の取締役社長退任が承認された第七十回定時株主総会で後任社長選任が諮られ、議長(吉田秀雄常務取締役)に一任された。議長は詮衡委員三人(古野伊之助、鹿子木日出雄、小田民造)を指名、詮衡委員は吉田秀雄を選任した旨を議長に通告、常務取締役吉田秀雄が第四代社長に選任された。
 吉田秀雄(よしだ・ひでお)は時に四十三歳。一九〇三年(明治36)福岡県小倉市に生まれ、小倉中学、鹿児島の第七高等学校(旧制)、東京帝国大学(現・東京大学)経済学部を経て、二八年(昭和3)四月、電通に入社。この年実施された本格的な公募学卒社員第一期生の一人であった。以来、電通の広告代理業部門であった営業部一筋で活躍し、社内で早くから頭角を現すと同時に、特に戦時中の広告代理業の整備統合問題や、新聞広告料金適正化問題で敏腕を振るって、電通に吉田ありとして、その存在を広告界や新聞界に知られていた。終戦直後の混迷期にも、通信部門の出身で広告業に通暁していなかった上田社長を補佐し、事実上電通をリードしてきたのは吉田であった。
 しかし、後継社長人事は必ずしも単純に運んだわけではなかった。吉田は最有力候補であった。けれども、電通の株式の半数を保有していた大株主の旧「同盟」系の思惑等もあり、その成り行きは予断を許さぬものがあった。しかし、最終的には、吉田の傑出した手腕とリーダーシップに対する評価と期待が、もろもろの思惑を圧倒して、吉田が選任された。
 六月二十三日午後、吉田新社長は本社二階ホールで社員に新任の挨拶を行った。吉田はその大半を上田前社長の業績の賞賛に当て、自らの抱負については格別申し述べるほどのものはないと言葉少なに二、三のことを語っているに過ぎない。しかし、その中に、次のような注目すべき一節があった。

 私は先ず日本の広告界の進歩向上を考える電通ということを思って居ります。従来兎角広告業は文化水準を低く見られて来て居るのであります。電通がその仕事振りによって広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたいと念願して居ります。
(「電通報」一九四七年六月二十五日)

 電通を先頭に立てて、日本の広告界の文化的地位の向上を図りたいというこの言葉には、吉田の電通経営の基本理念が明確に示されていた。事実、吉田は電通を日本の、世界の電通へ、広告業を文化産業へ引き上げることに全精力を傾けた。
 吉田新社長は、就任一ヵ月後の七月二十一日、臨時株主総会を招集して取締役の大幅な入れ替えを行い、取締役会で次の新陣容(カッコ内は担当業務)を決めた。

常務取締役
小田民造(大阪支社長)、本田中(営業局長)、山口巌(事業局長)
取締役
毎木一八(大阪支社支配人)、井上泉(営業局次長)、
坂本英男(業務局長)、吉田庄太(九州支社長)、日比野恒次(営業局次長)
監査役
木村哲造(常任)、小島常十、石部幸弌

 日比野恒次は、戦時中からの出向先、中国の国民政府(汪兆銘政権)中央業務経理処広告組から引き揚げ、四六年六月復社していた。旧「同盟」系は木村哲造(常任監査役)、石部幸弌(監査役)の二人であった。新取締役は、吉田社長の四十三歳をはじめ、最年長でも毎木、本田の五十三歳、平均年齢は四九・三歳と若かった。かくて新進気鋭の経営陣による吉田電通丸が、戦後の時化なお逆巻く広告界の荒海に新たに船出した。

●行動的な業務執行体制の始動
 吉田新社長を中心とする新執行部は、電通発展に向けて積極果敢な行動を開始した。まず首脳たちは業務開始の午前九時より一時間も早く出社し、吉田を囲む打ち合わせ会議を開いた。ほかの幹部社員も同調し始めた。この早朝ミーティングはやがて、吉田と執行部役員による社長懇談会と、各局各部単位の関係部課長による早朝会議に発展した。社長以下全幹部社員が毎日午前八時には出社した。そこから、「こんなに朝早い時間に銀座を歩いているのはモク拾い(煙草の吸い殻拾いのこと)と電通の社員だけだ」との評判が生まれたという。
 早朝会議とともに、部長以上の全幹部社員による月例の全体部長会議と事業予算会議も始まった。各局、各部の月ごとの活動計画案、取り扱い予算案がそこで報告、審議された。同時に、社長を中心に、常勤役員・局長による月例の最高執行幹部会議、ならびに常勤取締役会議も設けられた。こうして行動的な業務執行体制が始動した。

●機構の改組拡充
 吉田新体制下の社業の積極的な新展開に対応して、機構の改組拡充が次々に実施された。まず本社機構では、一九四七年(昭和22)十月、業務局が営業局に改組され、同局に出版連絡部、外国部、直接課が新設された。このうち直接課は、従来からの歩合制による連絡(外交)活動の近代化を図るべく、定額制の手当による連絡活動担当のセクションを連絡部の外に新設したもので、四八年一月には直接部に昇格している。
 四八年一月には、同時に、営業局で企画部を廃し、宣伝企画部、広告工作部を新設している。九月には、総務局に総務部、会計部、管理部を新設し、また営業局で連絡部を連絡第一部、先の直接部を連絡第二部とそれぞれ改称、さらに同局の宣伝事業部を事業局に移し、事業局に展示部を新設し代理部を廃止した。十月には総務局で渉外課を渉外部に独立させ、十二月には営業局で宣伝企画部を宣伝技術部と改称し、さらに四九年一月に営業局で営業庶務係を営業庶務部に昇格、三月に事業局に商事部を新設している。
 地方機構の整備拡充も進展した。四七年九月に、函館、横浜、岐阜、三重、神戸、熊本の各出張所を支局に昇格させた。同月、戦災を受けた名古屋支社の新社屋が中区南大津通りに完成。また九州支社を小倉市から福岡市に移し、小倉市に北九州支局を開設(五〇年十一月小倉支局と改称)した。十月には、大阪支社に局制を敷き総務局、営業局を置いた。十二月に広島事務所(四八年四月出張所に昇格)、四八年二月に小樽支局、浜松に静岡支局分室をそれぞれ開設、七月に旭川支局を開設、四九年一月に広島出張所を支局に昇格、四日市に三重支局分室を開設した。三月には、名古屋支社同様戦災で焼失し仮住まいで業務を続けていた大阪支社の新社屋が北区中之島に新築落成した。四月には、福岡県の久留米駐在所を久留米支局に昇格させた。翌五〇年三月には九州支社の新社屋が再建され、さらに五月には四五年十二月に開設した北海道支社の社屋も完成した。
 こうした積極的な社業の展開、機構の整備拡充に伴って、社員数も四七年六五五人、四八年九〇二人、四九年には一〇八〇人と年々急増していった。
 なお、四八年一月には、社内広報誌、「社報電通」(月一回刊、同年七月「電通人」と改題)が発刊されている。

 

第二章 新しい電通への始動
●新たに人材注入による体質改善
 吉田体制下の電通で顕著な事実の一つは、社外のさまざまな経験や発想を持った有能な人材を大胆に迎え入れ登用したことであった。
 日本の広告代理業界の体質は伝統的に前近代的で、社会的評価も極めて低かった。従って職業としての魅力も乏しく優秀な人材が集まりにくかった。しかし、広告代理業を近代化し、広告産業として通常の産業レベルに引き上げ、電通の飛躍を図るためには、何よりも有能で優れた人材を注入して体質改善を進めることが必須の条件だと吉田は確信していた。
 戦後のこのころには、公職追放令該当者や、外地からの引き揚げ者、敗戦で職を失った人、旧軍人などで、才能を持ちながらも志を得ることができず、悶々としていた人が少なくなかった。吉田は、これはと思う人材を積極的にかつ大胆に電通に迎え入れた。それらの多種多様な経歴と手腕を持った戦後初期の途中入社の社員たちの多くは、電通に新風と刺激を注入し、あるいは独自な才能を発揮して活躍し、電通のその後の発展に大きく貢献した。吉田は後にこう語っている。

 私は敢て公言する。今日の電通ぐらい人材の集まった私企業は他に類例がなかろう。
それらの戦後入社の人材が天稟の英質と多年高い広い舞台で身につけた経験を基礎にし、広告を理解し、これを終生の職業として身につけて、社内重要ポストの九割までを占めたのだから、今日の電通は、もはや過去のものとはまったく異質の存在となったのだし、ひいては日本広告界は千古未曾有の高い価値をもつことができることになるだろう。
(「電通社報」一九五二年四月)

 なお、吉田の「人」観の他の一面を物語るよく知られた事例であるユニヴァ―サル広告社について付言しておきたい。同社は公職追放令に該当して働き場所を失った新聞社の元幹部たちが、一九四八年(昭和23)に生活の糧にと計画して国際広告仲介業を看板に設立した会社であった。しかし、会社とは名ばかりで実体はなく、代表取締役の高田元三郎(元毎日新聞社取締役主筆)によれば、五〇年十二月公正取引委員会に提出された同社の報告書に、本店所在地は東京都中央区銀座西七ノ一電通ビルとあり、沿革には「広告代理業として設立せられたるも時期到来せざるため未だ何等の業務に着手せることなし」と記されていたという。そして高田は「毎月一回電通に会合して、電通から昼食のもてなしを受けることだけが、唯一の会社の行事」であったと書いている(前掲『記者の手帖から』)。
 要するに吉田は戦後の混迷期に不遇をかこっていた先輩新聞人たちにいわば雨宿りの場所を提供したわけであったが、こうした手厚い気配りに吉田の「人」観の一面がよく表れていた。

●調査部機構の拡充
 吉田は社長就任とほとんど同時に、調査部拡充強化の方針を打ち出した。吉田は後年、電通生活二十五年回顧の座談会(「電通社報」第59号、一九五三年六月)の中で、社長を引き受けて手を着けたこととして、「まず調査部の根本的な性格変更と拡充強化、第二に宣伝技術部の拡大、その他各部面に亘って仕事の上での徹底的な刷新工作を強行した」と述べて、調査部の拡充強化を最初に挙げている。これについては、戦後の電通調査部門で活躍し大阪支社マーケティング局長も務めた田実博は、一九四七年(昭和22)社長就任直後の吉田に呼ばれて「君を調査部に配属する。電通は、広告作業の化学化、近代化を急がなくてはならない。調査部はその原動力、推進力となるべき部門である。これから調査部を大幅に拡充強化するから、そのつもりでしっかりやれ」と言われたと記している(田実博『広告調査源流記』一九九八、タイプ稿)。
 吉田の目指したものは、この中にある「広告作業の化学化、近代化」にあった。電通は創業以来、新聞広告調査統計を継続実施してきた。また、戦時中には短期的ながら市場調査を実施するなど、早くから対広告主サービスに意を用いてきた。吉田は、それを超える本格的な広告調査の化学化、近代化を目指し、それがこれからの電通に必要だと考えた。
 調査部はこれにこたえて積極的な活動を推進した。四七年十二月の証券民主化委員会による「証券民主化キャンペーン」広告の効果調査を手始めとして、四八年三月から実施されることになった所得税の申告納税に関する大蔵省広告の浸透度調査、同じく四八年三月の塩野義製薬の広告反響調査等は、電通調査部が受注、実施した初期の代表的な調査である。このころから、調査のための科学的なサンプリング理論や技術が発展するが、調査部はその点でも後れを取らず、調査の精度向上に努めた。四八年十月、財閥解体による旧財閥系都市銀行五行の行名改称(例・三菱銀行→千代田銀行等)の広告宣伝効果調査は、選挙人名簿から無作為抽出による層化二段抽出法によって抽出されたサンプルについて実施されたが、依頼主から信頼できる調査として高い評価を受けた。
 吉田は四八年六月の株主総会報告書の説明の中で、調査部の拡充強化策に触れて「精確な市場分析、市場調査、それを基礎とする合理的な広告計画、宣伝作戦、この計画と作戦を最も有効に表現する図案、文案、レイアウトの技術、こういったサービス部門を背景に持ってはじめて本格的な広告代理業が成り立ちます。積極政策の一面として終戦以来拡充強化してきた我社の調査部と宣伝技術部等は、今では完全にその機能を発揮して、業界の驚異となっております」と述べて、その成果を強調している(「第七十四回定時株主総会報告書に添えて」一九四八年六月)。
 かくて、調査部の科学的な調査活動の展開は、スペースブローカー的広告代理業から近代的な広告会社への電通の企業イメージ転換と体質改善を大きく促進した。

●PRの導入
 PR活動の導入も、新しい電通への脱皮に少なからず貢献した。
 PR、パブリック・リレーションは、企業や団体が、広告等を通じて自己に関する情報を積極的に社会に提供し、一般公衆との間に理解と信頼の関係の構築を目指す活動で、もともと二十世紀初頭の米国で、ジャーナリズムや大衆団体の批判にさらされた大企業の、自己防御の新しい形態として生まれ発展したもので、米国では既に定着していた。これが、戦後一九四七年(昭和22)ごろGHQ(連合国軍総司令部)を通じて日本に導入された。
 これには二つの契機があったと見ることができる。一つは、GHQが力を入れてきた日本の政治構造民主化の象徴である地方自治法(四七年四月公布)の施行(五月三日)に伴って、出先の地方軍政部が各府県の公選知事に、PRO(パブリック・リレーションズ・オフィス)の設置を勧告したことで、この自治体PRはこの後“行政広報”活動の形で定着していく(『都道府県広報十年』全国知事会、一九五九)。いま一つは、財閥解体をはじめ経済民主化政策を推進してきたGHQが、証券の民主化、大衆化の促進に乗り出し、四七年十一月大蔵省はじめ関係各省・民間団体等によって設置された「証券民主化委員会」の運動を積極的に後押ししたが、この過程で大掛かりな証券民主化のPR活動が新聞広告等を通じて実施された(例・四七年十二月二日朝日新聞掲載広告「皆で投資・明るい日本」。この広告効果調査を電通調査部が受注・実施した)ことを挙げることができる。
 これらを通じて四七年の後半ごろにはパブリック・リレーションズやPRの言葉が日本人の耳に入り始めた。これにいち早く着目したのは吉田であった。吉田はパブリック・リレーションズに広告の革新をもたらす何かがあることを直感し、渉外課長田中寛次郎にその研究を命じた。渉外課は四七年十月外国部に昇格し田中は外国部長になっているから部長就任後かもしれない。
 電通の旧通信部記者出身で三二年にロサンゼルス・オリンピック特派員の経験もある外国通であった田中は、精力的に研究に取り組んだ。そして、あらゆる機会をとらえて、PRの概念とその意義を説いた。PRという耳慣れない、しかし企業と公衆・社会を結び付けるフレッシュで魅力ある考え方は、前述のような導入事情も幸いして、企業経営者や広告担当者等の間に次第に浸透し始めた。その過程で、田中はPRの第一人者として主導的な役割を果たした。四九年七月、再開された戦後第一回の電通夏期広告講習会で、田中は「パブリック・リレーションズについて」と題する講義を行ったが、この講義はPRの概念、PR活動の内容、広告との関係等を日本人の手で初めて総合的に解説したものとしてPR史上記念碑的な位置を占めているといわれる。
 当初PRについては社内的には、いわば社長特命事項として田中を中心に理論研究が進められた。次いでその事業化を図るべく、五〇年一月、暫定的な窓口として本社にPR部(部長森山喬)が設けられている。そして五一年一月、機構上正規の担当部局として、営業局にPR部(部長小谷重一)が新設され、本格的にPR関連業務の取り扱いを開始している。
 このような戦後のPRの導入、普及の過程で電通の果たしたパイオニア的リーダーシップは、広告に対する社会の既成概念に新風を吹き込み、電通は、広告主と媒体間の広告紙型仲介を業とする単なる広告屋でなく、新しい時代の新しい広告を目指して積極的に行動する近代的な広告会社だというイメージを社会に植え付けた。

●商業放送開設と電通
 戦後の電通が飛躍的発展を遂げた最大の契機は、日本における商業放送すなわち民放(民間放送)という、新聞と並ぶ第二のマス媒体の登場とその展開過程で、電通が圧倒的なリーダーシップをとったことにあるといえる。それを主導したのも吉田であった。
 商業放送開始の動きは、敗戦直後の一九四五年(昭和20)九月二十五日、政府(東久邇宮稔彦内閣)が逓信院(のちの逓信省)の提出した「民衆的放送機関設立に関する件」、すなわち在来からの社団法人日本放送協会による公共放送のほかに、新たに広告放送収入を財源とする株式会社による商業放送(当時、民放[民間放送]の呼称はまだなかった)を開設する方針案を閣議了解したことに始まる。
 この当初方針では、一社による全国放送が考えられており、松前重義逓信院総裁は、それに沿って東京商工経済会(現・東京商工会議所)船田中理事長に新放送会社設立を勧奨した。船田は放送はもとより放送広告収入を財源とする放送会社については全く知識がなかったので、上田碩三電通社長に相談した。上田は、吉田秀雄常務取締役営業局長を電通側担当者としてこれに協力することにした。電通と戦後の商業放送とのかかわりはこの時に始まった。
 四五年十二月一日には、船田を設立準備委員長、吉田を副委員長とする民衆放送株式会社の設立許可申請書が逓信院に提出された。この時の「民衆放送」の発起人は次の各氏であった。

 藤山愛一郎(東京商工経済会会頭)、船田中(同理事長)、梶井剛(住友通信機社長)、
 三輪善兵衛(丸見屋社長)、津守豊治(東京芝浦電気社長)、清水与七郎(同副社長)、
 菊池寛(大映社長)、大橋武雄(東宝社長)、佐伯長生(日本電気社長)、
 小汀利得(日本産業経済新聞社社長)、上田碩三(日本電報通信社社長)、
 吉田秀雄(同常務取締役)

 この民衆放送株式会社の設立準備と許可申請を、実質上の中心になって進めたのは吉田であった。
 先の政府の閣議了解は、民間の商業放送熱を誘発し、「民衆放送」以外にも、相前後して「新日本放送株式会社」(大阪市、代表者・寺田甚吉)、「国民放送協会」(東京都、代表者・大宮伍三郎)、「常民生活科学技術協会」(東京都、代表者・亀井貫一郎)、「中部日本放送株式会社」(名古屋市、代表者・三輪常次郎)などが出願して名乗りを挙げた(中部日本放送編『民間放送史』四季社、一九五九)。
 しかし、政府から商業放送開始方針の承認につき回答を求められていたGHQ民間通信局(CCS)は、十二月十一日、「日本放送協会の再組織」に関する覚書の通告に際し、併せて商業放送開設に否定的見解を明らかにした。日本占領管理の遂行には当面日本放送協会のみの体制が好都合と判断したためと考えられる。翌四六年十二月、GHQは最高司令官の諮問機関である米・英・ソ連・中国の四カ国代表から成る対日理事会に、「放送事業の管理及び所有」に関し諮問を発した。その要点は、商業放送を新たに開設することの可否にあった。同理事会は翌四七年一月、現段階では商業放送開設は不適当との結論を出した。これを受けて、GHQは商業放送開設不同意の旨を政府に通告したため、逓信省(院から省へ改組)は、四七年二月、「新放送機関」(商業放送)の設立は「当分の間これを許可しないこと」を正式に決定し、既に提出済みの設立許可申請書は返却されることになった。
 このため、民衆放送株式会社の設立準備も中断を余儀なくされた。がらりと変わった風向きの中で、関係者の熱も冷めていった。その上、船田中が公職追放令に該当し、東京商工経済会理事長職を離れた。吉田は、船田に代わって設立準備委員長となり、設立準備事務所も東京商工経済会から電通内に引き取った。吉田は、商業放送時代が必ず到来し、電通、そして広告界の新しい地平が開かれることを確信しつつ時機を待った。
 その時機は予想以上に早くやってきた。四七年十月、GHQの民間通信局(CCS)は、逓信省に対し、同省の進めていた放送関係法制の整備改編に関する「示唆」を通告した。通告者の名を冠してファイスナー・メモとして知られるこの「示唆」に、放送法に将来に備えて「私営放送会社の助長」すなわち商業放送のための規定を設けることが含まれていた。これを受けて、翌四八年六月、逓信省が第二国会に提出した放送法案に、「一般放送局」の名称で商業放送に関する章が初めて規定された。これを契機に、商業放送出願の動きが再び息を吹き返し始めた。四八年秋に十一社を数えたに過ぎなかった出願件数は、四九年二月に二十二社、同年九月に二十九社、五〇年一月に三十七社、二月に四十五社と加速度的に増えた(前掲『民間放送史』)。
 民衆放送株式会社は、発起人を新たに組織し直し、社名も東京放送株式会社と改めて、四九年一月再度出願した。民衆放送株式会社は全国放送体制を構想したものであったが、逓信省の放送局免許が地区ごとになることがあきらかになったため、東京および関東地区を放送地域とする計画に改めたためである。東京放送株式会社の新しい発起人は次の通りであった。

 吉田秀雄(電通社長、設立発起人代表)、岩淵英一郎(三越社長)、
 渡辺銕蔵(東宝社長)、渡辺武衡(日本電気社長)、新間広作(東京芝浦電気社長)、
 三輪善兵衛(丸見屋社長)、野間省一(講談社社長)、橘弘作(日本ビクター社長)、
 鈴木文史朗(リーダース・ダイジェスト日本支社顧問)

 電通では、吉田の指示でかねてから商業放送、広告放送に関する調査研究を重ねてきたが、商業放送時代の開幕が近づくと、四九年二月、いち早く社員向けのラジオ広告講座を開催して社員研修に乗り出し、八月には、ラジオ広告研究会を設置して商業放送経営やラジオ広告放送に関する内外の資料・情報を収集整備すると同時に、ラジオ放送広告のサンプル盤を作製して、広告主や関係者の参考に供した。そして五〇年一月、本社にラジオ広告部を新設し、七月には、大阪・名古屋両支社にも設置し、機構の上でも商業放送時代へ向けてのシフトの第一歩を踏み出した。
 放送法案は、その後紆余曲折を経て、最終案が四九年十二月、電波法案、電波監理委員会設置法案とともに第七国会に提出された。その「第三章一般放送事業者」に商業放送に関する規定が置かれていた。吉田は、五〇年二月一日、参議院電気通信委員会の右の電波関係三法案に関する公聴会に公述人として出席した。吉田は、むろん商業放送開設を支持する立場から、放送法案は、日本放送協会関連規定が多過ぎるのに対し、商業放送関連規定が少な過ぎること、現下の経済状況から見て広告市場、従って商業放送会社の採算性に限界があり、当面暫定的に一地区一社でやむを得ないこと、新聞以上に強力な影響力を持つ放送電波の乱用の弊害防止の規定が必要であること等を述べ、商業放送に最も通じた専門家の見解として注目を集めた。
 電波関係三法案は、五〇年四月末に成立し、放送法は五月二日公布、六月一日から施行となり、関係者待望の商業放送開設の法制度的基礎条件が整備された。電通にとってもこれは画期的な出来事であり、電通の新たに目指すべき方向が放送広告の新世界であることがこれで確定した。新しい電通への始動の手ごたえはいよいよ確実になった。

 

第三章 広告界の復興と発展のために
●広告課税反対運動
 電通は、敗戦後の困難を極めた自社再建の努力と並行して、広告界全体の復興と発展のためにも力を尽くした。
 その第一歩は、広告関連課税反対運動の先頭に立って活動し、その企図を阻止したことである。
 戦時中の一九四二年(昭和17)三月創設された広告税(国税)は、戦後四六年八月三十日限りで廃止された。しかし、今度は、財源難に悩む地方自治体を救うために地方税として広告税を新設する構想が持ち上がった。すなわち、四八年四月、内閣地方財政委員会が、地方税制改革の一環として、新聞紙等出版物に掲載される広告に対し、三〇%以内の市町村税課税法を答申した。電通は、広告関係団体や新聞界と協力して強力な反対運動を展開した。
 その結果、五月下旬、政府はこの広告課税法を断念し、その見返りとして、地方財政委員会名の納税促進広告を、新聞社、広告主、広告代理業の負担で、月一回、日本新聞協会加盟の日刊新聞百十四紙に掲載することを要請し、反対側もこれを受け入れて落着した。この協力広告は、五〇年まで続けられた。
 翌四九年五月十八日には、今度は大阪市で開かれた五大都市税務課長会議が、前年の地方財政委員会案と同様の出版物掲載広告課税案を決議し、五大都市市長会議に提案することを決めた。これに対しても、電通は、広告・新聞関係団体とともに反対運動を展開し、同案の撤回実現に成功した。
 他方、四八年七月、第二国会で政府は、新財源として、新たに取引高税法を制定公布(七月七日、施行九月一日)した。これは広告取引および手数料にも適用(税率は百分の一)されるもので、広告代理業経由の広告は、広告代理業が納税管理人とされた。電通は関係業界とともに税率の軽減等について政府に働き掛けた。取引高税は実施された。しかし四九年十二月二十七日に廃止された。
 四九年九月、米国から来日中のシャウプ税制使節団の勧告が公表された。同年十二月、政府はシャウプ勧告に基づき各種事業の収入の一定部分に対する付加価値税の創設を含む地方税法改正法案を第七国会へ提出した。広告代理業は新聞業とともに第三種事業に指定され、税率は三%とされていた。
 電通は、これに対しても強力な反対運動を展開した。その結果、衆議院ではGHQの圧力もあって無修正で通過したが、衆議院では審議未了となった。次の第八国会では五〇年七月、付加価値税の実施を五二年一月からとした上で地方税法が可決成立した。しかし、付加価値税の実施はさらに一年先送りとなり、五二年十二月、結局実施されないまま廃止された。

●金融機関の広告代理業に対する融資順位の引き上げ
 敗戦後の経済の混迷期において、広告代理業の経営が当面した難問題は、運転資金の確保であった。すなわち、インフレの高進過程で広告料金、特に新聞広告料金は、相次いで値上げを繰り返した。その結果、広告主の広告料は支払い遅延や手形払いが増え、かつそのサイトも長期化し、広告代理業は、媒体社との間に立って資金繰りに悩まされた。一九四八年(昭和23)に入ると、日本経済は今までとは逆にディス・インフレ期に入り、広告主企業の経営環境が急激に悪化した。そのため、広告代理業の運転資金難は極度に悪化した。
 その打開策は、銀行等金融機関から資金の融資を受けることにあったが、それにも大きな障壁があった。
 四六年末、政府は、いわゆる傾斜生産方式と呼ばれるエネルギー等基礎生産部門の生産増強に重点を置いた経済復興政策の推進を決定し、その一環として、金融機関資金融通準則(四七年三月一日大蔵省告示)を公布施行して、産業資金についても重点配分を強化した。この準則の定めていた産業資金貸出優先順位表では、新聞業、広告代理業は不急事業と見なされ、設備資金、運転資金ともに「丙」のカテゴリーに指定されていた。このため、広告代理業が金融機関から資金の借り入れを受けることは困難であった。
 電通ももとより例外ではなかった。吉田は、再三にわたり、金融機関や政府機関に、広告代理業に対する認識を改めて、融資順位を引き上げるよう強く善処を要望した。
 新聞業の順位引き上げについては、日本新聞協会が同様の運動を関係機関に対して行った。その結果、四九年一月十日、前期準則の産業資金貸出順位表が改訂され、新聞業は、運転資金について「乙」に引き上げられた。しかし、広告代理業は「丙」のままであった。
 吉田は、新聞業と広告代理業の不即不離の関係を強調し、「乙」への引き上げをさらに強く働き掛けた。日本新聞協会広告専門部会も、これに協力して政府に陳情書を提出した(『日本新聞年鑑』一九五〇年版)。
 その結果、四九年三月十七日、日銀との折衝で、東京・大阪両地区の広告代理業には、新聞社に対する広告料支払いの円滑化のための資金に限るという条件付きであったが、「乙」扱いとすることが臨時措置として了解されるに至った。
 この間の苦心を、吉田は後年次のように回顧している。

 金融機関は広告蔑視観の尤物(最たるもの)だ。いや、広告業の企業的価値を全然知らない。いろはから入っていかねばならぬ。……既成概念、先入観のある銀行の重役から現場の末端まで理解してもらう苦労は、人間技でできることでない。坂本(英男)君と二人でそれこそ鏤骨嘗胆の苦心を重ねた。(昭和)二十二年、二十三年、二十四年とまる三年かかった。
(「電通社報」一九五二年四月)

●広告関係団体の組織化
 電通は広告代理業界の秩序維持や共通利益の擁護のための、業界の組織づくりにも力を注いだ。
 広告代理業界は、敗戦後、日本新聞協会の指定業者制が独禁法の施行で廃止されたため、多数の新興業者が生まれ、数年ならずして再び戦前の乱立状態に戻る傾向を示した。例えば、一九四八年(昭和23)三月現在では全国の広告代理業者数は二百余社、四九年五月現在では二百二十五社(『日本新聞年間』一九四八・四九年版、一九五〇年版)を数えている。
 吉田は、過当競争による値引き等の不公正取引の再現を憂慮し、大同団結による業界秩序の安定化と、それによる経営近代化の推進こそ業界発展の道だとして、関係者を説得し、五〇年五月、先の日本新聞広告同業組合と全国新聞広告同業組合所属の広告代理業者、および両組合に属していない業者をも包含した日本新聞広告業者協会を新たに設立した。設立時の役員は次の通りであった。

幹事長
吉田秀雄(電通社長)
幹 事
瀬木博信(内外通信社博報堂社長)、川面隆三(共同広告社社長)、
太田正一(近畿広告専務)、中川秀吉(万年社社長)、
谷口武雄(日本広告社社長)、後藤清文(名古屋通信社社長)、
塚村敏夫(新広告社社長)、林清作(三正堂社長)、
福沢義男(正路喜社社長)、西垣武一(三栄広告社社長)
会計監事
豊田富雄(大東広告社長)、湯沢清(広告社社長)

 同年十二月、石井光次郎を会長に選任した。電通は事務局を提供したのをはじめ運営に全面的に協力した。
 広告代理業界の組織化にとどまらず、四七年二月に設立された東京地区の広告主、媒体社、広告代理業の経営者、幹部社員を会員とする日本広告会(現・東京広告協会の前身)の結成に当たっても、電通は吉田常務取締役(当時)を創立準備小委員会会員に送り、主導的役割を果たした。発足時の会員は百九十五人、会長高橋龍太郎(東京商工会議所会頭)、副会長塩原禎三(三共社長)、理事長白川虔三(資生堂常務取締役)の陣容で、吉田は五三年三月に副会長に就任している。
 さらに、五三年十月には、この日本広告会をはじめとする関西広告協会、中部広告協会など各地区の広告団体が、全日本広告連盟を結成し、会長に藤山愛一郎(日本広告会会長)が就任した。同連盟の結成にも電通は全面的に協力した。

●広告電通賞・学生広告論文電通賞の創設
 一九四七年(昭和22)十二月、電通は広告クリエーティブの技術水準の向上を目指して、広告電通賞を創設した。電通では、戦前に新聞広告奨励賞を設けていたが、四四年から中断されていた。広告電通賞はその復活ともいえるが、理念、性格ともに想を新たにして発足させたものであった。
 紀念すべき第一回(四八年)の広告電通賞は、松下電器産業の「ナショナル・パーソナル・ラジオ」が受賞し、野村證券とハリキン興業(「ルーブ高級香水」)に広告賞が授与された。五〇年の第三回からは新聞広告部門と雑誌広告部門の二部門制がとられた。
 広告電通賞は戦後日本の広告クリエーティブの活性化とレベル・アップに大きな刺激を与えた。
 さらに電通は、四九年、次代を担う若い学生層の間に広告に対する関心を広げるために、学生広告懸賞論文の募集を開始した。第一部大学生、第二部高等学校生徒に分けて募集し、第一回は、両部門ともに「新聞広告の効用」を共通課題に実施された。五二年から、名称も学生広告論文電通賞と改められ、現在に至っている。
 また、戦争のため四二年から中断されていた夏期広告講習会を四九年から再開した(七月十一~十四日電通ビル八階で開催)。再開第一回の主な講義題目と講師は次の通りで、戦後の広告界に新鮮な刺激を与えるものとして非常な注目を集めた。

新聞経営と広告
新田宇一郎(元朝日新聞社業務局長)
パブリック・リレーションズについて
田中寛次郎(電通外国部長)
広告の市場調査とその分析
奥村 驍(電通調査部長)
宣伝広告と環境
森崎善一(評論家)
広告表現について
山名文夫(多摩造形芸術専門学校教授)
市場開発と広告費の関係
中西寅雄(東京都商工指導所長)
商業放送の企業性
金沢覚太郎(東京放送株式会社創立委員)
アメリカの広告界を語る
ハロルド・グロス(第八軍PX本部美術装飾部)
広告の科学
吉田秀雄(電通社長)

 なお、広告電通賞の創設に伴い、四八年の第一回から同賞の記録である「広告電通賞年紀」を発刊(以後毎年)した。さらに、夏期広告講習会の記録集「広告研究」も、四九年の第一回から復活刊行された。

●上田碩三前社長不慮の死
 前社長上田碩三は、一九四九年(昭和24)一月三十日、多年の友人でUP通信社副社長・極東支配人(東京駐在)のマイルス・W・ボーンと千葉県浦安沖の東京湾上で鴨猟中、乗船が突風を受けて転覆し両人とも遭難死した。上田は享年六十三歳。告別式は二月三日品川区大井庚塚四七九三の自宅で営まれた。吉田社長は、弔辞で、上田の電通通信部での活躍と、「日本新聞通信界の進歩発達を率先指導して今日あらしめ、八火先生(光永星郎初代社長)を援け」た功績をたたえ、彼の急逝を惜しんだ。
 なお、翌五〇年に両氏の国際報道活動上の功績を永く紀念する趣旨から、日米の関係者の発起で「ボーン国際記者賞」が創設され、その年度の最も優れた国際報道活動を行った記者を顕彰する事業が始まったが、七八年度からは「ボーン上田記念国際記者賞」と改められ、現在に至っている。

 

第四章 躍進の基礎整備
●戦後初の大幅増資
 電通は、一九四八年(昭和23)九月六日臨時株主総会において、資本金二〇〇万円を一〇〇〇万円増資して一二〇〇万円とすることを決定し、増資新株(一株額面五〇円。第三新株)は七月三十一日現在の株主に一対五の割合で有償割当とすることとした。払い込みは同年十一月十日臨時株主総会において完了した旨が報告された。
 この増資は、戦後のインフレの高進下で、新聞広告料金の大幅な値上げが繰り返され、広告主の支払いが遅滞したことによる運転資金の不足対応策であった。終戦直後の広告代理業の運転資金難については、金融機関の融資順位の繰り上げの項で既述した通りであるが、今回の増資にかかわる電通の「増資新株式目論見書」によれば、この年二月、新聞広告料金がさらに一挙に六〇%方値上げされ、電通の一カ月の取引高が三〇〇〇万円から五〇〇〇万円に増大したため、運転資金が一層逼迫し、銀行からの一時借入金(四八年八月現在の貸借対照表によれば短期負債の借入金一五六四万円)に頼らざるを得なくなっているが、その不健全性を是正して経営の健全化を図るのが目的とされていた。
 この増資によって、電通の財務基盤は格段に強化された。
 なお、これより先、敗戦後の四五年十月末日に解散した旧「同盟」の清算事務が四七年七月に完了し、「電聯合併」によって旧「同盟」が保有していた電通第二新株一万九〇〇〇株(一株五〇円、当初株数二万株中一〇〇〇株は個人が所有)は、同年七月、「同盟」の後身である社団法人共同通信社へ条件付きで贈与された。その条件は、「同盟」と電通(通信部)の事業合同の経緯にかんがみ、わが国の通信社事業と広告代理業の健全な発達を図る目的で贈与株式を信託管理に移すというもので、共同通信社は、この贈与条件に従い、旧「同盟」、共同、時事(通信社。同社も旧「同盟」の後継社の一つ)と電通の関係者十名から成る電通株式共同管理委員会を同日設置し、これに株式を信託した。共同管理委員会の当初構成員は次の通りであった(『同盟通信社関係資料』第九巻、柏書房、一九九九)。

 伊藤正徳(共同通信社理事長)、石井衛太(元電通監査役、旧「同盟」系)、
 上田碩三(前電通社長)、木村哲造(電通監査役、旧「同盟」系)、
 田中都吉(元「同盟」理事長)、畠山敏行(元「同盟」理事、元電通取締役)、
 古野伊之助(元「同盟」社長)、長谷川才次(時事通信社社長)、
 光永眞三(元電通社長)、吉田秀雄(電通社長)

 株主権は、共同管理委員会の代表者(当初は古野伊之助)が委員の過半数の同意を得て行使することとされた。委員は、旧「同盟」および旧「同盟」系の共同、時事と電通の代表者で構成され、株主総会や役員人事等の主要事項は、以後、事実上この共同管理委員会で決められることになった。これによって、旧「同盟」系は「同盟」解散後も引き続き電通に対して強い影響力を持つことになった。
 また、「電聯合併」に際し、旧「同盟」が保有した電通第二新株は、四分の三は未払い込みのままであったが、その払い込みは、戦後、四八年九月三日に至って完了された(第七十三回営業報告書)。
 なお、今回の増資に伴う共同通信社割り当て分の第三新株九万五〇〇〇株は、共同通信社と株式会社時事通信社が折半して引き受けた上で先の電通株式共同管理委員会に信託された。以後。時事通信社が共同通信社と並んで電通の大株主に加わることになった。

●経営管理体制の強化
 一九五〇年(昭和25)六月二十六日、電通は定時株主総会ならびに取締役会で、戦前戦中に一時期置いたことのある専務取締役制を復活させるとともに次のような役員人事を決定した。

代表取締役社長
吉田秀雄
専務取締役
小田民造
常務取締役
山口巌、坂本英男、日比野恒次、井上泉
取締役
吉田庄太、小島常十、西田恒之、本田中、毎木一八
監査役
木村哲造(常任)、田中寛次郎、石部幸弌

 この人事では、小田の専務取締役就任と、山口巌らの四人常務制が、経営管理体制の強化を意味するものとして注目された。旧「同盟」系は四七年七月改選時と同じ木村哲造、石部幸弌の二人であった。
 さらに、翌五一年七月一日の改正商法の施行によって、取締役会に業務執行の決定と取締役の職務執行の監督という機能が加えられたことから、電通は十二月二十一日、定時株主総会ならびに取締役会で必要な定款改正を行い、新たに次の役員人事を決定した。

代表取締役社長
吉田秀雄
専務取締役
小田民造、坂本英男
常務取締役
日比野恒次、井上泉、吉田庄太
取締役
松方三郎(共同通信社専務理事)、長谷川才次(時事通信社社長)、
古野伊之助(元「同盟」社長)、田中都吉(元「同盟」理事長)、
木村哲造(以上非常勤)
常任監査役
浅原重継
監査役
塚本義隆(元満州国通信社理事長)、
船木重光(元「同盟」総務局長、「同盟」清算人)(以上非常勤)
相談役
光永眞三

 この役員人事で注目されたのは、吉田社長を含む役員十四人中、松方三郎、長谷川才次、古野伊之助、田中都吉の四取締役と、塚本義隆、船木重光の二監査役は旧「同盟」系の社外役員で、木村哲造も元は旧「同盟」系であったから、都合七人すなわち半数が旧「同盟」系という新しい役員構成になっていた点であった。光永眞三元社長は、公職追放令に該当して会社から離れていたが、追放解除となったのを機に相談役に迎えたものであった。
 先の商法改正に伴い、電通は業務執行体制の強化を図る必要から、前述の役員人事と同時に、新たに、局長級以上の幹部社員を現職のまま副社長に任命する副社長制を敷いた。この副社長制は定款による職制ではなかったが、常勤役員と新制度による副社長とで構成する副社長会が事実上の業務執行の最高機関となった。
 電通はこうして経営管理体制の強化を図り、“戦う電通”への態勢を固めた。

●創立五十周年を記念して
 一九五〇年(昭和25)七月一日、電通は創立五十周年を迎え、本社八階ホールで記念式典を挙行した。
 吉田は、式辞で、半世紀の社史を総括して、一九〇一年(明治34)創立後の電通は、三六年の通信部の「同盟」への分離統合による広告代理業専業化で第一次革命を経験し、さらに戦後の現在第二次革命に突入していると述べ、次のように語った。

「昭和十一年の通信部の分離は、わが社の第一次革命であり、それまでは広告によって得た利益を通信に注ぎ込んだが、以後はこれを本格的代理業としての人材、施設の充実とサービスの向上に注ぐことができるようになった。
 次いで、太平洋戦争に入り、広告界が破滅に瀕するようになった折から、われわれは、これをわが国広告事業革新の機会と見て、新聞広告料金の公定、代理業の企業整備等に努力して、広告取引の合理化、公明化の機運を推進した。それとともに、わが社自体を本格的な代理業としての名実を具備するために、あらゆる困難を排して、人事の刷新、機能の充実を敢行し、わが国の経済復興に伴う広告活動の高揚に対処した。これが電通の第二次革命ともいうべきものである。この第二次革命はまだその道程にあり、周囲の情勢ははなはだ容易ならぬものがあるが、われわれはあらゆる困難に屈することなく、目標に向かって前進しなければならぬ」

 創立五十周年を記念して、電通は日本における広告功労者の顕彰事業を企画し、その象徴として彫刻家菊池一雄制作による三人の裸婦のブロンズ像「平和の群像」を東京都千代田区三宅坂に建設し、東京都へ贈呈することとした。五十周年記念式典で公表された広告功労者(第一回)は次の十七人であった。

 大橋佐平(博文館主)、岸田銀次郎(吟香、楽善堂主)、
 小林富次郎(初代、ライオン歯磨本舗・小林富次郎商店店主)、
 長瀬富郎(初代、長瀬商会代表社員)、江藤直純(弘報堂主)、
 岩谷松平(岩谷商会主)、村井吉兵衛(村井兄弟商会社長)、日比翁助(三越会長)、
 鈴木三郎助(二代、味の素本舗・鈴木商店社長)、森永太一郎(森永製菓社長)、
 野間清治(大日本雄辨会講談社社長)、瀬木博尚(内外通信社<博報堂>社長)、
 三輪善兵衛(二代、丸見屋商店店主)、高木貞衛(万年社社長)、
 平尾賛平(二代、平尾賛平商店社長)、森下博(森下仁丹社長)、
 光永星郎(日本電報通信社社長)。(第二回以降の広告功労者氏名は資料編に掲載)

 翌五一年五月一日、「平和の群像」と、この十七人の氏名を刻んだ銘盤の除幕式が行われた。
 広告功労者の顕彰事業は、この後も五年ごとに功労者の選考が行われ、銘盤に追刻されるという方式で、引き続き実施されている。
 また、創立五十周年を記念して、五〇年七月に『八火伝』(光永星郎初代社長伝記)、五一年一月に『広告五十年史』が刊行された。

●「広告の鬼」と「鬼十則」
 一九五一年(昭和26)七月一日、創立五十一周年記念式典の席上、吉田は、「後半世紀電通の第一年」に当たり、改めて社員の奮起を促し、次のような異例に緊張度の高い言葉で挨拶を締めくくった。

「最後に全社員にお願いする。創業の功労者である光永八火先生は誠に電通の鬼であった。八火先生の眼中には、電通以外何物もなかった。幾度か倒壊の危機に瀕しながら、電通の鬼となることによって、その困難を乗り越え、乗り越え、今日の基礎をお作りになった。時代認識が変わった今日においては、既に個人の社会活動、経済活動が一個人、企業の利益のためにのみ存すべきものではないのでありますから、今日の電通人に臨むところのものは、個人としては“仕事の鬼”となれ、職業人としては“広告の鬼”となれということであります。仕事の鬼となるということは仕事以外眼中何物もなし、広告の鬼となれということは、広告のためには、それ以外眼中何物もないということであり、仕事のためにはすべてを喰い殺せ、広告のためには何物をも犠牲となし、踏み台とせよということです。
それが電通後半世紀の第一年において、皆さんにお願いする最要の言葉であります。すべてのお願いは、この言葉に尽きております。仕事の鬼になる、広告の鬼となる、これがまた諸君の生活内容を充実し、諸君の社会的、経済的、文化的立場を向上していく唯一の道でもあるのであります」

 個人としては「仕事の鬼」となり、職業人としては「広告の鬼」となれという言葉には、電通の発展を通じて、日本の広告代理業界、さらには日本の広告界の発展を推し進めることに文字通り全精力を傾けてきた吉田の執念が、象徴的に示されていたといえよう。
 翌八月、吉田は、その鬼となる心得を、次のような有名な「鬼十則」にまとめて全社員に示した。


 電通「鬼十則」

  1. 仕事ハ自ラ「創ル」可キデ 与エラレル可キデナイ
  2. 仕事トハ 先手先手ト「働キ掛ケ」テ行クコトデ受ケ身デヤルモノデハナイ
  3. 「大キナ仕事」ト取リ組メ 小サナ仕事ハ己レヲ小サクスル
  4. 「難シイ仕事」ヲ狙エ ソシテ之ヲ成シ遂ゲル所ニ進歩ガアル
  5. 取リ組ンダラ「放スナ」 殺サレテモ放スナ 目的完遂マデハ
  6. 周囲ヲ「引キ摺リ廻セ」 引キ摺ルノト引キ摺ラレルノトデハ永イ間ニ天地ノヒラキガ出来ル
  7. 「計画」ヲ持テ 長期ノ計画ヲ持ッテ居レバ忍耐ト工夫トソシテ正シイ努力ト希望ガ生レル
  8. 「自信」ヲ持テ 自信ガナイカラ君ノ仕事ニハ迫力モ粘リモソシテ厚味スラガナイ
  9. 頭ハ常ニ「全廻転」 八方ニ気ヲ配ッテ一分ノ隙モアッテハナラヌ サービストハソノヨウナモノダ
  10. 「摩擦ヲ怖レルナ」 摩擦ハ進歩ノ母 積極ノ肥料ダ デナイト君ハ卑屈未練ニナル

 吉田は翌五二年一月元旦の挨拶で、重ねて「広告の鬼」に言及し、その意味を次のように語った。
「この体制でどうして来るべき激しい競争に打ち克つことができよう。これで、どうして、電通が日本の広告界に背負っている大きな責任とその大理想を実現できよう。……私は諸君に『われ広告の鬼とならん』と宣言した。広告の鬼になるということは、人のためではなく、自分のためだ。お互いが広告の鬼となって、広告の最高峰になるのだ。広告界の最高峰になることは、非常に困難なことであり、しかも今日の日本にとって最も要望されている道なのだ。
 その道は遠く遥かである。しかも荊棘に充ち満ちている」
 単に電通のことだけでなく、常に日本の広告代理業界、さらに日本の広告界全体の発展を目指すという理想を追求してやまなかった点に、吉田の真骨頂があった。また、その理想ゆえに、後半世紀の電通の飛躍的発展があったといえる。吉田は、こうして電通の新しい飛躍にための精神的基盤を固めようと常に努力した。
 なお、五一年七月の創立五十一周年記念日に際して、電通手帳が全社員に配布された。以後毎年創立記念日に配布され、後五八年に「DEN NOTE」と名付けられ今日に至っている。
 これと同じく電通の「電」を冠したもので社員や関係者に親しまれているものに「でんまん」や「でんかっぷ」がある。「でんまん」は、五二年から一月元旦の新年仕事始めと七月一日の創立記念日に全社員に贈られることになった祝賀の特大の饅頭である。「でんかっぷ」は電通主催のゴルフコンペの優勝者に贈られる電通杯のことで、五二年八月、箱根仙石ゴルフコースで広告主を招待して開かれた大会が最初である。
 ところで、五〇年十二月十七日、電通従業員組合(当時、組合員数約千四百人)は、期末一時金要求等を掲げて初めて全日ストを実施した。

(ここでおわり、「第五章 民放時代の開幕と新聞界の自由競争の復活」につづく)

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー