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COLUMN「カルピス食品工業株式会社」その2
- VOL.18
- 小川 真理生さん
ここでは、「カルピス食品工業株式会社」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第18回 「カルピス食品工業株式会社」その2
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今回も「カルピス食品工業株式会社」の社史「70年のあゆみ」である。前回の第1節につづいて、第2節を引用する。
第2節 カルピス食品工業株式会社の誕生
1.戦時保険金問題と第2会社設立
戦時保険金の全額返済問題
当社は、戦災で設備・施設のいっさいを失ったが、会社再建にあたって、終戦直後に交付された戦時保険金520万円が用いられたことは既述のとおりである。しかし、工場が建ち設備が整い、生産が再開された直後に、今度はその受け取った520万円のために、当社は倒産寸前の危機に立たされることになった。
当時、問題の処理に当たった中道健太郎(元・取締役社長)は、この間の経緯を回顧してつぎのように記している。
「終戦時のカルピス会社は、戦災で丸裸の状態でスタートした。幸い戦時保険金520万円が貰えたので、それを再建の足がかりとして使用した。ところが、翌昭和21年の夏、戦時補償打切り令が公布され、すでに戦時補償金を貰った会社は、即刻全額返せ、税金として取り上げるという通告を受けた。当社としては、その520万円は、すでに一部は設備資金に、一部は運転資金として使ってしまっている。したがって戻すとなると、520万円を新規につくって返さなくてはならない。当時の520万円は大金である。それを調達するとなると、会社はたちまち大きな債務超過になり、破産してしまう。カルピス会社の全員は困ったことになったと天を仰いで嘆息した。しかし、いくら天を仰いで嘆息しても、天からお金は降ってこない。なんとか、この苦境を乗り切る方法はないだろうかと、みんな真剣に考えた。当時、私は、経理を担当していた。そこで大蔵省や日銀に、『戦時保険金即刻返済をなんとかしてもらえないでしょうか』といった趣旨の嘆願の為、毎日通った」(社内報『美寿多満』、昭和52年8月)
昭和21年(1946)8月8日、第1次吉田内閣の閣議で戦時補償打切りの方針が決まり、10日、衆議院予算委員会で石橋蔵相によりこの方針が明らかにされた。政府がこの戦時補償打切りの方針を決定するにあたっては、GHQ(連合国総司令部)の意向が強く働いていた。すなわち、GHQは、日本政府に、企業に対する戦時補償特別税の実施を要求してきたのである。
このとき相前後して徴収することが決まった税金に、財産税がある。この財産税の徴収は、日本政府が、戦後の破局的なインフレを収束し破綻に瀕した国の財政を立て直すために、全国民に「戦死したつもりになって」払ってもらおうと決めたことであった。10万円以上の財産に対する25%から累進して、1500万円以上になると90%という高税率の超重税が、皇族も例外とせず賦課された。そしてこの財産税は、それまで特権階級として日本の社会に君臨していた旧華族や地主、財閥などを一挙に没落させた、空前絶後の厳しい没収税だった。GHQは、個人と同時に法人に対しても同様に、戦争は割に合わないビジネスであることを思い知らせるため、戦時補償の未払分を含めたすべてに対し、100%の税率で課税するように要求してきたのであった。
敗戦を喫している日本政府は、この要求をのまざるをえない状況にあり、その対応策として、21年8月12日、打切りに伴う「戦後経済再建整備措置大綱」を発表、続いて15日には、会社経理の新旧勘定の分離と、新勘定による再出発を想定した「会社経理応急措置法」「金融機関経理応急措置法」を公布した。この二つの応急措置法は、戦時補償特別税徴収の前段階として発令されたものであり、現金や設備、商品など確実な資産、負債だけを新勘定に移し、戦時補償の請求権など不確実なものは旧勘定として凍結し、新勘定だけで改めて営業活動を継続するよう各会社に通達された。
戦時補償というのは「国家総動員法」や「軍需会社法」などに基づく各種の補助金や損失補償金、「防空法」に基づく工場・事業所などの疎開費、軍需品の対価、沈没した徴用船舶の補償金などから、当社の場合のような戦時保険金までを含めた戦時中の戦争にかかわる国の債務のすべてである。そして、その総額は、当時の国民総生産4500億円の約21%に当たる960億円余にのぼっていた。またその大半は未払いであり、国が全部を支払うには膨大な国債でも発行しなければならず、財政の赤字はそれだけ増えるとともに、インフレをさらに助長することになる。そこで政府は、企業のもつ戦時補償の請求権に対し、100分の100という税率を賦課することにより、国の借金を消滅させる方法をとることにしたのである。
そして、21年10月、「戦時補償特別措置法」が制定され、国が支払うべき戦時保険金が、そのまま戦時補償特別税として徴収されることとなった。それと同時に、この実施により、多額の債務をもっていた企業や、それらの企業に融資していた銀行の倒産を救済するための「企業再建整備法」と「金融機関再建整備法」が公布された。これらの法律は、さきに会社経理応急措置法によって旧勘定に分離し、戦時補償特別措置法によって最終的には企業にとって損失となった戦時補償の債権を、積立金の取崩しや減資などで穴埋めし、それが完了したのちに、新勘定を中心とする第2会社を設立するという手順を決めたものだった。
しかし、これらの法律は、まだ戦時保険金を支払われていない企業にとっては一応の救済策であっても、当社のようにすでに受け取った企業にとっては会社の存亡にかかわる大問題であった。しかも当社は、すでに会社再建のための資金として使ってしまっており、返すには改めて借金をしなければならない。そして政府からの返済要求は、戦時補償特別税という税金であり、納めなければ取り立てられるだけである。520万円という大金を借金する方策もないまま、当社は、重大な危機に直面したのだった。
第2会社設立へ
戦時保険金返済問題で、従業員一同、頭をかかえ込んでいるなかで、一人動じなかったのは社長の三島海雲であった。中島健太郎は同じく回顧録につぎのように記している。
「私はしばしば三島社長に、『戦時保険金の返済問題は、容易なことではありません。もしかすると会社は破産です』と言い、経理の内容をいろいろ説明した。しかし三島社長は悠揚迫らざる姿勢であった。第一、三島社長は経理の事は余りわからない。ただ『そんなに悲観することはない。会社がそうそう潰れてたまるものか。カルピスはすぐれた製品である。自信をもって事に当れ』と毅然とした態度で言うのであった。そういわれると、私としても、また勇気が出る。社長のいうとおりかも知れないと、また嘆願のための役所通いを続けるのであった。言葉をかえていうと、三島社長からは、戦時保険金返済問題について、具体的な指示はひとつも受けたことはなかったが、どんな困難にも負けてはならないというバックボーンを植えつけられたということである」(『美寿多満』、昭和52年8月)
三島社長のこの目先にとらわれない、先を見通した態度と言葉は、危機感をつのっていた当社にとって何よりも心強い力となった。そして、海雲が確固として会社存続の信念をもっていたとおり、それから2年後の昭和23年(1948)9月、企業再建整備法の施行規則を決めた大蔵省令が改正されて、やっと戦時保険金の返済問題が解決できることになった。その改正の要点は、戦時補償特別税が納め切れず破産の恐れのある会社は、会社の資産を全部出資して第2会社をつくり、その株券を政府に物納することによって戦時保険金返済の代用と認める、というものであった。
そこで当社も、さっそく、その大蔵省の指示に従って、第2会社設立の準備にかかった。それまでの第1会社は破産ということにして、まず第1会社の所有する土地、建物、設備、資材などを200万円と評価し、これを現物出資することにした。しかし、資本金200万円の会社を設立すれば、第2会社設立と同時にその全株を税金として納めることになり、当社は政府の会社になってしまう。そこで現物出資200万円のほかに、海雲をはじめとする当時の役員が100万円を出資し、資本金300万円の株式会社として再出発することになった。
このようにして、第1会社は解散し、戦時保険金520万円のうち、第2会社の株券200万円を政府に納めて返済したこととし、残る320万円は支払免除の措置を受けることができた。また第1会社には、銀行その他からいくらかの借金があったが、これらも第1会社の借金ということで、第1会社の解散とともに返済義務を消滅させてもらった。こうした経緯を経て、23年12月14日、当社の法人としての第2会社、すなわち、現在の「カルピス食品工業株式会社」が誕生したのである。
新会社は、旧会社の事業年度が終わるのを待って、23年12月1日、創立総会を開いた。そして12月14日、設立登記を終了し、当社は新しいスタートを切った。新会社発足当時、従業員は、職員53名、現業員62名、計115名だった。
2.新会社の経営活動
相つぐ増資と株式上場
昭和23年(1948)12月、こうして再出発した当社は、翌24年4月、資本金を300万円から一挙に1000万円に増資した。このときの増資で特記されるのは、その増資資金が、戦前から取引のあった全国各地の有力卸店の協力出資によるものであったことである。
戦後は流通業界の情勢も大きく変わってきて、ことに地方の末端市場を直接掌握しているこれらの卸店との連携をより緊密化していくことが、大きな課題となりつつあった。当社は新会社スタートの挨拶も兼ねて、営業担当の役員が全国の有力卸店を一軒一軒訪ねて歩き、その出資と応援を依頼した。その結果、増資資金700万円の大部分は、約60店が出資を引き受けてくれることになった。そしてこの段階で、戦前からの発売元であった國分・祭原両支店の大乗的見地での了解のもとに、これらの出資を引き受けてくれた卸店が新しく当社の特約店となったのである。
新会社として発足した直後に、このような特約店を設けたことは、その後、当社が販売網を拡大し、流通段階を組織化していくうえで、非常に有力な協力者を得たこととなった。すなわちこれらの特約店は、単なる特約店といった以上の親近感をもってカルピスの販路開拓に努力してくれたし、またのちに、当社の販売網を支える強力な柱となった卸店の組織である「カルピス会」も、これらの特約店が核になって形成されたものだったからである。
なお、このときの増資資金700万円は、主として東京・甲府両工場のカルピス生産設備の増強に使用された。
新会社として順調かつ意欲的なスタートを切った当社は、24年12月、再び増資を行なった。4月に1000万円に増資した資本を、さらにその2.5倍の2500万円に増やしたのである。すなわち、前回の増資以前の300万円にくらべると、わずか7か月のあいだに、8.3倍という大増資となった。前回の増資は、その主な出資を特約店に頼ったが、このときは、非常な英断で株式を同年11月に東京証券市場に上場し、増資資金のうちの一部を公募した。増資資金1500万円のうち、1000万円はそれまでの株主に1対1の割当をし、残りの500万円は株式を証券市場に売り出して一般から募集したのである。
カルピスはそのときすでに発売以来30年を過ぎており、知名度、信頼度ともに十分に消費者のあいだに浸透していた。戦災、あるいは戦時保険金返済問題などで、大きな動揺はあったものの、当社に対する一般の信用は厚く、500万円の新株式は予想外の早さで完売することができた。この増資によって得た1500万円は、主としてつぎに述べる大阪工場の建設資金に充てられた。
大阪工場の建設
当社が戦前、関西市場の営業活動を担当する会社として設立した関西カルピス製造販売(株)は、終戦の年の3月、事務所が戦災を受けて焼失して以後、業務を休止したままになっていた。そのため関西市場では、(株)祭原商店ほか何店かの卸店と本社との取引を通じて営業活動が続けられていた。
昭和23年(1948)、東京工場におけるカルピスの生産再開を目前に控えた1月、当社は大阪出張所を大阪市福島区に再び開設して、関西市場の開拓に乗り出した。そして、関西カルピス製造販売(株)は、同年12月、当社が第2会社として再出発する時点で、正式な手続きをとって解散した。なお、大阪出張所は25年1月、大阪営業所に昇格した。
大阪にカルピスの生産設備をもつことは、当社にとって戦前からの念願であった。13年に大阪出張所を廃止し、その営業権を継承して関西カルピス製造販売(株)を設立したが、その社名に「製造」という文字を入れたのは、同社を単なるカルピスの販売会社とせず、いずれ工場を建設してカルピスを生産することを意図していたからである。
24年、当社はその長年の念願である大阪工場の建設計画を実現するため、大阪市住吉区に902.5㎡の工場用敷地を入手した。同年10月末、建坪148.4㎡の工場を完成、カルピスの生産設備を設置して、翌11月より操業に入った。
この大阪工場の開設と並行して、24年11月、同工場でつくるカルピスの原料乳を確保するため、当社は徳島県板野郡大山村(現・上坂町)に徳島分工場を開設し、集乳拠点とした。と同時に、酸乳生産設備を設置し、集めた原料乳で酸乳をつくり大阪工場に送る体制を整えた。同分工場の酸乳生産能力は日産0.54㎘で、製品は勝山分工場の場合と同様、樽詰めにして船便で徳島から大阪まで運んだ。
ついで25年6月、香川県三豊郡詫間町に香川分工場を開設、同分工場にも酸乳生産設備を設置して酸乳をつくり、船便で大阪に運んだ。香川分工場の酸乳生産能力は、日産0.36㎘であった。
大阪工場の当初の生産能力は、大壜換算で日産1600本であり、一般市販用カルピスと学校給食用カルピスを生産した。学校給食用カルピスは、大阪・神戸などの官庁指示により大阪市ほか主要都市の学校給食協会に納入されたものである。戦後、食糧不足のとき、進駐軍の放出物資である脱脂粉乳が学童給食用として配給された。しかし、放出脱脂粉乳は味が悪く、学童たちにとってかなり飲みづらいものであった。そこで当社は、学校給食協会の要請を受け、この脱脂粉乳をおいしく飲ませる方法として、特殊規格のビタミン入りカルピスを加えて飲ませてみた。学童たちはそれを喜んで飲んだため、以後、これを給食用として納入することとなり、この学校給食用カルピスは40年ごろまで生産された。
大阪工場がその後、敷地を広げ建物を増築し、設備を増強して本格的なカルピス生産工場となるのは、27年に入ってからである。
積極的拡販政策の展開
当社がカルピスの生産を再開した昭和22~23年(1947~48)当時、甘みを有する製品はまだまだ不足しており、したがってカルピスに対する需要は多く、生産が追いつかないほどであった。当社はそれに対応するため設備能力を増強しながら、意欲的に生産を伸ばしていった。
また清涼飲料業界自体も、人工甘味料や水飴の統制解除により、非常に活気を帯びていた。さらに牛乳・乳製品も25年には統制解除となり、飲料業界・乳業界ともに自由競争時代となり、カルピスに追随する類似品が続々と登場してきた。なかには問題にならない粗悪なものもあったが、大資本をバックにしたものには、当社として無視できないものもあった。当然のことながら当社は、乳酸菌飲料の草分けでもある長い伝統とこれまで築き上げてきた地位を守るべく、積極的に拡販政策を行なった。
その一つに、大々的な宣伝広告があった。戦前における当社の宣伝広告は、その斬新なアイディアで世間の耳目を引き、カルピスの普及と発展に多大の効果を収めてきた。戦中・戦後は、経済活動の規制により中止を余儀なくされてきたが、いまや当社が新会社として再出発し増資を果たした時期でもあり、過去数年間の空白を取り戻すとともに、類似品に対抗してこの期に一気に売上げを伸ばそうという意気込みから、積極的に宣伝広告に乗り出したのだった。
まず新聞・雑誌広告から始まり、ネオン看板や鉄道沿線の野立看板(東海道線・中央線・高崎線・信越線)の設置、小売店を対象とした軒吊り看板・ほうろう看板・ポスター・立看板等の配布、後楽園・甲子園など野球場への看板設置、人気のある遊園地あるいは富士山の山小屋や山頂への製品名入りベンチ・寒暖計の設置など、戦前に劣らぬ、きめ細かな地域作戦を展開していった。
また、直接、消費者にカルピスを飲んでもらって、他社製品との味の違いを知ってもらう試飲宣伝も、さまざまな方法で行なわれた。京浜・京阪神地区の主要百貨店では、マネキンによる試飲即売会を実施、また、鎌倉・逗子・葉山などの海水浴場では、シーズン中の毎週土・日曜日に「銀座カンカン娘」のリズムに乗ったにぎやかなイベントが繰り広げられた。
「銀座カンカン娘」(佐伯孝夫作詞、服部良一作曲)は、25年当時流行した歌謡曲である。敗戦に打ちひしがれていた日本人の心を元気づけた歌の一つだが、その四番の歌詞に「カルピス飲んでカンカン娘…」というくだりがある。当時の世相を盛り込んだ流行歌に、当社のカルピスが登場するわけだが、当社は、この歌が世に出たあとでそのことを知ったのである。これは、戦前・戦後の宣伝広告活動をとおして、カルピスが消費者のなかでいかに確固たる存在感を有していたかを示す、興味深い例といえよう。
劇場や映画館とのタイアップも行なわれた。新橋演舞場と日本劇場の入口の両側に、カルピスの2ダース入り木箱を山積みし、大量陳列により視覚効果をねらった。また、映画館への売店設置、入場者へのカルピス半額試飲券配布、野球場での希釈カルピス販売、遊園地売店でのカルピスコップ売りなど、宣伝手段として利用できるものはすべて効果的に使用した。
また、カルピスのオールシーズン化をさらに一層普及させるためのキャンペーンも活発だった。類似品との激戦に勝ち抜くため、「冬の飲み物ホットでおいしく昔の味を」「そろそろホットのうまい頃!」という新聞広告をはじめ、各地のスキー場やスケート場あるいは劇場などで、ホットカルピスの試飲宣伝を行なった。さらには消費者キャンペーンとして、カルピスあるいはビタカルピスを飲んだあとの実感を標語にして応募してもらう、賞金総額100万円にのぼる実感標語懸賞など、当社のもてるエネルギーを存分に燃やした積極的な拡販政策がとられた。
経営危機の発生
昭和25年(1950)に入り、清涼飲料業界の販売合戦、広告合戦が激烈をきわめたことは既述の通りである。有名・無名の新規製品、カルピス類似品の出現もあとを絶たず、市場は需要過剰の時代から供給過剰の時代へ移り変わろうとしていた。消費者が、甘いものならなんでもおいしく感じそれに飛びつくといった購買姿勢から、よい製品を選んで買い求めるという姿勢に徐々に変化してきているのに対し、生産者側は販売合戦に勝ち抜くため、結果として供給過剰となりつつあった。すなわち、限られたシェア、消費者の購買力をめぐって、各社が鎬を削ることになっていたからである。
昭和25年度版の『日本食糧年鑑』に「終戦直後の清飲業界は、混乱と品不足に乗じ、所謂新興業者が簇生、品質体裁の吟味もせず、既存業者に伍して出回ったが、逐年消費者の嗜好も落ちつき、品質を選択する方向へ移行、既存業者の製造能力も旧に復してきた為、新旧業者共戦時中の如く『売ってやる』式の営業方針を一擲、品質向上、容器包装の工夫、顧客筋へのサービスに留意するようになり、24年に至って漸やく万事が常道に復した。それかあらぬか各地共激烈な販売戦を展開、最盛期に至らぬ中に乱戦の様相を呈した」との記述があるが、当社もその影響を全面的に受けたのだった。
当社が24年12月に、それまでの人工甘味料を使用した人甘カルピスの生産を中止し、水飴を使用した特製カルピスに切り替え、さらに、差別化製品として25年には特製ビタカルピスや薬用ビタカルピスを戦列に加えたことはすでに述べたが、これらの商品化戦略も、供給過剰の飲料市場のなかで勝ち抜き生き残るための、必死に考えられた手段であった。
加えて、25年1月1日から、それまで清涼飲料に課せられていた物品税が50%から30%に引き下げられたことも、各社の宣伝広告活動を助長することとなった。本来なら、物品税が下がれば製品価格を下げねばならないのだが、激しいインフレと、少しでも余力ができれば宣伝広告活動に投入したいという生産者側の理由もあって、販売合戦はさらに激化する結果となった。
確かに、25年上期までの当社のカルピスの売行きは好調で、商品化政策や宣伝広告施策が的中したかにみえた。しかし、下期に入ると極度の窮地に立たされることとなった。すなわち、膨大な返品の発生である。
人甘カルピスと特製カルピスとは、当然消費者価格に差があり、したがって、需要が旺盛なときであれば、それぞれに消費者があって決して不思議ではない。しかしこのころは、消費者が品質選択の時代に入っていた時期であったため、特製カルピスの発売により人甘カルピスの返品が起きたのである。さらに、特製ビタカルピス、薬用ビタカルピスも、いまひとつ市場に定着するにいたらず、これらが相まって、25年下期の売上げは上期の29.8%に激減してしまった。
25年11月に当社は資本金を倍額の5000万円に増資したが、同年12月期の決算は、増資前の資本金2500万円を上回る2768万円の欠損をだし、物品税は滞納、配当も前期の10%から無配とせざるをえなくなった。焼け跡のなかから、汗みどろになって会社再建を果たし、戦時保険金返済問題も解決して、第2会社設立で従業員一同が一致団結し、さらに飛躍すべく活動を開始してわずか2年、当社は再び非常な苦境に立つことになったのである。
当時の清涼飲料業界の状況を、昭和26年度版『日本食糧年鑑』はつぎのように記している。「昭和25年4月『幼児食品需給調整規則』の廃止によって乳製品が自由となったため、乳酸(菌)飲料製造の制約が解かれたのと、使用甘味剤としてグリコース、水飴等が人工甘味に併用出来るという条件が重なって、有名無名の各社が挙って製造に乗り出したため他の飲料水と共に店頭を賑々しく飾った。(中略)鉦や太鼓で宣伝した程思惑通りの消費量があったかといえば、決してそうではなかった。カルピス会社を始め各社がたてた目標600万本の約3分の1に相当する200万本からせいぜい250万本が現在の国民の消費限界だったことが判明(後略)」
すなわち25年は、当社のみならず、清涼飲料業界あるいは乳酸菌飲料業界全体にとって、一様に試練を受けた年であった。国民の消費限界を超えた生産と、鎬を削る販売合戦と宣伝広告合戦で、結果的に共倒れになる状況を生み出してしまったのである。当社のこの25年の危機も、見通しの甘い生産計画と過大な宣伝投資にあったという見方が、当時としては絶対的なものであった。
しかし、次章で述べる当社の立直りの早さとその後の発展からみたとき、それらは当時の経営者が、市場における当社の地位を守るため懸命に考えた手段でもあったといえるであろう。また当社の長い歴史の流れのなかで、この時期に宣伝広告に投入した膨大な費用は単に無為に終わったわけではなく、その後当社が立ち直るにあたって多大な助けとなったという評価が、のちになってでてきたこともまた事実である。
確かに痛手は被ったけれども、この激戦のなかで当社が示した戦前からの歴史を基盤とする経営姿勢や、カルピスという製品のもつ確かさが、特約店あるいは銀行の当社に対する信用を呼び、当社を再びその危機から脱出させる力となるのである。
以上がカルピス食品工業株式会社が占領期にあゆんだ道を、社史はどう記録しているかを見たものである。「銀座カンカン娘」の作詞家・佐伯孝夫は、カルピスを歌に盛り込んでいたのかと感慨深いものがあった。
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー