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COLUMN「カルピス食品工業株式会社」その1
- VOL.17
- 小川 真理生さん
ここでは、「カルピス食品工業株式会社」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第17回 「カルピス食品工業株式会社」その1
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日本占領軍から「コカ・コーラ」の味を教えられたというエピソードはよく聞く。では、日本の清涼飲料水「カルピス」はどうかということで、「カルピス食品工業株式会社」の社史「70年のあゆみ」をのぞいてみた。
その「第3章 戦後の復興と経営危機(昭和20~25年)」の第1節から引用する。
第1節 会社復興への苦闘
1.工場再建への努力
終戦前後の再建活動
昭和20年(1945)8月の終戦の日から朝鮮動乱の勃発した25年ごろまでは、わが国が戦後の荒廃と混乱のなかで飢餓戸窮乏に苦しみ、インフレと戦いながら、復興再建の道を模索していた時期である。当社も例外ではなく、戦災で工場・設備のすべてを失いながらも、その翌日から会社再建に向けて第一歩を踏み出していった。
東京工場では20年5月22日に空襲を受けたあと、まず焼け跡の整理から再建が始まった。まだ硝煙の立ち込めるなか、従業員たちは真っ黒になって灰掻きに明け暮れる日々を送った。食糧事情が極端に悪い時期であり、空腹をかかえての作業だったが、昼に給食としてだされた栗粥が鮮やかな思い出となって、のちのちまで多くの従業員の胸に残ったものである。
焼け跡は徐々に片づいていった。しかし、終戦を迎えるまでは、いつまた空襲を受けるかわからない状態であった。そのなかで、再建へのめどが立てられていった。当時牛乳は、飼料も人手もないために極端に不足しており、カルピスの生産を再開することは当面不可能だった。しかも、滋養に富むとはいえ嗜好性の強い飲料でもあり、カルピス生産のために工場再建を関係官庁に願い出ても、許可されることは難しかった。その再建が戦争を遂行するうえで緊急に必要があると認められない限り、すぐには許可は下りなかったのである。
そこで取り上げられたのが、19年の初めごろから生産していた厚生乳だった。厚生乳はつくり始めた当初から、育児用・病人用として全量を東京都の指示に従い都内の病院に納入し、病人や妊産婦から非常に喜ばれていた。この厚生乳を、不足している牛乳の代用品として引き続き生産するということで、農商省(20年8月26日、農林省と商工省に分離)と厚生省に許可を願い出た。同時に東京都にも復興資材の割当を申請した。
この再建計画が認められ、東京都から復興資材割当の正式通知がでたのは20年7月12日、厚生省から許可がでたのは9月28日、そして農林省から復興指令が交付されたのは10月15日だった。
これらの許可がでた前後のわが国は、いうまでもなく空襲による被害や敗戦という未曽有の出来事のなかで、混乱をきわめた状況であった。官庁もすべて戦災を被り、焼け跡のバラックや焼け残りの住居を仮事務所として執務するという状態だった。このようななかで復興指令が交付されたということは、官庁側でも厚生乳の生産を緊急事業として、いかに重要視していたかを物語るものである。まさに厚生乳は、当社にとっても「更生の乳」だったのである。
工場再建の資金としては、戦時保険金520万円を充てることができた。この戦時保険金は、太平洋戦争が始まった16年に「戦争保険臨時措置法」としてできたものが、19年、「戦時特殊損害保険法」として制度化されたものである。すなわち、戦争により損害にあったものに対する保障制度であるが、ふつうは交付されても特殊預金として事実上封鎖され、容易には現金化されなかった。まして、経済混乱期である。交付を受けた翌年の21年には、旧円が新円に切り替えられたように、まさにわが国も混沌とした状況のなかから新しい経済体制への立直しを図っている時期であり、インフレ防止のためにも、現金として渡されるということはほとんどなかった。しかし、当社の陳情努力と、厚生乳生産の緊急性が認められたことにより、工場再建に必要な資金520万円を、全額現金化することができたのである。
20年9月に工場再建が始まると同時に、当社は、雇用体制も整えていった。同年の11月、従業員全員にいったん辞表を提出してもらい、必要な人数だけを再雇用するというかたちで人員を減らした。戦時中の軍需工場時代とは違って、戦後ささやかに再出発するには、いささか従業員が多すぎたためである。
東京工場の再建
東京工場の再建が完了したのは昭和21年(1946)7月である。被災してから復興までの1年2か月、当社は、ひたすら工場建設と設備を整えることに全精力を傾けた。従業員たちは、テントで事務をとり、焼け跡を片づけながら、工場の建設にも携わるという、まさに汗みどろの毎日であった。
また、復興指令を交付され、建設に要する資材や機械の斡旋を受けることになったものの、資材を実際に手にするまではたいへんな苦労を要した。関係官庁に頭を下げて回り、証明書をもらい、その証明書を持って、配給所に行くのだが、一面焼け野原のため、その配給所を捜し出すのも容易ではなかった。そのうえ、当時は、金よりも物資の方が価値があり、金だけではなかなか資材を譲ってもらえず、焼けずに残っていたわずかなカルピスを添えて、やっと資材を配給してもらえる有様だった。カルピスは、戦前当社の土台を築き、大発展をもたらした製品であるが、戦後の当社の再建にもおおいに役立ったのである。
このような苦労を重ねながら工場ができあがった。完成した工場は木造トタン葺きのバラックだったが、しかし、工場本屋396㎡、本社社屋231.4㎡、倉庫92.4㎡、ボイラー室72.6㎡、石炭置場上屋82.5㎡、醗酵室49.5㎡、ほかに冷凍室、麦芽冷凍別室、変電室、給水室、クーラー室、炊事室、浴室、守衛室など建坪計1098.9㎡の建物が焼土の中に建ったときの従業員一同の感動は、筆舌に尽くしがたいものだった。
21年7月28日、工場完成と同時に試運転に入り、8月1日からいよいよ厚生乳の生産が開始されることになった。
厚生乳と副製品の生産・販売
東京工場では、昭和21年(1946)8月1日から厚生乳の生産を始めたが、当初の生産量は日産1㎘前後だった。製品は全量が東京乳業株式会社に納入された。当時、東京乳業(株)は東京都における配給統制会社であり、厚生乳は同社をとおして都の病院に乳幼児の代用牛乳として供給された。
生産を再開し継続していくうえで最も苦労したのは、機器類の調達や、原料、資材、副資材、燃料などの確保だった。たとえば、大豆をすりつぶす磨砕機は、工場が完成してもなかなか手に入らず、機械化するまでしばらくのあいだ、近所の豆腐屋から石臼を借りて、手作業ですりつぶすという苦難の時代があった。
主原料の大豆と粟は、必需品である牛乳の代用品をつくる原料ということで優先的に割当をもらえたが、割当分の現物が用意されていたわけではないため、それを確保するのがたいへんで、原料担当者は東京都庁や農林省の関係部課に日参しなければならなかった。厚生乳の生産量は当初、目標を1.8㎘においていたが、原料が手に入らず、結局目標には到達しなかった。
また燃料である石炭の確保にも苦労した。その石炭を絶やさないために、燃料係も連日各方面を駆け回って石炭の確保につとめなければならなかった。それでもときどき、燃料不足のためにボイラーがとまるという事態が起き、厚生乳の生産には、たいへんな労力を要したのだった。
この時期、厚生乳の原料として、やっとの思いで手に入れた大豆と粟を、少しでも無駄にしないように、さまざまな製品をつくった。大豆のしぼりかすのオカラは、卯の花としても売ったが、より付加価値を高くするために、人工甘味料で甘みをつけ、近所の菓子職人に依頼して形を整え、「オカラケーキ」として販売した。一方、粟のかすはほとんどが固い外皮なので、そのままではどうしても食べ物にはならなかった。そこでこれは、塩酸で処理して、アミノ酸醤油をつくったり、粟をそのまま糖化させて飴をつくったりもした。
こうしたさまざまなものをつくったのは、貴重な原料を余すことなく利用するためでもあったが、当社にとっては本来の製品であるカルピスの生産が再開できるようになるまで、なんとかして社業を継続し、多数の従業員の生活を維持していくためでもあった。
(製品別売上高とその比率の表、省略)
甲府工場の再建と人工甘味料使用カルピスの生産
甲府工場が戦災により焼失したのは、既述のとおり昭和20年(1945)7月6日である。そのときの空襲で、甲府市は一夜にして全市の住宅の76%が焼失したが、同工場でも工場長以下十数名の従業員の全員が罹災した。そして、8月15日の終戦を迎えたが、当社は一刻も早く再建に向けての活動を始めるために、甲府市愛宕町の市乳業者甲府精乳舎の店舗の一部を借りて甲府工場の復興業務を開始した。
以後、工場長と従業員は、山梨県庁の資材調整事務所や当時東山梨郡塩山町(現・塩山市)にあった陸軍糧秣廠の支所に、資材や機器類の融通あるいは払下げを申請するため、連日奔走した。と同時に、同年10月には、工場焼け跡の正門わきに建坪約66㎡の、バラックではあるが仮事務所を建てて、工場再建と事業再開のための本格的な行動を開始した。
翌21年10月、工場ならびに工場事務所が完成した。当時、甲府工場の敷地は4002.9㎡あり、その中に約198.4㎡の木造2階建ての事務所と、約826.7㎡の木造スレート葺き平屋の工場のほか、倉庫、ボイラー室などが建設された。
工場には、原料乳殺菌設備、酸乳、脱脂乳、バターなどの生産設備と、東京から送られてきたカルピス生産設備が設置された。このカルピス生産設備は、既述のとおり、戦前当社の傘下にあった昭和製乳(株)小松川工場のもので、同工場がカルピスの生産を中止したのち、解体して下馬倉庫に保管してあったため、戦災を免れることができたのだった。
工場完成とともに、さっそく、製酪事業が再開された。戦災後、当社酪農地盤の酪農家たちも、しだいに牛乳の生産を再開し、甲府工場に原料乳が集まり始めたが、同工場はまだカルピス生産までの体制が整っていなかった。そこでとりあえず、集めた原料乳を、甲府精乳舎に市乳向け原料乳として販売したのである。またバター、カゼインの生産も工場完成と同時に再開されたが、バターは山梨県庁の指示により、妊産婦・外国人向けとして納入された。
22年1月になると、甲府精乳舎への原料乳販売を中止し、カルピス生産の準備に入った。そして、2月10日、いよいよカルピスの生産が始まったのである。しかし、当時、砂糖はまだ統制下にあって、自由に使用することができなかった。そこで人工甘味料のサッカリンやズルチンで甘みをつけた。いわゆる「人甘カルピス」である。
サッカリンは、全国清涼飲料工業組合連合会が、砂糖代替甘味料としての使用許可を官庁に働きかけたのだが、その結果、含有量を表示することにより、21年5月から使用できるようになっていた。そして、同年7月4日付で厚生省令の諸取締規則が改正され、ズルチンの使用も許可となった。ただし、23年9月までは、サッカリンもズルチンも統制下にあり、カルピス生産再開当初は、入手が容易ではなかった。
これらの人工甘味料は、現在は使用が厳しく制限されたり、あるいは禁止されているが、当時は、砂糖不足を補う甘味料としてこのように広く利用が許可されていたのである。
この人工甘味料使用のカルピスは、甘みはあったものの、その品質、風味、栄養価などは砂糖使用のカルピスとは比べようもなかった。しかし、甘み不足の市場では非常に歓迎され、同工場では、当初大壜(630mℓ)換算で日産2000本を生産し、その製品は本社の指示により、東京・大阪に送られ、戦前から取引のあった卸店をとおして小売店に販売された。
甲府工場はカルピスの生産を再開したことにより、順調に復興していったが、集乳には苦労した。再開当初の処理量は日産0.54㎘程度にすぎなかった。当時の記録に、この処理量を日産1.08㎘ぐらいまで伸ばせれば、工場の収支は償えるし、目標としてはなるべく早く1.8㎘までもっていきたいが、そのためには飼料を確保して契約農家を増やし、契約農家の乳牛飼育頭数を増加することが先決である、との記述がみられる。
従業員労働組合の結成(省略)
東京工場でのカルピス生産再開
昭和23年(1948)5月、東京工場でついに待望のカルピスの生産が再開された。カルピスは、すでに甲府工場では前年の2月から生産に入っていたが、東京ではカルピス生産に着手できるほど原料乳が確保できなかったことから、再開は大きく遅れていた。23年4月、勝山分工場が再開された。同分工場では朝日乳業株式会社(現・明治乳業(株))から脱脂乳の供給を受け、酸乳を生産して東京に送る体制が整ったため、東京工場でもカルピスの生産が始まったのである。
このカルピスも、甲府工場製と同じく人工甘味料を使用したものであり、当時の生産量は、大壜換算で日産3000本であった。一般市販用としては卸店をとおして小売店へ販売されたが、石炭庁の指示によるものは炭鉱労務者用として各炭鉱へ直送され、さらに、大阪・神戸などの官庁指示による「学校給食用カルピス」(ビタミン添加)は各学校へと配給されていった。
一方、厚生乳の生産は、カルピス生産再開と同時に中止された。市場の原料乳事情が好転してきたため、牛乳の代用としての厚生乳の役割は終わったのである。
東京工場の原料乳事情
昭和24年(1949)5月、酪農業界の戦時統制法であった「酪農調整法」が廃止され、25年3月には乳製品の公定価格撤廃、生産・配給の諸統制撤廃と、乳業界は自由競争時代に戻った。
この牛乳の需給緩和を背景に、当社のカルピス生産量は、東京工場で生産を再開して以後急速な勢いで伸び始めた。こうした原料乳情勢の変遷について、第2回営業報告書(昭和24.6.1~24.12.31)には、当社の生産品はすべて乳製品なので、原料乳入手量の増減はただちに営業成績を左右するが、目下のところ「脱脂乳は政府の酪農増産5カ年計画の遂行や酪農協同組合によるバター等の製造の増大により、いずれもその残る脱脂乳の処理に困惑しつつある現況でありますから、その入手は非常に確実であります。また山梨県においては当社が永年育成してきた酪農地盤でありますので、原料乳もその入手が確保されております」と記されている。またこれは、当社が原料乳について記録したなかでも、創業以来初めての楽観的報告であった。
そして、この報告を裏付けるように、24年には、当社の集乳拠点が新たに2か所開設された。すなわち、長野分工場(長野県下水内郡豊井村<現・豊田村>)西畑分工場(千葉県夷隅郡西畑村<現・大多喜町>)で、いずれも、その地域の酪農協同組合などから脱脂乳を集め、酸乳に処理して東京工場に送っていた。しかし、この二つの分工場は規模が小さく、脱脂乳の集荷先も不安定だったので、稼働期間はごく短かった。
25年4月、当社は、勝山分工場および甲府工場と並ぶ集乳拠点として、前橋分工場を開設した。それに先立って24年12月、当社は群馬県瀬多郡木瀬村(現・前橋市天川大島町)の関東製酪株式会社と脱脂乳の取引契約を結んだ。前橋分工場はこの契約に基づいて、同社より入手する脱脂乳を酸乳に処理するため、同社の隣接地に開設したものである。
関東製酪(株)は、14年4月に設立された乳製品メーカーであるが、のちに、31年9月、当社は同社の株式を取得して事業提携を行ない、役員を派遣した。
前橋分工場は、当初、関東製酪(株)より脱脂乳を1日0.9㎘受乳し、酸乳として東京工場に送っていた。その後、脱脂乳受乳量、酸乳生産量ともに3.6㎘まで増えて、東京工場におけるカルピス生産を支える大きな柱の一つになった。
2.カルピスの品質向上と品種の増加
特製カルピスの発売
カルピスは生産・販売ともに順調に伸びていき、昭和24年(1949)になると、東京工場では大壜換算日産1万本、甲府工場でも4000本生産されるようになっていた。おりしもこの年の11月、水飴が統制解除になった。カルピスは本来、天然の原料による自然の味を特徴とする製品であり、その味に一歩でも近づけるために、当社は甘味料についてはすべて水飴を使用することとした。水飴は砂糖と並ぶ天然甘味料であり、水飴を使用したカルピスの味は人工甘味料使用のものにくらべるとずっとまろやかで、風味の豊かなものとなった。
この水飴入りのカルピスは「特製カルピス」と名付けられ、製品のリフレッシュ策として、戦前からの青地に白の水玉模様の包装紙の代わりに、白地に青の水玉の包装紙で販売された。また、カルピスが人工甘味料使用から天然甘味料の水飴使用に切り替えたことを広く一般に知ってもらうため、同年12月1日の発売に向けて「新発売 特製カルピス 初恋の味 昔の味になりました」「初恋の味 昔に戻る 特製カルピス」などの広告文を各種の新聞に掲載し、品質を重視する当社の姿勢を理解してもらう努力を重ねた。
なお、砂糖の統制が解除され、カルピスが全糖になるのは28年1月からである。
ビタカルピスの発売
昭和24年(1949)9月からは、「ビタカルピス」の生産も開始された。ビタカルピスは、戦時中、陸軍糧秣廠の依頼で生産された軍用のビタカルピスの再現である。終戦後数年経ち、終戦直後からくらべると食糧事情は多少よくはなっていたが、まだまだ十分とはいえず、ビタミン摂取の必要性が説かれている時期でもあった。ビタミン剤服用も流行し始めていたので、当社もビタミン入りカルピスを一般市販用として売り出すことに踏み切ったのだった。当社がビタカルピスを発売した直後から、食品にビタミンを添加することが流行し始め、ビタミン入りの育児用粉乳や、ビタミン添加の強化米などがつぎつぎに市場に出回るようになった。当社のビタカルピスは、その意味で、ビタミン添加食品の先駆ともなった製品といえる。このビタカルピスは、オレンジ色地に白水玉模様の包装紙を用いて、従来のカルピスと区別した。
ビタカルピスの甘味料も、当初はやむなく人工甘味料を使用したが、25年2月から水飴に替え、「特製ビタカルピス」として発売した。包装紙は、人甘ビタカルピスと同じオレンジ色地に白水玉のものをそのまま用いた。
このビタカルピス発売に先立って、当社は、24年4月30日、厚生大臣あてに公定書外医薬品製造認可申請を行ない、同年6月10日に許可されている。ビタカルピスの成分には、日本薬局方の純ビタミンB1や国民医薬品集のビタミンB2のほかに、レモンエッセンスや乳酸石灰が含まれていたので、公定書外医薬品に該当したのである。
その効能としては、結核性疾患、熱性消耗性疾患、腺病質、脚気、胃病疾患等によいとされているが、このことを訴求する場合は、医薬品として、薬局ルートでの販売しか許されない。そこで24年9月にビタカルピスを発売するにあたって当社は、薬事的効能はうたえないけれども、広く一般食料品店で取り扱ってもらえるほうが有利と判断し、まずカルピス同様、食品ルートで売り出したのである。したがって、ビタカルピスのキャッチフレーズには、「妊産婦・病人・発育期のお子様・スポーツの後に」というような、間接的に医薬的効果を表わす表現が用いられた。それでも、このような訴求は、当時、大量に出始めた類似の乳酸菌飲料との差別化を図るには、おおいに役立った。
その後、当社は24年12月28日付で厚生大臣あてに公定書外医薬品製造の変更許可申請を行なった。ビタカルピスの内容成分をより強化して、「薬用ビタカルピス」の製品名のもとに茶色地に白水玉の包装紙で、薬品卸店を通じ薬局で販売することを目的としたものである。この薬用ビタカルピスの製造許可は25年3月20日付で交付された。
そこで当社は、食品卸店を通じて特製ビタカルピスを、薬品卸店を通じて薬用ビタカルピスをそれぞれ販売するという販路拡大策を、25年3月から開始した。しかし、この薬用ビタカルピスは当初期待した販売量にいたらなかったため、同年9月には、再び特製ビタカルピス1本に絞って販売することとなった。
25年秋には特製カルピス、特製ビタカルピスの特売を打ち出したが、その案内文につぎのような経過説明が記されている。「薬用・特製ビタカルピス(ビタミン入りカルピス)を発売いたしましたところ、皆様より多大の御好評を頂き、日毎に売上の増加を見つつある次第でありますが、今日はビタミンは既に薬物ではなく、栄養物でありまして(中略)今度このビタカルピスを更に大衆化するため『薬用』の文字を廃し、包装紙も白地に赤水玉を配したる明色のものを用いました」。つまり25年9月からは、食品ルート用特製ビタカルピス(オレンジ色地に白水玉模様)と薬品ルート用の薬用ビタカルピス(茶色地に白水玉模様)を統合し、包装紙も白地に赤水玉模様に衣替えして、特製カルピスとともに、秋の特売を打ち出したのである。(第1節終わり)
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー