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COLUMN「上野動物園百年史」
- VOL.16
- 小川 真理生さん
ここでは、「上野動物園」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第16回 「上野動物園百年史」
article
敗戦―占領は、日本の代表的な動物園である「上野動物園」に何をもたらしただろうか。
『上野動物園百年史』に「終戦直後の動物園」という章があり、それにこう記録されている。
1 廃墟からの立ちあがり
昭和20年(1945年)9月現在、すなわち終戦直後の飼育動物は次のとおりである。
(哺乳綱、鳥綱、爬虫綱など、省略)
職員で出征中戦死したのは、昭和18年2月に応召し、同年3月にペリリュー島で戦死した獣医の染谷進と、昭和12年に応召し、昭和19年12月にビルマで戦死したとの報らせがきた飼育係員の笹沼忠夫の2名であった。もっとも笹沼忠夫は、いったん召集解除になったとき、昭和17年の暮れに動物園をやめており、戦死のときには職員としての籍はなかったようである。出征中のもの、応召中のもののほか、田舎へ疎開していたものなどが、9月に入るとぼつぼつと復員してきた。9月4日には、事務系の市村勝蔵が、まず第1陣で復員してきた。古賀忠道は9月4日除隊したが、家族の疎開先の東北におもむき、上野動物園に復帰したのは10月14日のことである。9月5日には疎開先から林寿郎、渋谷信吉の両名が帰園している。中江川嵺も海軍より復員し、9月8日には園に復帰している。9月10日には、飼育一同が今後の方針について話し合い、復員による動物舎の担当の異動を行い、全員で園内の清掃に努めることとなった。
この間、昭和20年8月28日には神奈川県厚木基地に連合軍の先遣隊146名が、ついで8月30日には連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木に到着し、同日、横浜に進駐し、9月2日には東京湾のミズリー艦上で降伏調印式が行われ、9月6日にはアメリカ軍の第1陣が東京を占領し、9月8日にはマッカーサー元帥が東京に入り、以後7年間に及ぶ占領時代がはじまったのである。そしてこの9月11日には、はやくもアメリカ兵70名余が上野動物園に来ている。以後アメリカ兵、いわゆる進駐軍兵士は、上野動物園にとって大切な客人となっていったのである。
当時、園内はいたるところが、いも畑であり草ぼうぼうであった。草は清掃をかねて刈り取られ、飼料にまわされた。10月にはいると都内の中学生による清掃運動が開始され、その第1陣として、10月1日には向島の府立第七中学校(旧制)生徒52名が教師に引率され来園し、園内清掃やいたるところにあった防空壕の埋めもどし作業などに従事した。
かくするうちに、古賀忠道も9月20日に正式に召集解除となり、10月16日には井下公園課長も来園し、古賀忠道は園長に再任、同時に福田三郎の園長代理の職が解かれた。奇くしもこの日アメリカ兵からカニクイザルのメス1頭を100円で購入している。この日古賀園長は、全員を集め、復興計画の方針を話し、まず園内をきれいに片付けることからはじめて、順次飼料収集、動物収集に努力する方針をかためた。
いも畑になっていた旧カバ室前の広場は、片付けられてもとの広場とされた。しかし、ツル細流、キジ細流の外周には、竹をたてかけて、かぼちゃがつくられたりしていた。食糧増産のつづきではあるが、こうしたかぼちゃのつるによる物かげは、キジやツルたちに落ち着きを与える効果をみせていた。11月11日には、コンドルが仮住居の猛獣舎からもとの猛禽舎にもどされるなど、動物の移動、整理がなされた。11月26日にはせっかく残っていたダチョウが、移動運搬中に事故死ということもあった。11月25日にはシカ檻から11頭のブタが猛獣舎に移され、以後猛獣舎の主はブタとなった。クマ舎、ヒグマ舎にもブタやイノシシが飼われていた。ゾウ舎は空襲で破壊されており、隣の旧カバ舎には11月11日に入荷のはじまった藁がうず高くつまれていった。わずかに処分をまぬかれたサルたちやキリン1家、ラクダ、エミュウなどが人気の的であった。このように貧弱な動物園にも次第に入園者がふえていった。とくに進駐軍のアメリカ兵の姿がよく見られるようになった。進駐軍の兵士には無料入園の特典が与えられていたのである。
これらの入園者のサービス向上をめざして、まず手近な淡水魚と小鳥類の収集が計画された。当時小鳥類の捕獲許可は警察の手によって行われていた。10月23日、まず警視庁に行って鳥獣捕獲許可について談合し、やがて東京都南多摩郡由井村西長沼578番地の農業桜本松太郎(明治40年7月6日生)を、捕獲従事者の名義人として、11月1日より同30日まで、三多摩一円での網による各種鳥獣捕獲の許可を得ている。その手はじめに戦前から小鳥飼育の担当者であった天野宏技手が11月3日に烏山に出張し、翌日アオジ5羽を捕獲してもどっている。ついで11月6日には中江川嵺技手が上記由井村に出張し、オオコノハズク3羽、アトリ3羽、クロジ1羽、(他にシジュウカラ⒈羽、ウグイス⒈羽、ホオジロ⒈羽が捕獲後死亡)を持ち帰っている。由井村は京王線北野駅下車のところにあって、現在の東京都多摩動物公園の近隣といえるところである。これらの小鳥たちは、主として野猿峠附近で捕獲されたのであろう。その年12月22日現在の捕獲鳥の品数ならびに飼育数は、次のとおりに報告されている。
捕獲数 | 現在数(12月22日) | |
---|---|---|
アオジ | 14 | 5 |
オオコノハズク | 2 | 0 |
アトリ | 15 | 10 |
シジュウガラ | 2 | 0 |
ウグイス | 1 | 0 |
クロジ | 3 | 0 |
ホオジロ | 34 | 5 |
ヒタキ | 1 | 0 |
カシラダカ | 16 | 7 |
カワラヒワ | 4 | 4 |
アカハラ | 1 | 0 |
ツグミ | 3 | 2 |
合計 | 96 | 33 |
粒餌鳥に比して、摺餌鳥の死亡率が高いのは、飼料事情によるところがあったのであろう。当時、摺餌用の鮒粉は、小鳥飼育担当者が休日に釣ったフナを干した自家製のものに頼らざるを得ないような状況であった。
淡水魚については、11月27日福田三郎主任は井の頭自然文化園に木村四郎園長を訪ね、コイの捕獲について談合しており、11月12日馬車を仕立てて、井の頭からコイ8尾(マゴイ4、ヒゴイ4、大きいものは900匁=3㎏ほど)、フナ1尾を捕獲してきている。このコイは、一部小獣類の飼料にも用いられている。当時井の頭からキンギョの入手も考えたが、井の頭にはすでにキンギョは皆無であった。ことにアメリカ人が日本のキンギョを好むことから、11月23日には日本橋の白木屋百貨店金魚部から、キンギョ38尾を99円60銭(大6尾21円、中21尾58円80銭、小11尾19円80銭)で購入し、これを水族室に収容展示した。このとき白木屋にキンギョを買いにいった福田三郎は『実録上野動物園』に次のように述懐している。
「今でもよく覚えているが、終戦直後のことで、まだ食糧事情も悪く、みな食べることにせいいっぱいの時だったので、私がデパートの店員と話をして、金魚を買っていたら、そばの客が、『金魚なんか買っているよ』と、話しながら笑っているのである。私は、なにかはずかしいような気持を味わったが、その頃は、まだ、見るより先ず食べることが大変な時であった」
進駐軍の兵士や民間人からの動物の寄贈も、多少見られた。11月10日には進駐軍よりカニクイザル2頭が寄贈され、11月17日には江戸川区一之江町の須藤義一という人よりタイワンザルオス1頭、メス2頭が寄贈されている。11月13日には中央気象台から寄贈されたニホンザルのオスを、サルの少なくなっていたサル山に見合の上、放したところ、翌々日にはサル山に前からいたメス1頭がこの新着のオスに右耳を咬まれて負傷するという事故が起こり、こうしたことが原因で、10月23日にはサル山のニホンザル1頭が破傷風にかかったりしている。こうした中でオオカンガルーの繁殖がつづいており、1頭の子が、母親の袋から顔を出しているのは明るい話題であった。
しかしながら、飼料事情はますます厳しいものとなっていった。昭和20年8月におけるキリン3頭の1日分の飼料は、家配1.25㎏、粟糖0.75㎏、馬鈴薯8㎏、青草10㎏となっている。家配とは家畜配合飼料のことで種々の雑穀と●(食に占)粕、大豆粕、ふすまなど、雑多な残渣飼料とを配合したものであり、馬鈴薯は葛飾区にある水元大緑地などで、公園課の職員によって生産されたもの、青草は飼料係員の手で刈り集められたものであった。青草のなくなる冬期にそなえては、さつまいものつる、いわゆるいもづるをサイロに入れ、エンシレージとして保存されもした。肉食の小獣類には魚のほか、園内で生産されるウサギなども飼料として用いられることがあった。鮮魚の入荷も困難で、11月21日の福田三郎日記には「生魚入荷ナク、ペリカン休餌4日間、鶴水禽舎3日間」といった記述がみられる。
厨芥、いわゆる残飯の入荷もままならなくなった。そこで11月22日には、東京都の農務課をとおして、有楽ビルディング支配人の原政雄と談合して、進駐軍の残飯の入手を交渉した。その結果、翌11月23日から1日にドラム缶を半分に切った容器に4杯(後には5杯)ほどの進駐軍残飯を手に入れることが出来るようになり、この後、上野動物園の動物たちの栄養源として、この残飯が大きな存在となった。この残飯は、当初は進駐軍より直接受け取っていたが、後には神田の昌平橋の近くにあった「コンメス」という会社を通して、購入されるようになった。「コンメス」とは、英語のCommissariat(兵站部)から来たもので、進駐軍の兵站部関係の厨芥の処理を一手に請け負っていたようである。これらの残飯の毎日の輸送をはじめ、各種の飼料の運搬にはボイラーの休止で手のあいていたボイラーマンの原田国太郎を班長とする4名の輸送班と2台の馬車が大活躍をしていた。10月29日に入荷した進駐軍残飯の内容は次のとおりである。すなわち、パン屑4.45㎏(風体とも、以下同じ)、オートミール6.55㎏、馬鈴薯皮6.5㎏、骨肉27.6㎏、合計45.0㎏といったものである。
この頃、進路のとだえていた各地の動物園の情況を知るために、上野動物園の飼育動物一覧表をつくり、それを10月24日に名古屋、京都、大阪、神戸の各動物園に送ったところ、各園からは折り返し、それぞれの飼育動物一覧表が送られてきた。それによると、戦後インドゾウは名古屋市東山動物園にメス2頭、京都市紀念動物園にメス1頭が、キリンは上野のほかに、京都にメス1頭が、そしてチンパンジーは名古屋にオス1頭が残っていることがわかる。しかし、このうち京都におけるゾウとキリンは、戦後の飼料不足から、間もなく相ついで栄養失調で死亡してしまった。このような各動物園間の連絡の気運が高まり、10月28日には、四国高松市の栗林公園動物園の香川松太郎園長より、11月2日には京都市紀念動物園の原憲一園長より、それぞれ古賀園長あてに書簡が送られ、戦後の動物園の新目標を協議するための協議会の開催を求めてきた。その果実は翌21年になって結ばれることとなるが、これについては後述(省略)したい。
都民の憩いの場としての上野動物園に復興のきざしががよみがえってきた。12月には園内も見違えるほどきれいになってきたので、まず都民への第1回の贈りものとして、昭和20年12月2日、旧カバ室前の広場で、警視庁の音楽隊による演奏会が、午前11時と午後1時の2回開催されるに至った。これが戦後最初の催し物である。
昭和20年秋を出発点とした上野動物園の復興ぶりは、他の公園施設にくらべてずば抜けた速いテンポで進められた。後年公園関係者が「上野動物園は、終戦のどさくさで拡張までした」という批判めいた言葉にぶつかると、古賀忠道は「『上野動物園は一所懸命やっただけで、他の公園がやらな過ぎたのだ』と反駁してやったものだ」と述懐している。一方、大正12年(1923年)から23年間も公園課長の職にあった井下清は、昭和21年3月30日付で、願により退職をしている。このことについて古賀忠道は『井下清先生業績録』のなかの「井下清先生の思い出」と題する文中で「先生が第二次大戦直後、敗戦日本の首都東京の公園の復興にたずさわれなかったことを、東京都のために誠に残念に思っています」と記述しているが、戦争末期、公園の木をきって棺をつくり、薪をつくって空襲による被災者の死体の処理にあたり、また、上野動物園における猛獣処分の実質上の責任者ともなった井下清課長としては、おそらくこれ以上、その職にとどまっていることはできなかったであろう。激戦期には陸軍獣医学校にいて、むしろ英気を貯えた形となっていた古賀園長は、井下公園課長とは対照的に、戦後は動物園復興のために、大車輪の活動をすることができたのであろうということができる。古賀忠道は、その著書『私の動物誌』(昭和53年刊)の中で「私は、長い間動物園を留守にしていたので、帰ってきてまことにひどい状態を見て、なんとかしなければと考えたのであって、もし戦時中動物園にいたら、終戦後早急に立ち上がることはできなかったに相違ありませんよ」と、その心境を語っている。
かくして、終戦以来入園者の数は着実に上昇していった。昭和17年度3百万人をこえていた有料入園者は、昭和18年度に2百万人を下まわり、昭和19年度にはわずか360,893名の有料入園者となり、昭和20年度には288,832名とおちこんでいる。しかし、昭和20年の有料入園者の消長をよく見ると、4月から8月までが5か月間の有料入園者が45,817人(うち8月は5,957人)であったものが、9月17,035人、10月26,063人、11月41,490人、12月36,639人と着実にふえ、21年1~3月の3か月間の入園者は119,088人と大幅にふえている。さらに、これに加えて、9月以降は進駐軍兵士の無料入園が加わっている。すなわち4月から8月までの平均1か月の有料入園者9,163人から、9月から翌年3月までの平均1か月34,766人と、一挙に3・8倍にもはねあがっている。あらゆるものが廃墟と化した東京の中で、動物園は憩いの場として大きな存在となってきたのである。
ちなみに終戦前後⒈か年の各月有料入園者数、および進駐軍の無料入園状況を示すと次のとおりである。
終戦後の有料入園者と進駐軍無料入園者
有料入園者 | 進駐軍 | ||
---|---|---|---|
昭和20年 | 9月 | 17,035人 | 315人 |
10月 | 29,063人 | 1,412人 | |
11月 | 41,490人 | 1,956人 | |
12月 | 36,689人 | 1,347人 | |
昭和21年 | 1月 | 41,369人 | 907人 |
2月 | 27,155人 | 912人 | |
3月 | 50,564人 | 1,619人 | |
4月 | 178,359人 | 5,022人 | |
5月 | 77,478人 | 2,611人 | |
6月 | 63,665人 | 2,964人 | |
7月 | 60,491人 | 1,510人 |
以上でこの節は終わりであるが、この節の中に「進駐軍と動物園」と題した囲み記事があるので、以下それを紹介する。
「昭和20年8月30日、神奈川県厚木基地に降りたったマッカーサー最高司令官をはじめとする連合国の占領軍を、当時は進駐軍と呼んでいた。日本を占領した進駐軍の大部分はアメリカ軍であった。アメリカ人は将校でも兵士でも、多くが陽気であり、動物好きであり、動物園に好意的であった。中には、西部出身のMP(憲兵)が、動物園で調教のついていないモウコウマを引き出して、ロデオよろしく乗り回すこともあった。南方の戦地で慰めに飼ってきたカニクイザルを、除隊して本国に帰るとき、動物園に寄贈していく兵士も数名いた。そのうちの1頭が、サル電車の運転手にもなっている。自分の趣味で本国のアメリカから取りよせた爬虫類を寄附してくれた、サムエル・フルトンという衛生兵伍長もた。
進駐軍と動物園との大きなかかわりとしては、昭和21年から24年頃までの上野動物園の飼料の半分近くが、進駐軍の厨芥に頼っていたことがあげられるが、これは、直接アメリカ人の好意によるものとはいえまい。終戦時上野動物園の最大の目玉動物であったキリンの、冬期暖房用の石炭を総司令部に頼みこんで特配してもらったこともあった。物資の配給割り当てについても、進駐軍総司令部は大きな権限をもっていたのである。
このような好意を受けた返礼としては、アメリカ軍のパレードや、パーティなどに、フタコブラクダやロバ、ラバ、それにサル類が、貸し出されることがよくあった。とくに、アメリカ陸軍のマスコット動物であるラバはひっぱりだこであったが、このラバが、砲武という名の支那事変功労動物であったのは皮肉である。
昭和27年(1952年)3月20日の創立70周年式典のときは、会場の一部となっていた二本杉原に、アメリカ軍ヘリコプターが、祝賀飛行を行って着陸している。式典においては、来賓あいさつのトップを切って、アメリカ極東空軍司令部代表エリオット少佐があいさつを行っている。この前年、昭和26年9月8日、サンフランシスコで対日平和条約と、日米安全保障条約が調印され、連合軍の占領は終わり、アメリカの進駐軍は、駐留軍とよばれるようになっている」
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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー