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松竹九十年史―洋画編

COLUMN「松竹九十年史―洋画編」

VOL.15
小川 真理生さん

ここでは、「松竹」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第15回 「松竹九十年史―洋画編」

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 ここからは、「松竹九十年史」の「松竹の洋画・輸入と興行」から、松竹キネマの創業時から始まった外国映画の輸入興行が、占領期はどうだったのかを見ていこう。

 では、戦中はどうだったかであるが、「(昭和十七年=一九四二年)の四月一日から、社団法人映画配給社が発足し、全国の映画館は紅、白二系統に二分され、映画配給社の定めた番組が強制的に上映されることになり、松竹はじめ、各社の配給部門は、その業務、人員をあげて、映画配給社に吸収された。従って、松竹の洋画興行系は解消し、洋画専門興行も、すべて終止符が打たれた」という。ここからは、「第4節・チャップリン作品の独占上映」の項目に続く。

 ―洋画の輸入・興行が再開されたのはいつ頃からですか。
「洋画輸入の先陣はアメリカで
 昭和二十一年 二月二十八日になって、アメリカ軍の占領政策の一つとして設置されたセントラル映画社から、ディアナ・ダービン主演の『春の序曲』と、グリア・ガースン主演の『キューリー夫人』が提供され、松竹興行部は東宝とともに、その興行を引きうけました。当時の入場料金は、日本映画が三円以下に制限されていたのに、アメリカ映画は三倍以上の十円とし、配給料金も五〇%と、映画配給社時代の統制歩率四〇%を一〇%上廻り、四週間続映を条件とした。
 しかしこの高歩率、高料金も、久しく外国映画に餓えていた観客大衆を、いささかも阻むことなく、各地の上映館は物凄い景況を示し、つぎの『ラインの監視』や、チャップリンの『黄金狂時代』、『此の虫十万弗』、『カサブランカ』など、上映ごとに前例を破る好記録を出した。
 一方、セントラル映画社はこの好況をみて、九月に入ると、アメリカ映画を松竹、東宝両社の全直営館に上映されたいと要求してきた。両社とも、自主映画の興行があるので、セントラル映画の全面上映には応じられない。そこで交渉は不成立となり、両社は『運命の饗宴』と『我が道を往く』を最後として、セントラル映画の上映を打切った。
 丸ノ内邦楽座は、この年九月から占領軍慰問用として接収され、ピカデリー劇場と改称した。」
 ―セントラルも横暴だけれど、日本の会社もアメリカ映画の興行はやりたい。そこでどうなりました?
「松竹は経営館が沢山あるから、先ず傍系の松竹保善社の名義でセントラルと契約し、浅草ロキシー劇場、東劇の中央劇場などにアメリカ映画を上映し、二十四年頃までこの変則的な取引が続きました。従って
 昭和二十二年 は七月から浅草ロキシーが開場し、ジョージ・ガーシュインの『アメリカ交響曲』、グリア・ガースンの『心の旅路』ビング・クロスビーの『モロッコへの道』などが順次興行され
 昭和二十三年 からは大阪の角座や浅草松竹座が洋画系に入り、この年からイギリス映画やフランス映画の輸入が計画され、セントラルの市場独占は通用しなくなるのでした。この年の松竹系封切映画で、主なものはローレル・ハーディの『極楽お家騒動』、ロレッタ・ヤングの『ミネソタの娘』、ビリー・ワイルダー監督『失われた週末』、フォックス映画『アンナとシャム王』などの米映画、及びデヴィッド・リーンの『逢びき』、ハリー・ワットの『オヴァランダース』、ジャン・コクトー製作『悲恋』などの欧州映画。」
 ―紆余曲折はあったが、不死身の松竹はこれから輝やけるピカデリー時代を迎えることになりますね。
「S・P時代、S・Y時代、そして戦中から敗戦と、全く興亡波瀾の連続だったが、これから戦後の黄金時代に入りあす。先ず
 昭和二十四年 この三月に元邦楽座のピカデリー劇場が、占領軍の接収から返還されたので、昼は映画興行に、夜は占領軍当局の示唆による演劇の実験劇場(上演種目は松竹七十年史682頁参照)としたが、この頃からイギリス映画の輸入が活発となったので、松竹は返還後のピカデリー劇場を、イギリス映画のロードショー劇場とし、全館指定席制として、三月からカラー映画『ロンドン・オリンピック』を公開。これを機会に、松竹本社に久しぶりの洋画係を設け、ロキシー興行社は解散、関係各劇場は一斉松竹傘下に入りました。
 ピカデリー劇場は、九月十日からローレンス・オリヴィエとジーン・シモンズ主演の大作『ハムレット』を公開したが、」これは原作者シェークスピアの生国で作られただけに、その風格といい、演技といい、本年最高との評判で、ついに十九週続映という、空前の長期興行となりました。
 一方、セントラル系の主な封切映画では、アボット=コステロの『凸凹空中の巻』クローデット・コルベールの『卵と私』、アイリーン・ダンの『ママの想い出』、ゲーリー・クーパーの『打撃王』、ロバート・テーラーとヴィヴィアン・リイの『哀愁』、グリア・ガースンの『ミニヴァー夫人』、ジョン・ヒューストン監督の『黄金』、ジョン・ウェインとディートリッヒの『妖花』など。
 昭和二十五年 にはイタリア映画の輸入がはじまり、その第一作としてヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』が、九月三日から松竹系各劇場に上映された。これは、当時全世界注目のイタリアン・リアリズムを代表する作品として、日本の映画界に多くの示唆を与えました。
 この頃になると、占領軍の輸入映画許可方針が、一国一業社に限り認められることになったので、セントラル映画社によるアメリカ映画の市場独占は不可能となり、再び松竹、東宝両社へ、その上映を希望してきた。また、在日米人の中には、アメリカ映画の輸入を目論むものがあり、松竹は、その一人ケネス広瀬氏を介して、モノグラム、アライド・アーチスツ両社作品を、ロバート・M・リューリー氏を介して、イーグル・ライオン、クラシックスなどの作品、合計二十数本を予定し、社内に洋画配給課を新設、これにより、昭和二年四月洋画配給を停止してより、松竹は二十三年ぶりに、本社直営の洋画配給の復活を見たのです。新設洋画配給課の第一回作品は『ベーブルース物語』で、十月二十八日からピカデリーその他に上映。
 この年十二月二十八日から、仙台文化劇場が新築開場とともに松竹洋画系に加わり、同三十日からは、演劇を興行していた東京劇場が、ロードショー劇場として、映画に転向しました。披露映画はゲーリー・クーパー主演『摩天楼』。
 この年封切の主な松竹系洋画は次の通り。
 ゲーリー・クーパーの『サラトガ本線』、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『三人の妻への手紙』、イタリア映画『無防備都市』、ジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』、ルーベン・マムーリアンの『サンマー・ホリデイ』、その他。
 ―各国映画が出揃ったので、洋画興行も再び戦前の活況を迎えたわけですが、チャップリンの新作品独占配給などで松竹洋画に全国のファンが殺到した時期がありましたね。
「独占配給を契約したイタリア映画に続いて、松竹がユナイテッド・アーチスト社全作品の配給興行を結んだからで、先ず、
 昭和二十六年 はイタリア映画『雲の中の散歩』、『シーラ山の狼』、『ポー河の水車小屋』などの他、ディズニーの『バンビ』それに空想科学映画のハシリともいうべき『月世界征服』や『紀元前百万年』、『魔境のターザン』、いよいよ現われたジョン・ウェインの『黄色いリボン』。続いて
 昭和二十七年 には、ユナイテッド映画が偉力を発揮し、チャップリンの『殺人狂時代』、クーパーの『真昼の決闘』、ジョン・ウェインの『赤い河』が続き、大阪松竹座で『風と共に去りぬ』が二ヵ月のロング・ランをブチ上げたのもこの年。イタリア映画の『明日では遅すぎる』、『にがい米』や『ドイツ零年』、『街は自衛する』、ルノワールの『河』、ディズニーの『ピノキオ』、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テーラーの『陽のあたる場所』、ジェニファー・ジョーンズの『女狐』、スペンサー・トレイシーとテーラーの『花嫁の父』などがあり……(以下、省略)

 以上、松竹における邦画、洋画の製作や、輸入・興行のあゆみについて見てきた。これで、松竹の社史から見た占領期の娯楽風景(演劇編、映画編、洋画輸入・興行編)は終了である。

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー