HOME > コラム > コラム 帝銀事件とは何だったのか-11 Vol.11 原渕 勝仁さん
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MYSTERY
HUNTER帝銀事件とは何だったのか-11
- VOL.11
- 原渕 勝仁さん
占領時代のミステリー・ハンターあらわる!
占領時代の事件、今もって解明されておらず、
「〇〇は無実である」という雪冤の運動は続いている。
ミステリー・ハンター 原渕 勝仁氏がそれら謎を多角的に解明する。
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オキュパイド・ジャパン・ミステリー・ハンター
帝銀事件とは何だったのか-11
平沢は戦時中、恐らく、末期の頃だと思われるが、「軍命」で絵を描いている。それは九州・佐賀の唐津湾に浮かぶジャンク船を描いたものである。同じテーマのものが何枚かあるが、その白黒の数枚の写真が残されているが、永く、現物を見た人はいなかった。実は、それが戦後の一時期まで、内閣官房室に飾られていたが、帝銀事件で平沢が逮捕されて取り外された、と、それを報じた新聞記事が資料として残されていた。
是非、その存在を確認したいという武彦さんを、わたしはTBS『報道特集』の番組の中で追いかけている。実際、われわれのテレビ・カメラが中に入ることは許されなかったが、武彦さんが官房長官室の建物の中で、大切に保存されていたその「軍命」作を確認している。かなり大きな作品で、平沢の雅号「大暲」のとなりにしっかりと「軍命」と書かれている。つまり、戦時中、平沢は軍とかなり密接な関係にあったことは間違いない。
だから彼が憲兵隊の「特務機関員」であったと性急に言うつもりはない。陸軍中野学校の敷地の隣に、憲兵隊の特務機関員を要請する施設があったが、そこに平沢がいたという証拠もいっさいない。ただ、平沢が戦前は日本軍と、戦後はGHQの関係者、もしくは進駐軍と頻繁に接触していたことは間違いのない事実なのだ。GHQと進駐軍に関しては、帝銀事件の真犯人説に直接、結びつくことなのでこののちに詳しくお話するとして、戦前の日本軍と平沢の関係について、わたしの知りうることをここに書き残して置きたい。
先の、唐津のジャンク船についてであるが、あれは、終戦間近になって、戦艦や輸送船など、ほとんどが連合国軍の攻撃で失われた日本軍が、いまの北朝鮮と中国の国境あたりで大量に生産した木造の帆船で、それで兵士や物資を運んだことから、その関係者が高く賞賛された。当時の東條英機首相がその事跡を評価して、当時、高名な画家であった平沢に依頼して、絵を描かせたものであったというのである。つまり、あの東條英機とも平沢は接触していたということであろう。ただ、戦時中は、高名な画家も国家には逆らえず、戦争協力の絵を描いていたのは有名な話で、あの藤田嗣治も戦争画を描いていたし、平沢の師匠格に当たる日本画の日本における権威、横山大観にいたっては、絵を売ったお金で、なんと、戦闘機を購入して軍に寄付しているほどなのだ。だから、平沢も、日本軍と接触していても、何の不思議もないわけである。
しかし、ここで『悪魔の飽食』の共同執筆者である下里(俊成)正樹氏の言葉を思い出して欲しい。七三一部隊に20人前後の水彩画家が存在したと。これは実際にその水彩画家の一人だった人物から下里氏が取材したもので、ほぼ間違いのない事実である。のちにその人物は、あまりにも非人道的な行いをしたことを恥じて、画家としての絵筆を折って、晩年は、高円寺近辺で市井の「はんこや」をして暮らしていた(のちに下里氏とその人物を探すがみつからなかった)。つまり、何が言いたいのかというと、これだけの水彩画家を関東軍はどうやって集めたのか、ということだ。一人や二人ならいざ知らず、これだけの人数だ。募集したとしても、なんらかの画家の団体とつながりがないと簡単には集められないのではないか。そこで日本水彩画会の存在にわたしは注目するのである。
- プロフィール:原渕 勝仁(はらぶち・かつひと)
略歴:1956年、香川県坂出市生まれ。立教大学法学部中退。
代表作/TBS 『報道特集』「戦艦大和 幻のフィルム」「帝銀事件 絵探しの旅」「連合赤軍事件 36年目の真実」フジテレビ『ザ・ノンフィクション』「ショーケンという孤独」テレビ朝日『ザ・スクープSP』「よど号ハイジャック事件 40年目の真相」WOWOW『ノンフィクションW』「映画監督・若松孝二 17才の光と影」「ミャンマーの幻の格闘技ラウェー」「遥かなる北極点 孤高の冒険家・荻田泰永」テレビ朝日『テレメンタリー』「決着 若松孝二と岡本公三」フジテレビ『NONFIX』「フランスの城で男が描く夢 フレスコ画家・高橋久雄の挑戦」「受け継がれる心と形 狂言・和泉流宗家」フジテレビ『ニュースJAPAN』「スクープ潜入!よど号日本人村」テレビ東京『未来世紀ジパング』「北朝鮮・ケソン工業団地」など