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松竹九十年史―演劇編その2

COLUMN「松竹九十年史―演劇編 その2」

VOL.12
小川 真理生さん

ここでは、「松竹」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第12回 「松竹九十年史―演劇編 その2」

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 今回は、「松竹九十年史」の「松竹演劇九十年の歩み」から、前回のつづきを見ていきましょう。

 -戦後派新人がメキメキ出てきたのはこの頃(昭和二十二年)からでしょう。
昭和二十三年 「まず二月の東劇で海老蔵の権太、梅幸の静、芝翫の典侍の局、染五郎の知盛、松緑の忠信などが、菊、吉の指導で『義経千本桜』の通しに成功し、三月も海老蔵と梅幸の『かさね』や、この月に廣太郎から七代目を襲名した大谷友右衛門、松緑、羽左衛門の『戻り駕』が活気のある舞台を見せました。
 つづいて東劇は、四月が猿之助一座に水谷八重子や井上正夫の加入で、岡本綺堂氏十年忌追善の『唐人塚』や、極めつき『大尉の娘』、フランス映画“美女と野獣”を翻案した船橋聖一氏脚色『御伽天龍城』などをならべて、演劇革新興行と宣伝し、五月は菊、吉、幸の合同で『新薄雪物語』の通し、七月は菊五郎の貢、梅幸のお紺で『伊勢音頭』の通しに、菊の『宵宮の雨』。八月が新生新派で、『白鷺』の小篠に扮した花柳章太郎が、十年ぶりの仇姿をみせる。九月が文楽、十月がまた井上、八重子で『嬰児殺し』に『ヴェニスの商人』といった異色番組。十一月は、いつのまにか東京名物となった、恒例の東劇顔見世興行で、洋風建物に昔ふうの櫓を上げた風景が珍しがられました。十二月はこれもまた、年末恒例の新生新派に井上が加入、『金色夜叉』や『浪花女』が呼びものとなる。
 戦災で焼けた新橋演舞場が、三年ぶりに復興開場したのもこの年三月からで、年中行事の『東をどり』を月末に打ちあげると、四月興行をこれも三年ぶりの菊五郎一座に、幸四郎、宗十郎の加入であけた。このときの『勧進帳』は松緑の富樫、梅幸の義経に対して、海老蔵が弁慶を勤め、早くも次代團十郎の呼び声が高かった。五月は猿之助、八重子、井上の合同で、この年三月に物故した“菊池寛作品集”の名で『忠直卿行状記』『貞操問答』など六作品を上演、なかでも『義民甚兵衛』が評判よく、九、十月は芸術祭参加で、七年ぶりに東上した鴈次郎が『心中天網島』で、芝翫の小春を相手に艶麗な舞台をみせました。
 浅草松竹座は、一月が松竹歌劇、二月が八重子と勘彌の一座で毎日二回興行、続いて新生新派などの後、九月から映画興行に転向。
 関西では道頓堀中座が、この年の元旦に華々しく開場し、梅玉、宗十郎、壽三郎、延若らの関西大歌舞伎で、戦災以来の道頓堀もようやく軒をならべた明るさになりました。
 大阪歌舞伎座は、二月に猿之助一座に梅玉と壽三郎の加入で『忠臣蔵』の全通しを、五月は壽美蔵と紅梅で島崎藤村氏作『破戒』その他、六月は新国劇が澤田正二郎二十年忌追善。
 この頃は『忠臣蔵』の通しが流行で、この年も大阪歌舞伎座の二月と十、十一月、京都南座も二月と八月の文楽といった具合に、いまや油ののりきった鴈治郎や我當らを加えた、関西歌舞伎が大活躍をしました。
 十一月一日に、曾我廼家喜劇の創始者・五郎が、喉頭癌で死去しました。松竹は十一月二十八日を期し、故人に縁の深かった西の中座と、東の新橋演舞場で、同時刻に告別式を挙行し、残された一座に十吾を加えて、新たに“松竹新喜劇”を結成、十二月一日初日で中座に旗揚げ公演を行いました。
 映画人の舞台出演が盛んになったのもこの頃で、早くから活躍した長谷川一夫、山田五十鈴の新演技座や、小夜福子や宮城千賀子なども一座を組織し、ストライキで撮影所が閉鎖になった東宝撮影所劇団というものができて、この年十月の南座に池部良、志村喬、三船敏郎らで『酔いどれ天使』その他を興行したものでした。
 日映演に加盟している松竹従業員組合は、賃金の値上げを要求して、この年八月一日から全国一斉にストライキを行い、そのため一部劇場の休場があったが、六日に交渉が妥結し、七日から平常に復しました。文楽座も五月ごろから組合ができ、待遇改善の闘争などが絡んで、因会と三和会に分裂し、十月から翌年二月ごろまで、人形浄瑠璃は当分休演の形になりました。
 外には重税、内には労働攻勢あり、入場料金は凍結されて値上げできない上に法外な割増しで、この頃の経営者は日夜、頭の痛いことばかりでした。」
 -しかも、二人の歌舞伎の大御所が相次いで亡くなった。
 昭和二十四年 「そうです。この年はわが国の劇界にとって、また松竹にとって、大いなる損失を蒙った年でした。まず七世松本幸四郎が一月二十七日夜、心臓麻痺のため自宅で死去、八十歳。最後の舞台は前年十二月の新橋演舞場における『天一坊』の大岡越前守と、『野崎村』の久作。大谷社長が葬儀委員長となって、一月三十一日朝、東劇で劇場葬を行い、弔問客は劇場前から築地川の万年橋たもとまで列んだと言います。
 七世澤村宗十郎は壽三郎とともに、『忠臣蔵』の通し狂言をもって、近畿、中国路へ出かけたその第一日を、姫路の山陽座であけた三月二日夜、旅宿の一室で脳溢血のため急逝した。七十五歳。
 次いで六世菊五郎は、この年四月の東劇で、『寺子屋』の松王と、『加賀鳶』の道玄、梅若を勤めましたが、その二日目に眼底出血で倒れ、その後一時快方に向かったのに、七月三日に尿毒症を併発し、ついに十日午後零時三十五分、木挽町の自宅で逝去しました。まだ六十五歳の若さでした。葬儀は七月十九日朝、高橋誠一郎氏を委員長、大谷社長を副委員長として築地本願寺で、芸術文化葬の名の下に行われ、空前の盛儀となりました。
 敗戦後の虚脱感や絶望感から、日本人はまだ完全に起ち上がっては居なかった。戦時中に羽左衛門を失ってから、つぎつぎに名優の死にあい、日本伝統芸術の粋ともいうべき歌舞伎の、現在および将来に対しても、世人は多くの危惧を持っていたが、それが菊五郎の死によって、決定的な歌舞伎滅亡論が流布されたりした。しかし、大谷はじめ、伝統歌舞伎を愛する人たちは、歌舞伎のためより強く、例えば次のように、明日を信ずる決意に奮い立ったのです。
“幸四郎、宗十郎に次いで、歌舞伎の柱ともいうべき菊五郎が歿りました。團、菊が死んだ明治三十六年を思わせます。例によって歌舞伎滅亡論が一方から唱えられましょうが、跡つぎは立派にあるのですから、やがて海老蔵歌舞伎や染五郎歌舞伎、松緑歌舞伎が起ってくるでしょう。怖い小父さんが居なくなった代り、一方ではモウ一人前になっている若手は、むしろ伸び伸びと腕をあげて行くでしょう。”(渥美清太郎『演劇界』昭和二十四年八月号)
“菊五郎の死を文字通り終止符として了わずに、次にくるものを何とかして生かそうではないか。歌舞伎はつねに、灰の中から新しい雛を舞い立たせる不死鳥だった。そういう生命力を我々はまだ見出す可能性を信じたい。”(戸坂康二『演劇界』同上)
 菊五郎の死後、一座は男女蔵、梅幸、松緑、彦三郎、九朗右衛門、福助、菊次郎、鯉三郎の八人が運営委員となり、菊五郎劇団の名のもとに新発足をすることになりました。
 去る昭和十八年の暮れに撮影した、映画『勧進帳』を、その主演者である羽左衛門、菊五郎、幸四郎の三人を追慕する意味で、封切り上映したのもこの年八月の東劇であり、九月は昼の部に『勧進帳』を出し、これを襲名披露のひとつとして、幸四郎の倅・染五郎が、父の名跡をついで八世幸四郎となり、弁慶をつとめ、その息子・金太郎が六世染五郎となって、太刀持ちを勤めたのもまだ生々しく思い出されます。
 新派はいまや、花柳章太郎の時代となりました。十月の東劇は芸術祭参加として、花柳、大矢、喜多村、井上、水谷、市川紅梅という大合同で、昼の部に九條武子夫人の二十三回忌を記念した『洛北の秋』(九條武子作)を上演、花柳の蓮月尼が美しく、ほかに『残菊物語』や『二筋道・桂子の場合』なども、花柳の出しものとして評判になりました。
 この頃の新橋演舞場は、海老蔵、梅幸、松緑、それに大阪から参加の、鴈治郎や扇雀が加入した中堅、若手の独壇場として、毎月とっかえ引っかえ元気溌剌の舞台を見せました。なかでも五月の『源氏店』、七月の『太十』、十月の『お艶殺し』などが評判。
 襲名は相変わらずさかんで、大阪歌舞伎座でも二月に、壽美蔵が七世團十郎の俳名を襲名して壽海と名乗り、披露狂言に『助六』を上演。十月の同座では、久しぶりに病気本復の延若が、十八番の『楼門五三桐』に五右衛門の一役で出演、これは千秋楽の日に映画にも撮影されました。
 中座は一月が開場一周年記念で、新生新派が『明治一代女』その他を出し、二月から四月までと、六月から八月までが松竹新喜劇、五月と九月の関西歌舞伎を挟んで、十月から年末まで、三度び松竹新喜劇の連続興行。これは昼夜八本立てで、そのたびに他座を圧倒する大盛況、いつもながらの喜劇の底力には、松竹内部でも驚嘆しました。
 京都南座も相変わらず大歌舞伎や新喜劇、新国劇などで賑わい、七月は入江たか子と高田稔が一座して、往年のヒット映画『月よりの使者』を舞台で再現、十二月恒例の顔見世には、菊五郎劇団に猿之助や鴈治郎らの出演で、『天網島』『勧進帳』『堀川』その他をたっぷり見せる。」
 ―この頃ですか、駐留軍が関係して実験劇場というのをやったのは……。
「東京丸の内邦楽座は、昭和二十一年九月以来、駐留軍に接収されていたが、この年の二月に返還されたので、新たにピカデリー劇場と改称し、昼は映画を、夜は駐留軍指導による演劇実験劇場として開場しました。これは業界より高橋歳雄、俵藤丈夫、一般有識者から菅原卓、藤森成吉、浜村米蔵、山田肇、杉山誠の五氏が参加して、上演脚本を選定し、一定の入場者がある間は、無期限に興行するというアメリカン・システムを採用し、第一回は俳優座出演で『フィガロの結婚』を上演、七月八日までに三万五千七百余人の入場を得て大成功。第二回は轟夕起子らで翻訳劇『山鳩の声』、第三回が俳優座一座で久坂栄二郎氏作『親和力』。
 実験劇場は、プログラムにも観客への呼びかけとして、①客席でのエチケット②開幕前の着席③閉幕後の拍手と罵声で観客の反応を舞台に伝える、などを奨励し、ここでも新しい演劇の在り方を、観客に示そうとしたようです。
 文楽座員の分裂は、五月二十三日、松竹大阪支店で両派の和解が成立したが、肝心の人形劇は二、三月だけで、武智鉄二主宰の関西実験劇場が『熊谷陣屋』『野崎村』などを丸本通りの型で上演し、延二郎や扇雀、鶴之助がこれから大いに売り出すチャンスを作りました。
 大谷は戦災で焼失した東京歌舞伎座の復興について、有志とともに協議の結果、新たに株式会社歌舞伎座(資本金一億五千万円)を設立し、敷地は所有者の松竹株式会社から借りうけ、残存建物は同社より譲渡をうけ、これを修復して往時の歌舞伎座を再現することとし、九月五日から株式募集に着手、同三十日から清水建設の手で工事にかかりました。
 昭和二十五年 この年は勘三郎、芝翫の売り出しと、扇雀、鶴之助の抬頭で持ち切った年でした。
 先ず東劇の一月は、吉右衛門一座の出演で、もしほが十七世勘三郎を襲名し、その披露狂言として、初代勘三郎の事跡を扱った『上覧猿若舞』を出し、襲名口上のほか吉右衛門の音頭で、侠客姿の名題役者がずらりとならび、客席といっしょにシャン、シャン、シャンと手打ちをする『顔揃櫓前賑』という、珍しい一幕を添えました。さきに盟友・菊五郎を失った吉右衛門の奮闘がめざましく、この年は三、四月と六月、九月、十一月を東劇に出演したが、そのつど勘三郎の上達がめきめきと目立って、なかでも三月の勘平、四月の権八、十一月の久我之助などは、満場の喝采を浴びるほどでした。
 九月の東劇は、五世歌右衛門の十年忌追善で、その美貌と優姿で、近代の名女形と声望の高い芝翫の活躍がひときわ目立ったという評判でした。芝翫は八月の舞台で、『箱根霊験記』の初花と『鷺娘』に美技を見せ、この月は『安達原』の袖萩や『本朝廿四孝』の八重垣姫に、無頼の名演技を示し、芝翫の歌右衛門襲名はもはや時間の問題と言われました。
 つづいて十月の東劇は、“團十郎文化切手発行記念大歌舞伎”という変わったタイトルで、戦後派最高のトリオと言われた松緑の弁慶、海老蔵の富樫、梅幸の義経による『勧進帳』や、八百蔵の親獅子に若手の段四郎、橋蔵、市蔵、彦三郎の子獅子をあしらった『五人石橋』、それに三津五郎の名品『保名』などそれぞれ好評で、東劇の廊下には京橋郵便局が出張して、團十郎切手に記念スタンプのサービスがあり、開闢以来の珍しい記念興行だと言われました。
 十一月の東劇は芸術祭参加で、両花道を使った『妹背山』『鞘当』『沼津』などの豪華舞台を最後に、二十年らい東都の好劇家に愛され親しまれた舞台を、松竹の映画興行にゆずり渡し、松竹演劇の牙城は、明二十六年一月開場の復興歌舞伎座に移ることとなります。
 歌舞伎重点の東劇と、川ひとつへだてた新橋演舞場は、新派と菊五郎劇団その他で、相変わらずの華やかな話題をまき、『婦系図』に花柳初役の早瀬と八重子のお蔦、喜多村の小芳、大矢のめの惣という好配役。六月は菊五郎劇団で、梅幸が初々しい色気の『鏡獅子』を踊り、七月は新派で谷崎潤一郎氏の大作『細雪』を、村田嘉久子、花柳章太郎、水谷八重子、森赫子が四人姉妹となって舞台にのせ、ほかに泉鏡花氏作『辰巳巷談』が話題となりました。
 ピカデリー劇場は、その後も読売や毎日といった新聞社と提携の実験演劇を上演したが、翻訳劇が多く、興行的にはあくまで実験の域にとどまったので、十月の第七回公演でひとまず打ち切り、その後は松竹系の洋画上映に転向しました。
 関西歌舞伎は老延若の特別出演に、壽三郎や壽海が健闘し、これに東京から時蔵がときどき応援に出て、歌舞伎座の年間舞台を飾り、中座のほうは中堅の我當、富十郎、延二郎、蓑助らが守り、文楽座は人形浄瑠璃のほかに、映画や実験歌舞伎で、鶴之助、扇雀の勉強に磨きがかかったときです。
 前年十月、延若の『楼門五三桐』が映画に撮影されましたが、この年はプレミア・プロダクションの手により、吉右衛門一座の『熊谷陣屋』が一月二十八、九両日、東劇の舞台を使って撮影され、五月二十七日には同じくプレミアの企画で、名古屋御園座出演の吉右衛門一座により『寺子屋』が撮影されました。
 この年は六月に朝鮮動乱が起こり、米軍からの特需景気で、前半に不振だった劇界は、後半から徐々に景気好転をみせ、また三月一日からシャープ勧告による税制改革で、悪評紛々たる入場税が十五割から十割に減額されました。」

 13.「源氏物語」史上初上演
 ―いよいよ新歌舞伎座の復興ですか。
 昭和二十六年 「この年は松竹にとって、悲喜こもごもの年でした。まず悲しみとは何か。それは松竹創立の祖であり、松竹企業を今日の偉大さに育てあげた恩人のひとり白井松次郎が、この年一月二十三日に逝去されたことです。大阪市笠屋町の自宅から久左衛門町の松竹支店の会長室へ、毎朝九時の出勤を欠かしたことのない白井会長が、芦屋の山荘に引き移ることになったのが、二十五年三月ごろからであったが、病状は一進一退のまま、一月二十三日午前五時二十一分、眠るように息が絶えました。行年七十五歳、法号は松興院演誉善立居士。葬儀は喪主・白井信太郎、葬儀委員長・城戸四郎の名のもとに、一月二十六日午前十一時より、阿倍野新斎場において、社葬をもって行われた。この日、内閣より勲四等瑞宝章授与の伝達があり、文部大臣と日本芸術院長の弔辞が寄せられました。
 白井会長の氏を、大いなる悲しみとせるに引きかえ、この年の大いなる発展とは、東京歌舞伎座の再興開場であります。
 新歌舞伎座の敷地は五三五〇平方米、鉄骨鉄筋コンクリート和風、地階とも六階、建物総面積一二〇〇〇平方米、客席収容人員二千六百人、建築費二億五千万円。今年一月三日の開場式は昼夜二回に、各界の名士四千五百人が招待され、初開場を祝って表正面に飾られた積樽は、“国冠”“キンシ正宗”“沢の鶴”“大関”の四大醸造元から寄せられた四斗樽の菰冠りが、一銘柄につき六列の八段ずつの合計百九十二樽、堂々と積み上げられ参観の人々を圧倒しました。
 大谷社長が、歌舞伎座を戦後再び復興した功績に対して、劇界は申すに及ばず、世の有識者は筆を揃えてこれを讃えました。
 さて復興第一年の歌舞伎座は、一月が吉右衛門一座に三津五郎加入、昼の部の第一に、渥美清太郎氏作の御祝儀狂言『新舞台観光闇守』という、猿之助以下中堅俳優十五人のレビュー式歌舞伎パレードが、大ぜり、小ぜり、引き抜き、見得と、独特の歌舞伎的トリック織りまぜて面白くみせ、夜の部には、歌舞伎の元祖・阿國歌舞伎を扱った伊原青々園氏作『華競歌舞伎誕生』を特別上演しました。入場料は六百五十円、四百円、二百円、文句なしの連日満員で、一部の出しものを取り換え、二月末まで五十日間を打ち通し、つづいて三月は、かねてから懸案になっていた『源氏物語』が劇化上演されました。『源氏物語』は日本の代表的古典として、その文学的価値は高く定評があったが、内容が皇室を舞台にしていることから昭和八年にいちど坂東蓑助らが上演を企画したとき、警視庁より上演禁止を言い渡されたことがあります。このたびは大谷に協力して、朝日新聞文化事業団が協力し、河竹繁俊、久松潜一、小宮豊隆、久保田万太郎、船橋聖一氏など、作家や学者、有識者の参加により上演が実現したのです。
 三月四日から二十九日まで、歌舞伎座で初演された『源氏物語』は、船橋聖一氏脚色、谷崎潤一郎氏監修、久保田万太郎氏演出で、前半約三分の一を六幕に仕立てて上演した。主な配役は御門(猿之助)、桐壺の更衣と藤壺女御(梅幸)、光君(海老蔵)、葵の上(橋蔵)、頭中将(松緑)、夕顔(福助)などで、台詞はすべて当世風に直したので、歌舞伎ファン以外の大幅の観客動員に成功しました。
 四月は吉右衛門一座で、芝翫がいよいよ六世中村歌右衛門を襲名し、『沓手鳥狐城落月』のほか『妹背山』『娘道成寺』に出演して艶麗な舞台を見せました。六月は、松竹株式会社(キネマにはじまる)三十周年記念として、再開歌舞伎座最初の新派大合同を“現代演劇大合同”の名で興行、花柳や大矢らの新生新派のほか、水谷八重子、瀧沢修も加入し、新劇監督の菅原卓氏演出の『椿姫』が話題となり、八月には黒沢明監督の映画で評判になった『羅生門』を、八木隆一郎氏の脚色演出で上演、伊藤熹朔氏の装置とともに、この月出色の出来栄えとの評判でありました。
 十月は猿之助一座に菊五郎劇団が出演、三月興行に続いて『源氏物語』増補版七幕を上演。これは初演のときのほかに“須磨明石の巻”を追加し、全幕五時間で第一部を通しましたが、この興行には三階席にまで学生の見物が目立ち、新しい観客増の導入にも役立ったと、マスコミの話題になりました。この年の歌舞伎座は、毎回意欲的な狂言をならべたうえ、新東京名物としての劇場見物客がつめかけ、年間を通して大賑わいに終わりました。
 新橋演舞場は六月、加藤道夫氏作『なよたけ抄』で、海老蔵が『源氏物語』に次ぐ王朝風俗を再現して注目され、七月は六世菊五郎三回忌追善として、菊五郎劇団による『延命院日当』の通しが評判。
 関西では老延若を別格として、いまや双壽(壽海と壽三郎)、扇鶴(扇雀と鶴之助)時代来るとの呼び声が高まり、その中間にあって鴈治郎や我童の活躍が目ざましく、大阪歌舞伎座は三月、我當が十三世片岡仁左衛門を襲名して、『紙治』の治兵衛に初役を勤め、十二月には、壽海の養子になった莚蔵改め市川雷蔵が、『弁天小僧』の赤星を勤めて早くもその非凡さを認められました。
 中座は人気高潮の鶴之助が、一月の『鏡獅子』で踊りまくり、これもめっきり色気の出た扇雀と延二郎共演で『お染久松』とともに評判、六月は“劇団新潮”の旗揚げ第一回で『夫婦善哉』その他を上演。
 中座を本城とする松竹新喜劇は、十吾の茂林寺文福、天外の舘直志、川竹五十郎が相変わらず、時事風刺を巧みにとり入れた狂言を次々に書き下ろし、その健筆の冴えと相まって、毎興行とも百発百中の結構な大入りでした。
 この年の二月二十二日に、関西劇団の長老・實川延若が、七十三歳の高齢で死去。最後の舞台は、前月の大阪歌舞伎座における『八陣守護城』の清正でした。
 多事多端な昭和二十六年であったが、老来ますます頑健な大谷は、白井和夫を同伴してこの年五月三十一日、羽田空港を出発し、アメリカ各地の演劇や映画界を視察して、七月七日に帰国しました。
 昭和二十七年 朝鮮戦乱による特需景気が下火になり、加うるに大阪を中心とする繊維業界の不況から、演劇興行に若干の不入りはまぬかれなかったが、前年に復興した東京歌舞伎や新橋演舞場はじめ、大阪歌舞伎座、中座、京都南座等の大劇場は、相変わらず年中無休の演劇興行を続けることができました。(後略)」

 このへんで松竹の演劇編は終わる。次回は、映画編に移る。

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー