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松竹九十年史―演劇編その1

COLUMN「松竹九十年史―演劇編 その1」

VOL.11
小川 真理生さん

ここでは、「松竹」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第11回 「松竹九十年史―演劇編 その1」

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 戦前から娯楽の最大手の一つ、松竹の九十年史は、演劇、映画、洋画輸入、歌劇や演芸、テレビとビデオなどに歴史篇がかき分けられている。そのうち、まず「松竹演劇九十年の歩み」から見ていきたい。とりわけ、以下から始めよう。

 昭和二十年 ……
 八月十五日、終戦の詔勅によって平和が甦り、秩序の回復をはかるため、興行界は全国一斉に、七日間の営業停止を申し合わせ、演劇場は月末まで休業しました。
 戦後の東京演劇界では、焼け残った東劇が有力な拠点となりました。東劇はこの年五月から興行が再開され、八月は猿之助一座の弥次喜多もので、大衆観客を喜ばせていたので、終戦後第一番に復活した演劇も、この猿之助一座の続演による九月興行で、”弥次喜多”と『黒塚』の二本立て。十月が『瀧の白糸』の新生新派、十一月が吉右衛門と幸四郎一座で『佐倉義民伝』『菅原傳授手習鑑』、このとき出すはずだった『寺子屋』が、後述の理由で上演中止になる。十二月は再び猿之助一座で、『三人片輪』その他。
 敗戦のショックがおさまった十月頃から、極端な物資不足と食糧難、インフレの高揚などで国民生活が苦しくなった反面に、娯楽に殺到する人々の群が日ましに多く、劇界は急に活気づいてきました。新宿第一劇場も、十、十一月を仁左衛門と壽美蔵一座が頑張り、戦時中は御法度の『弁天小僧』や『浮名の横櫛』で歌舞伎復興の意気を示す。物のないエピソードとしてこんな話があります。『弁天小僧』で肝腎の豆しぼりの手拭がない。狂言方の一人がさらしを切ってきて、筆の軸へインキをつけて捺し、それを豆しぼりの手拭に仕立てて使い、千秋楽の日までそれが誰にも気づかれなかったというのです。
 ところで十一月十日に、進駐連合軍総司令部の民間情報部長ダイク大佐は、日本政府の指令による従来の演劇取締法はすべて廃止するが、十二月からの各劇場は、上演狂言の三十パーセント以上を新作脚本によることとし、”封建時代の忠義や主人のための犠牲などを題材とした演劇は、今後の日本民主化のために適当でない”との新方針を明らかにしました。殊に、封建時代の義理人情を扱った題材の多い歌舞伎脚本は、これにより大幅な再検討が要求されることになり、例えば東劇の『寺子屋』上演が中止になったのもそのためです。米軍当局の示した新方針に、いちばん痛恨を感じたのは大谷社長ではなかったでしょうか。
 従って大谷社長は、この新事態に対処するため、急拠河竹繁俊、久保田万太郎、川尻清潭、渥美清太郎氏ら劇界の学識者に参加を求め、芸能文化検討会を十一月末に設置し、連合軍当局と折衝を重ねながら、上演可能の歌舞伎脚本七十四種を選出しました。
 歌舞伎狂言に対する、連合軍当局の極端な規制や、上演狂言の三十パーセントを新作にせよなどの指令は、伝統歌舞伎の保存護持を建前とする大谷の興行方針にとって、根本的な打撃を意味する。いまやまさに、歌舞伎劇は危機に立たされた。この窮境を打開するために、大谷社長の努力と心労はなみ大抵ではなかったのです。

 12・戦後歌舞伎の変貌
 昭和二十一年 -このころの日本の芸能界は、ほとんど総司令部の管理下にあったし、マッカーサーの占領政策が民主主義国民として、日本人を再教育すると声明していたときであるから、演劇に対してもその方針に支障ある内容については、細大もらさぬ干渉があったわけでしょう。
「とくに忠義や孝行、義理人情のための犠牲などを多く題材とする歌舞伎の上演には、前途多難が予想され、この年一月二十日の東京新聞は“松竹もついに舞踊劇以外の歌舞伎を見すてる”と書いたほどでした。このため一般の劇界関係者も非常に動揺し、世の好劇家も失望した。もとよりこれは誤報だったが、こんな噂が流れるほど松竹も苦しんだ時期だった。大谷は演劇雑誌を通じて、歌舞伎を見すてるどころか、松竹はますます歌舞伎発展のために努力すると声明を発表した。ここには大谷が生涯持ちつづけた信念が、端的に述べられていますから、その一部を紹介しておきましょう。

 ―申すまでもなく歌舞伎は、世界にも稀な特質をもった、独特の立派な演劇であり、しかも貴族が舞楽を、武家が能を専有してしまったのに対し、民衆自身が民衆のために、長いあいだ苦心してつくり上げた演劇であります。私も永年、歌舞伎を興行して参りましたが、これは決して営利のためばかりではありません。私自身も好きである上に、どうかしてこの立派な演劇を保存したいという念願が、多分にあったからで、この点は今日といえども少しも変わっては居りません。また歌舞伎劇団の大部分が、松竹と深い関係にある以上、これを後世へ伝えることは私の責任だと思って居ります。戦争のために多くの劇場を失い、その興行にも非常に不便を感じて居りますが、歌舞伎座などは早速、改築にとりかかり、本当にこれを歌舞伎の殿堂としたく考えて居りますほどで、歌舞伎を全廃するなどとは、全く考えて居りません。(大谷竹次郎『新演劇』昭和二十一年二月号)

 戦後第一年の正月、松竹系の劇場としては、東京では東劇、邦楽座、新宿第一劇場、浅草松竹座。大阪は歌舞伎座、京都は南座と京都座。神戸は八千代座がそれぞれ興行しました。
 まず東劇は、一月が菊五郎と幸四郎の顔合わせによる『福沢諭吉』や『娘道成寺』。二月が猿之助と八重子で、船橋聖一氏作『瀧口入道の恋』その他。なかでもユニークな瀧口入道は、楽劇風な演出とはいえ、猿之助の入道が八重子役の横笛に接吻したり、きわどい科白が出たりして、一部から痴態劇などと攻撃されたが、米軍当局や一般には大うけで、四月に再演という好評ぶり。五、六月は久しぶりの菊、吉合同に幸四郎加入で、菊五郎が初段の良寛に好演した『良寛と子守』、若手の海老蔵が将来の大成に期待を持たれた『助六』などが評判だったが、七十七歳の高齢で弁慶の大役を無事に勤めた幸四郎出演の『勧進帳』には、舞台の裏も表も思わず感嘆の声が上がりました。大谷はこの舞台で若手奨励のため、揚巻に菊之助と芝翫を一日替わりで、また白酒売りをもしほに、福山を松緑にそれぞれ起用して“大英断”を見せました。
 猿之助一座は、八月の『無明と愛染』や『千姫と坂崎』に、猿之助独特のエロチシズムをただよわせ、九、十月は文部省主催第一回芸術祭参加と謳って、菊五郎に幸四郎加入の『鳴神』『十六歳清心』『土蜘』『加賀鳶』という、早くも立ち直りの本格歌舞伎をならべ、相変わらずのインフレや物不足で、世情騒然としながらも、ほかに慰楽の求めようもない人々が詰めかけて、予想外の大入りとなりました。
 邦楽座は、新協劇団や映画上映などをしていたが、九月から進駐軍に接収され、二十四年二月まで占領軍将兵の娯楽場となる。新宿第一劇場は、新生新派や新劇座、吉右衛門や猿之助、八重子と勘彌の一座などが交互に出演。前年の大晦日に改築落成した浅草松竹座は、松竹歌劇を本拠に、軽演劇や女剣劇で早くも幅ひろい陣容を確立しました。
 この年の大阪興行界は、発疹チブスの流行で、三月二十二日から四月十日まで、各劇場の閉鎖が命じられ、思わぬ大打撃をうけたが、四月十二日から一斉開場したなかでは、歌舞伎座と京都南座が、延若、梅玉、壽三郎らの関西大歌舞伎と、翫雀、我當以下の若手による関西歌舞伎の交互出演で、関西劇団の健在ぶりを見せ、また十月の大阪歌舞伎座と、十二月の南座の顔見世には、菊五郎一座が梅玉と合同して、関西の好劇家を堪能させました。
 家庭劇は、五月の大阪歌舞伎座出演を最後に、十吾と天外が決別し、天外一派は地方巡業に出てしまい、戦災で焼けた浪花座は、十月十五日から仮建築で開場し、藤原釜足の見世物座その他の軽演劇でこの年を終わる。」
 -それにしてもあの気狂いインフレでは大変だったでしょう。
「劇場はどこもかも大入りだったが、ますます膨脹するインフレのため、俳優の給料や従業員をはじめ裏方費が嵩ばり、入場税が更に三月から三円五十銭以上は十割となり、焼失した衣裳や小道具の新調などもあって、経営は決して楽観を許さなかった。
 各種企業体の中に生まれた従業員組合が、活発な活動を始め、この年四月から発足した全日本映画演劇労働組合(日映演)の、生活擁護を叫ぶ職域活動が、松竹内部にも現われたが、松竹はこれに先立ち、社内の民主主義的企業体制を確立するため、この年一月二十二日の重役会で全重役の総辞職を行い、三月九日の株主総会で次の新役員が登場しました。
 会長=白井松次郎。社長=大谷竹次郎。副社長=城戸四郎。専務=井上重正、大谷博。常務=高橋歳雄、星野欽治、山崎修一。常任監査役=加賀二郎。監査役=木村小左衛門、江崎鋹兵衛。相談役=藤山愛一郎。」
 -この頃の東劇の活躍はすばらしかったですね。
 昭和二十二年 「この年も松竹演劇の牙城として、東京劇場は数々の記録をのこしました。先ず一月は、吉右衛門、猿之助に幸四郎加入の大一座で、『双蝶々』を一部二部に分けて通し狂言としたのが目立ち、二月は『落人』の勘平役で家橘が十六代羽左衛門を、お軽役の菊之助が七代梅幸をそれぞれ襲名、また『対面』では又三郎が家橘を襲名という賑やかさ。五月は戦後第一回の團菊祭が『菅原』の通しを、一部と二部に分けて上演。この頃になると、総司令部でも古典芸術としての歌舞伎への理解が深まったか、『寺子屋』の上演が許可されるようになった。この通し狂言で海老蔵、染五郎、松緑の三兄弟に、松王、梅玉、時平の三役を一日交替でやらせ、老名優の生存中に、松竹が次代の歌舞伎を担う若手の教育を、常に心がけていることを証明させました。
 九月は三年九カ月ぶりの文楽が上京して芸術祭参加となり、これは超満員。十月も芸術祭参加で、吉右衛門十八年ぶりの治郎左衛門で『籠釣瓶』が評判。十二月は、戦後はじめて許された『假名手本忠臣蔵』が、菊五郎の師直と勘平、梅玉の判官と戸無瀬、吉右衛門の若狭之助、平右衛門、本蔵、宗十郎の顔世、海老蔵の定九郎、幸四郎の由良之助、梅幸の力弥、松緑の伴内、芝翫の小浪といったオールスターで通し上演され、前売開始当日の十月二十七日に、」千秋楽まで二十八日間の切符が全部、売り切れるという前代未聞の歌舞伎ブームとなりました。」
 ―皇族の初の御観覧はこのときでしたね。
「東劇の千秋楽の翌二十九日を特別招待日として、皇后、皇太后両陛下をお迎えしたのです。両陛下とも歌舞伎の御見物はこのときが最初とのことで、二階正面に特別室をしつらえ、忠臣蔵の五段目から九段目までの舞台を御覧に入れ、幕間には俳優代表として、紋服姿の菊五郎が、二階東側の特別室で御挨拶を申し上げました。
 一方、新宿第一劇場は、松竹歌劇や猿之助一座、新生新派、井上と小夜福子一座、新国劇などを交互上演、十二月から映画劇場となった。戦災で焼失した国際劇場で改築開場したのは、この年十一月二十三日からで、松竹映画の封切りを主とし、開場興行には長谷川一夫、花柳小菊の共演で『弁天小僧』を上演、これは大衆観客の殺到で、披露興行にふさわしい大騒ぎとなった。
 関西では歌舞伎座の一月興行で、先代鴈次郎の十三回忌追善をかね、翫雀が二代目中村鴈治郎を襲名、その披露狂言として邦枝完二氏作『中村鴈治郎』と『河庄』の傳兵衛に出演した。こうして東西ともに、中堅俳優の襲名が相次ぎ、戦後の歌舞伎界がいっせいに若返りの変貌を見せてきたことは、一般好劇家の注目と期待充分なものがありました。
 文楽座は前年二月から、焼け跡の劇場が復興開場し、依然として古典芸術の誇りを維持していましたが、この年の三月に古靱大夫が、秩父宮から山城少掾の位を賜わり、六月興行には折から関西地方御視察の天皇陛下が、十四日午後、白井松次郎会長の御案内で、ご見物されるという光栄に浴しました。そのときの出しものは『重の井子別れ』と『千本桜・道行初音の鼓』、人形は文五郎、紋十郎、玉助、浄瑠璃は山城少掾、伊達大夫その他。
 この年十一月三十日に、道頓堀角座が復興開場、古川ロッパや森川信、大江美智子一座その他を上演、二十三年七月から映画興行に転向。
 家庭劇は、天外と別れた十吾が病気になったため、この年一月の京都座出演を最後に、自然消滅の形となります。
 松竹はこの年の十二月、城戸副社長はじめ白井信太郎、井上重正、大谷博、井上伊三郎の五重役が、戦争協力者として政府から公職追放の指定をうけたので、つぎの新役員を選任しました。
 会長=白井松次郎。社長=大谷竹次郎。専務=山崎修一。常務=高橋歳雄、星野欽治、高村潔、小林鉱作、奥山市三、宮崎滝造。常任監査役=加賀二郎。監査役=比留間安治。
 この年十二月一日から、入場税がさらに法外の十五割となりました。」

 松竹の演劇編は、この昭和二十二年をもって、その1とし、つづきは次回にしましょう。

 社史は、この後も続きますが、その記述をたどるのは、演劇編に関しては、ここで終わりにしましょう。

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー