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COLUMN「第一生命五十五年史」-1

VOL.1
小川 真理生さん

ここでは、「第一生命五十五年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第1回 戦争下の第一生命館がどういう役割を果たしたか

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皇居のお濠端にある第一生命館は、GHQに接収され、ここでマッカーサーが執務したことは、よく知られている。このことは、第一生命の社史である「五十五年史」にもしっかりと記録されている。その部分を紹介する前に、この第1回では、戦争下の第一生命館がどういう役割を果たしたかをそれで見てみよう。

 

「空襲
 決戦下においては、社業のほかに防空にも心をもちいねばならなかった。そのため訓練を重ねていったが、敵機の本土来襲が激化してからは事務所の防備に生死を賭けることとなり応召、徴用をまぬかれた残留職員を以て守備の任に当った。第一生命館、第一相互館および分館防衛の任にあたっていた本社特設防護団は太平洋戦争勃発以後漸次拡充強化され人体救護法を習得し、また女子衛生隊をも編成した。
 十九年十一月頃から東京が完全に敵機の爆撃下にさらされ、一日のうちにも何回となく待避しなければならなくなった。そこで時間を空費しないために内勤事務のうち、とくに迅速なる処理を要する保険料領収等の事務のため、地下三階の廊下に机八十を、新契約関係事務のために地下四階に机一台を常備した。これにより非常の際は待避のまま執務しうることが出来、熾烈な爆撃下にありながら何等平常と異ることなく事務をとることができた。
 二十年にはいると本土決戦の公算いよいよ濃く、従来の特設防護団とは別に、新たに第一生命館警備令および第一生命地階警備令を制定した。これにより屋外、各階、地階の警備を強化し、防空従事者として警備長、警備副長をおき、各階所在の課長、次長をして交互にその任にあたらしめた。五月男子全職員の交替宿直制が施かれた。
 帝都が本格的に爆撃されたのは同年三月であった。火焔が東京の空を一面にこがしわが社では多数の罹災者を出した。さらに五月二十四日深更から翌払暁にかけての大空襲は、第一生命館の周辺をたちまちのうちに火の海と化し、折柄の烈風に煽られわが社は正に危殆に瀕した。だが当夜駈けつけた稲宮常務取締役の総指揮の下に宿直防護団員は必至の注水作業をつづけ危うく劫火からまぬがれることができた。また京橋の分館においても同様火焔の中にあってよく挺身消火に努め類焼の災厄をまぬがれた。
 また第一生命館は防空の完備を以て広く世間に知れわたっていたため各方面から借室の懇請を受けた。しかしその余裕もないので、結局止むをえない事情にあるものに限定した。十八年以来六階以上は東部軍管区司令部の本拠として国防の第一線に使用され、ビルの屋上に高射機関砲が据えられた。地下には内閣情報局や内務省防空総本部をはじめ六省の分室が陣取り、NHKの第二放送所および新聞社の電送写真の設備などもされた。二十年五月二十四日の空襲は皇居を炎上せしめ、その後日本の重臣会議がわが第一生命館の六階の一室でおこなわれた。近衛文麿、岡田啓介、阿部信行、木戸幸一、幣原喜重郎などの重臣がしばしば会議をかさね、空襲のたびに地下へ下りていった」

 

 つづいて、ここでは東部軍管区司令官に45年の3月9日(当夜から翌朝にかけて東京大空襲があった)に任じられた陸軍大将の について見てゆこう。彼は8月14日の深夜にポツダム宣言の受諾を阻止しようと図ったクーデター未遂事件(森近衛師団長を殺害、玉音録音盤を奪取しようとした宮城事件)を鎮圧、それでも諦めきれない青年将校らが8月24日に起こした川口放送所占拠事件も鎮圧した後、第一生命館にあった司令官室に戻って、自決を図っている。その様子を彼の副官・塚本清は、自著『あゝ皇軍最後の日 陸軍大将田中靜壱伝』でこう書いている。
「大将の入られた司令官室につながる八畳の室には、私の兄塚本秀進から将軍に贈った大観の『日の出』と博多人形が飾られてあった。
 大将が室に入られてから、私は寸時扉の外にたっていた。何故か理由はなかった。
 しかし、室内は静かで、物音一つしないのである。
『大丈夫、まだ自決はされない』ほっと、安堵に似た気持になった。
 どの位たったであろうか、当番兵が来て、
『塚本副官殿、軍司令官閣下がお呼びです』という。
『そうか――』
 私は走るようにして、司令官室につながる八畳の間の扉に手をかけ、
『塚本副官参りました』と開いた。
『あつ!』と私は息をのんだ。
 正装された大将は、八畳の間の南側に、たった一つおかれたアームチェアーを、宮城の方向に向け、小机を前に胸に拳銃を当てておられる。
 大将の視線と私の視線が会った瞬間、大将は拳銃の引き金を引かれた。
 轟然一発――
『閣下!』走り寄るなり、私は大将の両の手をしっかりと握った。
『よろしくたのむ……』
 大将ははっきりとこうつぶやかれると、息絶えられた。
 銃弾は大将の心臓に命中している。赤い血潮は、大将の赤誠さながらに、軍衣の胸を彩る。壮烈な自決であった。
『お見事……お見事な御最期でございます』
 叫びながら、私は大将の両手を固く握って深い黙祷を捧げた――。
 その先は、実に安らかな、清らかな、静かな、計画的な、見事な最期であった。
 前におかれた小机の上には、恩賜の軍刀、帽子、白手袋、明治天皇の尊像、恩賜の煙草、観音経、「甘露の法雨」、義歯と遺言五通がキチンと並べてある。
 不思議な事に小箪笥の上の時計は、十一時十五分の自刃の時間をとどめて、永久に廻らざる静止をつづけていた。
 私は直ちに軍司令部幕僚に連絡するとともに、杉山元帥のもとに報告し、操夫人に急報した。
 夫人が次男俊資少佐とともに駆けつけられたのは、二十五日の午前零時半頃である。

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陸軍大将 田中靜壱

 大将自決について私の行った報告の鉛筆書きの原稿があるが、次のようなものである。
       田中大将閣下ノ最期
昭和二十年八月二十四日二十三時十分 拳銃ニテ自殺
場所東京日比谷第一生命ビル内 東部軍管区司令部司令官室
拳銃音ト同時ニ副官少佐塚本清室内ニ進入シ参謀長以下幕僚ニ直ニ連絡セリ『後ハ万事ヨロシク頼ム』ノ遺言並ニ左記ノ如キ遺書アリ
1 八月十五日ノ御言葉      2 奥様、御令息様
3 杉山元帥閣下         4 高島参謀長閣下
5 軍司令官、部隊長       6 塚本副官
臨終ニ立会セルモノ左ノ如シ
   高島参謀長     小沼参謀副長     不破高級参謀
   板垣参謀      谷田参謀       米花高級副官
   塚本専属副官
臨終ノ位置左ノ如シ(図略)」

 

 ここにGHQは乗り込んでくるのだが、それについては次回に詳述するとして、ここでは、田中とマッカーサーの奇縁について紹介する。田中は1932年から34年まで駐在武官としてアメリカ・ワシントンに滞在しているが、塚本は「第三章 将軍の生涯」に中で、こう触れている。
「もともと、大使館附武官というものは、公然の情報機関を任務としたものだけに、大きくは社交力を持たねば、不可能な問題が多かったのである。
 大佐の厳格な、そしてその中にも、かつて英国に留学して身につけられた紳士精神、メキシコ駐在武官としての経験から得られたエチケットは、米国要人の間でも大いに信用があった。フーバー大統領はもとより、ルーズベルト大統領、マックアーサー(1930年から35年まで米陸軍参謀総長の任にあった)等と面識を得られたのはこの時機であった」
 マッカーサーは第一生命館を、交流のあったと思われる田中静壱が自決した場所と認識していたかどうか、筆者はそれに触れた記録をいまだ見たことはない。
(つづく)

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー